ホイッスラーの美術論 (37)
ヴェニスへ(6)
最初のヴェニス報告ともいえる12点のエッチング作品の展覧会を1880年12月に開催したのに続いて、ファイン・アート・ソサイアティとホイッスラーは、翌年1月の終わり頃にパステル作品の展覧会を開催した。この展覧会には、ヴェニスで描かれた約100点のパステル画作品から53点が選ばれて展示された。(1)
12月29日の内覧会のあと新聞や雑誌に出た評はさまざまであった。ホイッスラーが破産した後、彼の家を購入した美術評論家のハリー・クィルターは、『ザ・タイムズ』紙に掲載された評で、「これらの作品は、より精確に言えば、黒のチョークによるスケッチにクレヨンで彩色したものである」と述べ、真のパステル画は下地にも色チョークが塗られたものであると定義されるという考え方を表明した(2)。
茶色の紙の色を下地に使うことは、パステル画では普通に使われる方法であったが、パステル画になじみの少ないロンドンでは、「塗り残し」に戸惑いが感じられたのだろう。
「クレヨンは、美術表現のきわめて望ましい方法であるとはこれまで考えられていない」と、パステルという方法に疑問を呈した評もあった(3)。また、風刺を売り物にしている『パンチ』は、「安物の彩色道具」や「ジャムの瓶の包装紙」のようなものを使ってこんなことができるのだから、もっとよい材料を使えば、間違いなくもっと良いものが描けただろう、とホイッスラーは言っているようである、とパステル画の軽さを強調した記事を掲載した(4)。
これらの評のように、パステルは習作やスケッチに使われる方法であり、それによる作品を本格的な作品としてとらえるべきではないという考え方をとれば、たしかにホイッスラーの作品はスケッチであった。しかし、これらの評に欠けていたのは、安価な作品を安価な作品として評価する考え方であったともいえる。
保守的な立場に立てば、安価な美術作品として、すでに地位が確立されている版画は受け入れることができても、なじみの少ないパステル画には強い抵抗感や戸惑いが感じられるのは当然のことであったに違いなかった。
しかし、美術に関心を持つ層が広がるにつれ、安価な絵に対する需要は高まっていた。ファイン・アート・ソサイアティもそうした需要に注目していたはずである。安価に供給しようとする作品に、油彩作品のような重厚さを期待するのは無理なことであった。
茶色の紙の色を下地として生かした軽快感、確かな描写力、洗練された色使い、そしてホイッスラーの肉筆であるのに安い値段で買えることなど、ホイッスラーのパステル画には大きな魅力があった。ロンドンの美術愛好家は、そうした魅力を見逃さなかった。
1点当たり20〜60ギニー(1ギニーは1.05ポンド)の値段が付けられた作品は、初日に400ポンド分が売れ、総計では1800ポンドに達した(5)。ファイン・アート・ソサイアティでほぼ同時期に開催されたラファエル前派の大家ジョン・エヴァレット・ミレーの展覧会での彼の受け取り額は2141ポンドとされており(6)、それに比べると少ないが、ホイッスラーのパステル画の売れ行きもかなりのものであったとみることができる。
ホイッスラーのヴェニスの作品の展覧会は、その後も続き、1883年2月には、80年の展覧会に展示されなかったエッチング作品を集めた展覧会が、同じようにファイン・アート・ソサイアティで開催された。この展覧会の内覧会にはプリンス・オブ・ウエルズ夫妻も訪れた。(7)
さらに1884年と86年にも、ダウデスウエルという画廊で合計3回のエッチング作品の展覧会が開催され、86年には同画廊と共同企画者のティバドーによって『26点のエッチングのセット』(セカンド・ヴェニス・セット)と題名をつけた版画集が刊行された。(8)
ホイッスラーのヴェニスの作品展が、このように何度も開催され、版画集も2巻刊行されたことは、ホイッスラーがロンドンで高い評価を得ていたということだけでなく、人々のヴェニスへの強い憧れ、また安価で入手できる版画やパステル画に対する人気の高まりにもよっていたのだろう。
(写真は、Pearson, Hesketh: The Man Whistler, Harpers and Brothers, 1952)
Notes
1) MacDonald, Margaret F.: Palaces in the Night, Whistler in Venice, University
of California Press, 2001., p.99.
2) ibid., p.101.
3) ibid.
4) ibid., p.108.
5) ibid., p.101.
6) ibid., p.107.
7) ibid., p.111-117.
8) ibid., p.115-125.
ホイッスラーの作品を集めたサイト:ARTCYCLOPEDIA
http://www.artcyclopedia.com/artists/whistler_james_mcneill.html
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