ホイッスラーの美術論 (23)
ホイッスラー対ラスキン(4)
自分に向けられたラスキンの批評が『フォルス・クラビゲラ』に出ていることをホイッスラーが知ったのは、それが発行されてしばらくのち、画家たちが集まる場所であったアーツ・クラブの喫煙室で、アメリカ人画家のジョージ・H・ボートンと会っていたときであった。ボートンは、『フォルス』は読んでいなかったが、『アーキテクト』(7月14日発行)という雑誌に掲載されていたその批評の紹介記事に気づき、それをホイッスラーに見せた。(1)
ホイッスラーは、痛罵されることを意に介さず、面白がることが多かったが、この批評を彼に見せることに、ボートンはためらいを感じたという。しかし、知らないふりをしてすませることはできず、その記事を見せると、ホイッスラーは表情をこわばらせていき、読み終えると怒りと悲しみを抑え込んだような表情で、黙ってそれをボートンに戻した。そして、しばらく考え込んだのち、ラスキンのこの批評は、これまで見たものの中でも、「最も下劣なスタイルの批評だ」とつぶやいた。ボートンが、この批評は中傷にあたるかもしれないというと、ホイッスラーは、タバコに火をつけ、立ちあがりながら、「調べてみる」といった。(2)
ホイッスラーは、多くの芸術家と親交があった弁護士のジェイムズ・アンダーソン・ローズに相談した。ローズはダンテ・ゲイブリエル・ロセッティやスウィンバーンと親しく、またウィリアム・モリスが1862年にモリス・マーシャル・フォークナー商会を設立した時には、その法的手続きを引き受けた。ホイッスラーは、ロセッティの紹介によってローズを知ったのではないかとみられている。ホイッスラーは、1866年にヴァルパライソへ旅立ったとき、彼に遺言執行を依頼し、その後、経済的苦境に陥った時などにも法的手続きを依頼していた。(3)
ローズは、ラスキンが書いた批評は中傷であるとし、それによって生じた損害に対して賠償を法廷において解決したいとする通知をラスキンに送付する手続きをとり、その通知は8月8日にラスキンに届けられた。(4)
ホイッスラーは、当時、自宅「ホワイトハウス」の建設に取りかかっており、思いのほか費用がかさんだことによって経済的苦境に陥っていた。そうしたことから、ホイッスラーは損害賠償を受けることに大きな期待を掛けていたのではないかという見方もされている。(5)
しかし、首尾よくいけば金が手に入るというような安易な期待に基づいて、彼がラスキンという実力者を訴えることに踏み切ったとは考えにくい。むしろ、強い動機となったのは、ラスキンの批評が与えるかもしれない経済的な影響に対しての危惧であったのではないかと考えられよう。彼の作品は高く売られるようになっていたが、ラスキンはその絵の値段を問題にしていたのである。ラスキンの批評が、画廊や収集家に影響を与えることは十分考えられることであり、もしそうなれば、彼はますます経済的な苦境に追い込まれるはずであった。芸術的な信念の面からはラスキンの批評を無視できたにしても、それによって芸術家としての活動の経済的な基盤が脅かされるとすれば、対決せざるをえないと彼は考えたのではないだろうか。
ラスキンの批評に対しては、早くから強い反発が根強くあった。彼は、1855年から59年にかけて毎年、そしてその後1875年にも『アカデミー・ノーツ』というパンフレットを発行し、ロイヤルアカデミー展の作品を批評した。このパンフレットで、彼はラファエル前派の作品を擁護する一方で、自分の信念にそぐわない作品は激しい言葉で批判し、多くの敵を作った。(6)
ラファエル前派の画家の中でも、特にフォード・マドックス・ブラウンは、ラスキンを嫌っていた。また、ラスキンから激しい批評の言葉を浴びせられた画家としては、イタリア美術に造詣が深い美術史家でもあり、ナショナル・ギャラリーの初代館長を勤めたチャールズ・ロック・イーストレイク卿(1793-1865)やダニエル・マクライズ(1806-70)らがいる。(7)
イーストレイクが、ロイヤルアカデミー展に出品した作品は、ティツィアーノ風の《ベアトリーチェ》と題された作品であったが、ラスキンはそれをヴェネチア派の模倣に過ぎないとして批判した。それは正論であったが、ラスキンがラファエル前派を擁護する美術理論は必ずしも明確ではなく、また親しい画家の作品は特に優れているとは考えられないのに賞賛していたことなどから、イーストレイクの夫人はラスキンの批評は矛盾に満ちているとして強く反発した。(8)
ラスキンの伝記を書いたヒルトンは、『アカデミー・ノーツ』の批評は、「失敗しているか成功しているかではなく、良いか悪いかという概念に基づいていることが多かった。意図する目標の低い小品が良い作品として評価されることもあった」と述べている。(9)
ホイッスラーが、訴訟を起こした後、『レフリー』という雑誌か新聞の記者は、記者たちを朝食に招いて他の有名な画家たちを激しい言葉で批判しており、いつ訴えられてもおかしくない画家が、「文筆においては精神病的であり、描画においては麻痺的である人間からの批判に対して、なぜ過敏になるのか理解できない」と皮肉な感想を書いた。(10)
その記者にとっては、ラスキンはエクセントリックな批評家であり、その批評は無視すべきものであると考えられたのだろう。ラスキンの批評に対しては、むしろ、そのような対応の方が普通のやり方でもあったようだ。ヘンリー・ジェイムズは、アメリカの『ネーション』誌(1878年12月19日号)ヘの寄稿で、ラスキンとホイッスラーの対立について報告し、ラスキンの批評について、「彼が文筆において無作法であることはよく知られている。多くの同時代人たちが、その被害にあっているが、文句を言う者はいない」と書いている(11)。
ホイッスラーが、そのようにできなかったのは、自分の考えとラスキンの考えが根底から異なっており、ラスキンの批判は自分の芸術家としての立場を脅かすと感じたからだろう。一方で、ラスキンも、ホイッスラーの考えが自分の考えとは根底的に異なっていると考えていたから、ホイッスラーを激しい言葉で批判していたのである。
ケネス・クラークは、「美術は、婦人用装飾品から宗教まで広がりを持つ長い語である」(12)と述べている。美術は人間の長い歴史の中で、そのようなものであり続けてきたとも言えるだろう。しかし、宗教的真摯さを持った教育を受けてきたラスキンにとって、美術はそのような広い、包括的ものではあり得なかったであろうとの見方をクラークは述べている。
ホイッスラーとラスキンが対立したヴィクトリア時代、ラスキンの宗教的、道徳的な真摯さは、ホイッスラーの新しい自由な美術論を脅かす強さを持っていたに違いない。ホイッスラーは、それを知っていたから反撃に出たのだろう。
(写真は、John Ruskin and the Victorian Eye, Harry N. Abrams in
association with Phoenix Art Museum, 1993.の表紙カバー、Dante Gabriel Possetti,
La Pia de'Tolomei.1868-81の部分が使われている)
Notes
1) Merrill, Linda: A Pot of Paint, Aesthetics on Trial in Whistler v.
Ruskin, Smithsonian Institution Press in conjunction with Freer Gallery
of Art, 1992.p. 57.
2) ibid.,p.57.
3) ibid.,p.58-59.
4) ibid.,p.59-60.
5) ibid.,p.60-61.
6) Hilton, Tim: John Ruskin, The Early Years, Yale University Press,
1985, 2000. , p.227-228.
7) ibid.,p.228-230.
8) ibid.,p. 228.
9) ibid.,p. 228-229.
10) Merrill, Linda, op.cit., p.60.
11) ibid.,p.53
12) Clark, Kenneth: Introduction for Praeteria, The Autobiography of
John Ruskin, Oxford University Press, 1978., p. xxii.
ホイッスラーの作品を集めたサイト:ARTCYCLOPEDIA
http://www.artcyclopedia.com/artists/whistler_james_mcneill.html
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