No.38, October 2002

Art


ホイッスラーの美術論 (27)

ホイッスラー対ラスキン(8)



 ラスキンが訴えられた時、エドワード・バーン=ジョーンズは、すぐに協力を申し出た。バーン=ジョーンズは、ラスキンを師として慕い、ラスキンも彼を誠実な画家として高く評価していた。ウィリアム・モリスも1878年に同じような申し出をしたが、彼とラスキンとの関係は、伝えられるほど親しいものではなかったといわれている(1)。

 ラスキンは、裁判を数週間後に控えた1878年11月2日になって、最終的にバーン=ジョーンズの申し出を受け入れ、協力を頼んだ。また、彼は、ウォルカー・マーティノー法律事務所に、バーン=ジョーンズを相談にあたっての中心的な人物とするように指示した。(2)。

 ホイッスラーの性格や画家としての特徴を把握することを目的として、ラスキン側の弁護士によって作成されたメモが残されている。これに記述されている情報は、バーン=ジョーンズの協力によって集められたのではないかという見方がされている。(3)

 このメモには、ホイッスラーが庭で絵を物干し用の紐に吊るして乾燥させていたことなどが書かれている。ホイスラーは、光沢を取り除くために行っていたのだと言っているが、この話は彼の乱作を示唆しようとする意図を持っていたのだろう。(4)

 また、メモは、ホイッスラーをエキセントリックな画家として茶化した喜劇『グラスホッパー』についても触れている。この喜劇は、ホイッスラーの了承のもとに作られ、1877年12月から翌年初めにかけて上演された。ホイッスラーにとっては、劇のモデルにされることは自己顕示の好みに合うことであったのだろうが、彼の不真面目さを示す事実として注目されたのだろう。(5)

 弁護士が作成したこのメモのほかに、バーン=ジョーンズ自身が書いたメモの写し(6)も残されている。このメモは、「ホイッスラーを真摯な人間と見なす者は、ほとんどいない」と強い調子で書き始められ、「ここ数年、彼は虚飾の芸術に関わり、準芸術的な面である程度の成功を収めたが、画家の間では、彼の虚栄と変わり者の性格は長く冗談のタネとなっている」と続けている。

 内部のメモとして書かれたにせよ、敵対的であり、画家としての専門的な証言というよりも、ラスキンの側に立ってホイッスラーと戦うというバーン=ジョーンズの意志を感じさせるものであるといえる。

 裁判の場では、バーン=ジョーンズは、ホイッスラーの才能に一応の理解を示すような証言をしたことが知られており、変節してラスキンを裏切ったというような見方さえされているが、このメモに綴られていることは、おそらく彼のホイスラーに対する偽りのない感情であったのだろう。メモには、さらに続けて次のように書かれている。

 「彼が最初に知られたとき、彼の作品には優れたところが多くあり、すべての画家が関心を持って彼の将来に期待した。しかし、彼が持つ資質はすぐに使い尽くされ、それ以上の期待がされなくなって久しい。実際、彼は、「真の」絵画を製作するのに「必要な」資質を欠いている。これまでのところ、彼がその欠点を克服しえないことは明確になっており、彼もそのことをよく知っている。悪評高くも、彼は、自分の芸術の尊厳に関する原則や意識を持つことなく、秀逸性に関する彼の低い基準が、ただ一つの望ましい基準であるかのごとく、絶えず熱心に人々に信じ込ませようとしている」。

 「彼が、あらゆる場所で絶え間なく、これまで何年間も、現存者、故人にかかわりなくすべての画家の作品を軽視し、彼自身だけが存在する唯一の画家であると何ら恥じることなく主張してきたことは冗談でもあるが、事実でもある。このことがそのとおりであるかどうかを彼に聞けば、彼は否定しようとしないだろう。それによって驚く人もいれば、それを信じる人もいるということを彼は知っており、この法螺吹きの価値を彼は徹底的に利用しようとしているのである」。

 「彼は、これまで、スケッチしか描いたことがない。多かれ少なかれ巧妙なものであり、しばしばばかげたものであり、ときにはまったく傲慢なものであるが、常にスケッチである。彼が、何かを完成させるという危険にかかわったことは一度としてない。絵画の難しさは、完成の問題の中にあるということをすべての画家が知っているからである。スケッチであれば何千人もの人々が巧みに描ける。アマチュアが画家のように器用に描くこともしばしばある。試練は仕上げである。仕上げにおいて、失敗の可能性は非常に高くなる。完成させ、当初の生気を失わないこと、それがすべての画家たちが目標にしているところであるが、期待通りになるとは限らない」。

 「このような厳しい条件から判断してホイッスラーが不完全な画家と見なされるべきであるということは、彼自身の問題である。しかし、この不完全さだけが達成するに値するものであると、彼が、弁論の能力を駆使してこれまで何年間か主張してきたことは、絵画自体、またすべての画家にかかわることである。ホイッスラー氏の理論と実践を示したような展示を黙って看過すれば、国の枠組に関する理想を喚起しようとしてきたラスキン氏の40年間の努力は不完全なままに終わってしまうことになるだろう。ホイッスラー氏の意図は、簡単に言うと、無能な者の派を築くことであり、古代、現代にかかわらず、すべての人間が目標とし、求めてきたいろいろな絵画の質に関して、価値のある絵画は一つとしてないということを声高に宣言することである。自分自身が生存する唯一の画家であるだけでなく、これまでに存在した唯一の画家でもあると、彼がロンドンでしばしば宣言してきたことは、秘密にされていることではない」。

 「一方で、彼の作品には巧みなアマチュアの作品に見られる良さがある。これは、鑑賞力があり、偏見を持たない者にとっては明らかなことであろうと思われる。しかし、彼の最近の作品が法廷に持ちこまれ、その値段が告げられるならば、すべてのことが冗談と化してしまうと思われる。彼の絵画作品には、他の画家のスケッチに見られるほどの労力も見かけられないことがしばしばある。彼は、このようなものによって、他の多くの画家が技巧を駆使して良心的に仕上げた作品に対して得ているものと同じものを求め、得ているのである」。

 「よくて下手な見せ掛けの行動といえるものへの雑な賛辞が芸術に持ちこんでいるスキャンダルを基盤にすれば、ホイッスラー氏の言辞は正当化されるであろう。ラスキン氏によって酷評されたような類の絵を、真摯な芸術作品として賞賛するように要請されたら、普通の知的な人は、冗談を言われていると考えるに違いないと思う」。

 「現在、ホイッスラー氏に多少の悪評が立てられていることの理由について長い説明は要しない。しかし、ラスキン氏のように芸術の問題を気に掛け、われわれにもたらされる作品を敬意を持って見ていながら、この無意味ななぐり描きを真の芸術であると見なすべきであると考える人がいるとするならば、ラスキン氏はペンを置き、賞賛と報いを得るために書くことは再びないだろうと私は思う。目的は芸術であるからである」。

 バーン=ジョーンズによるこのメモは、冗談まじりの誇張が明らかなホイッスラーの言辞をたびたび持ち出すなど、ホイッスラーに対する感情的な敵意に満ちているといえる。また、彼の保守的な心情を表してもいるのだろう。ラスキンと同様に、彼も、絵画の価値を費やした労力と強く関連づけてとらえていた。彼は、ホイッスラーと同じように近代派と見なされていた画家であったが、精緻な仕上げを重視し、それから離れられなかったという点で保守的であったのだといえる。



 バーン=ジョーンズは、多くの有力な画家が、ラスキンの側に立って協力してくれるのではないかと期待していた。彼が作ったリストにしたがって、法律事務所では、何人かの画家に証言を依頼したようである。しかし、引き受けてくれる画家はなかなかいなかった。(7)

 最終的に証言を引き受けることになったのは、ウィリアム・パウエル・フリスであった。彼は、ラスキンが選んだ画家であった(8)といわれているが、法律事務所が戦略に基づいて決めた証人であったのではないかという見方もされている(9)。また、ラスキンの身の回りの世話をしていた従姉妹、ジョーン・セヴァーンの夫であった画家アーサー・セヴァーンもフリスに証言を依頼するために奔走したのではないかとみられている(10)。

 フリスは、当時の大変な人気画家であった。1858年のロイヤル・アカデミー展に彼の作品《ダービーの日》が展示されたときには、その作品の前に柵が設置されなければならなかったといわれている(11)。彼は、英国絵画の伝統を強く意識し、ホイッスラーの作品に感じられるフランス絵画の影響やラファエル前派のロマン主義的な作風に強く反発していた。(12)

 ラスキンは、フリスの作品を高く評価しておらず、フリスもラファエル前派と親しい関係にあったラスキンを批評家として好んではいなかった(13)。こうしたことから考えると、フリスは、英国絵画の伝統的価値に関する証言者として選ばれたのであるといえる。

 フリスの主要な作品としては、《ダービーの日》のほかに《鉄道駅》などが知られている。これらの作品の特徴をなしているのは、写真のような精緻な描画とラスキンが「ディケンズ的感覚」(14)と評した人間的興味を意識した題材と構成である。フリスは、ホガース的な伝統も意識していた(15)。

 《ダービーの日》は、テート美術館の所蔵作品であり、1998年に東京と神戸で開催されたテート・ギャラリー展でも展示された。

 有名なエプソムの競馬開催日に集まった群集を描いたこの絵は(16)、大きく横に長いパノラマ的な作品である。端から端まで、ダービーの日の賑わいに彩りを添える様々な表情、階層、年齢の男女が描かれている。中央には大道芸をする曲芸師の親子が描かれ、絵はその親子を中心に構成されているようにも思えるが、大道芸のそばで、馬車の上の着飾った女性をスケッチしている画家、地面の上に布を広げてパイやロブスターを売る男など、一人一人がその絵の登場人物であり、曲芸師の子も芸を始めようとしている親のほうではなく、売られているパイやロブスターを見つめているのである。

 この絵を鑑賞するためには、全体を見るだけでなく、端から端まで、入念な演出を感じさせるリアリズムによって描き込まれた一人一人の服装、表情、周囲との関係などを細かく見ていかなければならない。そして、その絵の中に仕組まれた仕掛け、物語などを見出していくのである。作者は、そのようにして絵が、「読まれる」(17)ことを期待しているのである。

 19世紀後半、イギリスでは、この《ダービーの日》のように鑑賞者に「読むこと」を求める「ナラティブ・ペインティング」(物語的絵画)の作品が多く描かれた。(18)

 それらは、現代生活の諸相を描き、記録し、さらに物語的なメッセージを伝達するという意図を持っていた点で、自然主義文学やクールベの提唱するフランス絵画のリアリズムと歩調を合わせた動きでもあったといえる。(19)

 フリスは、《ダービーの日》の製作にあたって、競馬場の賑わいの中に実際に立ったようなリアリズムを実現させるために、ロバート・ハウレットという有名な写真家を雇って取材に当たらせた(20)。リアリズムを実現するためには、あらゆる技巧や技術が動員されなければならないと考えたのだろう。

 だが、その作品が発表されてから20年後、ホイッスラーが訴訟を起こした頃には、リアリズムや「ナラティブ・ペインティング」に対してはすでに疑問が生じはじめていた。この訴訟自体が、そうした疑問を提起するものでもあった。この訴訟のさらに10年後には、フリスの作品は、巧妙で面白さに満ちているが、「絵画芸術とはほとんど関係がない」という厳しい批評にさらされた(21)。



 ラスキンの立場を弁護するもう一人の証人として、法律事務所が選んだのは、弁護士、ロンドン大学の英語教授、ロンドンの衛生局長という多様な経歴を持つ劇作家、美術批評家のトム・テイラーであった。多くは外国の小説を脚色したものなどであったが、彼は70篇以上の喜劇やメロドラマを書いており、これらはイギリス国内だけでなく、アメリカでも上演された。1865年にリンカーン大統領がワシントンの劇場で暗殺されたときに上演されていたのも彼の作品であった。1845年から70年にかけての間、彼はイギリスで最もよく知られる劇作家であったといわれている。また、彼は、画家ベンジャミン・ロバート・ヘイドン(1786-1846)の27巻から成る伝記とジョシュア・レイノルズ(ロイヤル・アカデミー初代会長になった肖像画家、1723-1792)の伝記の著者でもあった。 (22)

 1874年から、彼は『パンチ』誌の編集者としても活動し、さらに『タイムズ』紙などに美術批評や劇評を寄稿しており、美術界で大きな影響力を持っていた。(23)

 1865年のロイヤル・アカデミー展にホイッスラーの《白のシンフォニー》展示されたときには、彼は、世間の評価を気に掛けながらホイッスラーの作品を賞賛する評を書いた。「ホイッスラー氏の風変わりな好み、そして不遜(魅力的な色彩と質感の表現における巧妙さにもかかわらず、彼の日本風の絵は不遜といわざるを得ない)と呼ばせていただきたいものに対して最も強く憤慨する人たちでさえ、彼がまれな種類の力量を持っていることを認めざるを得ない」(24)

 1871年のダドレー画廊での展示の時に、驚くほど好意的な評を書いたのを機に、ホイッスラーは彼をアトリエでのプレビューに招くようになっていた。しかし、テイラーは次第に保守的な立場を強くするようになり、また、1873年に《灰色と緑色のハーモニー:シスリー・アレキサンダー嬢》のプレビューに招いた際にテイラーが構図についてコメントし、それに対してホイスラーが憤慨したことから、二人の関係は途絶えていた。(25)

 ラスキンの側がテイラーに証言を依頼したのは、彼の保守的な美術論に注目してのことであったのだろうと考えられる。

 裁判が開かれる日の2日前になって、ホイッスラーの側では、画家でもあったアイルランド人劇作家のウィリアム・ゴーマン・ウィルスを証人に加えた。彼はパステルによる肖像画家として高く評価され、ヴィクトリア女王からルイーズ王女の肖像を描くために招かれたこともあったほどであった。しかし、画家としてよりも人気のある劇作家としてよく知られていた。また、彼はホイッスラーの弁護を担当するローズの古くからの友人でもあった。(26)

(写真は、Thomas, Julia: Victorian Narrative Painting, Tate Publishing, 2000の表紙、Philip Hermogenes Calderon, Broken Vow 1856 の部分が使われている)

Notes

1) Hilton, Tim: John Ruskin, The Later Years, Yale University Press, 2000,p.173-174.
2) Merrill, Linda: A Pot of Paint, Aesthetics on Trial in Whistler v. Ruskin, Smithsonian Institution Press in conjunction with Freer Gallery of Art, 1992, p.105-107.
3) ibid., p.106.
4) ibid., p.102-3
5) ibid., p.103-106.
6) ibid., p.295-297.
7) ibid., p.110.
8) ibid., p.113.
9) Hilton, op.cit., p.398.
10) Merrill, op.cit., p.113.
11) Thomas, Julia: Victorian Narrative Painting, Tate Publishing, 2000.,p.27; テート・ギャラリー展カタログ、読売新聞社、1998年, p.135.
12) Merrill, op.cit., p.115.
13) ibid, p.113.
14) ibid.
15) ibid., p.115.
16) Thomas,op.cit., p.27.
17) ibid.,p.28.
18) ibid., p.9.
19) ibid., p.33.
20) ibid., p.52; Newhall, Beaumont: The History of Photography, The Museum of Modern Art, New York (Distributed by Bulfinch Press, Little, Brown and Company), 1982., p.82-83.
21) Thomas,op.cit., p.95.
22) Merrill, op.cit., p.,118; Ousby, Ian(ed): The Cambridge Guide to Literature in English, Cambridge University Press, 1988, p.975-976.
23) Ibid., p.119.
24) Taylor, Tom: The Times, 24 May 1865, p.6, cited in Merrill, op.cit., p.121.
25) Merrill, op.cit., p.,120-122.
26) Ibid., p.91-94.

ホイッスラーの作品を集めたサイト:ARTCYCLOPEDIA
http://www.artcyclopedia.com/artists/whistler_james_mcneill.html
 


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