ホイッスラーの美術論 (31)
ホイッスラー対ラスキン(12)
昼の休憩が終わると、裁判長のハドルストンによって陪審員への説示が行われ、評決に際して考慮されなければならない要点が整理して示された。
その説示で、ハドルストンは、ラスキンの批評がホイッスラーを侮辱し、嘲弄するものであったことは容易に認められることであるが、それが被告側が主張するように公正で真実に根ざしたものであったかどうかがまず問わなければならないと述べた。過去の判例からすると、批評家には大きな権利が与えられており、公正で真実に根ざしていれば嘲弄するような強い言葉を使うことも許されるというのが彼が示した考え方であった。(1)
ラスキンが使った言葉が、公正で真実に根ざしていたかどうかを判断するうえでの材料として、ハドルストンは、ホイッスラーが独自の美術思想を持っていること、証言した画家や批評家が彼の才能を賞賛していること、ラスキンが激しい攻撃的な言葉を使って批評する傾向を持っていることなどを挙げた(2)。判断するのは陪審員であるとしながらも、彼は、ラスキンの使った言葉は許される範囲を超えていたのではないかということを示唆したようであった。
しかし、たとえラスキンの批評が名誉毀損に当たると判断されたとしても、それによって生じた損害についての判断もなされなければならないと述べ、彼は3つの要点を示した。まず、侮辱がなされたとして、それが賠償に相当するものであるかどうか、次に、法廷に持ち込まれるべき性格の問題ではなく、単に取るに足らないような損害だけが問題となり、たとえば1ファージング(4分の1ペニー)の損害というようなことになるのではないかということ、そして3つ目として、法で許される範囲を超えたことがなされたために、いくらかの損害賠償が必要になるのではないか、という3つの考え方を彼は示した。(3)
こうした説示を受けたあと、陪審員たちは、別室にこもって討議した。最終的に彼らが下した評決は、「原告の主張を認め、損害額は1ファージングとする」というものであった。この評決のあと、訴訟費用の負担について、原告側と被告側の間で応酬があったが、裁判長は、この評決には、訴訟費用はそれぞれが負担するという意味が含まれているという解釈を示した。(4)
評決は、ハドルストンの説示によって導かれたものであったといえるが、陪審員たちは喧嘩両成敗の評決を下したのであった。陪審員たちは、名誉毀損があったとしても、それは大したものではなく、本来法廷に持ち込まれるような問題ではないと判断したということもできるだろう。
法の専門家にとっては、このような評決は、十分に予期できたのであろうが、争いの当事者たちにとっては、とまどうような結果であったのかもしれない。ホイッスラーは、評決が示された後、すぐにはその意味を捉えられず、しばらく呆然としていたと伝えられている(5)。それは、ラスキンの側にとっても同様であったに違いない。評決の意味は、よく考えてみてはじめてわかることであった。
まず、経済的な影響という面から考えると、双方の負担はそれぞれの訴訟費用の負担ということになり、同じであった。
ホイッスラーが得たのは名目的な勝訴であり、損害賠償を得ることはできず、それどころか訴訟費用の負担が生じるという結果になった。しかし、訴訟を起こしたのは彼であったから、その負担は予期されていたことでもあったろう。一方、ラスキンにとっては、訴訟によって予期していなかった負担が生じたのであり、その意味では、ホイッスラーがラスキンに打撃を与えたことになる。
また、名誉という面からみると、ホイッスラーにとって、評決は全面的ではないにせよ満足できるものであったようだ。しばらくしてから、彼は弁護士のローズに感謝の意を表した手紙を送っている(6)。しかし、ラスキンにとっては、損害賠償額が1ファージングという名目的なものであったにせよ、自分の批評が名誉毀損に当たると判断されたことは大きな痛手であった。彼は、この評決がなされたあと、「英国の法によって課税されることなく、自己の判断を表明できる権限を有さない職に就いていることはできない」と怒りを表明し、オックスフォード大学の教授職を辞任した(7)。
裁判官や弁護士、そして陪審員たちにとっては、この訴訟は単に名誉毀損をめぐってのいさかいであった。感情の行き違いのような問題であり、法廷に持ち込まれるべき問題ではないという受け止め方がされても不思議ではなかったといえるだろう。美術界でもそうした考え方は強かったようだ。しかし、ホイッスラーとラスキンにとっては、この裁判は、それぞれの美術思想をかけての争いであった。
芸術家や批評家が、自らの信念を強く持ち、それを守り、主張しようとするのは当然だろう。また、美術思想が、国家や国民の文化的価値や大きな経済的価値と強い関係を持っていたことからすれば、それをめぐっての争いが、政治思想をめぐる争いのような激しさを伴うことがあるのも当然であった。
わが国では、1897年から翌年にかけて、東京美術学校を舞台に日本画派と洋画派の間で争いがあった。東京美術学校の争いでは校長の岡倉天心をリーダーとする日本画派が辞職を強いられたが、このときは天心の人格を誹謗する文書がばらまかれたほどの激しい争いであった。
ラスキンとホイッスラーの争いの根底にあったのも、美術思想の対立であった。それは単に名誉毀損といったことではなく、ラスキンは自分の美術思想を主張し、守るためにホイッスラーを攻撃し、ホイッスラーはそれに反撃するために訴訟を起こしたのである。
ラスキンのホイッスラーに対する批判は、名誉毀損の訴訟を呼び起こすほどに強いものでなければならなかったし、ホイッスラーの反論も訴訟を起こさなければならないほどに強いものであったのである。
この訴訟の経過は新聞や雑誌で広く伝えられ、ホイッスラーにとって、自分の美術思想を表明するということでは大きな意味を持った。しかし、経済的には大きな痛手となった。彼は、ホワイトハウスの建設で大きな負債を抱え、その新しい邸宅はすでに差し押さえられていた。そのうえに訴訟費用260ポンドという新たな負担を背負い込んだのであった(8)。ラスキンの周辺では、裁判が終わると、400ポンドに上った訴訟費用を援助するために、すぐに募金運動がファイン・アート・ソサイアティーという画廊のマーカス・ヒューイッシによって開始され、まもなく訴訟費用を超える額が集められた(9)。しかし、ホイッスラーに対しては、激励の手紙は多く届いたものの、訴訟費用の援助は、ナショナル・ギャラリーのある理事から25ギニーというわずかの額が寄せられた(10)だけであった。
翌年の1879年5月8日、ホイッスラーは4500ポンドの負債を抱えて破産を宣言した。ホワイトハウスや彼が買い集めた日本の陶磁器、手元に置いておいた自分の作品などはすべて競売に付された。
(写真は、Ruskin, John: Unto This Last and Other Writings, Ed. by Clive
Wilmer, Penguine Books, 1997.表紙に使われているのは、ロレンツェッティによるシエナ公会堂のフレスコ《善政》の部分)
Notes
1) Merrill, Linda: A Pot of Paint, Aesthetics on Trial in Whistler v. Ruskin,
Smithsonian Institution Press in conjunction with Freer Gallery of Art,
1992, p.188-190.
2) Ibid.,p.191-194.
3) ibid., p.194.
4) ibid. p.194-197.
5) ibid., p.203.
6) ibid. , p.204-205.
7) ibid., p.211.
8) ibid., p.275.
9) ibid., p.276.
10) ibid., p.206.
ホイッスラーの作品を集めたサイト:ARTCYCLOPEDIA
http://www.artcyclopedia.com/artists/whistler_james_mcneill.html
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