No.45, June 2003

Art


ホイッスラーの美術論 (34)

ヴェニスへ(3)

 ヴェニスへの旅は、ホイッスラーにとって不本意なことであったようだ。それは、金に困って、仕方なく出発しなければならない旅であったのだろう。彼にとって、描く対象はいわば二次的なものであり、いかに描くかということが重要であった。対象を求めてヴェニスへ旅するよりも、できれば彼はロンドンにとどまって画法の追求に没頭していたかったのだろう。

 ヴェニスに着いてしばらくたった後、彼は、義姉のヘレンに宛てた手紙でこう書いている。

「雪も降りはじめたので、自分の愛するロンドンの霧のもとへ帰れたらと思いはじめています!なんと美しいロンドンの霧―私は、それを描く画家なのです!」(1)

 彼は、ロンドンの中心街の賑わいも恋しがっていた。

 そうした気持ちは、寒さだけでなく、貧しさによっても促されたにちがいない。彼が、ファイン・アート・ソサイアティのヒューイッシから受け取った前払い金は150ポンドであった。彼の義兄であり版画家であったヘイデンが、同時期に、エッチング2点の依頼を1500ポンドで受けていたことなどから考えると、ホイッスラーに渡された額は、屈辱的ともいえるものであった。(2)

 わずかな金しか持たない貧しい画家として、彼は、あとからきた内妻のモード・フランクリンと共にリオ・サンバルナーバのドルソデューロというところに住んだ。(3)

 モード・フランクリンは、額縁なども作る家具製造業者の若い娘で、ホイッスラーは彼女をモデルとして好んでいた。ホイッスラーのリンゼイ通りの家に一緒に住んでいた母アンナが、病気療養のためにその家を1875年に離れた後、彼女はその家でホイッスラーと共に暮らすようになった。(4)

 1875〜76年頃に描かれた肖像画をみると、彼女は繊細な体形の美しい女性であったようだ。1879年2月に、モードは女児を出産した。

 ヒューイッシから依頼されたヴェニスでの仕事は、3ヵ月間の滞在でヴェニスの風景のエッチング12点を描くことであったが、ホイッスラーはなかなか取りかかることができなかった。まず描くべき風景を探さなければならなかった。雪が降るなかで、振るえながら銅板に向かうことも難しかった。そこで、彼がまず取りかかったのはパステル画を描くことであった。(5)

 パステル画は、18世紀以来、特にフランスで習作に使われる技法として好まれていたが、ホイッスラーも1860年代から習作の技法として使うようになった。1970年代には、レイランド夫人の坐像などを描いている。アルバート・ムーア、レイトン、バーン=ジョーンズら、彼と同時代の画家たちもパステル画を描いた。(6)

 1年2カ月のヴェニス滞在中に、ホイッスラーは約100点のパステル画を描いた(7)。パステル画は、エッチングにとりかかる前の準備になったし、道具や材料を欠いて油彩を描くことが難しい状況の中で色彩の探求を可能にした。

 ホイッスラーは、茶色の表面の粗い紙を好み、それにパステルとチョークを使って描いた。マクドナルドの著書(8)に集められた作品をみると、多くは紙の地色を生かしており、黒の描線によるスケッチをベースとして、要所に彩色している。

 描線をしっかりと描いて鮮やかな空の色を彩色した街中の風景、軽快な配色を感じさせる路地や運河縁りの風景、描線をほとんど目立たないようにして微妙な色合いによる表現を生かした夕暮れ時の遠景、ビーズを編む女たちが集う古色を帯びた路地の風景、ゴンドラのシルエットなど、彼はヴェニスの様々な風景を異なった方法で描き、パステル画の可能性を追求した。

 彼がエッチングに取りかかったのは、ヴェニスへ着いた後、何カ月かが過ぎてからであるとみられているが、最初の頃の作品で、彼は、暗い通路にたたずむ物乞いの母子を描いている。モデルを使ったと考えられているが、貧しい生活を強いられていた彼は、栄華を享受したのち衰退していく都市の暗い陰の中に立つ貧しい母子のイメージに、哀愁を呼び起こされたのだろう。同じような構図のパステル画も描いている。(9)

 この作品は、風俗画(ジャンル・ペインティング)とみなされる。当時、ドイツ、スペイン、ロシアなどから移り住んで来ていた画家たちや地元の画家が、ヴェニスの特異な都市風景の中で生活する人々の姿を好んで描いていた。ホイッスラーは、彼らと知り合いになって刺激を受けたのではないかと考えられている。(10)


(写真は、MacDonald, Margaret F.: Palaces in the Night, Whistler in Venice, University of California Press, 2001.)

Notes

1) MacDonald, Margaret F.: Palaces in the Night, Whistler in Venice, University of California Press, 2001., p.141.
2) ibid., p.16-17.
3) ibid., p.19.
4) Anderson, Ronald and Anne Koval : James McNeill Whistler, John Murray, 1994.p.202-203.
5) MacDonald, op.cit., p.25.
6) ibid., p.37.
7) ibid., p.11.
8) MacDonald, op.cit.
9) ibid., p.21-22.
10) ibid., p.22-23.

ホイッスラーの作品を集めたサイト:ARTCYCLOPEDIA
http://www.artcyclopedia.com/artists/whistler_james_mcneill.html
 


Count
Copyright (C)2003 Hideo Nogami


HOME