No.18 , October 2000

Art

ホイッスラーの美術論 (9)


 1866年の2月はじめ、ホイッスラーは突如、南米チリのヴァルパライソへ向けて旅立った。その動機が何であったのかは謎とされている。

 ペネル夫妻によるホイッスラーの伝記では、「このヴァルパライソへの旅は、しばしば説明しがたいことがある彼の経歴のうちでも、最も説明しがたいものである」と書かれている。健康、対立、いらだち、気まぐれなどの理由が言われているが、どれも定かではないという。(1)

 ホイッスラー自身は、ペネル夫妻に対して、スペインの攻撃からチリを守る義勇軍への参加であった、とその旅立ちの動機を説明している。(2)

 当時、債務の返済をめぐってスペインとチリは対立し、ヴァルパライソの沖合いにスペインの艦船が集結していた。一方、ロンドンには、南北戦争で敗北した南軍の軍人が多数逃れてきていた。彼らは、義勇軍としてであろうか、あるいは傭兵としてであろうか、スペインと戦うためにチリへ向かった。ホイッスラーは、その一群に加わったというのである。

 しかし、ウエストポイントの軍学校に在籍していたとはいえ、退学して画家になったホイッスラーに軍務がつとめられたとは考えにくく、ホイッスラーの説明は疑わしいといえるだろう。ホイッスラー自身も、スペインの艦船からの砲撃が始まると丘の上に避難し、砲撃が終わった後、町へ帰ると、子供たちに「臆病者!」と非難されたという体験をペネルに語っている(3)。

 チリへの旅行は、政治的事件に巻き込まれることを恐れての逃亡であったのではないかという見方もされている (4)。

 ホイッスラーは、パリ時代から、アイルランドの独立を求める秘密結社、アイルランド共和主義同盟(IRB、フィニアン運動)の指導者の一人になったジョン・オーレアリーと交友があった。

 アメリカを立って1855年10月にロンドンに着き、そこからさらにパリへ向かう途中、ホイッスラーは海峡を渡る船の上で、医学を学ぶためにパリへと向かっていたオレアリーと知り合いになった。(5)

 パリに着くと、ホイッスラーにはだれも知り合いがいなかった。彼は、パリにアイルランド人の知り合いが多くいたオレアリーを頼る気持ちもあったようであり、当初、オレアリーと同じ部屋に住んだ。そして、数カ月後の1856年の1月になると、オレアリーは医学校に近いところに住みたいという希望を持ち、一方、ホイッスラーにはエロイーズという恋人ができたため、二人は別の場所に住むようになった。その後13カ月間、オレアリーがパリに住んでいる間、二人は交友を続けた。(6)

 1859年、オレアリーが再びパリを訪れた時には、彼はジェイムズ・スティヴンス、トーマス・クラーク・ラビーという2人のIRBの重要な指導者と一緒であった。1858年に彼らは、ダブリンとニューヨークで、IRBをスタートさせていた。彼らは、パリを政治活動の一つの根拠地しようとしていた。(7)

 1860年になると、オレアリーはロンドンに住むようになった。ロンドンで、オレアリーはイギリス人シンパを増やすための活動をしていたのではないかと見られている。ホイッスラーは、ロンドンでもオレアリーと交友した。(8)

 その後、オレアリーは、ダブリンへ帰り、IRBの機関紙の発行に携わっていたが、1864年9月、IRBが組織を成長させていることに危機感を募らせた政府は、蜂起を企てているとしてIRBの指導者たちを逮捕した。オレアリーも逮捕された指導者の一人であった。(9)

 アンダーソンらは、ホイッスラーが、オレアリー逮捕の成り行きを、不安を抱きつつ見守っていたのではないかとしている。ホイッスラーは、父方の祖先がアイルランド人であったようであり、また恋人のジョアンナもアイルランド人であった。そのようなことから、彼はアイルランド人に親近感を抱いていたと思われるが、オレアリーを援助していたという形跡は認められていない。しかし、オレアリーの住居が捜索され、ホイッスラーが彼に宛てて書いた手紙などが発見されれば、ホイッスラーにIRB援助の嫌疑がかけられる可能性もあった。その可能性から逃れるために、彼はチリへ行き、自分が事件に巻き込まれないことを見届けるまで滞在する必要があったのではないか、とアンダーソンらは考えているのである。(10)

 この旅行には、ドティという女性が同行したことも知られていることから、ジョアンナから逃れることが目的であったのではないか、と推することもできるだろう。

 ホイッスラーは、9月までヴァルパライソに滞在した。ヴァルパライソ滞在中に5点の港湾の風景を描き、そのうち2点は失われたとホイッスラーはペネルに語っている(11)。現在、ヴァルパライソとその旅行の時に見た海をテーマにしたホイッスラーの作品は6点前後が知られている。これらの中には、旅行中のスケッチをもとに、ロンドンへ帰ってから仕上げた作品も含まれているのだろう。

 これらの作品で、ホイッスラーは、トルゥーヴィルの海浜風景を描いた作品で追求し始めた、海や空の微妙な光彩の表現をさらに発展させ、さらに「夜」(Nocturne)というテーマを発見した。《Crepuscle in Flesh Colour and Green: Valparaiso》(1866年)は、沖合いに艦船が集結したヴァルパライソ港の夕暮れ時を描き、すでに暗くなり始めた海と遠くの空で輝く夕映えの雲をとらえている。

 《Crepuscle in Flesh Colour and Green: Valparaiso》は、ヴァルパライソでの国際的な緊張の場面を描いた作品でもあった。そうしたテーマのとり方には、なおリアリズムの影響が残されていると言えるであろう。同じ時期に、マネが、シェルブール沖合いで1864年に行われたアメリカの北軍の艦船「キアセイジ」と南軍の艦船「アラバマ」の海戦をテーマにした一連の作品を描いており、その影響も指摘されている(12)。

 しかし、これらの作品において、なによりも注目されるのは、ホイッスラーが日本美術から得た影響をさらに洗練された形や色彩で表現したことだろう。ヴァルパライソをテーマにしたホイッスラーの作品には、水墨画のような静けさが感じられる。レイバーは、「ホイッスラーの作品に見られる東洋美術の影響は目立たなくなり、その一方で深みを増した」(13)と述べている。

 ホイッスラーは、陰翳を愛し始めていたのであるともいえるだろう。ヴァルパレイソから帰った後、「夜」(Nocturne)は、ホイッスラーの作品の大きなテーマになっていった。

(《Crepuscle in Flesh Colour and Green: Valparaiso》は、1998年に東京と神戸で開催された「テート・ギャラリー展」で展示された。写真は、そのカタログに掲載されている同作品の写真)

引用文献

1) Pennell, E. R. and J.: The Life of James McNeill Whistler, J.B. Lippincott, 1925., p.95.
2) Ibid. p.95-96.
3) Ibid. p.96.
4) Anderson, Ronald and Anne Koval : James McNeill Whistler, John Murray, 1994.; Spencer, Robins : Whistler, Portland House, 1990. p.66.
5) Anderson, Ibid. p.41
6) Ibid. p.41-42,47.
7) Ibid. p.75-76.
8) Ibid. p.111.
9) Ibid. p.152-153.
10) Ibid. p.155.
11) Pennell,ibid., p.97.
12) Spencer, Ibid.,66.
13) Laver, James : Whistler, Faber and Faber, 1951. p.99.

 


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