ホイッスラーの美術論 (17)
ホワイトハウス(1)
ピーコックルームの装飾の仕事を終えた後、ホイッスラーは広いアトリエを備えた新しい家を建てたいと考えるようになった。テームズ河が見渡せるリンゼー通りの家は気に入っており、さまざまな日本の美術工芸品を置くなどして趣向を凝らした住居にしていたが、彼は、レイランドの邸宅の装飾に取り組む過程で、住宅の美について思いをめぐらせるようになっていたのだろう。彼にとって、自分の住居を新築することは、住宅という形において美という理想を実現することであったに違いない。
ピーコックルームの装飾に対する報酬の額について、彼は不服を感じてレイランドと対立していたが、支払われた2000ポンドは大きな家が一軒建てられるほどの額であった。また、ピーコックルームの装飾が世間から注目されたことにより、彼は「売れる画家」になりつつあった。そうしたことによって、彼は、経済的にも自信を抱いていたのだろう。また、彼は、その家を使って美術学校を開きたいと考えていた。
彼が設計を依頼したのは、親友であった建築家、エドワード・ウィリアム・ゴドウィンであった。
ゴドウィンは、ホイッスラーより1年早く、1833年に生まれている。ブリストルに住み、1850年代後半にはネオゴシックの建築家として頭角をあらわし、60年代になるとラスキンから注目されるようになった。頻繁にロンドンを訪れ、1858年にはデザイナーのウィリアム・バージェスを訪ねて知り合いになった。(1)
バージェスは、中世を志向した改革的なデザイナーであり、変わった異国趣味の工芸品の収集に強い関心を持ち、日本の美術工芸品の収集を始めていた。そうした収集品の研究から得た知識を、彼は家具などの作品に生かしており、ホイッスラーやロセッティにも影響を与えていた(2)。ゴドウィンは、バージェスと知り合いになったのち、日本のデザインの研究を始めるようになった(3)。
1862年頃、ゴドウィンが新しく移り住んだブリストルの住宅には、多くの東洋陶磁器が飾られていた。1862年のロンドン万国博覧会に出展を予定していたが到着が遅れたために競売に付された日本の美術工芸品を買ったり、ブリストルに入港する船の乗組員たちから買うなどして、それらの東洋陶磁器を集めたのではないかと考えられている。(4)
ゴドウィンは、1863年にホイッスラーと親しくなり、65年には活動の場をロンドンに移した。彼の建築家、デザイナーとしての活動は、建築の外部、内部の設計、家具、壁紙、生地、ステンドグラスのデザインと広範囲に及ぶようになっていった。シェイクスピアの研究家でもあった彼は、演劇の分野でも活動し、舞台装置や衣装のデザインを改革することによって演劇における唯美主義運動の推進者になった。また、彼は、建築の専門雑誌の編集者、寄稿者としてジャーナリスト活動も行っていた。(5)
ロンドンでデザインの改革運動を始めたウィリアム・モリスが中世への郷愁をテーマにしていたのに対し、ゴドウィンやピーコックルームの内装に携わったトーマス・ジキルらは、ネオゴシックのデザインから離れ、日本の美術工芸の影響を強く受けた近代的なデザインを目指していた。それは、絵画におけるホイッスラーの活動と歩調を合わせたものであった。
1876年頃にゴドウィンがデザインしたサイドボード、《アングロ・ジャパニーズ・ビュッフェ》は、日本の茶箪笥を模したと思われる家具であるが、黒檀調で仕上げられたシンプルな色彩、格子状の木組み、直線を強調した構成などによって、きわめてモダンなフォルムを実現している。これは、ゴドウィンが、日本趣味ヘの傾倒を超えて、日本の家具、建築、美術工芸品などから、簡潔さ、直線の強調といった日本のデザインの本質を学びとろうとしていたことを示しているのだろう。(6)
ホイッスラーは、1876年8月14日に、ゴドウィンに新しい家の設計を依頼した(7)。
Notes
1) Bendix, Deanna Marohn, Diabolical Designs, Paintings, Interiors, and
Exihibitions of James McNeill Whistler, Smithsonian Institution Press,
1995., p.102.
2) ibid., p. 56.
3) ibid.,p. 102.
4) ibid.,p. 103-104.
5) ibid.
6) ibid.,p. 104-105.
7) ibid.,p.145.
ホイッスラーの作品を集めたサイト:ARTCYCLOPEDIA
http://www.artcyclopedia.com/artists/whistler_james_mcneill.html
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