No.25 , June 2001

Art


ホイッスラーの美術論 (14)

ピーコックルーム(1)

 19世紀の後半、ロンドンの画家たちは富豪から邸宅の装飾を依頼されることもあった。こうした仕事は、むしろ画家の伝統的な仕事であったともいえる。ヨーロッパでは、優れた画家たちにとって寺院や王城、貴族の邸宅などの壁画を制作することは大きな仕事であったろうし、わが国でも優れた画家の作品は寺院や城郭などの屏風絵や障壁画として残されている。

 建築物の装飾を目的とせず、絵画それ自体を独立した作品としてとらえることは、もちろん平行してあったのだろうが、それが絵画芸術の主流となっていくのは、多くの人々が個を確立していくのに伴なったことであり、むしろ新しいことといえるのだろう。

 そうした芸術家個人あるいは鑑賞者個人の主体性を解放させた絵画は、版画などの経済的に成立しやすいかたちから発展していったはずである。わが国では浮世絵や南画、ヨーロッパでは銅版画に個の確立への強い衝動がうかがえる。また、ヨーロッパ絵画では、たとえば日常生活のさりげない風景を描いたフェルメール(1632-1675)の絵や農民を描いたブリューゲル(1525-1569)の絵などに、そうした動きへの萌芽が感じられる。

 建築物の一部をなす絵画の制作は、版画などとは対極をなすものであり、依頼者との緊張を強いられる最も束縛の多い仕事であったとみることもできる。しかし、それは巨匠にのみ与えられる仕事であり、画家にとっては才能を大きなスケールで発揮できる機会でもあったいえる。

 ホイッスラーは、1867年に富豪フレデリック・R・レイランドから邸宅の壁を飾る6点セットの作品の依頼を受けたが、それを完成させることはできなかった。このことは、彼が、建築物の一部をなす絵画の制作を重く受け止めていたことを示しているのだろう。

 彼が、再びレイランドから邸宅の装飾の依頼を受けたのは、それからほぼ10年が過ぎた1876年であった。レイランドは、1874年に、ロンドンのプリンシズゲートという地域に新しい邸宅を購入し、内部の改装を始めていた。

 当時、富豪たちが邸宅の内装を、有名な画家たちに依頼するのは流行となっていたようである。ホイッスラーは、銀行家のウィリアム・C・アレキサンダーから家族の肖像画の依頼を受け、1873年に末娘のシシリーの肖像画を完成させたが、同じ年に邸宅の応接間の改装のデザインも依頼された(1)。また、レイランドが、1868年にロンドンのクイーンズゲイトという地域に邸宅を購入した際には、改装のデザインはウィリアム・モリスのモリス商会に依頼され、エドワード・バーン=ジョーンズが壁紙のデザインを指導した。また、アルバート・ムーアも内装のデザインに協力し、ホイッスラーは絵画の配置について助言した(2)。

 レイランドが、プリンシズゲートに別の邸宅を購入したのは、収集した絵画や陶磁器を飾るにはクイーンズゲイトの邸宅が手狭になったためのようである。ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティは、美術品を飾るのにふさわしい棟を増築するか新しい邸宅を購入するようレイランドに勧めていた(3)。

 レイランドのプリンシズゲートの邸宅の装飾はロセッティとモリス商会に依頼され、壁紙が入念に選ばれた。また改築は、リチャード・ノーマン・ショウという建築家に依頼された。ダイニングルームの内装は、ホイッスラーの《陶磁器の国の王姫》と染付の陶磁器のコレクションで飾ることが基調とされ、マレー・マークスという中国陶磁器の輸入商の推薦によってトーマス・ジキルという建築家に依頼された。(4)

 ホイッスラーは、当初、色彩コンサルタントとしての仕事を依頼され、それとともに玄関ホールの階段沿いの腰板の装飾も担当した。腰板に、彼はバラの花、そして竹を組んだ格子の上に咲くアサガオの絵などを描いた。アサガオの絵は、日本の版画集を手本にして描かれたと見られている。(5)

 レイランドは、玄関ホールの装飾も趣向を凝らしたものにしようとしていたが、それよりもさらに重視していたのはダイニングルームの内装であった。

 それを依頼されたトーマス・ジキルは、ホイッスラーとは1860年代の始め頃からの友人であった。彼は、ネオゴシック建築の専門家であったが、やがて鋳物製の門扉や暖炉の周辺に置く金属製の道具のデザイナーとして高く評価されるようになった。その後、1867年のパリ万国博覧会を見てからは、彼は日本の美術工芸から強い影響を受けるようになった。彼は、ロンドンのジャポニストの草分けの一人であるとみなされている。(6)

 1870年代の始めには、ジキルは、ロンドンの画家たちのパトロンでありホイッスラーの作品も買っていたギリシャ人事業家、アレキサンダー・イオニデスの邸宅のビリヤードルームの内装を依頼され、アングロ=ジャパニーズと呼ばれるようなスタイルの部屋を作り上げた。1876年のフィラデルフィア万国博覧会では、彼がデザインした、仏教寺院を模した金属製のパビリオンが注目された。(7)

 中国陶磁の陳列とともに日本の豪華な着物を着た女性を描いたホイッスラーの《陶磁器の国の王姫》を装飾の主要なポイントにしようとしていたことからもうかがえるように、レイランドはダイニングルームの内装を、東洋趣味、そしてとりわけジャポニスムのスタイルのものにしようとしていたのだろう。デザイナーとしてジキルが選ばれたのは、そのためであった。さまざまな要素をいかに組み合わせて、一つの部屋をどのように作り上げるか、ジキルは懸命になってその仕事に取り組んだ。

(写真は、Edward Burne-Jones、51歳時、F. Hollyerによる写真
G B-J: Memorials of Edward Burne-Jones, Vol.II 1868-1898, The Macmillan Company, 1904. p.140.)

Notes

1) Bendix, Deanna Marohn, Diabolical Designs, Paintings, Interiors, and Exihibitions of James McNeill Whistler, Smithsonian Institution Press, 1995. p.110.
2) ibid. p. 119.
3) ibid. p. 120.
4) ibid.
5) ibid. p.120-121.
6) ibid. p.122.
7) ibid. p.123-124.

ホイッスラーの作品を集めたサイト:ARTCYCLOPEDIA
http://www.artcyclopedia.com/artists/whistler_james_mcneill.html
 


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