ホイッスラーの美術論 (26)
ホイッスラー対ラスキン(7)
ラスキンは、彼が書いた批評が中傷であり、それによって生じた損害に対する賠償を裁判によって解決したいとする通知を、ホイッスラーが依頼したローズの法律事務所から、1877年8月8日に受け取った。翌日、彼は、有名な法律事務所であるウォルカー・マーティノーに弁護を依頼した。担当になったのは、ロバート・ラブブランド・フルフォードという弁護士であった。(1)
裁判が行われたのは、それから1年以上も後の1878年の11月であった。それまで、両法律事務所の間では、いろいろな駆け引きが続けられたが、裁判が遅れたもっとも大きな理由は、1878年2月に、ラスキンが精神病の発作を起こしたことであった。
ファイン・アート・ソサイアティーという画廊で、ラスキンの所有するターナーの作品の展示が3月に始まる予定になっており、ラスキンはその準備とカタログの執筆に追われていた。それによって生じた精神的疲労が、発作の原因となったのではないかと考えられている。(2)
ラスキンにとって、ターナーについて考えることは、自分の過去の情緒的経験について悲しい思いをめぐらせることでもあったのだという。若い時期からターナーについて書いていた彼は、過去に書いたことを思い出して悔恨の念にかられることもあったにちがいない。また、どのような問題をめぐってであったのかはわかっていないが、彼がターナーと激しく口論したことがあったことも知られている。また、ラスキンは、ターナーは高齢になって精神のバランスを失ったと考えていた。ターナー展のカタログを執筆することは、ラスキンにとって、こうしたことに思いをめぐらせることでもあったのである。(3)
ラスキンの激しい興奮状態やせん妄は、1878年2月下旬、1週間ほど続き、徐々に回復していった。その後、彼は精神障害の発作を何度か繰り返しているが、彼の精神障害がどのような病名で分類されるものであったのかは明確にされていない。
ラスキンの病気によって延期されていた裁判は、1878年11月25日に行われることになり、ラスキンが法廷へ出て弁明するかどうかが一つの焦点になった。ラスキンは、法廷に出て、自分の美術思想について述べることを望んでいたが、医師たちはそれを禁じた(4)。
ウォルカー・マーティノー法律事務所のフルフォードは、自らが法廷弁護士を務める予定にしていたが、ラスキンが法廷に出られない見通しが強くなったため、ラスキンの代理人が必要であると考え、法廷弁護士に法務大臣であるジョン・ホルカー卿を選んだ。1895年になるまで、英国の法務大臣は民間の弁護士としても活動することが許されていたのだという。(5)
ホルカーは、雄弁や機知において優れるところのない鈍重な人物であるという印象を与えたが、陪審員と同じ平面に立つことで有能さを発揮していたといわれている。(6)
ラスキンは法廷に出られないため、弁護士に対する指示を書いたメモをウォルカー・マーティノー法律事務所に渡した(7)。そのメモ(8)で、ラスキンは、自分の批評の正当性を主張しているが、悲観的な見方ももらしている。
はじめに、彼が述べているのは美術批評家の機能についてである。「同時代の芸術に対する美術批評家の機能は、文芸批評家のそれと同じであり、公衆の関心を集めるに値する作家を推薦し、それに値しない作家が公衆の関心を集めるのを妨げることである」という。そして、ある種の攻撃的な批評が法によって抑制されることは望ましいが、美術批評は、ときに法における裁決と同様に厳しくならざるをえず、生存中の作家を厳しく批判することも批評家の義務になるという。
批評の自由が法によって抑制されることもありうるとしながらも、彼は、自分がホイッスラーに対して行った批判は、高い目的意識を持つ批評家の義務として行ったものである、といっているのである。
この前置きに続けて、彼は、中傷の意味が、「ある人物に加害する目的で、その人物の人格、性格、作品などについて、意図的に虚偽を述べること」であると理解するならば、自分の批評は断じて中傷ではないと述べている。すなわち、自分が「ホイッスラーの性格と作品について述べたことはまさに真実であり」、「彼と、それ以上に公衆のためになることである」というのである。
まず、「間違った自惚れ」という言葉を使って批判したことについて、彼は、「画家は、画家仲間の間での自分の正しい位置をわきまえて、費やした労力に見合う正当な値段のみを公衆に対して要求すべきである」と主張している。ホイッスラーは、そのことをわきまえていなかったから、自惚れによって作品に不当に高い値段をつけたと言っているのである。
また、ホイッスラーを「気取り屋」を評したことがまちがいではないことを示す根拠として、彼は、ホイッスラーが作品のタイトルに「シンフォニー」「ノクターン」といった音楽のカテゴリー名を使っていることを挙げた。そして、「緑色と黄色のシンフォニーを200ポンドの値を付けて売ろうとする画家を気取り屋と呼び、それよりもさらにたちの悪いものであるとは考えていないことは、むしろ思いやりのあることである」という。
さらに、「公衆の顔面に絵具の壷を投げつけるようなもの」といったことについては、「主に無礼さによって関心を引きつけようと画策されたやり方を、簡潔にではあるが正確に定義した以外のなにものでもない」と述べている。
これらの主張は、ラスキンが、自らの批評の立場を再確認したものであったということができるが、200ポンドというホイッスラーの絵の値段を、ラスキンが大きな問題としてとらえていたこともうかがえる。この訴訟の本質にあったのは、中傷という名誉に関する問題よりも、むしろ、この「絵の値段の決められ方」という問題であったのであり、ホイッスラーも、作品の値段に対するラスキンの干渉を、いわば「経済的な脅威」として受けとめていたのである。
その「絵の値段の決められ方」について、ラスキンは、「画家は、画家仲間の間での自分の正しい位置をわきまえて、費やした労力に見合う正当な値段のみを公衆に対して要求すべきである」と言っている。しかし、「画家仲間の間での正しい位置」が、どのようにして決められるべきなのかということについては明確な考え方を示していない。彼は、自分のような批評家が、それが決められるにあたって大きな影響力を持つべきであると考えていたのだろう。
当時、ロンドンでは、美術批評ジャーナリズムはすでに大きく発展しており、作品の評価に対して大きな影響力を持っていた。影響力が大きければ大きいほど、その批評は作品の値段にまで大きな影響を及ぼし得たはずであった。それにもかかわらず、ラスキンが、ことさら、「絵の値段の決められ方」という問題を持ち出したのは、評価や値段に対して自分の影響力が低下していることに苛立ちをつのらせていたからではないのか、という見方もできるだろう。
「絵の値段の決められ方」は、当時、大きく変わりつつあった。美術作品の購入者が王侯貴族や教会などの少数者に限られていた時代には、購入者は、画家に対して圧倒的に優位な立場に立って値段を決めることができ、いわば買い手市場になっていたと考えられる。しかし、美術作品の新しい購入者としての新興富裕層の登場は、買い手市場を、画家が相対的に優位な立場に立つ売り手市場に変えていきつつあった。限られた少数者が美術作品の購入者であった時代にあってさえ、美術作品の値段の決められ方において、経済的な力による才能の奪い合いという要因は強く作用していたと考えられるが、美術市場への新興富裕層の登場は、それを、美術作品の値段決定における主要な要因にしていきつつあったのである。また、新興富裕層は、経済的な力を基盤として新しい才能を見出し、それによって自らの審美思想を表現しようともしていたのだろう。
ラスキンの、「費やした労力に見合う正当な値段のみを公衆に対して要求すべきである」という言葉は、画家が受け取るべき報酬について、彼が、職人の賃金についてと同じような考え方をもっていたのではないかということもうかがわせる。しかし、そうした考え方も時代遅れになっていた。もちろん、ラスキンは、そうした時代の変化を知っており、それに抵抗しようとしていたのであろう。メモの中で、彼は続けて次のように述べている。
「絵画の相対的価値を評価する基準として、私が30年前に述べたこと、すなわち、絵画の価値は、究極的には、それらが持ち、伝える思想の明快さ、正当さによっているということは、いまも私の考え方から消え去ってはいない。それどころか、最近では、美術の目的を啓発ではなく、装飾と考える近代派に対して投げ掛ける私の抵抗の中に根付いている」。
そして、「室内装飾職人と芸術家の仕事の違いを見分けるのが批評家の仕事」であり、前者と後者の違いを決めるのは、作品における精神的な要素である、という考えを述べたあと、彼は次のように言う。
「それを指摘しなければならないのは心が痛むことであるが、現在の訴訟の根本的な基盤として、最近、俗的な経済学者によって公衆の精神の中に育まれている美術と工業との混同があり、それがついに、小さくはない規模で、際立った天才の作品をも早く売れる商品に堕落させている。そして、一般の不正な商取引においてと同様、美術作品の売買に関しても、それに干渉することは不当と考えられているのである」
「繁栄していた時代には、商業にせよ美術にせよ、有力な商人や芸術家の品位は、それぞれのやり方で、値段に見合った価値を供すること、公正な1日の賃金で公正な1日の労力を供することによって維持されていた。一九世紀は、おそらく、経済的には粗悪品と怠慢によって自らを称えているのであろう。しかし、芸術の学徒たちには、少なくとも、芸術家の名誉に関する古くからの決まりごとにおいて、芸術家の作品は、彼の勤勉によってさらに達成されるものがなくなるまで、あるいは彼の思考がさらに進歩することがなくなるまで、彼の手元から離されるべきではないということ、また、芸術家の誇りの古くからの決められ方において、彼の名声は、彼が受け取ったものではなく、彼が与えたものに基づくべきであるとされていることが、教えられるべきであろう」
このような言葉からは、ラスキンが、ホイッスラーのノクターンにおける表現を、一貫して手抜きととらえていたということもわかる。ターナーにおいてさえ見られ、フランスでは印象派によって大きな流れになろうとしていた忠実な写実からの離脱という近代絵画の思想は、ラスキンには受け入れられないものであり、手抜きあるいは粗製乱造としか考えられないものであったのだろう。
しかし、彼が守ろうとしていていた価値観は、崩壊しはじめていた。当時の英国絵画は、特に入念な仕上げを特徴としていたが、それは画家が持つ技巧を誠実に作品に反映させることであると同時に、本物のような世界を描き出すことでもあったということができる。写真の登場によって、英国絵画におけるそうした価値は根底から崩れようとしていた。19世紀後半、多くの画家が製作の補助的な手段として写真を使ったことが知られている。それは絵画の技巧の中に最先端の技術を取り入れることでもあったのだろうが、画家の主体性が侵食されることでもあった。そうした中で、写実に強い疑念がわいてきたのは当然のことであったということができるだろう。
写実ヘの疑念は、デフォルメの価値の発見を促したはずである。日本美術などにおけるデフォルメは、写実を重視する西洋絵画の価値観からすれば技巧の後進性、あるいは稚拙を示すものととらえられていたのでないかと考えられる。しかし、写実への疑念が増すなかで、それが、「本物のような世界を描き出すこと」を嫌い、アナロジーをとりながら、それとは別の世界を創り出すことであるということに多くの画家が気づきつつあったはずである。ホイッスラーも、デフォルメの意味に気づき始めていたのであり、写実に価値を置く立場から見れば手抜きであるとしか考えられなかったノクターンは、そうした新しい美術思想に基づく作品であったということができるだろう。
ノクターンに表現された新しい美術思想を、ラスキンは拒否しようとしていた。しかし、彼は、自分の美術思想が受け入れられなくなりつつあることも強く感じていたようである。彼は、この訴訟は公的な生活からの引退を決意するうえでの良い機会であるとも述べている。
法廷弁護士に選ばれたホルカーは、ホイッスラーの友人であるトーマス・アームストロングに作品を依頼したこともあり、美術の新しい動きにある程度精通していたのではないかと考えられている(9)。しかし、裁判の弁論では、彼は、美術に関しては、ずぶの素人というような見せ掛けをする戦略をとろうとしていた。そのようにもくろんでいる彼にとって、ラスキンから渡されたメモは、役に立たないものであった。
(写真は、Shanes, Eric et al.: Turner, The Great Water Colors, Royal Academy
of Arts, 2000.)
Notes
1) Merrill, Linda: A Pot of Paint, Aesthetics on Trial in Whistler v. Ruskin,
Smithsonian Institution Press in conjunction with Freer Gallery of Art,
1992, p.60-62.
2) Hilton, Tim: John Ruskin, The Later Years, Yale University Press, 2000,
p.373.
3) ibid.
4) ibid., p.397.
5) Merrill, op.cit, p.97-98.
6) ibid., p.98-99.
7) ibid.,p.100.
8) ibid.,p.289-293.
9) ibid.,p.99.
ホイッスラーの作品を集めたサイト:ARTCYCLOPEDIA
http://www.artcyclopedia.com/artists/whistler_james_mcneill.html
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