ホイッスラーの美術論 (11)
フレデリック・レイランドからの依頼で、《Six
Projects》の制作に取り組んでいた頃、ホイッスラーは自分の描写力が不十分であることを痛感するようになっていた。その頃、ホイッスラーを自分のフラットに住まわせ、アトリエを使わせていた建築家のフレデリック・ジェイムソンは、彼が自分の作品について語るのを聞き、彼が世間から見られているほど自信過剰の画家ではないことを知った。「彼はもちろん自分の実力を知っていたが、自分の欠点も痛々しいほど良く知っていた。一例をあげると、描写力である」(1)と述べている。
ホイッスラーは、《Six Projects》を完成させることができなかったが、その制作過程でも自分の描写力の不足を痛感するようになったのだろう。
描写力を磨くために、ホイッスラーは、チェルシーのライマーストン通りでヴィクター・バースという画家が夜間に開いていた人物画教室に通うようになった。この教室には、ホイッスラーの弟子となっていたグリーヴス兄弟も付いて行った。
グリーブス兄弟は、1863年にチェルシーのリンゼイ通りへ住みはじめたときに知り合った近所の河舟の造船所の息子たちであった。父親のチャールズ・グリーヴスは、やはりチェルシーに住んでいたターナーを知っていた。一家は、芸術家を愛する気風を持っており、ホイッスラーはすぐに一家と親しくなった。グリーヴス家には6人の子供がおり、ホイッスラーは娘をモデルとして描いたり、息子たちと河舟に乗って気晴らしをしたりしていたが、やがて17歳のウォルターと19歳のヘンリーはホイッスラーの助手をつとめるようになった。1869年の春に、ブルムズベリーのジェイムソンのアトリエからチェルシーの自分のアトリエに戻り、スケッチをもとに《Six
Projects》の制作に取り組んでいたときもグリーヴス兄弟は助手をつとめていた。
ホイッスラーは、依頼を受けて肖像画を描いていくうえでも、さらに描写力を向上させる必要があった。一流の肖像画が描けることは、当時の画家にとって収入を安定させることを意味した。
やがてホイッスラーは、肖像画家としての評価を確立していったが、そのスタートになったのは、1871年の夏に描いた母の肖像画であった。ホイッスラーの作品としては、おそらく最もよく知られている《Arrangement
in Grey and Black: Portrait of the Artist's Mother》である。母アンナは、ホイッスラーのリンゼイ通りの家に住み、彼の身の回りの世話をしていた。初めの数日間、彼女は立位のポーズをとっていたが、疲れるためにいすに座った姿勢に変えたといわれている。ホイッスラーは、いすに腰掛けた母を真横から描く構図をとった。背景の壁に掛けられているのは、額に入れられた彼のエッチング作品《Black
Lion Warf》のようである。黒と灰色を基調にした背景の中に、ホイッスラーは、ピューリタンらしい母の厳格な表情を描いた。
ホイッスラーは、この作品をレイランドに見せた。肖像画を描く自分の力を示すことも意図していたのだろう。《Six
Projects》を完成させることはできなかったものの、レイランドとの間に画家とパトロンの関係は続いており、レイランドは、リバプール郊外に借りていたスピクホールという荘園住宅に、しばしばホイッスラーや彼の母アンナを招いて滞在させた。
1871年11月にスピクホールに滞在していたときに、ホイッスラーは、レイランドと彼の妻フランセスの等身大の肖像画を描き始めた。これらの作品は、彼が依頼を受けて描いた肖像画の最初のものになった。フレデリック・レイランドの肖像画はすぐに仕上がったが、フランセスの肖像画が完成したのは1874年である。
スピクホールに何度か滞在している間に、ホイッスラーは、レイランド夫妻や子供たち、またその荘園住宅をスケッチし、それをドライポイントのエッチングにした。
1872年の春のロイヤル・アカデミーに、ホイッスラーは、《母の肖像》を応募した。審査員たちの評価は低く、落選の憂き目に遭うところであったが、ウィリアム・ボクスオール卿という、ホイッスラーと親しかった審査員が、アカデミー会員の辞任をかけて主張を通したために入選が決まった。ホイッスラーは、プライドを傷つけられたに違いなく、彼がロイヤルアカデミーに応募するのは、これが最後になった。
アカデミーでの展示では、《母の肖像》は冷遇され、展示位置はよくなかった。しかし、収集家たちの目に触れたのをきっかけにして、ホイッスラーは肖像画の依頼を受けるようになった。最初に依頼してきたのは、ロセッティの紹介を通して以前に彼の《Symphony
in White, No.3》を購入したことのあるルイス・ハスという富裕な収集家であった。彼は、妻へレンの肖像画を依頼してきた。この肖像画は完成までに2年かかり、《Arrangement
in Black, No.2: Portrait of Mrs Louis Huth》という題名がつけられた。
1872年の夏の終わり頃になると、近くに住む親しい収集家であったエミリー・ヴェンチュリ夫人が、トーマス・カーライルとともにホイッスラーのアトリエを訪れ、ホイッスラーはカーライルの肖像画も描くことになった。《Arrangement
in Grey and Black, No.2: Thomas Carlyle》は、翌年に完成した。
冬になると、富裕な銀行家であり、収集家であったウィリアム・アレキサンダーが家族全員の肖像画を依頼してきた。ホイッスラーは、長女のアグネス・メアリから描き始めたが、まもなく中断し、8歳であった一番下の娘シスリーを描き始めた。それが、《Harmony
in Grey and Green: Miss Cicely Alexander》である。この作品は1874年に完成した。
それまでに描いた母、レイランド、ハス夫人、カーライルらの肖像は、黒を基調にして人物の重厚な雰囲気をとらえているが、この作品は薄緑がかった灰色を基調にして、少女の無垢な明るさと富裕階級の子女の威厳のようなものをとらえている。
これらの肖像画を描く上で、ホイッスラーが一つの手本としたのはヴェラスケスであったいわれている。レイランドやハスは、本物であったのかどうかははっきりしないがヴェラスケスの作品を所有しており、ホイッスラーもヴェラスケスの作品の写真を持っていた。また、カーライルとシスリー・アレキサンダーの肖像画には、蝶を図案化した落款が印されている。これは、日本の版画から取り入れたものだろう。彼のジャポニスムは、このようなところにも現れている。
(写真は、Spencer, Robins : Whistler, Portland House, 1990.の表紙カバーに使われている《Arrangement
in Grey and Black: Portrait of the Artist's Mother》
引用文献
1) Pennell, E. R. and J.: The Life of James McNeill Whistler, vol.I, William
Heinemann, 1908. p.148.
2) Anderson, Ronald and Anne Koval : James McNeill Whistler, John Murray,
1994.
3) Dorment, Richard and MacDonald, Margaret F.: James McNeill Whistler,
Harry N. Abrams, 1995.
4) Spencer, Robins : Whistler, Portland House, 1990.
5) Laver, James : Whistler, Faber and Faber, 1951.
ホイッスラーの作品を集めたサイト:ARTCYCLOPEDIA
http://www.artcyclopedia.com/artists/whistler_james_mcneill.html
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