No.51, May 2004

Art


ホイッスラーの美術論 (40)

ホイッスラーと印象派


 1882年の夏、ロンドンのセント・ジェイムズという画廊で、印象派の小規模な作品展がフランスの画商、デュラン=リュエルによって開かれた。この展覧会では、ドガ、メアリ・カサット、ルノワール、シスレー、モネらの作品が展示された。(1)

 ロンドンでは、翌年にもデュラン=リュエルによる印象派展が開催され、この時にはピサロ7点、ルノワール11点、シスレー8点、ドガとモネそれぞれ7点、モリゾ3点、マネ3点、メアリ・カサット2点が展示された。しかし、印象派の評価は相変わらず低いままであり、作品を買う人はいなかった。(2)

 印象派の画家たちは、ホイッスラーがロンドンで彼らの作品に対する好意的な雰囲気をつくりだしてくれることを期待していたが、ホイッスラーは冷淡であったという。(3)

 ホイッスラーは、この時期1883年の2月に、ファイン・アート・ソサイアティで、ヴェニスのエッチングの個展を開催し、自分の美術思想に注目を集めることにエネルギーを注いでいた。彼は、印象派への同調や、それに対する理解を促すことには関心がなく、自分独自の美術思想を広めることのみに熱中していたのだろう。

 ドガは、1872年にニューオーリンズへ旅行した際、途中ロンドンでホイッスラーに会った。そのときに、彼らは印象派の美術について考え方を述べ合ったようだという。その2年後、1874年に、ドガはホイッスラーに急ぎの手紙を書き、4月に写真家ナダールのスタジオで開催される無名作家の会のグループ展への参加を呼びかけた。この展覧会は、のちに第1回の印象派展と位置付けられるようになった展覧会である。(4)

 しかし、ホイッスラーは、ドガに返事を出さなかった。前年の1873年にパリのデュラン=リュエルの画廊に作品を展示したとき、あまり関心を示されなかったために、彼はパリでの展示に興味を持たなかったのだろうとみられている。また、その時期、1874年6月にロンドンで開かれる最初の個展の準備に彼は熱中していた。(5)

 この彼の最初の個展は、パトロンとなっていたレイランドがかなりの費用を負担して実現したと考えられている。ホイッスラーは展示スタイルや会場の装飾デザインに多大な労力と費用を注ぎ込み、それによって美術展の新しいスタイルを呈示し、ロンドンの美術界にショックを与えた(6)。

 美術展や住宅の装飾デザインに対する彼の関心は、その後、ピーコックルーム(1876〜1877年)や自宅のホワイトハウス、のちの個展会場のデザインなどへと発展していったが、このような彼の関心の抱き方は、彼が印象派とは異なった美術の方向を目指していたことを示しているといえる。

 ベンディックスは、ドガの誘いにもかかわらず、ホイッスラーが印象派のグループ展に参加しなかった理由について、「画家であると同時にデザイナーでもあることを誇りにしていたホイッスラーと異なり、印象派は画家主体であった。彼らの明るい、太陽の光に輝く外向的な美術は、内面的な心理状態を示唆するところがないか、あるいは微妙なニュアンスをもった展示環境を要求しないものであった。彼らの発足時の展覧会では、展示の状態あるいは展示の調和された美よりも、作品そのものに力点が置かれていた」(7)と書いている。

 1883年にファイン・アート・ソサイアティで開いた個展では、ホイッスラーは、会場の装飾デザイン、さらには会場案内者の制服まで白と黄色でアレンジし、注目を集めた。ロンドンに住んでいたルシアン・ピサロは、この個展を見て、印象派の指導者であった父カミーユ・ピサロに、その会場の装飾デザインについて報告した。そして、「ロンドンで作品を展示するなら、あなた方がパリでやったような会場にすることが大事です。そうすれば話題になり、来場者も増えるでしょう」(8)と助言している。

 「パリでやったような」とは、1880年の第5回印象派展を指しているようだ。この手紙で、彼は、「ホイッスラーは色彩を使った我々の展覧会のアイデアを取り込んでいる」とも書いているが、これは第5回展で試みられた色彩プランから影響を受けたとされたことを指しているという(9)。

 また彼は、「印象派はフランスの唯美主義者と思われている」とも書いており、同じアヴァンギャルドとして、印象派とホイッスラーはロンドンでの成功を競い合っていたのだとみることもできるだろう。

 しかし、1880年代の後半になると、ホイッスラーは、印象派との交流を持ちはじめた。1884年に、彼は英国画家協会という団体の会員になり、1886年に会長に選ばれた。その会員作品展の改革に取り組み、第1回展ではモネを招いた(10)。また、1887年には、印象派からの招待に応じて、パリのジョルジュ・プチ画廊で開かれた国際展に油彩、水彩、パステルなどの多数の作品を送った(11)。

 1898年には、彼は多くの美術作家たちとともに国際彫刻家・画家・版画家協会(ISSPG)という団体を組織して初代会長となり、同年にロンドンで開かれたその第1回展では、デュラン=リュエルの協力も得て、印象派の作品多数を展示することに成功した。(12)


(写真は、Denvir, Bernard ed.: The Impressionist At First Hand, Thames and Hudson, 1987.reprinted 1991)

Notes

1) Denvir, Bernard ed.: The Impressionist At First Hand, Thames and Hudson, 1987(reprinted 1991), p. 135. (訳書:末永照和訳、デンヴァー、バーナード:素顔の印象派、美術出版社、1991年)
2) ibid., p. 140.
3) Pool, Phoebe: Impessionism, Thames and Hudson, 1967(reprinted 1991), p. 252.
4) Bendix, Deanna Marohn: Diabolical Designs; Paintings, Interiors, and Exihibitions of James McNeill Whistler, Smithsonian Institution Press, 1995, p.212.
5) ibid., p. 213.
6) ibid., p. 214.
7) ibid., p. 213.
8) Denvir , op.cit., p. 140.
9) デンヴァー, op.cit.,p. 212(末永照和訳注)
10) Bendix, op.cit., p. 241.
11) ibid., p. 248.
12) ibid., p. 258.

ホイッスラーの作品を集めたサイト:ARTCYCLOPEDIA
http://www.artcyclopedia.com/artists/whistler_james_mcneill.html
 


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