お遍路四国廻り(2)



U.四国霊場88カ所巡り歩き遍路(U)
(第2部 遍路日誌編―その1)
                              1998・5・2
                                               影山俊郎
1. はじめに
もともとは記録を残す気はなかった。しかも大分時間が経ったので忘れかけている。ただ、次回の遍路行脚のために、連休の合間に手書きのメモを読みなおしていると、遍路行脚で目にしたこと、歩きながら考えたことを色々と思い出し、記憶を呼び覚まされ、日誌風の記録として作成しておきたいという気持ちになった。遍路についての全体にまたがることは既に別途書いてあるので、それを第1部総論編ということにして、この旅行記風の遍路日誌記録を第U部遍路日誌編として、私の遍路巡礼の記録とする。

2. 歩き遍路日誌
(準備)
 4月8日から休暇を頂き四国"歩き"遍路の準備を始める。なかなか思い通りに出来なかったことは、雨具とリュックサックの重量。春は雨が多いし、寒い時もある。リュックの重さは8s以下を目標にしたい。洗面具、下着などの着替えの量と種類、それに東京で入手できた案内書、メモ用紙…等の整理が難しく時間がかかった。昔から高知では、"遍路の荷つつき"という言葉があったが、長い道中に背中に背負って歩く荷物は自ずから多くなってしまう。野宿もたまにはせざるを得ないかと覚悟もしていたが荷物になりすぎる。春だし、暖かくなって来るだろうし、雨は降らないかも知れないし…などと都合よく考えて、段段と荷物を減らしていく。リュックを出来るだけ軽くすることは大変困難で、出したり、入れたり、不足しているものを買いに出たりして一日かかってしまう。遍路の荷つつきとは、この状態のことを言っているのである。一応、8sに抑えることができた。あとは出発のみ…。

   8日から、時々雨だった。出発する9日は夜になって本格的に雨。品川駅まで行き、そこからから京急バスで徳島まで行く。徳島行き京急バス乗り場までは徒歩約10分、傘をさして早足で歩く。背中のリュックが早くもびしょ濡れだ。夜行バス便で9時30分品川発(徳島まで650q、約10時間30分予定)。10日朝は5時半頃開通したばかりの鳴門明石大橋渡橋。初めての淡路島は以外と大きく美しい島。大地震被害の跡はバスからは見えない。朝になって、淡路島の天気は、雲は消えてはいないが、回復しつつある。谷間、山間に薄い霧がたなびき、日の出前の美しい景色が展開している。懐かしい段々畑が見える。灌漑用の小さい池が多い。桜も未だ残っている。淡路島を過ぎ、6時20分頃、終着の徳島市の一つ手前の鳴門撫養に到着。一番札所が鳴門市にあるので徳島市に行くよりは近いはずと思い下車、バス停は山の上だった。天気は晴れ時々曇り。私のほか降りる人は無い。早朝のせいか人はいないし、タクシーも無い。リュックを背負って歩き始める。山を下っていると、犬の散歩に来ていた60才位の女性がいた。道を尋ねると、一番札所は随分遠いとのこと。電車に乗って行かなければならないらしく、とりあえず駅まで行くべく歩き始めると、そのオバさんは親切に途中まで案内してくれた。バス停からJR撫養駅まで約30分歩く。駅員に聞くと途中乗り換えて結構遠いとのことであったので、駅前から第一番札所、霊山寺迄タクシーで直行(約15分)。7時前に霊山寺着。既に庭掃除をしている人やお寺の関係者やお遍路さんが数人いた。ドキドキする。これから初めての歩き遍路が始まる。まず、遍路装束を整えよう。これから、私は歩き始める。どうなるやら…。宿所は何処も予約していないし、天気予報は12日は雨だということだし前途不安…。

 徳島県内の一番札所(霊山寺)〜二十三番札所(薬王寺)の間の距離は206.5q。23番札所〜高知県内最初の24番札所(最御崎寺)迄は78q。24番札所〜36番札所(青龍寺)迄は160.6q。合計445.1q。これが今回の総延長距離である。(次回は、高知県内の残された36番から39番札所(延光寺)迄の距離は227.5q に挑戦予定)。

(1) 第1日目(4月10日(金)晴れ時々うす曇り)(遍路行脚開始日)
   朝、7時前に霊山寺着。早速、本堂横の納経所売店で予定の遍路装束一式(29,600円)と歩き遍路向けの案内地図(1,600円)を購入。売店内隣室で白装束に着替えさせてもらい、菅笠をかぶり、金剛杖を持つと遍路さんらしくなった。お寺の方が、"一人ですか?"とか、"歩きですか?"とか、"白装束の遍路姿で歩いていると人々が敬意を示してくれますよ"と言って励ましてくれる。"結願を祈ります。"と挨拶してくれる。この結願を祈ります、という挨拶は遍路さんへのお互いの無事を祈る挨拶の言葉。出発前、俊子に遍路姿の写真を撮っておくよう頼まれていた。一人遍路のため自分の写真がとれないので、お寺の掃除をしていた人に頼み、白装束姿の自分を写してもらった。霊山寺境内の早朝の静かな、落ち着いた、たたずまいを独り心静かに味わう(というより不安感でドキドキしながら)。さア、これから"歩き遍路一人旅が始まるぞ"と高ぶる心を落ち着ける。早朝の境内を歩くと、腰にぶらさげた持鈴がチリンチリンと静かに響く。

   今回、第一番札所霊山寺でお祈りし、今回の遍路巡礼の目的として心に誓ったたことは、@父(教誉英順居士)、母(慧光智圓大姉)の供養、ご冥福。二人とも私が、ジャカルタ赴任中に逝去。A苦界離脱、克己・再生の遍路巡礼であること(心の中でこの数年間、死を考えることが多かった。.死への道であかも知れない。例えそうなっても、それはそれでよい。死から逃避するわけではないが長年苦労を共にしてきた妻が泣く。もしくは苦しむ自分の内面と向かい合うことによる自己再生か。死か再生かの岐路を歩く巡礼となる。出来れば克己・再生が可能になること)。B家族の健康祈願、信介の社会人としての活躍。未熟児で生まれた双子の孫の健康と成長。C竹部の義父母の健康・長寿、義母は最近入院することが多い。D自分の健康。E明るい将来が開けることへの祈願等々。欲張っているが、これらが今回の遍路に出る目的であることを本堂で、本尊の釈迦如来に宣言し、うろ覚えの般若心経を心の中で唱え、結願を祈る。声に出すことは気恥ずかしい。般若心経は道中、早く覚えたい。お祈りがキチンと出来ないようでは遍路としての準備不足である。これを、早く覚えることと、歩き遍路ゆえ、遍路道は遠回りで不便でも車道は歩かず、全て旧来の遍路道を歩くこと、他人に助けを求めず自力で歩くこと、これを心に決める。
   人は未来に生きるしかない。社会の中で生きなければならない。過去は今の自分、自分の苦境を生み出したものであるが、過去を悔やんでも、自己憐憫に浸っても過去の中からは新たな可能性は生まれない。自分が努力し作り上げてきた自分の性格が基本的に間違っていたとは思えない。不注意や鍛え足りないことがあったとしても、方向が間違っていたとは思えない。過去の辛い出来事にこだわり過ぎて、自分を殺してはならない。また他人を信じ過ぎて注意を怠った軽率さや、自己保身意識というかリスク対策の欠如は反省しなければならない。自分を信じ、鍛錬しよう。いやなことや危機・厄難から逃避してはいけない。問題は他人任せにせず、早い段階に自分で解決すべきだ。忘れたくても逃れたくても、事態が解決しない限り、それは不可能である。決然と解決しないと、いやなことは逃げれば追っかけてくる。このことは以後の道中、私はことあるたびに自問自答することになる。

   "憂きことの なおこの上に積もれかし 限りある身の力ためさん"(山中鹿之助)
  あれこれ考えても、現実問題として、一つの扉は閉ざされた。他の扉を叩かなければならない。希望を蘇らせ、新たな行動を起こし、一歩一歩前に歩かねばならない。可能性は前途にある。現在の自分を作ったのは過去の自分である。例え、重い荷物であっても、過去を背負って歩くしかない。現在の自分を作ったものは過去の自分であるが、同時に将来に対する自分の意志であり、将来への夢が現在を作るとも言える。サルトルの言葉に、「人間の運命はその人の手中にある」と言うものがある。意思あれば道あり、である。将来への夢こそが現在を作り、運命を切り開く。そう、信じて歩こう。

   "一燈を掲げて暗夜を行く。暗夜を憂うことなかれ。ただ一燈を頼め"(言志四録)

   8時20分頃、霊山寺発。第二番札所、極楽寺まで僅か1、2q、約20分。あっけないほど近い。沿道には菜の花、桃、桜ほかの花々が美しく咲き誇っていた。天気は回復し晴れ。昔から、十里十ヵ所と言われ一日で十番札所まで歩くらしい。私の予定は第七番札所迄である。昔の人の足は今の私より何倍も強いようだ。
   極楽寺では60才位の一人遍路の女性が納経所前の椅子に座っていて歩いて来た私を見て、ニコニコして話しかけてくる。88カ所巡りを終え、お礼参りに霊山寺に行く途中だそうだ。私が初めての遍路だと知って、その方が私に話してくれた遍路の心得は、@本堂と大師堂でお参りし、A納経を一つづつし、Bお賽銭を適当な額納め、C納経帳に記入してもらう。D橋の上では杖をつかない、等々。別れ際に"結願を祈ります"と言って分かれて行った。満たされた表情をしていた。この極楽寺は大師お手植えの長命杉という杉の大木が境内にあり、見るからに古木で、ハチが幹に巣を作って舞っていた。凛とした古木には風格がある。
   9時過ぎ極楽寺発。第三番金泉寺まで2.7q、やく40分。沿道は大した疲れもなく順調に歩く。遍路道は農家の庭先や、畦道をぬって如何にも古来の遍路道という感じだ。ノンビリと鈴を鳴らしながら歩く楽なルートで、11時前には金泉寺(三番)に到着。桜は散ってしまったが、今はツバメが飛び交う季節になっている。金泉寺には弁慶が持ち上げたという大きな力石があった。納経が終わったあと気が付いたが二番の極楽寺で白衣に押印してもらうのを忘れていた。段々疲れが出始めており、二番に引き返すのはきついと判断し、第四番寺に行くことにした。死ぬときは、この白衣を着ていれば極楽に行けると言われているようだが、極楽寺の分だけ抜けているのはまずい。以後このことがずっと気になって、いっそ引き返そうか何度も迷ったあげく、過去の失敗に悩んでも何も解決できない。極楽への扉は一つではない。次回にすることにし諦め、次へ進むことにする。
   11時20分頃、金泉寺発。第四番札所大日寺へ向かう。6,5q、約1時間30分はかかった。リンリンと鳴る鈴の音を聞きながら、案内図に遍路道と書かれた通りに、畦道、農家の庭先、大通りなど色んな道をはるばる歩く。12時半頃、大日寺到着。大日寺という同じ名の寺は88ヶ所の中で三つある。ここまでは時間的にはほぼ予定通りだが、大日寺は山の奥深く、山に囲まれた所にある。足は疲れ、暑くなって、歩くのが苦しくなった。長い上り坂がきつかった。
   今日、第1日目は夜行バスで徳島に着いた後ずっと、朝食も昼食も取らずに歩いているためか、大日寺に着いた頃は疲労困憊、四番札所で急に足が弱ってしまった。フラフラする。これでは予定の七番寺まで歩けそうにない。第五番の地蔵寺で今日は切り上げよう。初日から無理しすぎたのか? マメが出来たらしい痛い足を引きずって地蔵寺に向かう。大日寺境内の公衆電話で地蔵寺近くの森本屋という遍路宿に予約する。突然だが部屋は有った。宿所は確保できた。
   大日寺から地蔵寺までは約2q、30分? 下り坂で歩きやすかったが日差しがきつくなってクラクラする。途中、老人に呼び止められ、振り返ると近づいて来て氷飴を2,3個くれ地蔵寺はもうすぐだと教えてくれる。初めてのお接待?疲れた身には氷飴は美味しい。地蔵寺に着く直前、木造の五百羅漢では日本一という地蔵寺境内の裏山にある五百羅漢を見て、そこから地蔵寺に入る。鐘を突く。樹齢800年と言われる、鶴ヶ丘八幡宮の老木と同じようなイチョウの大木があった。この地蔵寺近辺は藍の生産で有名な所らしい。境内を歩いていると、手招きして呼んでいるお年寄がいるので、行ってみると水琴窟があるという。仕組みはよく判らないが、澄んだ水滴の音が響いてくる。自慢気に教えてくれた方に感謝して分かれた。
   まだ2時過ぎだが、今日はもう歩けない。何処かで昼食をとって一休み出来ればよかったが、何故か心の余裕無く、ただ一途に歩いてしまったのが良くなかったのだろうか。幸い、地蔵寺の真ん前に森本屋という遍路宿が有った。ガラス引き戸の古い遍路宿。戸を開けて挨拶しても誰も出て来ない。周囲を歩いて様子を見て再度ガラス戸を開けて挨拶するとお婆さんが出てきて、怪訝そうな表情で、こんなに日も高いし、まだ時間があるので、6番か7番まではいけるのでもっと頑張って行きなさい、と言う。情けないけれど、疲れ果ててもう動けない、と話して泊めてもらうことにする。部屋に入るなり、足を揉み筋肉痛を抑えるようサロンパスを張る。足や手がつる。マメはまだ出来たばかり。他のお遍路さんは、5時前になってやっと到着しはじめたが、私はそれまでにゆっくり風呂に入り、夕食まで横になって疲れをいやす。
   この遍路宿には、夕食時に判ったことだが、全4組、10人が宿泊。名古屋から車で来て一人で廻っている60才前の男性、埼玉からきた定年退職後のご夫妻。これも車でまわり、趣味の写真を写しながら廻っているらしい。もう一組は70才代の年寄りと20才位の女学生らしい女の子を含む奈良から来たという親族6人の一行。歩いているらしい。襖一つ隔てた隣室のグループで道順や歩き方、足の疲れ、所用時間、一日の費用等々色々話し声がよく聞こえたグループだ。うるさいが、とても参考になった。この遍路宿での夕食は、食事部屋があって、6時過ぎに始まる。遍路中は断酒と思っていたが、皆疲れのせいかビールを飲みだした。私も飲みながら、遍路をしている動機や道中の出来事などを話し合った。食後、明日のスケジュールを立て、午前中に6番から10番まで行き、午後11番まで歩き、そこで宿泊することにした。リュックの荷を軽くできないかと、また出したり入れたりした後、自分のいびきが隣室に響くのではないかと気にしながら、隣室のグループはまだざわついていたが、9時半頃寝る。今日一日がとても長く感じられた。

(2) 第2日目(4月11日(土))
   遍路宿の朝食は6時。5時起床。朝食を済ませ6時45分森本屋出発。マメは少々痛いが、朝の内は足の疲れはないので、一応軽快に歩き始める。
   7時55分第六番札所、安楽寺着。正門は工事中だった。この寺には空海の字が歴史を追って、その変化が判る形で保存されているそうだ。終わりの頃の字は絵のようになっているらしい。また、さかさ松という大師お手植えのものとして有名な松の木が有ったらしいが残念ながら目に入らなかった。安楽寺近辺では古来の技術で砂糖キビから砂糖を製造しているらしい。昨日の地蔵寺近くの藍製造技術のこともあり遍路道はシルクロードのように、四国の人々にとっては、技術移転・情報伝達の役割を果たしていたようだ。行基菩薩も弘法大師も、遍路を通じて、仏教、土木工事、文化等の伝播の役割を果たしたと言われている。
   8時15分安楽寺発。8時30分第七番札所、十楽寺着。こじんまりした綺麗なお寺。さっさとお参りを終えて8時45分出発。門を出てすぐ右折し、熊谷寺に向かい約4qドンドン歩く。
   10時頃、第八番札所、熊谷寺到着。熊谷寺は山の上にあり、上り坂がきつかった。本堂前の桜の木の下で休む。未だ残っている花びらが木漏れ日の中をヒラヒラ舞い落ちる。目前には大師像があり、桜に包まれている。カメラを構えている人がいる。なかなか由緒ありげな寺。山門近くで急な上り坂があるが農家のお婆さんが八朔ミカンを2個、お接待だから食べて下さい、と手渡してくれる。荷物が重いし躊躇したが、お接待と言われると受け取るのもやむなし。そのときはあまり食べたくもなかったが、後でこれが私を元気付けてくれることになるとは、そのときは思いもしなかった。
   ところで、天正年間に土佐の長曽我部元親の兵が阿波を攻めた時、88カ所巡りのお寺の多くが兵火に焼かれたが極楽寺、安楽寺、十楽寺、そしてこれから行く法輪寺、藤井寺、大日寺(13番)常楽寺、国分寺(15番)、観音寺、井戸寺、立江寺などが焼かれたと言う。長曽我部の兵は何という信仰心のない粗野な兵であったことか…。土佐出身のお遍路さんは自分の出身地を口に出来なかったそうである。今はもう昔のことだが…。
   10時20分頃、下山開始。熊谷寺の仁王門をくぐり案内書の図に従い、第九番、法輪寺方向へ歩く。法輪寺は水田や畑のある広い平野の真ん中にある。今日も天気良く舗装された遍路道は暑い。今や、田舎の農道は何処も舗装されている。照り返しが、このうえなく暑い。四国縦貫道路の橋脚の下の日陰で60才ぐらいのおばさんがイチゴやジュースを箱の上に並べていて、私を呼び止める。ジュースを飲みなさい。イチゴを食べなさい、と言う。てっきり売っているものと思い、財布を出してお金を払おうとすると、これはお接待だ、と言って受け取らない。お接待は受けてもらわないといけないと言う。自分が作ったイチゴだし、手製のジュースで、歩きのお遍路さんにお接待するためにここにいるのだという。今日は私が二人目だそうだ。暫く歩いているとまた、お接待だと氷砂糖を数個おばさんがくれる。今日は3回も歩き遍路へのお接待があり、その意味を歩きながら考えさせられた。もし、タイで見たタンブン的なものであれば、受け取らないと、その人が功徳を積めないことになると考え、素直に受け取りその人の平穏な生活をお祈りすることが私の義務か・・とも思った。悩みの中で歩いているだけの私を仏道修行者と誤解しているのであろうか…。
   11時15分頃、広い農村地帯の中にある第九番法輪寺着。途中、農作業している人に二回道を聞く。遍路道は案内書を見ていても迷うことが多い。焦らなくても良い、迷っても良いのに…。この時点で、まだ午前中だというのに、今日は既に暑さにやられ随分疲れている。お参りをして、境内の売店で一休みして、出ようとしたとき昨夜遍路宿で会った名古屋から車で来た人に会う。7時頃旅館を出て二番寺に引き返してから来たのでこの時間になったと言っていた。車に乗りますか…?と聞かれたが、歩きますので…と断ると、その人は"昨日旅館のオカミさんに、歩いている人で、とても疲れている人がいるので明日、車に乗せて行ってあげたら…と言われたが、歩きの遍路さんは、車に乗るのを断る人も多いから…本人の考えを聞いてから…"と話し合ったことが有ったのですよ…と話し、私がお断りしたことに合点していた。心の何分の一かは疲れているので乗せて欲しいという気持ちも有ったが…。

   11時30分頃、法輪寺発。第十番の切幡寺までは約4.4q、1時間30分の距離。切幡寺はまた高い山の上にあり、それに今日は夏のように日差しが強い。法輪寺から約30分歩いたところ(?)だったと思うが、水田地域の中を、意識朦朧の中で農道を歩いているとき、農道からは50メートルほど奥の水田の畦道らしき所で何かしている少女の姿が見えていたが、蝶々でも追っかけているのかと、私はチラット見たまま通り過ぎた。やや歩いた時、数百メートルは過ぎていたと思うが、"お遍路さーん、お遍路さーん"と呼ぶ声がするので振り返ると10才位の女の子が私を追って走ってくる。待っていると近づいて来て、"お遍路さん、四つ葉のクローバが有ったので、一つあげる"と手を差し出す。見ると採ったばかりの四つ葉のクローバが三つ手の中にあり、その一つを、見知らぬ通りすがりの遍路の私にくれるという。暑い中で朦朧とした意識であったせいか、こんな心の優しい子がいるのかと、感動して嬉しくて涙がこみあげた。有り難うと一本手にすると、その子はまた来た道を走って返って行った。うしろ姿が輝いていた。私は、暫くその女の子のうしろ姿を見ていたが、やがてそのクローバを見ながら、元気がでて、軽やかに歩き始める。そのクローバの葉は山谷袋の手帳に挟み大事に持ち帰っている。色は変色したが、今でも緑を保っている。天使のような優しい、可愛い少女の名前を聞いておくべきだった。手紙を出して感謝し、誉めてやりたい、いや感謝したい気持ちだ。
   
   気を取り直し、しばらく山の上の方へ決死の思いで歩き、切幡寺に2時前に到着。階段が450段もあり大変なきついお寺だ。お参りを済ませ、境内で椅子に座り、痛いマメの出来た足を揉み一休みする。もう十一番の藤井寺に行く体力が無いと思いつつも、今日中に藤井寺には到着しておかないと、最大難所と言われる十二番の焼山寺へのスケジュールが狂ってしまう。今日中にはどうしても藤井寺は終えたい。まだ予約はしてないが、少なくとも、藤井寺の近くの宿所までは行って、明日を有効に使えるようにしておきたい。足のマメは痛いが一歩一歩自力で歩くしかない。
   2時半頃切幡寺を出発。藤井寺までは約12q、案内書では三時間強の予定。日差しはまだ強いが黙々と歩く。朝もらった八朔ミカンを水田地域の中で歩きながら食べる。きょうも昼食抜きだし喉が乾いていたので大いに助かった。しばらく歩くと市内に入る。マメが痛むので途中粟島神社と言う神社の境内で靴を抜き、足を揉み20分ほど休む。休んでいるうちに歩き遍路の人が一人追い越していく。3時半になったし前途ほど遠いので頑張ろうと歩き始める。堤防を越え(写真)、川島潜水橋という沈下橋を渡り、吉野川の作った広い平野に入る。吉野川の河川敷内(?)の平野は広大で暑く日陰は無く、意識朦朧の状態になる。ヘトヘトになっているが平野をテクテク歩く。一歩歩かないと一歩進まない。遙かに遠いと思っても、左右の足を交互に一歩一歩歩いていれば必ず到着出来る。再度吉野川の大野島潜水橋を渡り川島町(?)という市街に入る。高い堤防を越え、道に迷い、町中に入り、黙々と藤井寺方向に歩く。その頃はもう5時過ぎていたので藤井寺には間に合わないし、寺の近くには宿所はないようなので、町なかで、近くにホテルは無いかと聞くと2q先にビジネス・ホテルがある、という。クタクタに疲れた身には2qと言う距離はとても長い。歩けど歩けど前に進んでいる気がしない。また通行人に聞くと未だ2q有るという答え。もう歩く力は無い。車道を歩いているが、どの車も止まって乗せてやろうとは言ってくれない。当然だ。他人を頼る気持ちから抜け出さないで遍路行脚は出来るものか…。しかし、足の豆が切れて痛む。消毒しないと化膿したら歩けなくなる。途中の、小さな洋品店に入り、タクシーを呼んでもらうことにせざるを得ない。足の豆対策をいい加減に考えてきた報いだ。タクシーは10分ほどで来てくれた。転がり込むように乗せてもらい、運転手さんの知っているビジネス・ホテルへ連れて行ってもらう。5時半過ぎ、ホテル着。部屋に入るとすぐ、潰れていないマメにも穴を開けウミを出し、念入りに消毒した。その後迷ったが、我慢できないため、傷口に水が入らないようにして風呂に入る。湯船が深いので中には入らず洗うだけにする。風呂を出てすぐまた消毒。化膿すると遍路巡礼を止めざるを得なくなるので、消毒と治療には注意して慎重にやった。手足や顔面がつってピクピクする。足だけでなく、手や顔面がつるなどという、こんな経験は初めてで驚く。明日三日目のスケジュールを立てて10時前就寝。とにかく明日は最大難所である第十二番焼山寺に無事行き着けるかどうか。歩き遍路は都会の運動不足のサラリーマンにはきついものだ。
   徳島の山野にはこの季節はランのようなしゃが(射干)の花が群生し、美しく咲き乱れている。疲れた体を癒してくれる。今日は随分と大小の川を渡る。橋の上では杖を付いてはいけないため、つい意識して川の流れを覗き見る。遍路道沿線のような田舎でも、今や、清流は少なく、家庭排水、工場排水で河川の多くはドブ川化している。歩きながら、山野の自然を護り、清流を取り戻すことが、人間にとって、如何に大切なことか、そして問題解決が如何に難しいことか、つくづくと感じる。一日中、雲水の修行の意識を心の片隅にもって歩いていると色々考えさせられることがある。切れた足の傷は痛いが、遍路道は思索の道であり、覚醒の道でもある。

(3) 第3日目(4月12日(日))
  7時15分ホテル発。取り敢えず、昨日行けなかった第十一番の藤井寺へ。時間節約のためと体力温存のため藤井寺迄は、後ろめたさを感じたが時間的に今日一日はきつい。近くの駅前からタクシーで行くことにせざるを得ない。藤井寺は藤の花が美しい由緒ありげな寺だ。朝早かったので清々しい静かなお寺だった。
  8時藤井寺発、第十二番焼山寺へ向かう。案内書によれば徒歩で12時間はかかる。藤井寺のワキから裏山に入る遍路道が始まる。これに入るともう全て山の中ということをよく意識せず、飲み水も持たず、裏山に入ってしまった。11番から12番の区間は88カ所巡りの中でも"遍路転がし"といわれるほど最大の難所だといわれるが、それだけに最も遍路道らしい遍路道。遠くの峰峰を幾つも超えて行かねばならない。最後に残された遍路道ともいわれる区間。極く自然に藤井寺の裏道に入った後、すぐに小さい上り坂。1qほど急峻な坂道を登ると、8時40分頃、茶畑の隣に見晴らしの良い休息所がある。昨日通って来た、吉野川の広い平野を見下ろせる。あんなに広い平野を歩いてきたのかと、改めて驚く。10分ほど休息をとり、出発。この間、犬を連れて散歩に行っているような若者が一人、休むこと無く通り過ぎていく。今日こそ必要だのに水を持たずに出たことを悔やむ。当たり前だが、山の中に自動販売機はない。つくづくバカだなーと反省するが後の祭りだ。昨日あまり水を飲まなかったせいか、ホテルで血痰が何度も出たが、今日も血痰がでることになるのか?
 藤井寺を出てから急な坂道ばかり。最初の30分でヘトヘト。その後も殆ど全て上り坂。普通は上り坂があれば下りもあるものだが、焼山寺への遍路道には殆ど下りらしい下り坂がない。水は2時間ばかり歩いた所に小さなポトポト落ちる水滴が溜まった水たまり?があった。大丈夫かなと心配だったが、汗はビッショリ出るし、喉はカラカラのため注意しつつ少し飲む。海抜は約1,000m。幾つもの峰を越えて行かなければならない。その後、柳水庵という所できれいな谷川の水がたっぷり流れていたので、あまり気にせずゴクゴク飲む。美味しかった。暑いので頭や首筋にシャツが濡れることはおかまいなしにジャブジャブかける。暫く休む。山中ゆえ今日も昼食は抜き。予定では午後3時頃には焼山寺に着きたかったがマメが痛いし、眠くなるほど疲れがひどく、足が全然前に進まない。歩く速度は計画では、1時間当たり4qだったが上り坂の山では、私の足では2q程度か? 山中では犬の散歩に出てきた近くに住む人二人と若い二人がハイキングがてらに来て柳水庵でベンチに座ってオニギリを食べているのを見たのと、逆打ちの遍路さん一人に夕方会っただけ。この遍路道はよほどきついものと思われる。山中の遍路道は寂しい独りの闘いだ。
   午後になると、前途ほど遠いのに、足が前に進まず、途中、疲れで何度も立ったまま杖にすがって眠る始末。数歩歩いては立ち止まる。これの繰り返しが多くなる。疲れて、途中、2回ダウン。眠くてどうしようもなく、遍路道にそのまま横になって眠る。気を取り直してまた歩く。すれ違う人はない。曇天のなか、のどの渇きと昼食抜きで歩きっぱなしのためか、意識は混濁し、朦朧として座り込み、そのまま夕方4時過ぎ頃に寝てしまった時は、もうどうなってもいいや…このまま死んでしまった方が自分の求めていた死に方だ…と思った。朦朧とする意識の中で20分近く寝ていただろうか。一陣の風が森の梢をゆすり、その音で目覚め、飛び起きて、風に押されて再び歩き始めるという状態だった。風に梢が鳴る音がしなかったら、そのまま眠っていただろうか。俊子が私を目覚めさせたのであろうか。歩き遍路は昔から、死を覚悟の行脚であるが、私には仕事の上での深刻な悩みが続いていた。家では出来るだけ自分の仕事上の悩み事は見せないようにしていたが、問題が解決できず長らく続いていたため、口には出さないが、感のいい人だから、敏感に感じ取っていたのであろう。出発前にも私を心配していたが、まさか本当に私が死ぬ気があるなどと思っていないと思うが…。私の名誉を守れないような新たな引き金が一つ加われば何時でも私は実行する覚悟はあった。四国の美しく、精霊に満ちた深い山中は相応しい場所だ。…しかし、それにしても、民家は近そうだのに、ぶっ倒れて道端で死んだように眠ている私を見た人は誰もいなかったのだろうか。人は通らなかったのだろうか。あの寂しげな砂利道は忘れられない。夕方には雨になる予報だったし、雲行きも怪しくなった。一陣の風と共に歩き始めた。4時半頃に、暗い曇天の空から少し雨がパラついてきたときは焦った。どしゃ降りになるかと思った。同行二人、大師の助けがあったのか。道中何度もそう感じたことがある。今もそうだ。不思議な感触だった。森の中では木々の精霊の声が伝わってくる。私の野生の蘇生力が何かの切っ掛けで目覚める。この時も、私は助けられたのであろうか…。霊的なものが伝わってくる。

   "ウグイスの声に引かれて登る峰 遙けき雲に焼山寺隠る。"(瞬露海雲)

   途中、一本杉庵という所では杉の巨木と大きな弘法大師像がある。少し休んだがここでも一陣の風が吹き早く出発しないと雨が降るぞと教えてくれる。少し元気回復。雨が降りそうだったが、願いかなって、焼山寺までは小雨のみだった。お大師様のおかげか。
   焼山寺迄の遍路道の案内は、ボランティアーの人達が作ってくれたようであるが,よく出来ていて大いに助かった。長い距離の中では岐路のところに案内が無い所もあり、また残りキロ数を書いた案内板がメチャクチャで、あと1qだとか、あと2qだという表記が増えたり減ったりで歩けど歩けど進まない部分も有った。道に迷った所があるかも知れない。最後に倒れる前の数qの所は表示があまり正しくなかったように思う。最後の上り坂の一番厳しい坂だけに表示が気になった。
   体力不足の性か、予定の5時迄に焼山寺に着けず、到着は6時15分頃になってしまった。しかし、お坊さんが優しく私が一人歩き遍路だと知って納経帳に記してくれるとともに、予約もしていないのに宿坊にも泊めてくれる手配をしてくれた。12日中に十二番寺に着けた。予約してなかったので宿坊に泊まれなかったら境内で野宿も覚悟していたし、私が焼山寺に着いたとき若い二人連れがいて、私が宿坊に泊まれないときは下の町まで行けば旅館もあるので送ってくれると言って暫く待っていてくれた。婚約中の優しい若い二人は、私が宿坊に泊まれることになるのを確認してから下りて行った。杖を先ず洗い部屋に入る。修業の間という名前の部屋。相応しい名前の部屋だ。お寺の宿坊で泊まるのは今夜が初めての経験。夕闇せまる峰峰は美しかった。夕食も朝食も自室に運んでくれる。朝のお勤めは無いらしい。朝食は6時半。お参りは明朝することにする。今日の行程はとてもきつかったが、きっと懐かしく想い出すことだろう。

(4) 第4日目(4月13日(月))
   5時半起床。ウグイスの声で目覚める。1,000メートル級の山々の峰がたなびく雲の中に見える。境内は海抜800メートルにあって、早朝だれもいない境内は清冽で静かな気配が漂っている。ろうそく、線香に一番先に火をつけ一番にお祈りできた。標高800メートルの早朝の境内は、もやが漂い、涼しく静かで、神々しい気分だ。杉の大木も神秘的な気配を漂わせている。参拝者は私以外まだ誰もいない。13日の参拝者第一号となった。竹部の父母の健康回復、父母の供養、俊子や家族全員の健康、遍路行の安全等を祈願した。
   今日は第十三番の大日寺迄行く。13日に13番札所へ行く。ゴロ合わせだがゲンが良い。約26q、8時間の予定。7時20分焼山寺出発。今日は下り坂ばかりとのこと。足は痛いが、足下に気を付けて、転ばないように元気に歩こう。
   今日は予報では雨が降るらしい。昨夜もちょっと降ったらしい。急な下り坂の所で2,3回滑って転がりそうになったが杖のお陰で助かる。大日寺までの区間は一部を除いて、噂どおり殆ど全て下り坂のみ。しかも、舗装道路のため距離は長いが、昨日に比べるととても楽だった。途中、雨が降ったが、雨の中をショボショボ歩くのも風情のあるものだった。
   今日まで4日間ランチ抜きで黙々と歩いた。喉が乾き水・自動販売機のスポーツドリンク等を随分沢山飲んだ。途中農家などで水を分けてくれるように頼むことが何度かあったが、大半の人は水だけでなくジュース、ヤクルト、オロナミン等分けてくれる。お腹はすいてないか?とも聞いてくれる。道を聞くと一人歩きをねぎらってくれて、親切に近道を教えてくれる。徳島は歩き遍路に慣れているのか優しい人々が多い。今日もこの大日寺への途中で3ヶ所で"お接待"を受けた。仏道修行している身ではないのに、私にお接待をしてくれる人達は、私が弘法大師と同行二人の旅をしている修行者とみなして、飲食物や優しい言葉、親切な態度を示してくれるのであろうか。そのような人々にお年寄りが多いのは、仏教的な死後の救済求める、宗教的な行為であろうか。いずれにしても、お接待を受ける側には大きな心構えが必要な気がする。モノを渡す・受け取るだけのことではない。通いあう心がある。今の日本社会のなかで、この遍路道にあるような信仰に基づく心の通いあうものはほかにもあるだろうか。この道は沿道に住む人々の一種の宗教的・ボランテイアー的な善意によって支えられ、維持されている。人々の善意とは逆に、道中、残念に感じることもあった。山間の谷間に、地元警察がゴミを棄てるなと幾つもの警告看板を立ててあるのに無造作に家庭ゴミや産廃物を投棄してあるカ所があった。人間生活が便利になることは美しい自然を破壊し、やがて因果応報、人々の生命・健康に悪影響をもたらすことになる。山中で他人の目が無いからとて何処にでも投げ棄てることだけは止めたいものだ。ゴミ問題は初等教育でも成人教育でも徹底的に行うべき、現代社会の重要な課題だと感じる。
   大日寺には3時半頃着いた。不幸中の幸い、お寺に到着後、お参り中に雨が激しくなった。宿坊を頼むと、一人だけか?歩いているのか?と確認して泊まらせてくれることになった。すぐ1号室という部屋に入れてくれた。古い部屋で少々かび臭いが独立した感じの部屋で他人に自分のイビキのことで気にしなくて良さそうだ。安心して眠れる。大日寺の宿坊は増設部分もあり、規模も大きく、団体の遍路が何組も泊まっていた。大きなホテルの感じだ。お寺の宿坊としては昨夜の焼山寺の宿坊が宿泊する遍路さんは少なく、簡素で素晴らしかっただけに、ここは騒々しく、大衆化された旅館の感じだ。焼山寺は高い山の上で宗教的な厳しさを感じたが、大日寺は町の中の庶民的なお寺と言った感じだ。それにビジネスの多いお寺だ。朝のお勤めが6時にあるので先祖供養とか各種祈願をするときは2,000円とか、3,000円。お坊さんが夕食後、各部屋を廻り、何を希望するか注文を取りにくる。私も、要領が判らないので先祖供養を頼んだ。お札を、6時半からの朝食時に配ってくれることになっている。10時過ぎても団体客の連中がトイレや風呂に行く足音が騒がしい。明日14日の天気予報は60〜80%の確率で雨。明日こそは朝から本格的に雨の中を歩くことになるのか…。明日は13番〜18番迄予定。全行程26q。きつければ17番で止める?17番と18番の間は19.5qある。雨の中だと5時間はかかる?雨が少なければ18番迄行き、そこで泊まるか…? 明日からは雨の日が続きそうだ。風邪をひかないように、気力を出して行こう。
   
(5) 第5日目(4月14日(火))
   昨夜は何故か不眠。ウグイスの囀りの声で5時起床。障子窓を開けると水田の向こうに雑木林があり、そこから鶯の声が聞こえてくる。6時、本堂で朝のお勤め。住職は所用で不在。代わりに42才から突然お坊さんになったというお坊さんがお経をあげ仕切る。お寺に入った経緯や中年を迎えてからの突然の就業の厳しさなどを話し、説法は面白かった。6時半朝食。7時20分、小雨の中を一人出発。途中で昨夜食事時に同じテーブルにいた62才と72才と言う女性2人と60過ぎの感じの男性が寺の外で一緒になり暫く一緒に歩いたが雨の中、歩く速度も違い、そのうち別々に歩くことになった。男性は、昨日早朝、私が焼山寺を出るとき歩いてきた方だった。女性二人は60日かけて88カ所廻る予定とのこと。この人たちとはすぐ別れ別れになったが、そのうち別のお寺でも会うことがあった。第十四番の常楽寺迄は小雨だったが、第十五番の国分寺、第十六番の観音寺へは大雨の中でズブ濡れになって、足のマメが痛むのを我慢しつつ、道に迷いながら町の中を歩いた。強い雨の中、道を聞きながら歩いていたつもりだったのに、迷ってしまい随分大回りしてしまった。第十七番の井戸寺も市内にあったが道に迷い、何qも大回りしてしまった。山中より町中の方が迷う。クタクタになった。11時頃になって、井戸寺にいたとき、雨は小雨になり止みそうになった。靴の底に水が入りつぶれたマメが化膿すると危険だ。井戸寺の事務所でタクシーを呼んでもらい、先ず、薬屋さんに行きテレビで宣伝している怪我の部分を白い気体を吹きかけ消毒する即効的効果があるという薬(マキロンドライ)とサロンパス、バンドエイドを購入。足のマメの痛みが耐え難く、雨の中を歩くのはとてもきついためタクシーで第十八番の恩山寺まで行ってもらう。歩き遍路だというのにこれではダメだ。今日は寒いし、湿度高くベトベトするし、交通量の多い所が多いため危険だし、道には迷うし、最悪の条件だった。恩山寺参拝を何とか終えて、下山して、第十九番の立江寺に向かってトボトボ歩いているとタクシーが止まった。三人のお客さんが乗っているのに運転手さんが私の痛そうな歩き方をみて同情し、一緒に乗せてやれと乗客に話し三人も良いよ良いよと言って、遠慮している私を乗せてくれることになった。運転手さんは歩き遍路に同情的で、日頃、車での移動を邪道と見ているようであったが見るに見かねたそうである。運転手さんのお接待ということになり、私は無料となった。この運転手さんは井戸寺で私の様子を見ていて知っていたらしい。そういう経緯で今日は18番で止める予定であったが、思いもかけず第十九番立江寺まで行くことが出来た。13番〜17番迄は徳島市、18〜19番は小松島市と、雨の中で、町中のゴミゴミした遍路道だったため、山中の遍路道に比べ、不快な行程であった。苦しかったけれど、藤井寺、焼山寺、大日寺の区間が懐かしい。残された最後の遍路道と言われるだけあって、これぞ88カ所の遍路道と言うに相応しい道であった。それに比べ、13〜19番は都市内のお寺のため遍路道とは言えない道路を歩かなければならない。排気ガスの中を歩いているようなもので不愉快になる。しかし皆、道を聞けば親切に教えてくれるし、足が痛そうに歩いているとねぎらってくれる。一人歩きの遍路には皆さんが、同情し敬意を払ってくれる。町の中にも、それだけ良い点もある。今日の反省は、移動にはタクシーなどに頼らず自分の足で歩くことに決めていたのに、雨と足のマメの潰れたことによる弱気に負けてしまったことである。タクシーに乗ったため移動時間が短くて済み、立江寺の宿坊で泊めてもらえることになった。ここも、突然の申し入れに一人遍路ということで宿坊に泊めてもらえることになった。それにしても、今日のタクシーの運転手さんは優しい、お遍路さんを大事にしてくれる方だった。
   初めての土地を雨の中、随分移動してきたためか、立江寺宿坊に到着したのは3時頃だというのに、昨夜眠れなかったせいかとても眠く、リュックを解き、足の手当をしてすぐ一寝入りしてしまった。風呂は5時前、団体遍路客が来る前に入ったが、マメの怪我のため湯船の中には入らかった。立江寺宿坊に泊めてもらう者は6時〜6時半(予定)の夕方のお勤めがある(朝のお勤めはない)。本堂には団体のお遍路さんが沢山参加していた。1250年もの歴史のあるお寺だそうだが、昭和49年に本堂が火災にあい再建したもので金ぴかで新しい。金剛曼陀羅と大日曼陀羅の二種類の曼陀羅がある。火事の時、不思議にも、本尊のお地蔵様が焼けずに残っていたそうである。若いお坊さん3人が分担しながら作法?に則り進めていた。6時45分に終わり夕食。大きな食堂で大勢の団体遍路さんがいて、私は片隅で一人でさっさと食事を終えた。団体さんは、ビールや酒を飲みながらざわざわ騒いで食事をしていた。食後、俊子に電話すると19番まで来たことに驚いていた。この立江寺の宿坊は昨日の大日寺の宿坊よりさらに大きく、そして団体遍路中心に運営されている印象だった。50人もの団体遍路だと、本堂前を独占してしまい、私は参拝出来るようになるまで待っているしかない。また宿坊だというのに、団体客のマナーは悪く、私のような一人の飛び込み客?は、贅沢を言ってはいけないが、付け足しの客という感じで少々不快であった。翌日の予定を立てて寝る。

(6) 第6日目(4月15日(水))
 5時過ぎ起床。6時朝食。6時40分、立江寺発、約15q、第二十番鶴林寺に向かって孤独な一人歩き遍路スタート。曇り時々雨の天気。鶴林寺は標高約600b位いあるそうで、気が重い。時々雨が降る中を頑張って歩き、約3時間後、9時半頃には、山の麓に到着。山頂は1,000b位い有りそうで、高くそびえる山を見ていると気がくじけそうだ。痛い足を引っ張って歩いていると道路の反対側にタクシー会社が見え、迷ったが、これからこの足であの山に上がれるのか…?…と自信が無くなり、躊躇しながらもタクシーに乗せてもらうことにした。雨で山道は霧深く曇り、道はクネクネと続き、タクシーに乗れて良かった、と思ってしまう。9時45分、あっという間に本堂着。タクシー代3,000円。10時過ぎに鶴林寺を下りる。霧で何も見えないなか、急な坂の遍路道を、転ばないようにゆっくり歩いて下りる。焼山寺から下りる時もそうだったが、雨に濡れた、苔のはえた坂道は、注意していても、油断するとツルッと滑る。それにしても、少々不安に感じるほど霧が濃く数メートル先きしか見えない時もあった。11時過ぎ、晴れ間も出始める頃、少し広い林道のような舗装道が見下ろせる所に出たので、その坂道の安定の良い所を探し、15分ほど休憩。林道を見下ろす遍路道に座って、このメモを書いているところ。座っている近くには、沢山の、上品で清楚な感じの、しゃがの花が咲き誇っている。遠くの峰峰の新緑も、足下から聞こえてくる谷川のせせらぎの音も、うぐいすやメジロの声も素晴らしい自然の恵み豊かさを感じさせる。一休みのあと、舗装された林道を避け、下へ下へ遍路道を下り、さらに川沿いを遥遥と歩き、第二十一番、太龍寺に向け一歩でも近づこうと足を進める。しかし、距離は遠く、太龍寺も高い山の頂上にある。標高618b。登山家やハイカーにはどうということはない高さだが、私のようにマメの潰れた痛い足を毎日引っ張って、朦朧とした意識の中で歩いている、にわか遍路には、とても高い山のように思われる。太龍寺に行くには、旧遍路道とロープウェイがあるが、案内図ではロープウェイが割合近いような説明であったし、遍路道はあまり説明されてなかった(遍路道の方が近かったかもしれない)。このためロープウェイへの山道を歩く方法を選んだが、那賀川沿いの道はクネクネと続き行けども行けども遠い。空は晴れて日差しが暑くなった。途中、人家が2,3軒ある所に来たので、喉が乾いたし水も無くなっていたので、水を求めようと、小さく貧しそうな農家に入った。ガラス戸をノックし声をかけてみたが、留守らしく誰も出て来なかったので諦めて歩き始めた。50b位い歩いたころ、背後で、"お遍路さん、お遍路さん"という小さな呼び声が聞こえる。振り返ると老人が手を振って私に合図を送っている。"お水がいるのか…?"と言っている様子。私は、もう50bも引き返すのも厭だから手を横に振って、"もう要らないから…"、と合図をしたが、老人には判らず、私の方に近付いて来ようとする。やむなく、引き返し老人のお宅に寄った目的を話し、水道の水を分けてもらうように頼む。老人は昼寝をしていたらしい。他に家族がいる気配は無い。耳や首筋には垢がかさばっている、汚れた感じの老人だ。こんな山中で独り暮しか、哀れである。水は清潔かなア…と心の片隅で気になった。この辺の山中の村には日支事変、第二次大戦での勲功が有った勇敢な人が多かったのか、あちこちの忠魂塔とか墓石に武勲について書いてあるものを見かけた。この老人も旧日本兵だったそうで、中国にいて、広い大陸を転戦・転戦で随分移動したそうである。私の遍路姿を見て、色々思い出すのか戦争中の話しを始めた。自分も戦後、思うところあって戦で死んだ大勢の人を弔うため、遍路に出たことがあると話してくれた。太龍寺に行く旧遍路道を教えてくれたり、滑らない歩き方など随分色々と話した。別れのときは、孤独な感じの老人が淋しそうで、哀れを感じた。お互いに手を合わせて別れた。
 その後もしばらく歩いているうちに日差しがきつくなり、温度は上がり、暑さと足の痛みが増して、疲れが激しくなる。何故か、毎日のことだが、一定限度を越えたあと、体力が出てこない。日頃の運動不足のためか。どこまで歩いてもロープウェイらしきものは見えない。歩いても歩いてもロープウェイまでの案内板の残り距離の表示が減らない。道を間違えたのか?先ほどの老人の教えてくれた旧遍路道を行くべきだったのか?疑心がわいてくる。暑い。足の潰れたマメが痛い。歩いては止まり、止まっては歩く。立ち止まることが多くなってきた。弱気で歩いていると、マイクロバスが突然、背後から止まってくれて、乗らないかと声をかけてくれる。名古屋の7〜8人の70才前後の女性ばかり(運転手は60才位の男性)のお遍路さんがほぼ満席で乗っていた。補助席が一つ空いていたようで、最年長のお婆さんが、後ろから私の歩いているのを見て、大変だろうから乗せてやろうと声をかけてくれたらしい。とても嬉しかったが、歩き遍路だからと断わっても乗れ乗れと誘ってくれる。車内ではお婆さんたちから、何故お遍路さんをしているのか?歳は?山一証券の人か?とか色々聞かれ、話しをした。自分たちの弟か子供のように思った人もいたらしく話が心のこもったものになった。私の話した内容以上のものを感じたらしく、涙を流して同情してくれる人もいた。間もなく、1時前に無事ロープウェイに到着。すぐに駅員が近付いて来て、1時発のロープウェーがあるので早く乗れ、との案内。お婆さん達は昼食をとってから行くので、私にすぐ乗りなさいとせかすので、ろくにお礼を言う間もなく分かれる。別れ際に最年長者のお婆さんが私に"頑張ってやりなさいよ、途中で諦めないで頑張るのよ…"と言って、お接待だから、これでコーヒーでも飲みなさいと、お金をいれた小さい封筒を手渡してくれる。断ったが他の人たちも受け取れと言うし、ケーブルカーがすぐ出るというので、受け取りリュックを担いで改札口に走る(後で見ると3,000円も入っていた)。このケーブルカーは高低差か何かで日本一と紹介していた。足下を見ると遥か下のほうに杉木立が見えていた。13時20分頃頂上に到着。
   第二十一番の太龍寺は弘法大師が若く、19才のとき修業した海抜600bの太龍ヶ嶽の山頂にある。千年以上の古い杉の巨木に囲まれた威厳を備えたお寺である。太龍寺は西の高野と言われ、広大な境内に様々な施設を持っている規模の大きなお寺である。但し、宿坊は無し。ロープウェーの駅で、カメラを買って風情のあるお寺を写す。山頂の境内では薄曇りの天気だった。老女のお遍路さんがお大師様の足や体の一部に触って自分の同じ部分にその手を当てていた。歳をとると信心深くなり、助けを求めてすがりたくなるものだ。こんな山頂まできて、お大師様に一心におすがりする姿は、その身をゆだねているように見える。しばらく境内を散策し、下界を見て、大自然の懐の深さに深呼吸をする。14時過ぎに太龍寺を発ち遍路道を下山する。古い遍路道だが簡易舗装されていて、納経所で、その道を歩いていけば一本道だから絶対迷はないと教えられた道である。下り坂の遍路道をトボトボ歩き1時間40分ほど経った15時40分頃に、民宿、龍山荘という看板が見えた。もう山の中の夕日が傾きつつあるし、22番に行くには距離が遠いので今日は龍山荘で宿泊することにする。4時前だったが、予約無しでも泊めてもらえるかと尋ねると、一人で歩いているのかと聞かれ、泊めてくれることになった。私の部屋の窓外には山肌が迫っており、窓のすぐ下に小さな谷川が流れており、せせらぎの音が気持ちよく響いている。心が清められる。大変気に入った。バスで来る団体遍路は未だ到着しておらず静かだ。早速、風呂に入らせてもらう。夕食の料理も美味しかった。団体とは別の小部屋で食事させてくれた。名古屋の人で、金融機関に勤めていて定年退職を機に夫婦で車で遍路をしているという二人と一緒だった。食後は足の手当をし、明日の予定を立て10時頃就寝。枕元でせせらぎの音が清々しい。

(7) 第7日目(4月16日(木))
5時過ぎ目覚める。龍山荘は山が迫り、谷川が枕元を流れているせいか朝方は寒く感じた。6時10分頃朝食。今日は久しぶりに晴れ。清清しい。日中は暑くなるかも知れない。6時50分頃、民宿を出発。徳島県内の最後の札所、23番の薬王寺(日和佐)(約30q)まで行く予定。案内書が良くないのか、岐路の都度、迷い迷いしながらだったが、9時20分頃、第二十二番の平等寺到着。途中の山は、竹藪と杉の山が多かった。竹林は光が入り明るく、今は食べ頃?の竹の子も多く、踏まないように歩いていても楽しかった。足のマメは昨日あたりから癒えたのかあまり痛まない。比較的楽に、平等寺に着けた。道中はすべて山の中だった。山中、大声で般若心経を唱えたりしながら気持ちよく歩く。遍路道は山の中が気持ちいい。新緑も、小鳥の声も、しゃがの花も素晴らしい。しゃがの花は誰に愛でられることもなく咲き誇っている。
平等寺では昨夜、夕食を共にした二人と会い会釈を交わした。9時50分頃、平等寺出発。いよいよ徳島県内23ヶ寺、最後の札所となる第二十三番の薬王寺に向かうことになる。敬意を払って真剣に歩こう。足のマメの痛みも少し和らいだが、この22qはとても長い。約6時間。予定では4時頃薬王寺到着のはずだ。途中、山々の中だが、国道55号線に沿ってその狭い歩道を遙かに歩くことになる。今日も日差しはきつい。高知と徳島を結ぶ幹線道路だから車も多い。大型トラックの風圧でぐらつく。排気ガスが襲い掛かる。気を付けて歩こう。不愉快で苦しい歩きだ。途中、農家が国道沿いでイチゴをパックに入れて300円で売っていたので買って、歩きながら食べる。食べた後のパックを何処に捨てようかと歩いているとゴミの山のような黒っぽいものが先方に見えたのでそこに捨てようと近付き、まさにポイと捨てようとしたとき、こんな山中の幹線道路の測道だのに、乞食?浮浪者?もしくは疲れて休んでいるお遍路さん?…が寝ているのではないか。死んでいるのではないか?あまりにも、びっくりして捨てるどころか、あわてて道路の反対側に渡って暫く急ぎ足で歩いて逃げたこことがあった。驚いた。どうした人だろう。遍路姿ではなかった。私の子供の頃は戦後、食べ物も職も家族も無くして失望の中で。、四国遍路をしながら、死んでいく人が多かった。あの人は起き上がって歩き始めるのであろうか。ショックだった。暫く行くと、うどんと書いた食堂が、山中に一軒だけポツンと見えた。久しぶり、7日ぶりに昼食を取りたくなり、時間もあるので食堂に入り、肉ウドンを食べた。食堂に入る前、水道の栓が有ったので顔を洗う。とても冷たい気持ちの良い山の冷水だった。一週間ぶりの昼食、腹ごしらえして、気分を取り直して歩き始める。薬王寺に段々近付いて来るに従いあしの痛みが強くなる。また新しいマメができたのだろう。歩く速度が遅くなる。疲れが出て来る。予定より遅れてやっと、4時半頃薬王寺に到着。やや焦ったが、お寺が閉まる5時前に付くことが出来た。納経所が5時に閉まるので、納経を先に済ませ、そのあと本堂に登る。名高い厄除けのお寺。厄坂の階段を登る。男厄坂42段、女厄坂33段、還暦の厄坂61段。本堂では雄一君の幸せと宗子さんのご冥福、睦子さんの痛み除去、皆の健康等を祈る。宿坊を頼むと、今日もラッキーに泊まれた。しかも10人は泊まれる大きな部屋に一人で寝られる。風呂も良かった。マメが潰れたので足を上げての入浴だが、湯船が浅い風呂だったので、体は湯船の中に浸ることが出来た。宿坊は本堂と離れた別建ての3階建てで、お遍路さんの部屋は3階、レストランは2階。それぞれのお寺で宿坊のシステムや経営は異なる。夕食は大阪でタクシー運転手をしていたという、一人歩きのお遍路さんと一緒。62才で遍路は3回目、今回は高知市近辺まで行く予定らしい。初めてのときは、よくわからないままに寝袋や鍋釜ガスコンロを買い、それを運ぶリヤカーまで買ったらしい。ただ、ほとんど使わないうちにギブアップしたとのこと…。今回は、年金と失業保険を併せて45万円もらっているのでそれを資金に遍路をしているとのことだった。いろいろな人と合う。明朝は本堂で6時から朝のお勤めがあるので靴を履いて上って行かねばならない。朝食は6時半から宿坊の2階。当初予定で、徳島県内で7日間は必要と見ていたが、計画通り実行できた。徳島でのお遍路行脚は充実感があった。
 明日はいよいよ高知県に移動。第二十四番の最御崎寺へは78qもある。私の脚力では1日30kmのため、二日半はかかる。時間がかかりすぎるので、とても歩いては行けない。休暇は少ない。電車とバスで行くことにする。室戸で余裕をもってゆっくり過ごしたい(俊子は21日早朝バスで高知着の予定だし時間はある)。今夜はゆっくり休める。

(8) 第8日目(4月17日(金))
   5時起床。もうウグイスが遠くで鳴いている。6時からの、朝のお勤めに参加すべく宿坊を5時45分に出る。人のいない静かな厄坂をゆっくり踏みしめて本堂に上がる。参加者は、私以外は、お年寄り8人ぐらいのグループのみ。薬王寺の朝のお勤めは他のお寺よりお経が多いように思う。お経名は何か判らないが"…さんばかー…。…さんばかー…。"と"さんばかー"という言葉がやたら気になるお経だった。三馬鹿に聞こえ笑ってしまう。どういう意味だろう?
   6時半朝食後、有名な日和佐の海岸を見に行ったが、あまり遠くへは行けず、日和佐城の下の港の所を見ただけで、すぐ薬王寺に帰り、またまた、3度目のお参りをした。厄坂を上りながら兄弟姉妹、親族みんなの健康祈願をした。本堂でも3度目のお参り(自分の厄払い祈願)をした。
   8時56分日和佐駅発の海部郡牟岐行きの電車に乗る。車内で75才位いのお婆さんからお接待といって、1,000円頂く。感謝しお婆さんの健康長寿を祈る。9時36分海部着、10分待ちで、第三セクターの阿佐海岸鉄道(運転手無し、一両編成、乗客は私を入れて3人のみ)に乗り換え、一路高知県へ向かう。これからは足摺岬まで行けども行けども左に太平洋、右に四国山脈という風景が続く。いつかはこの国道を歩いてお遍路したい。バスでは歩き遍路の風上に置けない行為であり反省。
   室戸阿南海岸国定公園の美しい海岸線を見ながら9時57分、高知県の甲浦着。いよいよ高知県。徳島とはまた違う土地柄であり、自分の生まれ故郷だ。10時20分発の土佐電鉄バスに乗る。雨が降り出した。乗客は二人のみだったが、お年寄りの乗客が早めに降りたので大きな高知行きバスの中は若い運転手と私のみになった。田舎はお年寄りのみしかいない。淋しい限りだ。前の端の座席に座っていたので天候や世間話しをしながらのんびりと室戸に向かう。11時12分室戸岬の手前、巨大な大師像の近くで下車。途中雨が降ったり止んだりしていたが、室戸近くでは晴れてきた。新しく出来たらしい巨大な若き日の青年の弘法大師像を見て驚く(参観料が高い)。その後,すぐ近く150b位い西にある御蔵洞に行く。この洞窟は大師が19才のとき修行した洞窟である。今は国道の近くにあり,大した神秘性を感じる洞窟ではないが、空海が修行した頃は道も無く無人の厳しい環境であったことだろう。お参りしたあと、納経帳に記帳してもらう。大師はこの御蔵洞で数日の徹夜修業のあと、輝いていた明星が飛来して口の中に入ったという伝説がある。一体どのような現象だったのだろうか。大天才の意識は常人には判らない。御蔵洞から、さらに200b位西に、室戸岬の山上にある第二十四番、最御崎寺(ほつみさきじ)に登る遍路道がある。藪つばき、楠木など照葉樹が茂り輝いている林の下を12時に上り始め、約30分で最御岬寺に着く。高知での最初の札所だ。般若心経をキチンと唱え、作法通りに丁寧に参拝した。高知に住んでいる親族皆様の健康を祈願、私と家族の健全な生活、冨山家の発展、信介の社会人としての成功等を欲張って祈願す。13時30分頃になって下山。近道だと教えられてスカイライン道路を歩いたが、これは車専用道路だったかも知れない。山腹に道路が取り付けられている感じで足元は橋脚しかない部分があるし、風は強く吹き付けてくる。とても危険な道路のように感じたが、ここで意を決して飛び降りれば私はあっという間に岩盤に頭を打ち付けて死ぬことだろう。落下しているときは意識があるのだろうか。岩盤にぶつかるまで、下を見ながら落ちるのだろうか。自殺願望はあるが、汚い死に方や他人に迷惑をかける死に方はしたくない。死ぬときは衝動的でなく、意思的な死に方をしたい。高所恐怖症と時々は死ぬことの恐怖心を抱きながら、広大な太平洋の絶景をみながら歩いて降りる。高所恐怖症の私は下を見ると、足がすくむ。トンビが足の下に舞う風景は自分が空中にいる気分だが、下りきってホットした。生きて下山できた。目の前にレストランがあり、カレーライスを食べる。遍路に出てから、二回目の昼食だが、急いで食べたためか、胸が苦しい。食べないで空腹の方が気持ちが良い。歩き始める。第二十五番の津照時(津寺)まで6q強。天気は良くなったので、とても暑い国道を、西へ約2時間、室戸の幾つかの港を見ながら、旧市街を通り抜けて歩いた。町の中では、何処でもそうしたが、鈴は鳴らさないようにした。津寺は階段が約200段位と比較的多い寺だが、小さい山の頂上の僅かな面積の所に小さな本堂が出来ている。海上安全の守護仏として、船人から敬われているそうである。さすが港町、室戸のお寺だ。3時半頃に津照寺を下山。室戸でゆっくり時間を過ごすつもりだったが自分の性格だろうか。足は痛くない。まだ歩けると思うと、ここで泊まらずに、約5q西の金剛頂寺まで行くことにした。5時迄には着けないかもしれないが…。宿坊があるので泊まれれば問題無いと思って歩き始め、妙に心配になり、途中お寺に電話したところ今夜はお寺の行事があって誰も泊まれないとの返事。しかし途中まで来てしまったので宿所は別途考えることとし、お参りだけは済ましておこうとトボトボ歩き続けた。5時までに着くには1時間しかないし、距離はまだ3,4q残っている。お寺は遠い山上にある。きついし、疲れたが、今までだって、黙々歩けば必ず目標は克服してきた。高い、きつい坂道を一人ヨレヨレした感じで歩き続ける。車が帰りの遍路を乗せて次々と下山してくる。焦る。右、左、右、左と交互に1歩1歩歩くのだ…。長い上り坂でも一歩一歩進めば何とか頂上に辿り着く。5時に5分前に金剛頂寺に到着。参拝し、宿坊が利用出来ないことを確認し、帰りは、納経所でタクシーを呼んでくれた。ここまで来たら西方の安田町の奥にある第二十七番の神峰寺に一歩でも近付きたいところだが、タクシー運転手によれば安田は遠いし近くには旅館はないので室戸に帰る方が近いとのアドヴァイス。仕方なく再度、津寺近くのビジネスホテルに泊まることにした。(後で判ったことだがホテル経営者とタクシー会社社長は知り合いらしい。私は連れて来られたのかも知れない。マア―、良いか…。)ビジネスホテルと称しているが個人の家を、随分前に、改築したようなオンボロ旅館。2階の奥の部屋が私の部屋。他に客はいないようだ。廊下はミシミシ鳴る。最初は二十歳位いの元気そうな娘さんが案内し、そのうち、まだ若そうな母親が出てきてそのあと、父親が顔を出すと言う感じで、1人1人出てくるのが不気味な感じだった。お風呂も湯船が何故か二つ並んであるし、洗い場はドアーも壊れて無い。風呂から出て部屋に帰ると、何時の間にか家庭料理的なボリュームたっぷりな魚中心の料理が炬燵テーブルの上に並んでいた。独り静かに食べる。魚の美味しい室戸だから、まあまあの味だったが、あまりにも旅館らしさが無い。それでも嫌いにならないのは妙に家庭的な雰囲気もあったから、だろうか…。夜中に大雨、雷雨が激しい。寝られなくて今日一日の記録を書いていたら母親と娘が来2階に上がってきて、"すみませんが雨戸を閉めさせて下さい"と部屋に入って来る。起きていたから良かったものの、12時過ぎだったので、眠っていたらさぞ驚いたことだろう。廊下の両サイドの5部屋には宿泊客がいない。トイレはその向こうにある。夜中にトイレに行くとき、両サイドに人のいない部屋があると少々怖かった。室戸の旅館は遍路宿ではなく、ちょっと感じが変わっていた。明日18日は天気予報では朝のうちは雷雨、午後は曇りとのこと。東京では高知の観光に行くなら、台風シーズンに行くのが一番と言っていたが、遍路行脚で雨に会うととても厳しい影響が出る。雨を避けて、出発を遅らせるべきか…?元々は室戸で1日中ノンビリしたい気持ちもあったが…。とりあえず、朝食は7時半にしてもらうことにした。

(9) 第9日目(4月18日(土))
    朝の天気予報は昨夜とは大きく変わり、午前曇り、午後雷雨とのこと。昨日とは逆、困った。これなら早く出発しないと午後は歩けなくなる。最悪の場合でも、今日は第二十七番の神峰寺へ行き、泊まりは大山の国民宿舎"あき"にしたい。天気は、宿の女主人によれば、今日は良くなる、と思うとのこと。海の人はよく天気を見る。気象庁の予報とは違うが室戸の地元の人の天気の見方を信じる。旅館を出る前、国民宿舎に電話したが、満室で泊まれないとのこと。さい先は良くないが、とにかく今日はがんばらないと…。早く神峰寺の下の安田町までいかないと…。歩いていたら、昨日の奈半利町まででダウンする可能性もあると考え、タクシーで少なくとも、奈半利町まで行き、そこから歩くこととし、昨日のタクシーを呼んでもらう。奈半利、田野、安田と歩き、神峰寺へ登る。天気は曇り時々晴れ。今日も照り返しがきびしく暑い。安田の町内で水と薬(サロンパス、消毒薬)を買う。水を買う時、店のお婆さんが神峰寺に行けばとても美味しい水があるのに…と言って買わなくてもよいかのように話す。そういえば、安田町は土佐の銘酒"土佐鶴"の産地。落ち着いた雰囲気の良い町。祖母の出身地。神峰寺への道を聞くと安田町の西はずれから北に入る。遙か西北の二つの峰の奥にある方の紫に煙る峰の頂上にあると、指さす先は青く見える遠い峰峰の先の頂上。神の峰と書くほどだから遠いとは思っていたが、やはり遠い。安田町から約5qとのことだが、上り坂の性か、それよりもっと遠い感じがする。気を奮って頑張って歩こうと決め上り始める。他の寺の時とは違い、途中、タクシー、自家用車、バスなどを利用する遍路が多く、歩き遍路の私を次々と追い越して行く。土佐は広い範囲に霊場が散在している性か歩いている遍路は徳島ほどは目につかない。霊場間の距離が長いので車での移動が多くなるのであろう。神峰寺への道は遍路道と車道が殆ど同じだし、坂道が急峻なためか、追い越していく車が恨めしくなる。昨日夕方行った金剛寺よりはるかに遠い感じだ。海抜何メートルあるのだろう。途中、以前、焼山寺で会ったことのある若い歩き遍路さんが下山して来るのにあった。"これから先がきついですよ…。頑張ってください。"と言ってすれちがう。彼は私よりも早いペースで歩いているみたいだが、速いとはいえ、やはり薬王寺から室戸迄はバスを利用したのであろう、と思う。速すぎる。私は、山の中はきびしくても、出来るだけ、昔からの遍路道を歩くことにしている。美しい自然がある。神々しさがある。車道は歩き易くても距離が長く、暑いし、排気ガスが不愉快。神峰寺への途中、トマトやナスなどの園芸農家があるが"良心市"と称する無人の売店を置き、例えばトマト3個100円などの安い価格でお遍路さんが買いやすいようにして、勝手に買っていくようにしてある。下山のとき、喉が渇いたのでトマトをかじりたくて、買おうと思っていたら、車で来たお遍路さんが、安いワーと言って、残っていた4パック全部を買ってしまい無くなってしまった。
土佐に入って二日目。土佐の山々も今は新緑にあふれ美しく、ウグイスの声が山間に響く。気持ちが良い。今朝は割と元気に歩いている。土佐、我が故郷にいるのだ、という意識からであろうか。急な坂を登り詰めて、12時頃、神峯寺に到着。階段を上り切ると、鐘堂の隣に勢いよくきれいな水が流れ落ちているのが目に入る。これが、安田の町の店でポカリスエットを買ったとき、店のお婆さんが、"神峯寺に行けば美味しい水があるぜ…" と教えてくれた水だなとすぐ判った。美味しい水が勢いよく流れていて、私も3、4杯立て続けに飲んだ。実においしかった。"土佐鶴"を造る水の源水だと思うと実に美味しい。境内には八重桜が咲き乱れ、山々の肌には新緑が輝いている。さすがは、神の峯。霊気が感じられる。下山するのは惜しい気がするが、12時半過ぎ出発。板垣退助の"自由民権は土佐の山間より出づ"という言葉を想い出しながら坂を下りる。土佐の山の中で明治の先人達は広く世界の情報を求め、日本の将来のあり方を考えていたのだろうか。この草深い田舎と、その先見性との信じ難いギャップを感じる。
   今日中には安芸に着きたい。天気は、テレビの予報より室戸の旅館の女将さんの方が、当たっている。下りはドンドン下りたので2時頃には安田町に着いた。国道55号に出たり、旧道に入ったりしながら、西へ西へひたすら歩く。大山岬に着いた頃は太平洋の沖合いや西方遠くの山々が黒く曇っていて、雨が近付いてきているようだ。午後は雷雨との予報に反し、意外に天気はもっている。遠くの雨雲が来る前に伊尾木まで辿り着きたい。懐かしい太平洋をじっくり眺めていたいが西の洋上は黒々とした雨雲が動いている。大山岬を回って河野に来た頃、時々小雨が振り出した。大山の国民宿舎に泊まれれば今ごろ足を伸ばして、のんびりしているのに…。満室だというので素通りして来た。雨が恨めしい。神峯寺で見かけた男二人連れの歩き遍路のうち年輩者のほうの一人の速度が遅くなり、私の前になったり後になったりしながらモクモクと歩いている。予定では今夜は大山岬でゆっくりして、明日の朝、伊尾木に入りたかった。高知に入ってからは予定通り行けないことが多いと思う。室戸から神峯寺を含め約45km、一気に伊尾木に行くことになった。大変、疲れたが、昔懐かしい風景や子供の頃の友人、知人の家々の変化を見ながら、この45年以上の年月の変化を考えながら歩いた。伊尾木に入ったのは5時前。時々小雨。八幡神社の近くを通ったとき、 "トラさん地蔵"なるものを見つけた。何故だ?オカシナ物があるな、と思ったが、小さなお賽銭箱があり、"大切に使いますので…"と書いてあったのでトラさんの人徳に敬意を表して500円を寄付する。すぐ上の電線でカラスが様子を見ていた。おかしくて笑いをこらえながら歩く。八幡様と金毘羅様を参拝したが、昔に比べ、随分と寂れ果てた感じだった。若い人口が減少しているからだろうか、宗教心が薄れたからだろうか、地域の人に寄進する経済力が無くなったからだろうか。残念なことだ。この八幡神社は由緒有る八幡様らしいが…。
ところで、今回の私の、歩き遍路巡礼のことは、高知の親類の誰にも事前には連絡していない。遍路姿の私が、突然親族の家にお遍路さんとして現れた時、彼らがどのような反応するかを見たい。突然家の中に入って行くことで、彼らを驚かせてみたい。そういう子供っぽい動機からである。
   私が子供の頃は、お遍路さんが多かった。人によって、背景は異なることであろうが、戦後の引揚げ者が、帰るべき場所、家族を失い、仕事も無く、戦死者への弔いもあってお遍路さんになったり、乞食のような生活をしている人が多かった。生前、母や祖母がお遍路さんと話していたり、お金や食べ物をあげたり、忙しい時は"お通り"と言ってよそへ移って行くよう求めていた光景を想い出す。駄々をこねていると、お遍路さんに連れて行かれるよと威かされることもあった。親戚の皆んなは遍路の私にどのように対応するのだろうか。見てすぐ私だと判るはずが無い。お接待をしてくれるだろうか。"お通り…"などと言われたらどうしよう。不在だったらどうしようか…? 興味深く、また少々心配だった。
  旧道を東から歩いて、夕方、5時半前に敏夫さん宅に到着。店のガラス戸が閉まっていたが、美代さんは居るだろうと思い引き戸を開けて入る。夕方の忙しい時間帯のせいか店には客も美代さんもいない。鈴をチリンチリンと鳴らしても誰も出て来ない。心配になり菅笠をチョット揚げて奥の方の様子を伺っていると、あわてて出てくる美代さんと視線が瞬間会ってしまう。あわてて菅笠を深く引き降ろし、私だと判らないようにして、鈴をゆっくり鳴らしながら、般若心経を唱え始める。目の前の、白装束のお遍路さんが、まさか私だとは思ってもいない感じだし、何かすごく美代さんが緊張している気配が伝わって来る。般若心経の終わりのころ、美代さん、美代さんと三回名前を呼んだが、どうも自分の名前を呼ばれていると思っていないらしい。これじゃ、まずいな…と思い、ぎゃていぎゃていはらぎゃてい…と言いながら、菅笠を揚げて顔を見せ、再度、美代さんと呼ぶとやっと義兄の私だと判ったようだ。突然の、私の遍路姿にびっくりし、"いやツ…!…。義兄さん、どうしたが……?"という戸惑いの第一声だった。してやったり…という思いで私は満足だったが、その後は事情説明で大童。疲れもすっ飛ぶ。敏夫さんは仕事で外出中だったが、美代さんが連絡してくれて、暫らくして帰ってきた。風呂にゆっくり入らせてもらう。遍路には贅沢な、寿司やさしみのご馳走を準備してくれて久しぶりのご馳走に、胃腸がビックリしたように思う。、遍路のこと、政治経済のこと等々、色々な話をし、酔っ払って寝たのは1時頃だった。夕食時には甥っ子の和也君も帰宅できて同席した。立派な社会人に成長していて、嬉しく思う。今日一日は室戸から始まり、神峯寺に行き、伊尾木まで歩き、とても長い長い一日だった。よく歩いた。明日は墓参りをして、清岡さん一家に会うため土居に行き、第28、29番札所へと巡る予定。

(10)第10日目(4月19日(日)
 晴れ。昨夜は深夜まで飲みながら、政治・経済問題を色々議論していたせいか、頭が痛い。8時頃、敏夫さんに"旅の人…そろそろ起きませんか"と起こされた。厳しい思いをもって始めた遍路だのに二日酔いしてしまった。疲れで朦朧としている。朝食を頂き、9時半頃、影山家の墓参りに出発。本来、歩いて行くつもりであったが敏夫さんが車で送ってくれる。その後、土居、清岡家に昨日と同じ遍路装束で、予告無しの突然の驚かせ目的の表敬訪問。義兄が玄関にいて、遍路姿の私が近付いても判らず反応が無い。チリンチリンと鈴を鳴らし、じっと目を合わせて、兄さん、兄さんと声をかけても、怪訝な表情で私を見つめるので、菅笠をとって名乗るとやっと私と判った様子。人とはこんなものかと思う。服装と一体でないと、顔だけからは、すぐにはダレと判別出来ないらしい。普段、私は背広姿だし、高知にいないし、判らないのも当然だが…。顔は服装と一体の雰囲気で覚えられているのかも知れない。私だと判り、驚いて室内の姉を呼ぶ。中に入り暫く事情を話す。高血圧で倒れ、リハビリ中の姉は未だ十分には回復しておらず、舌があまり動かない感じだ。可哀想で涙が出そうになる。次の大日寺で姉の回復祈願をすることを心に決めて、辞去する。浄貞寺で竹部家の墓参りをし、お地蔵様にお祈りし、安芸を離れる。途中歩き遍路さんを追い越す時は、車に乗せてもらっている時分を反省。敏夫さんの午後のスケジュールもあるので、急ぎ西へ移動。野市町にある第二十八番の大日寺、南国市にある第二十九番の国分寺へ行く。車で送ってもらってお寺を巡っていると、何と楽なことかと思う。これなら一気に第三十番、善楽寺まで行けそうであったが、敏夫さんの時間が無くなったし、これでは私の描いている遍路の在り方と大いに異なるので反省し、善楽寺行きは中止する。代わりに、先を急ぎ、兄、邦彦さんのお宅に連れていってもらう。残念ながら不在であったので、お札に住所、氏名を書いて玄関に置いて去る。そして次の目的地、磯田家を訪問。13時頃到着。ここでも連絡なしに驚かせるべく突然の訪問。菅笠を深くかぶり、チリンチリンと鈴を鳴らしつつ玄関へ。はじめマキちゃんが出て来たが、(お正月などに時々来る修験僧と間違えたらしく)、お母さん、お母さんと呼びながら、奥へ入り、すぐには誰も出て来ない。鈴を鳴らしつつ般若心経を唱えていると、マキちゃんの子供達が出て来て、面白そうに関心を示しているのが判る。また、奥に入り、睦子姉に"神様が来ている…"と言っている声が聞こえる。やがて、睦子姉が出てくる。修験者だとばかり思っていたらしい。これ以上驚かせてはいけないと思い菅笠を顔の見えるように上に上げると、一瞬時間をおいて、"俊ちゃんではない…?"と驚きの声。遍路姿の私の突然の来訪に、一体どうしたことかといった表情。家に入れてもらい事情を説明。その後、3時頃になって、すぐ近くにある第三十一番の竹林寺に遍路道を歩いて上がる。さすが由緒有る竹林寺の遍路道は立派なものである。車道とは違う石段の遍路道を静かに上る。お寺も格式ある風情を漂わせている。印象では、高知に入ってからのお寺の中では一番の格式を感じる。ただ、牧野植物園が隣接しているせいか、参拝と関係ない一般観光客がやたらと大勢いて、雰囲気を壊していた。この竹林寺は、よさこい節の坊さんかんざしで有名な主人公である僧、純信と五台山下のいかけ屋の美人娘、お馬との純情ロマンスに関係ある有名なお寺。お馬という女性は大変な美人だったそうだ。1855年二人は駆け落ちしたが、讃岐でつかまり仲をさかれ、純信は追放され、お馬は最初は安芸川より東に流され神峯寺の麓の安田町にいたが、純信との密会が見つかり、二度目は仁淀川より西に流され須崎町に住み、そこで大工の妻となり長生きしたそうである。今も血筋を引いた親族が五台山の近くにいて、なかなかの美人だそうな。思いにふけって庭石に座っていると私を珍しげに見ている観光客の一団がいる。どう思って見ていたのであろうか。5時半頃、姉宅へ帰着。連絡してあったらしく尚英君一家も来て、とても賑やかになる。そのうち邦彦兄もお札を見て、どうしたことだろうと思ったらしく、姉宅に来る。兄も88カ所廻りをしたいと言っていた。賑やかに色々話す。夕食時にはマキちゃん一家もジョインした。突然のお遍路さん姿の"驚かせ訪問"は十分すぎる(?)効果があった。姉宅の2階が善根遍路宿となる。

(11)第11日目(4月20日(月))
 今日も晴れ。暑い一日だった。
 今日は先ず、昨日行けなかった第三十番札所、善楽寺に行く。町の中にあり、土佐神社など神社が二つ隣接しており場所がわかりにくかった。神仏分離令でもめ、また今は奥の院となっている安楽寺との間で第三十番札所名争いが有ったお寺らしい。次に、海岸に近い小高い山の頂にある第三十二番、禅師峰寺へ行く。高知新港が見える。アジア各国との貿易を期待して建設したようである。土佐とアジア各国を直接つなぐという目的は良いがあまり船は入港していなかった。下山のとき、階段の途中で地元の人が造って、お遍路さんに安く売っている草餅を買う。浦戸湾に架かった浦戸大橋を渡り、第三十三番雪渓寺、第三十四番種間寺と行き、とても暑い中ではあったが、運転してくれている、膝の痛い姉も元気そうであったので、義兄とも相談し、あと二つ、36番迄今日廻ることになった。35番に行く道を間違えたので、先ず、第三十六番の青龍寺へ行く。宇佐大橋を渡り、横波三里という波が横向きに流れる珍しい所にある。太平洋にも面しており、とても景色が素晴らしい。漁師さんが参拝する、海の安全を守る、海の中というか海岸真近にある由緒ある海の神を祭るお寺である。本堂前に波切不動明王の石像がある。荒削りな目玉の大きい面白い顔だ。大師との関係が深い古いお寺を参拝し、姉の足の回復を祈願し、その後、順路は逆になったが、いよいよ今回の遍路巡礼行脚の最後の霊場となった第三十五番の清滝寺へ。清滝寺は小さなくねくねした道を上り山頂にあった。ここは、薬師如来をご本尊とし、行基菩薩が、723年頃開基した寺とのことであるから、今から1255年も昔に開基されたことになる。当初は、景山密院、釈本寺という名称だったそうである。約100年後、弘法大師が寺の名を清滝寺とあらためた。今回、最後に辿り着いた霊場が元々は景山密院と称されていたものと知り、妙に因縁を感じた。また、清滝寺は861年平城天皇第三皇子高岳親王が、大師の跡を慕って四国に渡り、当寺で修業したようである。これをもって、この親王を遍路の始めとする考え方もあるそうである。このような由緒のある清滝寺をもって、今回の私の遍路行脚の打ち止め寺にすることは、偶然とはいえ、遍路が成功だったと思える。嬉しくて、納経所の方にもこの寺で、満願(?)を迎え、一区切り出来た心を伝え、喜んでもらった。
 11日目で36カ所廻れたのは、この2日間、敏夫さん、睦子姉の車での移動が出来たお陰である。予定より1日半早く終わることができた。正直言って、土佐の道は長く暑いため、ヘトヘト気味で、特に9日目(18日)はこたえていた。このため、19日時点では、36番までは行けなくなるかも知れない、竹林寺辺りで終わるかも知れないと思っていた。それにしても、高知県内の霊場巡りは霊場と霊場の間の距離が長いし、暑いし、海岸線が長いため歩くことは、余程、意思強固、体力頑健でないと難しい。高知県に入ると、徳島と比べ、目に入る歩き遍路さんの数が急に減る理由がよく分かった。霊場の数が少ないだけでなく、歩けなくなって車を利用する遍路が多くなるためであろう。私も、たるんでいるかも知れないが、姉、弟の車での移動のお陰で効率よく廻れた。満足。感謝、感謝。つぎの機会を早く探して88カ所巡りを成就したい。

(12)第12日目(4月21日(火))(遍路巡礼最終日)
   実質、11日間で予定の36カ寺の霊場巡りは終わった。今日は、私のお遍路さん姿を竹部の両親と国久の叔母に見せ、近況報告するためそれぞれの自宅を訪問。やはり大変驚かせてしまった。寝込んでいる義母の心臓に悪かったかもしれない。早朝には俊子も高知に到着して8時過ぎに母宅に着き母を驚かせたらしいので、今日は、母は二回も突然の我々の訪問に驚かされたことになる。これで、私の遍路行脚は全て終了。(遍路行脚のまとめは総論編に整理してあるので参照。)

   私は今、第二の人生、第三の人生のあり方を描きつつある段階だ。いつまでも過去にこだわり、、辛いと思う憂いの気持ちをもって長い人生の道を歩き続けることは難しい。"朝の来ない夜はない"と言われるが、夜もまた来る。人間万事、塞翁が馬である。また、今が最悪かどうかということはわからない。もっと悪いことがいつ何時起きるかも知れない。しかし、嬉しいことも、悪いことも10年続くことはない、と言われる。状況はいずれ変わる。夢を大きく持って、気力、胆力を強め、これからは、自分を大事にして、自分の信念に生きたい。自分の信じることに命を尽くそう。死を考えるほどの、忘れることの出来ない辛いことも、四国の遍路行脚は癒してくれる自然の病院である。人間不信も消え、人を信頼させてくれる。人の親切心を感じさせてくれる。人間として再生させてくれる。今はそう感じている。    
                                        以上
                                                                                                     


26/6/2005

Last update: 1/2/2000

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