ホイッスラーの美術論 (15)
ピーコックルーム(2)
ジキルが、その部屋の装飾デザインの中心に置いたのは木を組んだ棚であった。窓側を除く三つの壁の腰板から天井に達するまでの部分に、中国様式やペルシャ様式の細かな模様を凝らした棒状のくるみ材が縦に組まれ、そこに中国陶磁を置くための棚板が渡された。その棚は、細い木材を組んだ格子状という点では障子のようであり、また縦の線を強調した点ではゴシック建築のようでもあった。(1)
棚の奥の壁面には、あるカントリーハウスに使われていたのを買い取った高価な18世紀のスパニッシレザーが張られた。それは、レイランドが選んで入手し、壁面に使うようにと要請したものであった。そのアンティークレザー自体が装飾的価値を持つと同時に、それが陶磁器を引き立てると考えられたようであった。革には、細かいエンボスの模様が施され、リボンや石榴が色彩を強調して描かれ、銀箔の木の葉があしらわれていた。天井は、別の建築家によってすでに設計されており、エリザベス朝様式の星型を組み合わせた桟が組まれ(写真からは星型は天井全体で6ヵ所と思われる)、それぞれの星型の中心にガス燈が吊るされた。(2)
窓側と直角に位置した一方の壁が正面であり、その壁面には暖炉が置かれ、その上部にホイッスラーの《陶磁器の国の王姫》が掛けられた。暖炉の前には、ジキルがデザインした練鉄製の柵とひまわりを形どった薪置き台が置かれた。家具は中央にテーブルを置き、窓側の反対側の壁面にモリス商会製のカウンターテーブルが置かれることになっていた。正面の壁と向かい合った壁にはバーン=ジョーンズの作品とホイッスラーの《3人の少女》が掛けられることになっていた。(3)
ジキルが約6カ月を費やしてこの部屋の改装をほぼ終えたとき、評判はさまざまであった。ジキルを推薦した中国陶磁器輸入商のマークスは、スパニッシレザーが中国陶磁を引き立てると評したが、ホイッスラーの友人の建築家、エドワード・W・ゴドウィンはそのレザーを「ロココ的」であるとした。また、レイランドの友人である事業家、トーマス・サザランドは、「中国陶磁を飾るとレザーが鈍重で、みすぼらしく見える」と感想を述べた。(4)
全体的に見ると、ジキルが作り上げた部屋は、さまざまな装飾的伝統を折衷的に寄せ集めたビクトリアン様式と呼ばれるものであった。建築デザイナーとしてのジキルの才能が発揮されたのは、棒状の木材を繊細に組んだ壁面の棚と暖炉の周辺に置かれる金属製の道具だけであったといえる。ジキルも、部屋の内装がほぼ完成したとき不調和を感じ、それを解決するのはドアや窓の内側に設置されたよろい戸の色彩ではないかと考え、どのような色を使うべきかをレイランドに連絡をとって聞いた。(6)
レイランドは、1876年4月26日に、ホイッスラーに宛てて手紙を書き、ジキルに色彩の使い方について助言するよう要請した。(7)
ホイッスラーは、その仕事を喜んで引き受けた。それ以上に、チャンスとしてとらえたのではないかと考えられている。彼は、才能のある画家として認められてはいたが、十分な収入が得ているわけではなかった。ノクターンなどの作品は、レイランドやアレキサンダーのような通は高く評価していたが、多くの人が求めようとするものではなかった。そうした状況にあった彼にとって、レイランドの依頼は期待を抱かせるものであった。建築の装飾は、多額の報酬が支払われる仕事であり、建築家だけでなく、画家たちも手がけていた。(8)
部屋の下見をした時、ホイッスラーは、オリエンタルカーペットの赤色の縁取りとスパニッシレザーに描かれている赤い花が、自分の作品《陶磁器の国の王姫》と調和していないという感想を抱いた。それをレイランドに伝えると、カーペットの縁を切り落とすこととレザーの花を金箔と黄色に変えることが了解された。さらに、ホイッスラーはコーブを絵で装飾することを提案し、受け入れられた。彼は、その邸宅に泊まりこんで仕事をするようになっていた。また、グリーヴズ兄弟が助手としてついた。(9)
ホイッスラーは、コーブを日本の青海波の様式で装飾した。青海波は、当時、日本の美術工芸への注目に伴なってよく使われる装飾パターンになっていた。一つ一つの波は、孔雀の羽をイメージして金と青の半円形で構成された。(10)
レイランドは、リバプールでの仕事で多忙であり、秋になってから改装の結果を見にくることになっていたが、8月にロンドンを訪れる機会があったときに立ち寄った。その時、ホイッスラーとは会えなかったが、コーブを見て満足し、それを彼に手紙で伝えた。(11)
そのあと、ホイッスラーは、青海波のモチーフを天井、腰板にも広げて行った。三次元的な構成においては、彼はジキルのなしたことを変えようとしなかったが、彼は部屋の壁面や天井を、三次元のカンバスのように見なすようになっていた。彼は窓の内側に取り付けられているよろい戸とドアを孔雀の絵で装飾することも考えていた。(12)
孔雀は、流行しているモチーフであった。ホイッスラーの友人の画家アルバート・ムーアや建築家のエドワード・ゴッドウィンも1872〜1873年に依頼された邸宅の装飾に孔雀のモチーフを使った。ホイッスラーも、レイランド邸の仕事をする前に、銀行家ウィリアム・アレキサンダーの新しい邸宅の装飾のテーマに孔雀を提案していた。その時は、費用が掛かりすぎるとして実現しなかった。また、1884年には、アメリカの画家ジョン・ラファージが、鉄道王ヴァンダービルトがニューヨークに建てた日本趣味の部屋のステンドグラスを製作した際、孔雀をモチーフにしている。(13)
ホイッスラーは、仕事に熱中するようになっていた。休暇でスコットランドを旅行していた友人、レデスデール卿に宛てて書いた手紙では、スコットランドでぶらぶらしていたりしないで、今の仕事の現場を見にきて欲しいと気持ちを伝えている。また、記者に現場を見せ、評を書かせた。記者は、ホイッスラーの仕事振りに感嘆し、「ホイッスラーは新しい境地を切り開いた」と書いた。(14)
ホイッスラーは、その評をレイランドに送って安心させる一方で、完成するまでは見ないで欲しいと気持ちを伝えた。彼は、自分の構想が、依頼主の判断によって頓挫することを恐れていたのだろう。
スコットランド旅行から帰ったレデスデール卿は、10月に、ホイッスラーの仕事の現場を訪れた。ホイッスラーは気が狂ったように高揚した状態で仕事に取り組んでいた。(15)
(写真は、Whistler, James Abbott McNeill : The Gentle Art of Making Enemy,
Dover Publications, 1967.の表紙)
Notes
1-4) Bendix, Deanna Marohn, Diabolical Designs, Paintings, Interiors, and
Exihibitions of James McNeill Whistler, Smithsonian Institution Press,
1995. p.125.
5) ibid., p.121-122, 125.
6) ibid., p.121-122.
7) ibid., p.122.
8) ibid., p.128-129.
9) ibid., p.129.
10) ibid., p.130.
11) ibid., p.129.
12) ibid., p.129-130.
13) ibid., p.135, 128, 桑原住雄:ラファージ、ジョン:画家東遊録(久富貢、桑原住雄訳)、中央公論美術出版、一九八一年。p.252.
14) Bendix, op.cit., p.129-130.
15) ibid., p.131.
ホイッスラーの作品を集めたサイト:ARTCYCLOPEDIA
http://www.artcyclopedia.com/artists/whistler_james_mcneill.html
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