ホイッスラーの美術論 (16)
ピーコックルーム(3)
レデスデール卿が1876年10月下旬にレイランド邸で制作中のホイッスラーを訪ねたとき、彼はすでにコーブ、天井、腰板、窓の内側シャッターだけでなく、高価なスパニッシレザーを張った壁面にも色を塗りつつあった。レデスデール卿は、レザーの上にも色を塗っているのを見て、レイランドと相談したのかどうかと聞いたが、ホイッスラーの返答は、「なぜ、相談しなければならないのか。最も美しい部屋を作っているんだよ」というものだった。(1)
高価なレザーの上に色を塗ることについて、ホイッスラーは、はじめ躊躇したようであり、レイランドに手紙で、「試しに青を塗ってみましたが、レザーのトーンを害するので、痕跡なきまでに取り去りました」と伝えている(2)。しかし、仕事に熱中し、レイランドの意向を確かめることを忘れて、レザーを含めた壁面全体に大胆に色彩を施すようになっていた。
彼は白を混合したプルシアンブルー(アントワープブルー)、エメラルドグリーン、ヴァーディグリスブルーなどの絵具やニス、さらに金箔やダッチゴールド(銅と亜鉛の合金による模造金箔)を惜しげもなく使った。最近の研究によると、ある部分では絵具や金箔が少なくとも11層も重ねられていることがわかっている。《ノクターン》を描いたときのように、絵具を薄くして何層にも重ね、透明感を出す技法や、一度塗った絵具を削り取って表面につやを出し、その上にまた薄くした絵具を重ねるといった技法が使われたのではないかとみられている。いずれにしても、壁面は単調に一定の色を塗っていくのではなく、絵画作品と同じようにして仕上げられていったのであるといえる。また、彼は、日本の屏風絵や漆器が持つ色調や質感を模倣しようとしていたのではないかという見方もされている。(3)
装飾がほぼ完成した段階になって、彼は、この部屋に《青と金色のハーモニー:ピーコックルーム(Harmony
in Blue and Gold: The Peacock Room)》という作品名をつけた。三面の窓の内側のシャッターに描かれた金色の孔雀の三部作を中心に、部屋全体は青と金色で仕上げられた。
ホイッスラーとレイランドは、この仕事の報酬をめぐって対立していたが、それに伴なって2人の間に交わされた手紙の内容からすると、レデスデール卿が訪れた1876年10月下旬には、シャッターの孔雀の絵はほぼ完成していたのではないかと考えられる。ホイッスラーが、部屋の装飾の仕事に対して2000ポンドの報酬、さらにシャッターの制作に対して1200ポンドを要求した(4)のに対し、レイランドは、10月21日付けの手紙で、「シャッターの内側の孔雀の絵は、確かに絵画としては要求どおり1200ポンドの値打ちがあるものかもしれない。しかし、私からの注文を受けないままに、それを設置することは不当である。そのようなものを求めようとはしないし、それを取り外して新しいシャッターを取り付けることを望みたい」(5)と返答している。
天井近くから床まで広くとった三面の窓のシャッターに描かれた金色の孔雀の絵は、木製のシャッターの上に金箔を張り、その上に青の絵具を塗って、金色の孔雀を浮き上がらせている。
ベンディックスは、この孔雀の絵について、金箔の使用、孔雀というテーマ、視点を極めて低い位置にとっていること、シャッターがスライド式ではなく折りたたみ式になっていることなどは、日本美術の強い影響を示唆しており、三部作全体からは日本の屏風絵と同じような効果が感じられると述べている。また、孔雀の絵が平面的であり、版画やステンシルによって得られる効果を有していることからは、ホイッスラーが日本の染色で用いられる型紙の技法を知っていたことが示唆されると述べている。(6)
このシャッターの三部作とは別に、正面の壁と向かい合った壁面にもホイッスラーは2羽の孔雀の対立をテーマにした戯画ともいえる壁画を描いた。正面の壁面には彼の《陶磁器の国の王姫》が掛けられ、それと向かいあったこの壁には、彼が制作していた《三人の少女》とバーン=ジョーンズの作品がかけられることになっていた。それをこの壁画に変えたのは、レイランドとの対立が理由となったのではないかとされているのである。闘争あるいは羽を誇示し合う2羽の孔雀はホイッスラーとレイランドを表現しているのではないかとされている。ホイッスラーものちにこの壁画を「芸術と金銭」と呼んだ。この壁画に関しては転写に使ったピンの穴が付いている原寸大の原図が残されている。また、図案は1875年に出版された『Keramic
Art of Japan』という本の中にある薩摩焼の図版にきわめてよく似ているといわれている(7)。
1876年のクリスマス前に、ホイッスラーは、レイランドに「今週中に終わる」と伝えた(8)。しかし、実際には、それからさらに2カ月以上、彼はその部屋に陣取って制作を続けた。ホイッスラーがピーコックルームから完全に離れた日が、いつであったのかは明確でないようであるが、ホイッスラーの友人のアラン・コールは、1877年3月5日に孔雀の絵の仕上げに取り組んでいたホイッスラーを訪問し、午前2時までそこにいたと記録している(9)。
ホイッスラーはピーコックルームの制作中から美術ジャーナリストを部屋に招き入れて評を書かせていたが、完成間近になってくると、さらに多くの友人や美術ジャーナリストを招いた。1877年2月9日には、案内状を配布してジャーナリストを招き、記者会見を持った。また、その前後には多くの有名人や友人画家を招き、美術界の有力者であったヘンリー・コールとその息子のアラン・コール、ヴィクトリア女王の娘であったルイーズ王妃、ウェストミンスター公爵、オランダ生まれの画家、アルマ=タデマス夫妻らが訪れた。(10)
悲劇的であったのは、当初、この部屋の装飾を任されていたトーマス・ジキルの訪問であった。彼は、ホイッスラーが作り変えた部屋を見て自宅に戻った直後に精神病の発作を起こし、精神病院に入院したままになった。
新聞や雑誌は、ピーコックルームの装飾を賞賛する評を相次いで掲載した。評の中には、ホイッスラーが床の上に仰向けに寝て先端に絵筆の付いた釣竿を持って、双眼鏡を使いながら天井の装飾の仕上げに取り組んでいる姿を伝えるものもあったが、ホイッスラーのパフォーマンスであったのかもしれない。(11)
ホイッスラーは、ジャーナリズムに対して積極的にPRしていたのであり、ジャーナリズムは絶好の話題としてそれに飛びついていた。評や記事によってホイッスラーはロンドンだけでなく、アメリカでも広く知られる画家となり、ホイッスラーはそのことによって高揚していた。
レイランドは、ホイッスラーが自分の邸宅に勝手に人を招き入れていることを快く思っていなかったとされているが、有名人の招待などにはレイランド夫人のフランセスも関与していたようである。
ピーコックルーム装飾の報酬として、レイランドから最終的には材料代を含めて2000ポンドが支払われたが、ホイッスラーはその額を大いに不満とし、報酬をめぐる対立は解けないままになった。ホイッスラーは、のちにレイランドを吝嗇として痛烈に皮肉る作品《The
Gold Scab(金のかさぶた、1879年)》を描いている。
報酬をめぐるホイッスラーとレイランドの対立は、つきつめてみれば両者の関係がパトロンとそれに従属する芸術家という関係ではなく、自立した芸術家とその作品の購入者という関係であったことを示しているといえるだろう。芸術家は、自らの作品を売ることによって自立することができる。それに際して、作品に自分が正当と思う値段をつけることができる。一方で、購入者はその値段で購入するかどうかを決めることができる。レイランドは、ホイッスラーに宛てた手紙で、「シャッターの内側の孔雀の絵は、確かに絵画としては要求どおり1200ポンドの値打ちがあるものかもしれない」と述べているが、これは作品の価値についてはホイッスラーの主張をとりあえず受け入れるという意思表示をしたことになろう。しかし、「注文を受けないままに、それを設置することは不当である」と述べて、彼は購入を保留した。このように主張することによって、レイランドは購入者の優位を主張したのである。
しかし、ホイッスラーの要求する報酬が予想を大きく超えるものであったにせよ、その要求を拒否し、値切ることは、自らが富裕なパトロンではなく、芸術家と鑑賞者の近代的関係に従った単なる作品の購入者にすぎないことを示すことにもなった。レイランドは、自分を、芸術家を庇護し、従属させる富裕なパトロンであると考えていたのかもしれないが、そうではなかったことが報酬をめぐってのホイッスラーとの対立によって明らかになったのであるともいえるだろう。ホイッスラーとの対立によって、レイランドは大きな精神的傷を負い、それによって寿命を縮めたといわれている。
ピーコックルームのある邸宅は、1892年にレイランドが死去したのに伴なって売りに出され、醸造業を営むホワットニー夫人の所有となった。その後、1904年にホイッスラーのパトロンであったアメリカ人、チャールズ・ラング・フリーアがピーコックルームを買い取り、解体して米国に運び、デトロイトの自宅に移築した。現在は、ワシントンのスミソニアン研究所フリーア美術館に移築されている。(12)
Notes
1) Bendix, Deanna Marohn, Diabolical Designs, Paintings, Interiors, and
Exihibitions of James McNeill Whistler, Smithsonian Institution Press,
1995.
p. 131; Pennell, E. R. and J.: The Life of James McNeill Whistler, J.B.
Lippincott, 1925. p149-150.
2) Bendix, op.cit., p.130.
3) ibid. p.138.
4) ibid. p.136.
5) Dorment, Richard and MacDonald, Margaret F.: James McNeill Whistler,
Harry N. Abrams, 1995.p. 165.
6) Bendix, op.cit., p. 135.
7) ibid.
8) ibid., p.131.
9) Pennell, op.cit., p.151.
10)Bendix, op.cit., p.132.
11)ibid.
12)米国ワシントンD・Cのスミソニアン・インスティテュートに移築されているピーコック・ルーム(スミソニアン・インスティテュートのWeb
Page)
http://www.asia.si.edu/exhibitions/peacockroomdetail.htm
ホイッスラーの作品を集めたサイト:ARTCYCLOPEDIA
http://www.artcyclopedia.com/artists/whistler_james_mcneill.html
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