No.50, February 2004

Art


ホイッスラーの美術論 (39)

オスカー・ワイルドの唯美主義

 オスカー・ワイルドは、オックスフォード大学の学生であった時期からホイッスラーに関心を抱いていた。彼はロンドンに部屋を持っており、そこで油絵を描き、ホイッスラーをまねて蝶の形の署名を描きこむようなこともしていたという(1)。

 1877年4月30日には、ホイッスラーとラスキンの紛争のきっかけになったグロヴナー画廊での第1回展覧会の内覧会を訪れた。さらに翌5月1日の開会日には、チェロの形に似せた奇抜なスタイルの新調のコートを着て会場に現れ、人々を驚かせた。このときの彼の行動は、「展覧会で美術批評家の役を演じるための最初のリハーサル」であった。リチャード・エルマンは、ワイルドの伝記で、そう書いている。この展覧会が開かれたとき、ワイルドは、すでにホイッスラーと知り合いになっていたようだ。(2)

 この展覧会の批評を、ワイルドは、『ダブリン大学雑誌』に発表した。刊行された最初の散文であったこの批評で、彼がホイッスラーの力量を示す作品としてあげたのは伝統的な手法で描いたカーライルの肖像画であったという。斬新な手法で描いた俳優ヘンリー・アーヴィングの肖像画やノクターンには戸惑いをみせ、ラスキンが酷評した《黒と金色のノクターン:落ちる花火》については、「実際の花火を見ている間だけ、すなわち十数秒の時間をかけて見る値打ちしかない」と冗談を述べた。美術批評家を気負う23歳のワイルドが優れた作品として受け止めたのはラファエル前派の画家たちの作品であり、ホイッスラーの作品ではなかったのである。(3)

 この展覧会は、ロンドンに住むアメリカ人作家のヘンリー・ジェイムズも見て、批評を書いた。彼もホイッスラーの作品を理解することはできず、「彼がホイッスラーの偉大さを認めるまでには、それから20年ほどを要した」とエルマンは書いている。(4)

 その後、ワイルドは、展覧会場やパーティ会場での奇抜な服装、警句、逆説などによって人を驚かせ、魅了するようになり、唯美主義者として新聞や雑誌の話題にされ、さらにパロディ劇の題材にもされるようになった。1877年12月に上演された『バッタ(Grasshopper)』というパロディ劇は、グロヴナー画廊での展覧会を舞台にとり、ワイルドやホイッスラーに擬した人物を登場させているという(5)。

 1878年に大学を卒業すると、ワイルドはロンドンへ出て詩や戯曲を書くようになった。ホイッスラーとの交友も頻繁になったようだ。しかし、彼は、依然としてホイッスラーの美術思想には戸惑いを見せていた。

 ラスキンとの裁判のあと、ホイッスラーが自宅を競売に付した時期である1879年5月に、ワイルドが書いた美術批評がダブリンの新聞に掲載された。この批評でも、ワイルドがホイッスラーの作品以上に賞賛したのはラファエル前派のバーン=ジョーンズの作品であったという(6)。彼の唯美主義は、ラスキンの道徳観をもった唯美主義、ルネッサンスに傾倒したペイターの唯美主義、物語的な要素を持つラファエル前派の唯美主義などであったのだろう。

 1882年末から、ワイルドは興行としてアメリカへ講演旅行にでかけ、イギリスの新しい唯美思想をアメリカの人々に伝えた。最初の講演の題目は、「イングリッシ・ルネッサンス」であった。この講演で、彼はペイターやラスキン、さらにラファエル前派やホイッスラーの美術思想について語った。(7)

 その後、美術思想を生活の中にどのようにいかしていくかという関心に応えるために、「装飾的美術」、そしてのちに「美しい家」という題が付けられるようになった講演もするようになった。「装飾的美術」は、ラスキンとモリスを多く例としてあげ、手工芸品の讃美などを内容とし、「美しい住宅」は室内装飾や服装に関する彼の批評を寄せ集めた内容のものであったようだ。(8)

 アメリカ講演旅行は、4月までの予定にされていたが、好評であったために延長され、1年間に及んだ。この間、ワイルドは、早くロンドンへ帰りたいと思ったりもしていたが、7月には、ホイッスラーに宛てて、日本をいっしょに旅行し、日本についての本を共著で書こうという提案を送った。しかし、ホイッスラーからの返事はなく、この思いつきは実現しなかった。(9)

 1883年はじめにアメリカから帰ってしばらくすると、ワイルドはフランスへ旅行し、帰ってくるとイギリス国内での講演活動を企てた。その準備中に、彼は招かれてロイヤル・アカデミーの学生を聴衆として美術論をテーマに講演を行った。その内容について、ワイルドはホイッスラーから示唆を与えられたが、基調にされたのは、やはりラスキンの美術思想であったという(10)。

 イギリス国内での講演旅行の題目は、「アメリカの個人的な印象」と「美しい家」であった。7月にロンドンで行われた最初の講演では、「アメリカの個人的な印象」が語られ、ホイッスラーも聞いた(11)。その後8月から10月に掛けてワイルドは、自分の劇作が上演されるニューヨークへ行き、帰国後11月からは、「美しい家」を題目にした講演も始めた(12)。

 1884年12月にワイルドは婚約し、翌年5月に結婚した。結婚してから住むことになる家の改装の監督を、彼はホイッスラーに頼もうとしたが、ホイッスラーは意地悪く、「“美しい家”について講演しているのだから、それがどういうものなのか、君自身が手本を示すことのできる良い機会だ」といって断ったという。しかたなく、ワイルドはゴドウィンに依頼した。(13)

 ワイルド夫妻の新婚旅行先はフランスであった。夫妻が訪れたとき、その2週間前の5月半ばには、「デカダンスのガイドブック」と評されようになったジョリス=カルル・ユイスマンスの『さかしま(A Rebours)』(14)が刊行され、文学界に衝撃を与えていた。エルマンによると、ポール・ヴァレリーは、この小説を「バイブル、そしてベッドサイドの書」と評したとのことであるが、ワイルドにとってもそうなったという(15)。また、この本と出合ったことによってワイルドは同性愛の衝動を呼び覚まされたのではないかという見方があることも紹介している(16)。

 のちに書かれた『ドリアン・グレイの肖像』(1890年)で、著者自身、また彼の同性愛の相手であった貴族の青年アルフレッド・ダグラス卿と重なってみえるドリアンがヘンリー卿から渡されて読み、「生まれる前に書かれたかれ自身の伝記であるかのようにさえ」(17)思う「有害な」パリの本のモデルにされたのも、この小説であったのではないかと考えられている。(18)

 『さかしま』との出合いによって、ワイルドの唯美主義は、ラスキンやペイター、ラファエル前派に傾倒したものから、デカダンスの毒を含んだものへと変わろうとしていた。

(写真は、Ellmann, Richard: Oscar Wilde, Penguin Books, 1988.)

Notes

1) Ellmann, Richard: Oscar Wilde, Penguin Books, 1988.p. 32.
2) ibid., p. 75.
3) ibid., p. 77.
4) ibid.
5) ibid., p. 128.
6) ibid., p. 126.
7) ibid., p. 149-150.
8) ibid., p. 183-184.
9) ibid., p. 177.
10) ibid., p. 225.
11) ibid.
12) ibid., p. 230.
13) ibid., p. 234.
14) ユイスマンス、J・K:さかしま(澁澤龍彦訳)、河出文庫、2002年。
15) Ellmann, op.cit., p. 237-238.
16) ibid., p. 238.
17) ワイルド、オスカー:ドリアン・グレイの肖像、福田恆存訳、新潮文庫、1992年。p. 189.
18) Ellmann, op.cit., p. 238.

ホイッスラーの作品を集めたサイト:ARTCYCLOPEDIA
http://www.artcyclopedia.com/artists/whistler_james_mcneill.html
 


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