No.9 November1999

Art

ホイッスラーの美術論 (1)

 ジェイムズ・マクネイル・ホイッスラーは、1885年2月20日にロンドンのプリンシズ・ホールで講演し、自らの美術論を述べた。開始の時間を夜の十時にして、単に「十時」という題にしたこの講演は、彼の芸術家としての考え方や、当時のロンドンの美術界を知るうえで興味深い。この講演が企画された背景には、真摯な芸術家としての自らのイメージの確立、オスカー・ワイルドへのライバル意識、ジョン・ラスキンらへの批判などの意図もあったとされている。「十時」の講演内容を追っていけば、ホイッスラーの姿だけでなく、一九世紀末のロンドンの美術界の様子も見えてくる。

 「十時」の講演を企画するにあたって、ホイッスラーはアーチボルド・フォーブスというジャーナリスト兼講演家に助言を求めたとされている(1)。一九世紀末のイギリスやアメリカでは、講演家が知的な娯楽を供給するタレントとして人気を博していた。フォーブスは、そうした講演家の一人であった。アメリカでは、マーク・トウェインが講演家として人気を博し、それを足がかりにベストセラー作家になったことが知られている。そしてイギリスでは、オスカー・ワイルドが講演家として人気を博していた。

 こうした講演は、もちろん興行であった。専門の事業家がおり、講演家はタレントとして出演を求められたのである。ワイルドは、1882年には、アメリカへ行くことを依頼され、ほぼ1年間、講演しながらアメリカを旅行した。

 このアメリカ講演旅行のとき、ワイルドと一緒だったのがフォーブスであった。二人は、この講演旅行を機に犬猿の仲になった。フォーブスは、ワイルドの服装や態度を不愉快と感じ、一方、ワイルドはフォーブスを「老いぼれの従軍記者」と見下すようになった。(2)

 ホイッスラーが、そのフォーブスに助言を求めたのは、ワイルドに一泡吹かせてやろうとのねらいがあったためだろうとされている。それまで、ホイッスラーとワイルドは親友だった。ワイルドが、妻の持参金を使って自分の家につくった日本趣味の応接間をデザインしたのもホイッスラーだった。

 ホイッスラーが、ワイルドとの対抗意識を強めていたのは、一つにはパフォーマーとしてであった。ワイルドは、奇異な目立つ服装をして、日常でも演劇的なパフォーマンスをすることで話題になっていたが、ホイッスラーはそれに対抗意識を燃やしていた。当時の彼は、黒あるいは淡黄褐色のフロックコート、白のズボン、エナメル革の靴、フランス・スタイルのまっすぐな縁のついたトップハットという服装で、長いステッキを持っていた(3)。

 しかし、こうした目立つ服装は、ワイルドのまねをしているだけと受け取られかねなかった。ホイッスラーは、芸術家として、ワイルドとの差異を明確にする必要性を感じていたのである。また、芸術を論じるうえで、上位に立つのは詩人か画家かという問題でもホイッスラーは、ワイルドに対抗意識を持っていた。ワイルドは、芸術を論じるうえで最高位に立つのは詩人であるという優越意識を持っていたが、ホイッスラーは詩人が絵画の評価をめぐって、あれこれと文学用語を使って述べ立てるのは気に入らないという意識を持っていた。『芸術家としての批評家』の中で「画家や彫刻家の用いる材料など言葉にくらべりゃあ貧弱」(4)とギルバートに語らせているように、ワイルドは画家を単なる「絵描き」として見下そうとする傾向を持っていた。それに対して、ホイッスラーは、画家も詩人と対等の芸術家であるとの主張を持っていたのだともいえる。

 この問題に関して、ホイッスラーは、ジョン・ラスキンとの訴訟事件という苦い経験を味わっていた。1877年に、ラスキンは、暗い夜空に散る花火を描いたホイッスラーの『夜想曲』を、「間違った教育による自惚れが悪意に満ちたぺてんの域にまで近づいている」と酷評し、さらに「公衆の顔に絵具の壷を投げつけているようなものに高い値段を付けてはならない」とその絵を展示した画廊主を批判した。

 ホイッスラーは、この批判によって侮辱され、著しい損害を被ったとしてラスキンを訴えた。法廷で、浮世絵の構図を模した作品『夜想曲:青と金―古いバッテルシー橋』について法相が「橋の上の影は人間を意図して描いているのですか」と質問したのに対し、ホイッスラーは「それらはどのようにでも受け取れます。この絵が何を表しているのかについて言えば、それはだれがそれを見るのかによります」と答え、作品の意味はそれを見る人によって決められるという考え方を示した。

 この訴訟でラスキンは勝訴したが、これをきっかけにオックスフォードの教授を辞職するという代償を支払った。ホイッスラーも訴訟費用の負担によって破産するという痛いめにあった。借金を返済するためにヴェニスへ行ってエッチングを制作したあと、一八八〇年にロンドンへ帰って再びロンドンの画壇で活動していたホイッスラーは、ラスキンに対しても、さらに何かひとこと言いたいという考えを持っていたにちがいない。

 このように、ホイッスラーはワイルドやラスキンへの対抗意識を燃やし、彼らの批判をもくろんでいたのであるが、その根底には唯美主義の批判、否定という彼の芸術論があった。彼の、その唯美主義の批判、否定には、モダニズムの萌芽を読み取ることができる。

(写真は、弟子、メンペスによるホイッスラーの肖像画 :Menpes, Mortimer : Whistler as I knew him, Adam and Charles Black, 1904.の口絵)

引用文献

1) Anderson, Ronald and Anne Koval : James McNeill Whistler, John Murray, 1994. p.263.
2) Ibid.
3) Spencer, Robins : Whistler, Portland House, 1990. p.29.
4) ワイルド、オスカー:オスカー・ワイルド全集4(西村考次訳)、青土社、一九八九年。p.99.

(ホイッスラーの伝記的記述は、Spencer, Robins : Whistler, Portland House, 1990、ワイルドの伝記的記述は、Holland,Vyvyan: Oscar Wilde, Thames and Hudson,1960,1966.を基本にした。)


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