No.43, April 2003

Art


ホイッスラーの美術論 (32)

ヴェニスへ(1)

 1879年9月18日、ホイッスラーは、パリからヴェニス行きの夜行列車に乗った。ヴェニスの風景を描いたエッチングを製作するためであった。破産したあと、新たな活動を開始して収入を得ることを迫られていた彼に、その仕事を与えたのは、ファイン・アート・ソサイアティという画廊のマーカス・S・ヒューイッシであった。彼は、ホイッスラーに、エッチング12点の製作を依頼した。(1)

 ファイン・アート・ソサイアティは、ホイッスラーのノクターンを展示してラスキンの批判を呼び起こしたグロブナー・ギャラリーと同じように、1870年代に開設された新しい画廊であった。ヒューイッシは、弁護士から転じてこの画廊の経営者になり、ロンドンの美術界で活発に活動していた。その後、1881年から93年まで、彼は、『アート・ジャーナル』という美術雑誌の編集長を務め、さらに東洋美術に造詣を深めてジャパン・ソサイアティの会長に就き、『日本とその美術』という本も著した。(2)

 ヒューイッシは、ホイッスラーとラスキンの裁判の後、ラスキンの訴訟費用を援助するために募金活動を組織した人物でもあった。裁判が行われた1878年の3月から夏にかけて、ファイン・アート・ソサイアティで、ラスキンの所有するターナーの作品や関連するラスキン自身の絵画作品の展覧会が開かれた。この展覧会は数千人が来場し、カタログも13版を重ねるほどの盛況であった。彼が、裁判の終了後、いち早く募金運動を始めたのは、この展覧会によってラスキンから大きな恩恵を受けたからであった。また、彼はラスキンの所有するターナーの作品を買い取ることにも関心を抱いていたのではないかとみられている。(3)

 そのファイン・アート・ソサイアティが、ホイッスラーにヴェニスの風景の版画製作を依頼したのは、ホイッスラーがヴェニスや版画の出版に関心を持っていることを、仲介者がヒューイッシに伝えたからであったが、ヒューイッシはヴェニスというテーマにも引かれたのだろう。ファイン・アート・ソサイアティは、それまでにもイタリア、エジプト、ヴェニスなどの風景を描いた他の画家の作品を手がけていた(4)。エキゾチックとされたこれらの場所の風景画は、「売れる絵」であったのだろう。

 エキゾチックな風景画が、売りやすいものであったとすれば、それは、人々が旅に憧れていたからであった。

 海外への旅さえもが日常的なレジャーになり、また画像技術の発達によって地球のあらゆる場所の風景を自分自身で手軽に再現できるようになった現代では、風景画も一つのオブジェとみなされる傾向が強い。しかし、当時、風景画は旅の回顧や旅への憧れを媒介する画像として求められることも多かったのではないかと考えられる。

 イギリスの富裕な階層のあいだには、特にイタリアの風景に対して強い憧れがあったようである。そうした憧れが形成されていくうえで発端となったのは、グランドツアーであった。

 17世紀後期から18世紀初期にかけて、貴族の子弟教育の重要な一環として流行したグランドツアーは、リチャード・ラッセルズによって、1670年刊行の『イタリア旅行記』で提唱された教育理念である。彼は、グランドツアーというフランス語を用い、紳士階級の若者が人格形成の資とすることを目的としてフランスやイタリアを旅行することを推奨した。十分な富を蓄積して、旅行に多大な費用をかけられるようになり、国際的な教養を身につけることも必要になっていた貴族階級は、その考え方を受け入れて子弟をヨーロッパ旅行に送り出したのである。(5)

 貴族の子弟たちは、オックスフォード大学やケンブリッジ大学を卒業したあと、家庭教師や従者たちに伴なわれ、各国の史跡・芸術作品などを見たり、宮廷を訪問しながら、1〜5年をかけてヨーロッパ諸国を旅行した。旅程で最も重点が置かれたのは、パリとイタリアの訪問であった。パリでは洗練を学び、イタリアではローマの史跡やルネッサンスの功績を見て、ローマ帝国の偉大さとその再生に思いを馳せることが求められたのだという。(6)

 グランドツアーは、人格形成のための旅という理念を提唱したという点で、近代社会に対して大きな影響力を及ぼした教育思想であったといえる。わが国の修学旅行も、おそらくこの教育思想の影響を受けているのではないかと考えられる。

 また、グランドツアーは、レジャーとしての旅の発端ともなったのだろう。長期の旅は様々な歓楽に彩られたに違いない。それは、レジャーとしての旅行が発見されたということでもあった。

 旅が、人々によって強く追い求められるレジャーになっていく過程で、貴族階級に続いて積極的に旅に出ようとしたのは芸術家たちであった。彼らは、異国の自然、文化風習や芸術作品に強い関心を抱くと同時に、それら旅の経験が作品の素材として大きな価値を有することを知ったのである。

 そのような意味で、彼らにとって、旅は作品の受け手の欲求によって促された行動でもあったといえる。旅の経験やそれに対する欲求が拡散するにつれ、旅の回顧や旅への憧れを媒介するものとしての芸術作品が求められるようになったのである。

 ローマの遺跡などを配した風景画を描いたクロード・ロランの作品は、グランドツアーが流行していた17世紀後期から18世紀にかけてのイギリスにおいて非常に好まれた絵画であった。イギリスでは、グランドツアーを経験することによって、クロード・ロランの作品がよりよく鑑賞できるようになるといわれていたのだという(7)。グランドツアーを経験した貴族たちにとって、クロード・ロランの絵は、旅の思い出を導き出す媒体でもあったのだろう。

 ヴェニスやローマの風景を描いた18世紀のヴェニスの画家、カナレットの作品もイギリスで大変好まれたが、そうした好みもイタリアへの憧れや旅の回顧に根ざしたものであったのだろう。

 ターナーは、クロード・ロランから大きな影響を受けた理想風景の作品を多く描いているが、また一方で、ヨーロッパ諸国や英国内の地誌的な水彩画作品も多く描いている。彼のこのような作品は、美術の愛好だけでなく、旅の愛好という面からの要求にも合致していたのではないかと考えられる。

 ターナーが水彩の風景画を描き始めたのは1780年代の後期からであるが、すぐに注文が殺到するようになった。初期の注文主には何人かの貴族がいたが、彼らが好んだのは、ターナーに自分たちの城や領地の風景、また自分たちが訪れたことのある土地の風景を描いてもらうことであった。(8)

 19世紀に入ると、ターナーの水彩画を求める層は、馬車製造、証券取引、外科器具製造といった様々な事業によって富を蓄えた新興富裕階級ヘと広がっていった。1803年にはターナーは20年分の注文を抱えるほどになっていたという。ターナーは、一度に多数の作品を並行して描くことによって水彩画を量産し、拡大した要求に応じた。また、彼は版画も積極的に売った。版画は彼が直接描くのではなく、彼が描いた水彩画をもとに版画職人が製作した。(9)

 こうした地誌的な絵画や版画の素材を得るために、ターナーは、1791年以来、英国内やヨーロッパ諸国を56回も旅行している。それらの旅の途次、彼は鉛筆で多数のスケッチを描いた。彼が残したスケッチブックは300冊以上にも上っており、それらに描かれているスケッチや習作は1万点以上にも達しているという。彼は、ロンドンへ戻ってから、それらのスケッチをもとに多くの風景画を描いたのである。(10)

 ホイッスラーが、ヴェニスへ旅立とうとしていた19世紀の後期、ロンドンでは、旅行は人々の強い欲求になっていた。

 1825年9月27日、イングランド北部のストックトン・ダーリントン間で最初の鉄道が開通すると、鉄道は急速に発達し、1836年にはイギリスの鉄道総延長は3000kmを超えた。ヨーロッパ諸国でも鉄道の発達は急速であり、フランスでは1858年に鉄道総延長は8769kmに達した。1846年には、ヴェニス・イタリア本土間も鉄道によって結ばれた。

 こうした交通の発達は、旅行に対する新たな欲求を呼び起こした。1835年には有名なドイツのカール・ベデカーの旅行案内書、その2年後には、イギリスのジョン・マレーの旅行案内書の刊行が始まった。また、1842年にはP&O汽船によるエジプト旅行が流行になった。

 イギリスのトーマス・クックが、1841年に、英国中部のレスターで開催された禁酒大会の参加者のために公募団体列車を運行させ、570人の団体旅行を実現させたことも旅行史の画期的な出来事であった。トーマス・クックは、1851年のロンドン万国博覧会の際にも団体列車を運行させた。

 そして、ホイッスラーがヴェニスを訪れた1879年には、イギリス人にとって、イタリアはすでに列車に乗って訪れることのできる国になっていた。

 イタリアの中でもヴェニスの風景は、イギリス人たちの心を最も強く魅了していたようである。彼らのその好みを形成したのは、カナレットやターナーの作品であり、また、ラスキンの『ヴェニスの石』であったのだろう。

 そうしたヴェニスへの憧れの根底にあったのは、都市の壮麗さや建築美に対する賛美の念であったのではないかと思われるが、そうであったとすれば、ヴェニスを描いた風景画とは、建築美の再現を試みたものではなかったのかとみることもできる。しかし、それらは、何よりも美術作品であると同時に名所の再現画像であったのだろう。

 そのような意味で、ターナーの地誌的な水彩画や版画と、わが国における歌川広重の《東海道五十三次》が、製作年代をほぼ同時期にしていることは興味深い。19世紀になって、イギリスやわが国では、人々のあいだに旅行の経験や旅行への憧れが増し、それに伴なって地誌的な画像が強く求められるようになったのだろう。そうした要求は版画によって広く満たされるようになり、やがて絵葉書によってさらに広く安価に満たされるようになったのであるといえる。

 ヴェニスの風景を描いたエッチング12点の製作をホイッスラーに依頼することによって、ファイン・アート・ソサイアティのヒューイッシはヴェニスの風景画に対する人々の求めに応えようとしていたのだろう。エッチングにおけるホイッスラーの技量は、《フレンチセット》や《テームズセット》によって認められていた。

(写真は、『イタリアの光り――クロード・ロランと理想風景』展カタログ、幸福輝・小針由紀隆編、国立西洋美術館・朝日新聞社発行、1998年)

Notes

1) MacDonald, Margaret F.: Palces in the Night, Whistler in Venice, University of California Press, 2001. p.11.
2) ibid., p.11-12.
3) Hilton, Tim: John Ruskin, The Later Years, Yale University Press, 2000. p.399, 391.
4) MacDonald, Margaret F., op.cit.,p.12.
5) Buzard, James: The Grand Tour and after (1660-1840), in The Cambridge Companion to Travel Writing (ed. by Peter Hulme and Tim Youngs), Cambridge University Press, 2002. p.38-40.
6) ibid.
7) コルバン、アラン:風景と人間、小倉孝誠訳、藤原書店、2002年。p.111.
8) Shanes, Eric: J.M.W. Turner: The finished watercolour as high art in Turner, The Great Water Colors (Shanes, Eric et al.), Royal Academy of Arts, 2000. p.11.
9) ibid., p.11-13.
10) ibid., p.14.

ホイッスラーの作品を集めたサイト:ARTCYCLOPEDIA
http://www.artcyclopedia.com/artists/whistler_james_mcneill.html
 


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