No.35, June 2002

Art


ホイッスラーの美術論 (24)

ホイッスラー対ラスキン(5)
―ホイッスラー、ラスキン、日本美術―

 ホイッスラーとラスキンの美術に対する考え方の違いは、日本美術に対する二人の態度の違いに典型的に表れていたともいえる。

 ホイッスラーは、すでに1850年代の終わり頃から日本美術に強い関心を示し、しだいに傾倒の度を強めていった。しかし、ラスキンの日本美術に対する態度は冷ややかであり、嫌悪感さえ抱いていたのではないかと思われる。1865年に、ラスキンがダンテ・ゲイブリエル・ロセッティに宛てて書いた手紙には、こう書かれているという。

 「しかし、口論はしないようにして、こちらに来たとき、われわれ二人がともに好きであるもの見て過ごすようにしよう。君は、パルマの話を聞きたくないだろうし、私は日本の話を聞きたくない」(1)

 ロセッティは、ホイッスラーほどの熱狂的な日本美術愛好者ではなかったが、日本美術に強い関心を示し、ホイッスラーと同じように染付けの陶磁器なども収集していた。日本美術について、彼は自分の考えを述べ、さらにラスキンの考え方を聞きたかったのではないかと思われるが、この手紙で、ラスキンは彼が日本美術の話を持ち出すことを拒否している。ラスキンにとって、日本美術はまさに「聞きたくもない話」だったのだろう。

 ラスキンの親しい友人になり、その後ハーヴァード大学の美術史教授になった米国人のチャールズ・エリオット・ノートンも、ラスキンは日本美術に関心を示さなかったと書いている。彼は、ヨーロッパを頻繁に訪れて多くの知識人たちと交友した。1868年の夏、彼は滞在先のパリでラスキンと会い、ともにルーブル美術館を訪れたあと、ホイッスラーがよく訪れていた日本美術店に彼を案内したが、関心を示さなかったという。(2)

 多くの芸術家や知識人たちが、新しく入ってきた日本美術に対して強い関心を示すなかで、ラスキンが彼らとは異なった態度をとったのは、彼の美術思想に照らして、日本美術は価値の無いものと判断されたからだろう。

 彼が自己の美術思想を明確に表明した言葉としてよく引用されるのは、「自然科学の美術に対する関係」と題した1872年のオックスフォード大学での一連の講義の第3回目、「賢明な美術の賢明な科学に対する関係」と題した講義での次の発言であると言われている。(3)

「それがうまく映しているものを愛していないかぎり、美術作品を十分に愛することはできない。……美術における私自身のしっかりした仕事のすべての原点は、美術に対する愛ではなく、山や海を愛することにある」(4)

 1825年、6歳になったとき以来、彼は、家族に連れられてたびたびヨーロッパ大陸を旅行し、フランス北部やイタリアの古建築に強く心をとらえられるようになったが、同じように彼の心をとらえたのはアルプスやスイスの山村の風景だった。

 J・M・W・ターナーの作品の称賛者であった彼と彼の父、ジョン・ジェイムズ・ラスキンにとって、スイスの風景を見ることは、ターナーの作品に描かれている対象を見るという目的も持っていたが、彼はアルプスやスイスの山村の風景そのものに強く心をとらえられ、その風景にユートピアを重ね合わせて見るようになっていった。

 そのような彼にとって、ヴェニスの建築、スイスの風景、そして岩石や植物、空や雲は、「対象の美」という価値観において、同じ平面にあったのではないかとも考えられる。

 彼は、幼少時から描画において優れ、多くのスケッチや水彩画を残している。『ヴェニスの石』などの著作に、彼は自分で描いた建築の絵を使った。彼は自分が芸術家であるとは考えていなかったのかもしれないが、オックスフォードでも水彩画や素描の描き方を教えていたほどであった。彼の作品は、芸術作品というよりも記録のためのスケッチに近いが、これらの絵にも対象の美を原点に置く彼の美術思想が反映されているのだろう。彼の思想において、美術は、美の創造という行為ではなく、おそらく対象の美を描写することによって、その対象に畏敬の念を表明するという道徳的行為であったのではないかとも考えられる。

 彼がそのような美術思想を抱いていたとすれば、日本美術は受け入れがたいものであった。浮世絵は、対象の美を描写することよりも、対象の抽象化、デフォルメ、図案化といった造形的アプローチによって新たな美を創造し、その過程においての発想や技巧に価値を見出そうとする美術であった。ホイッスラーや印象派の画家たちは、そのような特徴に芸術家の主体性や美術の新しい方向を見出したのであると考えられるが、ラスキンにとっては、それは対象から遊離した形象や色彩の遊びに過ぎないものであったのではないかということが考えられよう。

 また、ラスキンにとって、遊女たちを描いた浮世絵は、不道徳なものであり、受け入れがたいものであったのではないか、ということも考えられる。彼は、ターナーの一部の作品を不道徳なものであると判断して焼却したことが知られている。

 1851年12月にターナーが死去したあと、彼は遺言執行者の一人に選ばれ、残された膨大な数の作品の整理に携わった。遺言によって、ターナーの自宅にあった作品はすべて国に遺贈され、ナショナルギャラリーの地下室に運び込まれていた。ラスキンは、1858年から、その地下室で金属板製の箱に収納されていたターナーの素描の整理に取りかかり、そのために多大な時間を費やしたが、その過程で、彼は自分がまったく知らなかった範疇の作品をターナーが描いていたことを知った。彼は、それらの作品は「著しく卑猥」であると判断し、ターナー自身の名声や国家の名誉を傷つけてはならないと考え、ナショナルギャラリーの専門家たちと相談したうえでのことであったが焼却した(5)。ラスキンは、ターナーがそのような絵を描いたのは、高齢になって精神が異常になったためであると考えていた。

 また彼は、1872年には、社会風習や教会を痛烈に揶揄風刺したゴヤの版画集『ロス・カプリチョス』を、親しくしていた書籍商の家の炉で焼却したことも知られている(6)。おそらく、彼は自分でそれを買いとって、その場で燃やしたのだろう。

 このような行為から考えられるのは、彼が美術を、宗教や道徳から切り離せないものとしてとらえていたということである。ラスキンが、ホイッスラーを批判したのは、このような美術論の立場からであった。

(写真は、Clegg, Jeanne and Paul Tucker, Ruskin and Tuscany, Ruskin Gallery, Collection of The Guild of St George, Sheffield in association with Lund Humphries, 1993.、表紙にルッカのサンミケーレ教会を描いたラスキンの水彩画(?1846、部分)が使われている)

Notes

1) Watanabe, Toshio: High Victorian Japonisme, Peter Lang, 1991., p.202.,Rosseti, W. M., Rosseti Papers, London 1903,p.138の引用。
2) Hilton, Tim: John Ruskin, The Later Years, Yale University Press, 2000, p.140., Norton to his wife, Paris 7 October 1868, Letters of Charles Eliot Norton, 1913, I, 311-2 の引用。
3) ibid., p.225.
4) ibid., The Works of John Ruskin, ed. E. T. Cooks and Alexander Wedderburn, 1903-12, London, XX, p.152-3.の引用。
5)  Hilton, Tim: John Ruskin, The Early Years, Yale University Press, 1985, 2000., p.250.
6) Hilton, Tim: John Ruskin, The Later Years, Yale University Press, 2000, p. 314.



ホイッスラーの作品を集めたサイト:ARTCYCLOPEDIA
http://www.artcyclopedia.com/artists/whistler_james_mcneill.html
 


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