No.22 , March 2001

Art


ホイッスラーの美術論 (12)


 1870年代になり、30代の後半に達したホイッスラーは、肖像画家としての地位を確立しながら、テームズ河を描く風景画家としても認められるようになった。

 「テームズセット」と呼ばれる彼のエッチング集《テームズ河風景ほか16点のエッチング》が、ロンドンのトーマス・アグニューの店から発売されたのは、1871年5月頃である。これに集められたのは、ロンドンのワッピング地区の港湾風景を描いた《ブラックライオン埠頭、Black Lion Warf》《ロザハイズ、Rotherhithe》など、1859年頃から1863年にかけて制作された作品であった。主要なものは、すでにロイヤル・アカデミー展で発表されていたが、版画集として発売されると、『パンチ』誌が好意的な評を載せるなど、彼のエッチング作家としての技量は改めて高く評価された。(1)

 このエッチング集が刊行されたあとの1871年の夏、彼は自宅二階のアトリエから見える夕暮れ時のテームズを描いた。

 その夏、ホイッスラーは母アンナの肖像を描いていた。アンナが疲れ、モデルをつとめることができなかったある日、彼は気晴らしのためにアンナを連れ添って蒸気船に乗り、ウエストミンスターに住む友人を訪ねた。午後遅くリンゼイ通りの家に帰ると、夕暮れ前のテームズはまれに見る澄み切った輝きを呈していた。その光景をとらえようと思い立ち、彼はすぐに2階へかけあがり、母の手伝いを得ながら《Nocturne: Blue and Silver-Chelsea》を仕上げた。その日の午後、彼は、この作品のほかに《Variations in Violet and Green》と題名を付けられている作品も描いたとされている。(2)

《Nocturne: Blue and Silver-Chelsea》は、薄い木板の上に濃いグレーで下地を作り、その上に水彩画のようなタッチで夕暮れ時のテームズの光景を浮かび上がらせている。(3)

 まだ輝きを残す空、すでに点々と灯がともり始めた河岸の建物の暗い影、空の薄明かりを反射する川面とそこに映る河岸の建物の影、手前に浮かぶ寂しげな艀とそばに立つ漁師あるいは水鳥と思われるものの影。

 それらは日ごろから見慣れた風景であり、描きなれているものでもあったにちがいないが、その日、ホイッスラーが急に描こうと思い立ったのは、その風景を染めている光と色彩であったのだろう。また、彼が心の中に作り上げていたテームズの風景であったと想像することもできる。

 ロンドンに住み始めた1850年代の後半以来、彼はテームズを描き続けていた。はじめは工業や海運でにぎわうテームズ河の港湾風景やテームズにかかる橋を画題とし、日本の版画に学びながら構図をとり、リアリズムの立場に立ちながら西洋絵画の伝統的に根ざした手法で描いた。

 1860年の半ば頃になると、彼はリアリズムや西洋絵画の伝統的手法から離れた。トゥルーヴィルでは風景を光と色彩のハーモニーとしてとらえ、ヴァルパライソ滞在中にその方法を確固なものにした。

 《Nocturne》は、そうした探求が行き着こうとしているところであった。画面を水平に分割した構図のとり方には、やはり日本の版画の影響が強く感じられる。また、手前に浮かぶ艀やその側の人物あるいは水鳥の影は、広重の版画や染付けの陶磁器に描かれている絵の影響を感じさせる。彼にとって日本や中国の美術は離れることができないものであったのだろう。

 秋なると、《Nocturne: Blue and Silver-Chelsea》と《Variations in Violet and Green》は、ロンドンのダッドレーギャラリーに展示された。1871年の11月14日、『タイムズ』は、この作品についての次のような評を掲載した。

 「これらの作品は、この画家だけが有しているものではないが、この画家が最も明確に、そして有能に作品化した理論を図化している。すなわち、絵画は音楽にきわめて似たものであり、絵画において色彩は音楽における秩序だった音のように用いることができ、またそのように用いられなければならない。絵画は、歴史的な事件や自然界における事実を記録することによってドラマチックな情緒を表現するものであってはならず、色彩の微妙なコンビネーションによってわれわれの感情を形成したり想像力をかきたてたりすることにおいて満足すべきである。色彩の微妙なコンビネーションによって、絵画は語るべきものは語り得る。それを越えたところでは、絵画は価値を有しないし、真実の語りかけもできない」(4)

 この理論は、この作品の意図としてホイッスラーが考えていたことを評者が聞き出したものではないかとも考えられる。また、「すべての芸術は絶えず音楽の状態に憧れる」(5)と『ルネッサンス』(初版1873年)で論じたウォルター・ペイターの芸術論との関連も感じさせる。

 テームズの夜の風景については、ホイッスラーは、1885年の美術論講演『十時』の中で次のように語っている。

 「夜霧が河岸をベールのように詩情で包むとき、貧しげな建物は薄暗い空の中に消え、高い煙突は鐘楼となる。夜には倉庫は宮殿と化し、都市全体が空のもとに懸下され、われわれの前に美しい土地が現れる。だが、旅人は家路を急ぐ。働いている者も教養がある者も、賢明な者も遊び興じている者も、皆わかろうとすることをやめ、見ることをやめる。その時、自然は合唱をやめ、彼女を愛する息子、そして彼女を知っている匠である芸術家、彼だけに向けて特別な曲を歌い掛けてくるのである」(6)

 彼は、都市の詩情を色彩で表現することに取り組んでいたのだろう。

 1860年代の後半になると、ホイッスラーは色彩のコンビネーションについて深く考えるようになっていた。1868年にファンタン=ラトゥールに宛てた手紙では、こう書いている。

 「色彩は、キャンバスの上に刺繍されるべきであると自分には思える。すなわち、刺繍糸のように一つの同じ色彩がいろいろな場所に現れるべきであると思う。そしてまた別の同じ色が、重要度に応じていろいろな場所に現れるべきであると思う。このようにして、全体が一つの調和したパターンをなす。このことを日本人がいかによく理解しているかをみてほしい。彼らはコントラストを求めようとしているのではなく、その反対であり、繰り返しを追求している」(7)

 日本美術の影響という点から見れば、ホイッスラーのジャポニスムは構図の模倣や日本の美術工芸品を画題にとり入れることからスタートして、1860年代後半には色彩の使い方へと進んでいた、ということができるだろう。

(写真は、Denker, Eric: In Persuit of the Butterfly, Portraits of James McNeill Whistler, National Portrait Gallery in Association with the University of Washington Press, 1995の表紙。Giovannni Boldiniによるホイッスラーの肖像画(1897年)、ニューヨークのThe Brooklyn Museum所蔵を使っている)

Nocturne: Blue and Silver-Chelsea
(Tate Gllery's site)
http://www.tate.org.uk/servlet/AWork?id=15708

引用文献

1) Anderson, Ronald and Anne Koval : James McNeill Whistler, John Murray, 1994. p.179.
2) Dorment, Richard and MacDonald, Margaret F.: James McNeill Whistler, Harry N. Abrams, 1995. p.122.
3) Ibid., p.123.
4) Anderson, Ronald and Anne Koval, op.cit., p.181.
5) ペイター、ウォルター:ルネッサンス、美術と詩の研究(富士川義之訳)、白水社、一九九三年。p.141.
6) Whistler, James Abbott McNeill: The Gentle Art of Making Enemy, Dover Publications, 1967. p.144.
7) Whistler, James Abbott McNeill : Whistler on Art, Selected Letter and Writings 1849-1903 of James McNeill Whistler, Edited by Nigel Thorp, Fyfield Books in association with the Centere for Whistler Studies, University of Glasgow, 1994. p.33-35.

ホイッスラーの作品を集めたサイト:ARTCYCLOPEDIA
http://www.artcyclopedia.com/artists/whistler_james_mcneill.html
 


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