No.36, July 2002

Art


ホイッスラーの美術論 (25)

ホイッスラー対ラスキン(6)

 ホイッスラーが依頼した弁護士アンダーソン・ローズは、法廷弁護士としてジョン・ハムフレイズ・パリーを選んだ。パリーは大げさな弁舌で知られていたが、適切な判断力と慎重さも持っていた。また、ローズがとりわけ重視したのは、彼には優秀な弁護士の息子ウィリアム・カマー・ペセラムが助手として付いていることであったようだ。(1)

 法廷弁護士と共に証人の用意も急がなければならなかった。かつてヴィクトリア女王の王女メアリが、ピーコックルームを訪れて賞賛の言葉を掛けてくれたことがあったが、ホイッスラーは、彼女の夫であるテック王子を証人候補の一人としてあげた。また、同じようにピーコックルームに対しての賞賛を公に表明したことがある聖職者のヒュー・レジナルド・ヘイワイス師をあげた。また、彼のエッチング作品を所蔵していることを証言してもらうための証人候補として、大英博物館の版画・絵画部門の作品管理者ジョージ・ウィリアム・リードとウィンザー城王立図書館のリチャード・R・ホームズをあげた。(2)

 しかし、法廷弁護士を引き受けたパリーと息子のぺセラムは、いろいろと評価の分かれるピーコックルームを持ち出すことは得策ではなく、また彼の作品の所蔵者がだれであるかということも大した意味を持つことにはならないと判断したようであった。そうしたことから、ぺセラムは、ローズに対して、ホイッスラーがよく知られた画家であり、彼の作品が高く評価されていることを証言できる画商、批評家、画家などを証人として探すよう助言した。 (3)

 画商は何人かにあたって承諾は得られたものの、結局は呼ばないことになった。批評家として証人の候補にあげられたのは、ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティの弟ウィリアム・マイケル・ロセッティであった。

 ウィリアム・マイケル・ロセッティ(1829-1919)は、ダンテの『神曲地獄篇』の翻訳、詩人キーツの伝記の執筆、ブレイクの作品の刊行、ホイットマンのイギリスへの紹介などの文学的業績で知られている。1850年1月から4月まで4号が刊行され、兄ダンテ・ゲイブリエルが主要な寄稿者であったラファエル前派の文学雑誌『The Germ』の編集者を務めた後、彼は多くの雑誌に美術批評と文学批評を寄稿していた。ホイッスラーとは、彼がチューダーハウスと呼ばれる兄ダンテ・ゲイブリエルの邸宅の近くに住み、そこを頻繁に訪れるようになった1862年に知り合って以来、友人となり、批評活動でも彼の作品を高く評価していた。ロセッティは、ラファエル前派の擁護者であったラスキンとも知り合いであったが、ホイッスラーの側に立って証言することを承諾した。(4)

 画家は証人として重要であると考えられたが、引き受けてくれる画家はなかなかいなかった。ホイッスラーは、ロイヤルアカデミー会長フレデリック・レイトン、ナショナル・ギャラリー館長のフレデリック・バートン、パリ時代からの友人であり、サウスケンジントン博物館の美術部長兼館長になっていたエドワード・ジョン・ポインターが自分の作品を賞賛して書き送ってくれた手紙を証拠として提出することを考えていた。それらの手紙は法廷で筆者が証言した場合にのみ証拠として有効となるために、ホイッスラーは彼らに証言を依頼したが、バートンとポインターからは断られ、レイトンもナイトの称号授与の日と裁判の日が重なったために証言することは不可能になった。(5)

 ほかに、ホイッスラーが、証人になってくれる画家として期待した一人は、パリ時代からの友人であり、ロンドンで活動していたフランス人画家のジャック(ジェイムズ)・ジョセフ・ティソであった。

 ティソは、1836年にフランスのナントで生まれ、1834年生まれのホイッスラーとは2歳違いであった。1856年頃にパリへ出て、アングルの弟子であったイポリト・フランドリンのもとで短期間学び、続けて同じようにアングルの弟子であり、ドガの教師としても知られているルイ・ラモテについて数年間学び、1859年にはサロンで最初の入選を果たした。(6)

 ティソとホイッスラーが知り合ったのは、ルーブル美術館で二人が同じようにアングルの作品を模写していたときではないかとみられている。ティソは、ホイッスラーと友人になったのをきっかけにして、ファンタン=ラトゥール、レグロス、そしておそらくクールベとも知り合いになったとみられている。さらに、彼は、ホイッスラーを通してデュモーリエ、アームストロング、ポインターらパリにいたイギリスの画家たちとも知り合いになったとみられている。また、ティソは、ドガ、マネとも親しい友人になった。(7)

 ティソは、技巧に長けており、模倣が上手な画家であったといわれているが、1865年にはラファエル前派のジョン・エヴァレット・ミレーの強い影響を受けた作品を描いている。また、1864年頃からは日本美術の収集を始め、ジャポニスムの作品も描いているが、こうした日本美術への傾倒はホイッスラーの影響を受けてのことであったのではないかと考えられている。1865年の《日本の置物を持つ若い婦人》という作品には、ホイッスラーの《紫とバラ色:六つの刻印のあるランゲ・ライゼン》(1864年)(8)との類似性が感じられる。彼は、ほかにもジャポニスムの作品を残しているが、1867年のパリ万国博覧会に日本代表として派遣された将軍徳川慶喜の弟徳川昭武の肖像(1868年)も描いている。(9)

 1871年6月ころに、ティソは画家としての活動の場をロンドンに移した(10)。普仏戦争での敗戦、続くパリ=コミューンの崩壊の後であった。普仏戦争の時期には、モネもピサロと共にロンドンに移住し、彼らのロンドンへの移住は短期間であったが、ティソは1882年までロンドンに住み、イギリスの画家になりきった。彼はジャックというフランス名をジェイムズというイギリス名に変え、パリへ帰った後もイギリス名で呼ばれることを好んだほどであった。

 ロンドンで彼が描いた作品は、新興富裕階級の社交界の風景、流行の衣装を身に着けた容貌の美しい女性といった題材で特徴づけられる。ラスキンが激しく批判したホイッスラーの作品が展示されたグロブナー画廊の開設記念展示には、ティソの作品10点も展示されたが、ラスキンは同じように『フォルス・クラビゲラ』で、それらの作品を「俗的な社交界の単なる色づけした写真」と評した(11)。ティソは、そうした通俗性によって作品が高く買われていた画家であった。

 ホイッスラーが、ティソの証言を期待したのは、パリ時代からの友人であり、同時に彼が人気の高い画家であったからだろう。しかし、彼はホイッスラーを弁護して芸術論を述べることができるような性格の画家ではなく、消極的な返事しか送ってこなかったため、ホイッスラーは彼に証人になってもらうことをあきらめた。

 ほかにホイッスラーが、証人になってくれることを期待したのは、彫刻家でホイッスラーの胸像の作品もあるジョセフ・エドガー・ベームと画家アルバート・ムーアであった。二人のうち、ベームは頼ることができないことが裁判の2日前になってわかり、結局、頼ることができるのはムーアだけになった。(12)

 ホイッスラーは1865年にアルバート・ムーア(1841-1893)と知り合い、相互に影響し合うようになった。ムーアは、初期にはラファエル前派の影響を強く受けていたが、1860年代半ばからは大英博物館のギリシャ彫刻コレクションであるエルギン・マーブルの影響を強く受け、古典的なテーマをとるようになった。1875年に展示されたムーアの作品を、ラスキンは、「きわめて芸術的であり、科学的な作品」であると賞賛し、色彩の使い方ではアルマ=タデマより上に置くような批評を書いたことがあった(13)。しかし、ムーアは、ラスキンの批評は、誤解に基づいていることが多く、特に『フォルス・クラビゲラ』の批評は公正でなく言葉が粗野であるとして嫌っていた。

(写真は、Wood, Christopher: Tissot, Artus Books, 1995.の表紙カバー、《船上の舞踏会》(1874年頃、テイト美術館)の部分が使われている)

Notes

1) Merrill, Linda: A Pot of Paint, Aesthetics on Trial in Whistler v. Ruskin, Smithsonian Institution Press in conjunction with Freer Gallery of Art, 1992, p.76-77
2) ibid., p.79.
3) ibid., p.79
4) ibid., p.80-84.
5) ibid., p.85-86
6) Wood, Christopher: Tissot, Artus Books, 1995. (First published in 1986 by George Weidenfeld and Nicolson Ltd), p.21.
7) ibid.
8) 作品名の訳は、谷田博幸編:朝日美術館「ホイッスラー」、朝日新聞社、1997年による。
9) Wood, op.cit,p.37-40.
10) ibid., p.53.
11) Merrill, op.cit,p.86.
12) ibid., p.86-88.
13) ibid., p.88.

ホイッスラーの作品を集めたサイト:ARTCYCLOPEDIA
http://www.artcyclopedia.com/artists/whistler_james_mcneill.html
 


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