No.52, August 2004

Art


ホイッスラーの美術論 (41)

シッカート、メンペス、暁斎

 ヴェニスに滞在していた頃から、ホイッスラーのまわりには若い芸術家たちが集まりはじめた。彼らは、ラスキンとの対立を伝えた新聞記事などによって、前衛的な画家ホイッスラーをよく知るようになったのだろう。

 ヴェニスに滞在していたときには、ミュンヘンを根拠地としてそこを訪れていたフランク・デューヴネックら若いアメリカ人画家のグループがホイッスラーのまわりに集まった。ヴェニスから帰国すると、オスカー・ワイルドも彼に近づいてきた。

 この時期にホイッスラーの弟子になった画家として、モーティマー・メンペスとウォルター・シッカートがいる。

 メンペスは、1855年にオーストラリアのアデレードで生まれた。デザイン学校で学び、1875年に一家がイギリスに戻ったあとロンドンの美術学校に入り、1880年に卒業した。素描やエッチングの技量に優れ、卒業した年のロイヤルアカデミー夏期展に作品が展示された。(1)

 シッカートは、デンマーク系ドイツ人の画家を父として1860年にミュンヘンで生まれ、1868年から一家でロンドンに住むようになった。1877年から81年にかけて演劇の道を志したが大きな役を得ることはできず、1881年にスレード美術学校に入学し、その翌年にホイッスラーの弟子になった。1883年には、サロンに展示されるホイッスラーの作品を運ぶためにパリへ行き、その際ドガに会った。(2)

 弟子となった二人は、ホイッスラーの『ヴェニスセット』のエッチングの印刷を手伝い、技法を学んだ。(3)

 1883年から翌年にかけての冬、二人はホイッスラーと共に、コーンウォール地方のセントアイヴスという漁村に滞在した。漁船、海、漁民など題材に富むために、この漁村は多くの画家が訪れていたようだ。ホイッスラーは、ここの風景を描いた作品の展覧会を開く予定になっていた。

 メンペスは、1904年に刊行された『私の知るホイッスラー』という本で、セントアイヴスを訪れたときのことを書いている。ホイッスラーは夜明けと共に起き、メンペスとシッカートに材料や道具のことで細かい指示を出すなど活発であったという。(4)

 シッカートは一人で行動することが多かったが、メンペスはホイッスラーについて歩いた。ホイッスラーは簡単な下絵用の道具箱を使うだけであったが、それをすぐ使えるように準備して持ち歩くのがメンペスの役目であった。(5)

 シッカートは、演劇をやっていた時期に公演で何度かセントアイヴスを訪れたことがあり、俳優としての彼を知っている地元の人たちもいた。彼らは毎日、シッカートに魚を贈り、それが宿で夕食の材料にされた。宿の女主人は喜んだが、ホイッスラーはそのことを苦々しく思い、自分も漁民から親しまれて魚をもらえないものかと悩んでいたようだという。(6)

 メンペスもシッカートも、のちにはホイッスラーから拒絶された。メンペスの場合は、そのきっかけになったのは日本への旅行だった。

 1887年に、メンペスは日本を訪れることを決心し、ホイッスラーに手紙を置いてロンドンを去った。悪いことをしていると思ったが、「キャリアを形成しなければならなかったし、成功しようと決意していた」と彼は書いている。ホイッスラーのような偉大な芸術家にはなれないことを自覚して、彼は画家としての自分なりの道を切り開こうとしたのだろう。日本に滞在している間、黙って去っていった彼を痛めつけるような手紙をホイッスラーは何通も送ってきたという。(7)

 日本滞在中に、メンペスは河鍋暁斎(かわなべきょうさい)に会った。

 河鍋暁斎は、狩野派の流儀で花鳥画、宗教画、歴史画などを描き、同時に北斎を思わせるようなタッチで戯文の挿絵なども盛んに描いた画家である。当時は大家として認められていたが忘れられ、戦後になって再び明治前期を代表する画家の一人として注目されるようになった。(8)

 暁斎は西洋人と多くの交流があった。お雇い外国人のイギリス人建築家ジョサイア・コンダー(コンドル)、幕末に来日したイギリス海軍軍人で、工部大学校などで教え、1881年に「ジャパン・メール」紙を経営するなど親日的なジャーナリストとしても活躍したフランシス・ブリンクリーは、弟子となって彼から絵を学んだ。また、フランス人の日本美術収集家エミール・ギメ、画家フェリックス・レガメーも彼のもとを訪れ、著書で紹介した。岡倉天心と共に日本の美術調査に携わったアーネスト・フェノロサも彼を訪れている。メンペスは、ブリンクリーの紹介で暁斎を訪れたとのことだ。(9)

 1888年に日本から帰国すると、メンペスは画家たちが集まるクラブでホイッスラーに会い、黙って日本へ行ったことを恥じ入りながらも、たまらず暁斎について話した。

 メンペスが、暁斎を「もう一人の師」と呼ぶと、ホイッスラーは憤慨し、「それはどういう意味か」といったが、しだいに話に引き込まれていった。(10)

 あらゆるタッチが常に全体のバランスを取りながら進められていくこと、陰影は全体の部分を構成するものとして描かれることなど、メンペスは暁斎の画法について話した。ホイッスラーは「それは私の方法だ」と言い、もっと話すように促したという。(11)

 たとえば鳥の絵を描くときに、暁斎は最も重要なところ、たとえば目から描いていくとメンペスは話した。カラスが目を輝かせて肉片を見ていた光景に暁斎が心を引かれたとすると、彼はその光景を思い出し、まず目を描く。そこから頸部や脚や胴体が描かれていく。「輝く目から、それらが放射されて飛び出してくるように、動物自体においてそうであるように」――そのように話すとホイッスラーは沈黙し、考え込んだという。(12)

 カラスの絵は、暁斎が得意としており、1881年の第2回内国勧業博覧会に「枯木寒鴉図」を出品して画名を著しく高めたといわれている(13)。そのようなことからもカラスの絵が例にされたのだろう。メンペスは、カラスの絵を自由に描けるようになるまでに暁斎がどのような修練を積んだかということについても聞き、雑誌で伝えている(14)。その話も、おそらくホイッスラーに聞かせたのだろう。

 ホイッスラーは、暁斎の話に引き込まれてメンペスが黙って日本へ行ったことに怒るのを忘れ、夜遅くなるとクラブを出てメンペスを自宅へ連れて行き、明け方近くになるまで彼の話に聞き入った。(15)

 メンペスを送り出すとき、ホイッスラーは、「彼ら日本人はすばらしい人たちだ。この暁斎も偉大な画家に違いない。だが、彼の方法と私の方法が、間違いなく同じようなものだということは君もわかるだろう」と話したとのことだ。(16)

 メンペスが話す日本人画家の話は、ホイッスラーにとって、自分が日本美術から受けてきた影響について考えるうえでも、きわめて興味深いものであったに違いない。

 日本から帰った年に、メンペスはグロブナー画廊で日本を描いた作品の展覧会を開き、大成功を収めた。しかし、ホイッスラーはメンペスが無断で勝手なことをしていると怒り、師弟の信頼関係は崩れた。(17)

 メンペスは、その後、エッチング作家として有名になり、1880年から1914年にかけてのエッチング、ドライポイントの作品数は700点以上に上っている。また、彼は、1899年に装飾を凝らした日本様式の家を建てたことでも世間の注目を集めた。この家を建てるために、彼は1897年に再び日本を訪れ、8カ月間滞在した。(18)

 1900年から1914年にかけて、メンペスは画才やエッチングの技術を生かしてカラーの挿絵を入れた旅行書、伝記、美術書などを多く刊行した。先に引用した『私の知るホイッスラー』もその中の1冊である。美術書では、レンブラントなどの作品を彼が油彩で模写し、それを写真複製するという方法をとった。その原画が故国のオーストラリア国立美術館に寄贈されており、2002年に同美術館で展示された。その際、同美術館のウエブに掲載された批評では、メンペスのこれらの模写やそれらをもとにした出版物は、オリジナルと複製の境界を不鮮明にしているとして批判されている。(19)

 20世紀前半のイギリス絵画を代表する画家の一人として評価されているのはシッカートの方である。メンペスと同様、シッカートもホイッスラーから大きな影響を受けた。彼は画家として活動しながら、1889年にはホイッスラーの作品回顧展を組織し、また美術批評家としても活動していた。しかし、フランスに長く滞在し、さらにヴェニスでも活動している間に、しだいにホイッスラーから遠ざかるようになり、ホイッスラーはそのことを苦々しく思うようになっていた。また、病で倒れて困っていたチャールズ・ホロウェイという画家を助けるためにホイッスラーが募金活動を行った際、お金に困っていたシッカートが応じることができなかったことでも、ホイッスラーはシッカートに対して憤慨したようであったという。(20)

 ホイッスラーのシッカートに対する拒絶が明確になったのは1897年である。のちにホイッスラーの伝記作者になったアメリカ人画家ジョセフ・ペネルが、この年にシッカートを訴えて行われた裁判で、ホイッスラーはペネルに頼まれて彼の側に立って証言した。

 ロンドンの美術界では、新聞・雑誌での批評や訴訟を通じて争うことは、当たり前のことであったようだ。ペネルは1893年にパリでホイッスラーのエッチング制作を補助し、その後、夫人エリザベス・ペネルと共にホイッスラーの親しい友人になっていた。彼が1896年にロンドンで開いた個展のリトグラフ作品を、シッカートはリトグラファーが強く関与した作品であるとして批判した。その批評が不当な中傷であるとして、ペネルはシッカートを訴えた。シッカートは、自分がホイッスラーから嫌われているのは、ペネルのせいではないかと考えて、そのような批評を書いたのではないかともみられている。(21)

 その後、1899年から1905年まで、シッカートはフランスのディエップに住んだ。フランス北部、ノルマンディ海岸のディエップは、芸術家たちが好んで訪れた都市である。ホイッスラーもたびたび訪れ、1885年にはシッカート夫妻と共に滞在し、水彩で風景を描いている。(22)

 1905年にイギリスへ帰ると、シッカートはフランスの影響をイギリスに導入する中心的画家となり、1911年に結成されたカムデン・タウン・グループでは中心的な画家として活動した。ロンドンの労働者階級の居住地区カムデンにシッカートは数年間住み、街の風景や生活を題材にした絵を描いた。カムデン・タウン・グループはシッカートのほかに、ウィンダム・ルイス、オーガスタス・ジョンら16人の画家で構成されたが、このグループ名は、1905年から1920年にかけて都会を客観的に、また基本的に印象派の手法で描いた多くの画家を特徴づけるうえでも使われているという。(23)

 シッカートは、エッチングでも高く評価された。ドガからも大きな影響を受けたが、彼と知り合うことができたのも、フランスの美術界と交流があったホイッスラーの弟子になったからであった。ホイッスラーから、メンペスはエッチング、ジャポニスム、住宅の装飾などを学び取り、シッカートはエッチングと印象派と通じるアヴァンギャルド的な絵画の手法を学んだのであるといえる。

(写真は、Menpes, Mortimer : Whistler as I knew him, Adam and Charles Black, 1904)

Note

1) Fisher, Tim: The Great Masters, by Mortimer Menpes, National Library of Australia NEWS, August 2002, Vol.XII, No.11. (http://www.nla.gov.au/pub/nlanews/2002/aug02/article1.html)
2) Chilvers, I. And Osborne, Harold: The Oxford Dictionary of Art, Oxford University Press, 1997. p.519.
3) MacDonald, Margaret F.: Palaces in the Night, Whistler in Venice, University of California Press, 2001.p.97.
4) Menpes, Mortimer : Whistler as I knew him, Adam and Charles Black, 1904.p.135.
5) ibid.,p.138.
6) ibid.,p.139-140.
7) ibid., p.39.
8) 佐藤道信:河鍋暁斎と菊池容斎、日本の美術、No.325、至文堂、1993年。p.17-39, 45-80.
9) 佐藤、同上、p.66, 78, 86.
10) Menpes, op.cit., p.40.
11) ibid., p.40-41.
12) ibid.,p.41-42.
13) 佐藤、op.cit., p.76.
14) 山口静一、及川茂編:河鍋暁斎戯画集(岩波文庫)、岩波書店、1988年、2004年。p.296-297。
15) Menpes, op.cit., p.42.
16) ibid.
17) ibid.,p.42-44.; Fisher, op.cit.
18) Fisher, op.cit.
19) ibid.
20) Anderson, Ronald and Anne Koval: James McNeill Whistler, John Murray, 1994.p.402-410.
21) ibid.
22) Chilvers, op.cit., p. 97-98, 519.


ホイッスラーの作品を集めたサイト:ARTCYCLOPEDIA
http://www.artcyclopedia.com/artists/whistler_james_mcneill.html
 


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