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ホイッスラーの美術論 (3)
ホイッスラーが、冒頭から激しい言葉で槍玉にあげた唯美主義は、1870年代後半に始まった芸術運動であり、また文化流行でもあった。その運動あるいは流行は、ラファエル前派の芸術運動を引き継いでいた。ラファエル前派を主導していたダンテ・ゲンブリエル・ロセッティは、70年代後半になると不眠症とそれを克服するために服用していた薬物によって精神状態を悪化させていた。彼には、すでにラファエル前派を率いていく力はなく、美術界が彼に対して冷淡になる一方で、彼も美術界に敵対的な姿勢をとるようになっていた。
ロセッティが指導力を失ったことによってラファエル前派の芸術運動は崩壊し、唯美主義がその後継者になった。ラファエル前派の芸術運動は、工業の勃興に対する反発という強い動機によって中世に傾倒し、産業革命後の発展する社会から自分たちを隔絶するような高踏的な立場をとっていたが、唯美主義は、社会生活、人間生活の美化、そして「芸術のための芸術」という新しい思想を打ち立て、中流階級の上層に位置する階層の人々に強い影響力を持つようになった。
唯美主義の運動あるいは流行の中で、頂点に立っていたのは、ウィリアム・モリスとエドワード・バーン=ジョーンズであった。モリスは、社会生活、人間生活の美化という思想の実践者としては、先駆者であった。彼は、工芸家たちと共同で、すでに1861年にモリス・マーシャル・フォークナー商会を設立し、ステンドグラス、装飾タイル、家具、壁紙、絨毯、カーテン地の製作販売を手がけ、ラファエル前派の芸術家たちとは異なった立場をとっていた。また、バーン=ジョーンズは、画家として、ロセッティが占めていた主導的な位置を引き継いだ。
しかし、彼ら二人のさらに上には、オックスフォード大学スレ―ド講座教授のジョン・ラスキンがおり、美術界に対して強い影響力を保持していた。
オクスフォード大学にスレ―ド講座が開設されることになったのは、1868年である。医師共同組合の代理人であり、美術愛好家であったフェリックス・スレードが、オックスフォード、ケンブリッジ、ロンドン(ユニヴァーシティ・カレッジ)の3大学に美術の教授職を設けるために3万5千ポンドの遺産を寄贈した。ロンドンでは、その寄贈をもとに、スレ―ド美術学校が設立された。オックスフォードで、その講座の初代教授に推されたのは、大学の出身者であり、『近代画家論』の著作があり、ターナーの支持者であり、さらにラファエル前派の後見人でもあったラスキンであった。
ラスキンは、1870年からオックスフォード大学で講義を開始した。彼は、すでに60年代から社会改革に情熱を注ぐようになっていたが、その姿勢はオックスフォードの教授になってからも変わらなかった。彼は、大衆の美意識の向上に強い関心を抱き、文学作品の廉価版の刊行に取り組むかたわら、植物学や地学、事物の描写テクニックなどの分野に適切な教育的書物がないことに気づくと、自らそれらの著作を手がけたりもした。また、彼は、新聞などに頻繁に社会批評を寄稿した。
彼は、1871年には、『フォルス・クラビゲラ』というニューズレターの発行を開始した。これは、労働者階級の教育を目的としたものであったが、その中で、彼は乱雑な言葉を使って美術界の批判なども行った。
彼は、モリス、バーン=ジョーンズという唯美主義運動の中心的人物の上に立っていたが、一方で彼は唯美主義の流行を批判的にも見ていた。社会改革目指す彼にとって、「芸術のための芸術」という思想は、許せるものではなかった。1851年から53年にかけて刊行された『ヴェニスの石』でのゴシック精神の賛美に見られるように、彼が目指していたのは社会の美であり、作品の美ではなかったともいえる。彼にとって美は、まず山岳、植物、岩石などといった自然の中に見出されるものであり、さらに社会的に実現されるべきものであった。芸術は、それを描写するものでなければならなかった。
社会的な美の実現を目指したという点では、モリスもラスキンと同じであった。彼は工芸品の製作を通して日常生活の美化を実現しようと考えていた。しかし、彼らが製作する工芸品を購入できるのは富裕な階層だけであり、社会の美化という目的においてはほとんど無力であった。そのためにモリスは、70年代半ば頃からは、政治活動に情熱を向けるようになった。
そうした意味では、ラスキンとモリスは、唯美主義運動の道徳的指導者であったということができるだろう。しかし、芸術活動を道徳によって束縛することには限界があった。ラスキンの宗教的ともいえる信念にかかわりなく、「芸術のための芸術」を目指す唯美主義は70年代になると大きな流行になろうとしていた。
ホイッスラーは、ロセッティをはじめとするラファエル前派の画家たちと交友関係があったが、そのメンバーではなく、ラファエル前派の後継的な芸術運動である唯美主義運動からは隔たりをおいていた。しかし、その運動が流行の様相を呈し、「芸術のための芸術」という色合いが強さを増すにつれ、彼は最も注目される才能の一人になっていった。
講演の冒頭で、ホイッスラーが「美術が街にあふれています」と皮肉ったのは、ラスキンやモリスを指導者として仰ぐ唯美主義であり、「偽りの予言者」として彼が激しい言葉で非難したのはラスキンであった。
参考文献
本編は主に、Laver, James : Whistler, Faber and Faber, 1951.p.124-154.を参考にした。そのほかにAnderson,
Ronald and Anne Koval : James McNeill Whistler, John Murray, 1994.;五島茂編、世界の名著「ラスキン、モリス」、中央公論社、一九七九年、巻末年譜部分;ヘンダースン、フィリップ:ウィリアム・モリス伝、川端康雄・志田均・永江敦訳、晶文社、一九九〇年(原典発行一九六七年)などを参考にした。
(写真は、ラスキンの自叙伝であるRuskin, John:Praeterita, The Autobiography
of John Ruskin, Oxford University Press, 1978. paperback edition)
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