No.24 , May 2001

Art


ホイッスラーの美術論 (13)

 ロンドンのチェルシー地区には、テームズ河に沿う広大な敷地にクレマーンガーデンズという遊園地があった。ホイッスラーは、1863年にチェルシー地区に住むようになって以来、恋人のジョアンナや弟子グリーヴス兄弟を伴なって、ここで夜を過ごすことが多くあったようだ。そこは、ホイッスラーの家からは歩いて行ける距離にあり、近くの「チューダーハウス」と呼ばれていた邸宅に住んでいたダンテ・ゲイブリエル・ロセッティもよくここを訪れたという。(1)

 この施設の歴史は1830年にさかのぼる。チャールズ・ド・ベレンジェという貴族が、この土地を買い取って、セーリング、水泳、釣り、射撃、体操場、フットボール場、クリケット場、レスリング場、軍事訓練場、スケート場、馬場など、あらゆるスポーツが楽しめる施設を備えたスポーツクラブを開設した。(2)

 その後、遊園地として発展し、1836年には夜になると花火が打ち上げられるようになり、その翌年には、音楽演奏の認可を取得してダンス場が設けられた。さらに1839年には、ボーリング場、ガラス張りのグロット(東屋)、サーカス、劇場、人形劇、ジプシーのテント小屋、中国スタイルの劇場なども加えられた。(3)

 グリーヴス兄弟の、弟の方のウォルターはホイッスラーの制作中の姿などを絵として記録しているが、ホイッスラーがこのクレマーンガーデンズに遊ぶ風景も描いている。この絵は、建築物などを微細に描くことを得意とした兄ヘンリーとの共同作品であるが、その絵を見ると、パリなどの威容を誇る建築物を模したと思われるような建物が立ち並んでいる。また、中国様式のパゴダ(塔)やスイスの都市ベルンのミニチュア、スイス風の山荘、ベルサイユ風のプロムナードなどもあったとのことであり、こうした各国の建築物を模した建物が作り出すエキゾチックな雰囲気が、この遊園地の一つの魅力となっていたのだろう。(4)

 パリやロンドンの他の場所にもこのような遊園地があったようであるが、すべての娯楽をパックした施設として賑わったのだろう。グリーヴス兄弟の絵からは、博覧会場、あるいはディズニーランドのような雰囲気も感じられるが、博覧会場からもヒントを得て形成され、後に各地にできたいろいろな遊園地に影響を与えたにちがいないと思われる。

 1845年にベレンジェが死去したあとも、クレマーンガーデンズは新しい経営者のもとで発展を続け、さらに大衆化が進んだ。小額の入場料を支払えば誰でも入場できるようになり、1000人を収容できる宴会場や劇場が新たに追加されたほか、中国人オーケストラが入るパゴダの円形の舞台を取り巻く屋外スペースでは、4000人がダンスを楽しめるようになった。また、人気歌手の出演やオペレッタの上演にも人気が集まった。1862年には気球も上げられるようになり、グリーブス兄弟は、着飾った男女が集う中、気球が上がっていく休日の午後と思われるクレマーンガーデンズの風景も描いている。(5)

 1870年代のある日のプログラムを見てみよう。(6)
 午後6時 器楽コンサート
    7時 ハンガリアン・ダンサーズ公演(シアターロイヤル)
       コミック・シンガーズ・アンド・ダンサーズ
       腹話術、ものまね
    8時 ボワセ・ファミリーのアクロバット演技
    9時 人形劇場:オペレッタ
   10時 コミックバレエ(シアターロイヤル)
       花火
   11時 コンサート(閉場まで)

 通常は午後3時か4時頃開園し、多様な客が集まり、花火の打ち上げが終わるまではダンスをはじめないというのが決まりであったようだという。また、主要な競馬やボートレースがあった日や休日の夜には、飲み騒ぐ場ともなっていた。(7)

 人々は高揚した時間を過ごすために、ここを訪れたのだろう。また、ここは、娼婦たちと出会うことのできる享楽の場でもあったようだ。そのようなことのために批判も強くあり、すでに1857年にはチェルシーの地域団体が、この遊園地の認可を取り消すよう求めており、漫画で風刺の対象にされることもしばしばであった。そうした批判や曲芸師の事故が何度かあったことなどを理由として、クレマーンガーデンズは1877年に認可が取り消され、閉鎖された。(8)

 ホイッスラーは、クレマーンガーデンズを作品の題材にした。最も有名なのは、《黒と金色のノクターン:落下する花火》(1875年)である。暗い夜空に打ち上げられ、落下する花火を、ホイッスラーは色彩のアレンジメントとして描いた。1877年にジョン・ラスキンがこの絵を自分が発行する刊行物で批判したことから有名な訴訟事件が起きた。

 《クレマーンガーデンズ、No.2》(1872―1877年)は、夜の薄暗い光の中に遊ぶ何人かの着飾った男女を描いている。中央には一人の男が立ち、周りには3人の女が立つ。さらにそのそばを一人の女が過ぎていく。また、右の方には樹木の下に置かれた椅子に座わる4人ほどの男女が描かれ、そのうちの一人の男は周りの人間とはかかわりを持たず、ただ優雅に足を組んで腰掛けているだけである。

 中央の男女は、男と娼婦の冷やかし合いあるいは交渉の風景を暗示し、右端の一人座る男は、都市の人々を隔絶した立場から観察するボードレールのボヘミアン的ダンディを表現しているのではないかとされている。(9)

 この絵は、題材の取り方に、マネの《テュイルリーの音楽会》(1862年)やルノワールの《ムーラン・ド・ラ・ギャレット》(1876年)との類似性が指摘されている。これらの作品が午後の明るい光のもとで陽気に遊ぶ人々を描いているのに対し、ホイッスラーが描いているのは夜の暗がりの中のぼんやりとした風景である。

 パリの画家たちの題材のとり方にヒントを得たかもしれないにせよ、ホイッスラーは印象派を形成しつつあったパリの画家たちとは異なった芸術を目指しており、彼が、この作品で意図したのは、ノクターンと同じように、現実の風景を光と色彩のアレンジメントに転換することであったのだろう。

 (写真は、Whistler, James Abbott McNeill : Whistler on Art, Selected Letter and Writings 1849-1903 of James McNeill Whistler, Edited by Nigel Thorp, Fyfield Books in association with the Centere for Whistler Studies, University of Glasgow, 1994.)

Nocturne in Black and Gold: The Falling Rocket (Detroit institute of Arts)
http://www.dia.org/collections/amerart/tonalism/index.html

Note

1) Anderson, Ronald and Anne Koval : James McNeill Whistler, John Murray, 1994. p.148-149.
2) Chaleyssin, Patrick: James McNeill Whistler, The Strident Cry of Butterfly, Parkstone Press, 1995. p.47.
3) ibid.
4) Denker, Eric: In Persuit of the Butterfly, Portraits of James McNeill Whistler, National Portrait Gallery in Association with the University of Washington Press, 1995. p.103-105.
5) Chaleyssin, Patrick, op.cit., p.47-48. ; Denker, Eric, op.cit., p.104-105.
6) Chaleyssin, Patrick, op.cit., p.48.
7) L・C・B・シーマン:ヴィクトリア時代のロンドン(社本時子、三ツ星堅三訳)、創元社、1987年。p.206-207.
8) Chaleyssin, Patrick, op.cit., p.52.
9) Dorment, Richard and MacDonald, Margaret F.: James McNeill Whistler, Harry N. Abrams, 1995. p.134-135.

ホイッスラーの作品を集めたサイト:ARTCYCLOPEDIA
http://www.artcyclopedia.com/artists/whistler_james_mcneill.html
 


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