No.8 October 1999
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内的独白あるいは自伝
エズラ・パウンドは、1913年のエッセイ、「The
Serious Artist(真摯な芸術家)」で、「芸術、文学、詩は一つの科学である。化学が一つの科学であるのと同じように」(1)と書いている。そして、科学としての芸術のテーマは、「人間、人類、そして個人である」と述べている。また、芸術は、「人間の本質、精神的な存在としての人間、思考し直覚力のある生物としての人間についての永続的で確固としたデータのうちの多大な部分を供する」ものであるという。さらに、芸術は、「医学という科学が離れようとするところから始まり、芸術と医学は部分的に重なるところがある。芸術、医学という二つの技能の境界は交差している」とも述べている。
芸術をこのように捉えることによって、彼は、古来から一九世紀後半の自然主義、印象主義にいたる芸術の伝統に対して、自己の認識を示したのだろう。
しかし、さらに同じエッセイの中で、「真摯な芸術家は、自分の欲望、嫌悪、無関心のイメージを、自分自身の欲望、嫌悪、無関心のイメージとして精確に呈示するという点で科学的である。彼の記述が精確であればあるほど、彼の芸術作品は永続性と確実性を持つ」(2)と書いたとき、彼は、二十世紀の芸術の展開を予感していたのだといえる。芸術をそのように規定することは、内的独白あるいは自伝というスタイルを求めることにほかならなかったともいえるからである。
彼が予感したように、内的独白と自伝は、モダニズム文学の主要なスタイルになっていった。ジョイスの『ユリシーズ』も、エリオットの『荒地』も、彼の『キャントウズ』も、内的独白あるいは自伝というスタイルをとっている。内的独白あるいは告白、そして自伝というスタイルは、二十世紀芸術を特徴づけるスタイルであったといってよいのだろう。80年代から90年代にかけて、アメリカでは美術の分野でも自伝というスタイルが試みられるようになった(3)。
内的独白と自伝というスタイルは、芸術における人間研究の新しい展開が、必然的に求めたものであったともいえるだろう。一九世紀後半の自然主義文学を特徴づけていたのが他者や世界の精確な観察であったとすれば、モダニズム文学の内的独白の根底にあったのは、パウンドが芸術の意義として規定したような自己の精確な観察であったといえるだろう。自然主義が確立したのが客観的リアリズムであったとすれば、モダニズム文学が挑んだのは主観的なリアリズムであった。そして、自然主義文学に大きな影響を与えたのが、微生物学などの自然科学の発達であったとすれば、モダニズム文学に大きな影響を与えたのはフロイドの精神医学であったといえるだろう。
内的独白と自伝というスタイルの採用は、観察者の立場を根底から変えることでもあった。自然主義において観察者は、自然現象を観察する科学者、患者を診察する医師、社会現象を観察する社会科学者やジャーナリストのような立場に自分を置く。しかし、内的独白というスタイルにおいて、観察者は、観察者であると同時に観察される立場に自分を置くのである。そのようにして、彼は、科学者であると同時に彼によって観察される自然現象、医師であると同時に彼によって診察される患者、医師を前にして自らの症状と既往歴を語る患者、社会科学者やジャーナリストであると同時に彼によって観察される社会現象などに等しい立場に自分を置く。
1912年のエッセイ「私はオシリスの四脚を集める」で、パウンドは、「彼(芸術家)の仕事は心理学と形而上学の永遠の基礎として残る」(4)と書いているが、自己によってであれ、芸術家が観察される立場に自分を置くことは、自己を人間研究の材料として呈示することであり、自己犠牲的な行為でもあるということになるだろう。そうして、彼は歴史の中に自分を印し、その自己犠牲的な行為によって崇高な存在にもなっていくのである。
ジェルジ・ルカーチは、「内的独白」というモダニズム文学のスタイルを決めているのは、モダニズム作家たちの、歴史の否定、人格の分裂、精神病理への傾倒などであるとしている(5)。ジョイス、ムジール、カフカら主要なモダニストの作品の主人公たちに反映されているのは、「人間は孤独であり、非社会的であり、他の人間との関係を築き得ない」(6)という存在論的な見方であり、人間の状況に対してのこうした見方は、「人間の存在は、状況の中に投げ込まれた(被投された)ものであり、人間の存在の根源と目標を理論的に決めることはできない」というハイデガーの哲学と共通しており、その見方の中では人間は非歴史的な存在と見なされているという。そしてモダニズム文学の中の主人公たちは、「世界との接触によって発展することはなく、世界を形成することもなければ、世界によって形成されることもない」(7)という。
もちろん、ルカーチは、モダニズム文学を否定的に見ているのである。人間は、モダニズム文学の主人公たちのように個人的な存在ではなく、外界との相互関係によって存在する社会的な存在であり、文学においても人間はそのような存在でなければならないと彼は主張しているのである。また、彼は、モダニズム文学の精神病理への傾倒は、社会的現実からの逃避であるとみなし、その不毛性を指摘しているのである。そして、彼は、モダニズム文学は展望を欠いているとも指摘している。
ルカーチは、モダニズム文学の特徴を、きわめて的確に捉えているといえるのだろう。だが、現代において文学が示しうる社会的展望とは何であろうかと問うとき、彼の指摘もモダニズム文学と同じように展望を欠いているように思える。人間が社会的存在である以上、展望が求められることは当然であるが、それを示すことは現代において文学の役割であるのだろうか、あるいはたとえば社会科学の役割なのであろうか、文学は展望について考えるための精確なデータを提供するものではないのだろうか、という問いかけも可能だろう。
パウンドが、「真摯な芸術家は、自分の欲望、嫌悪、無関心のイメージを、自分自身の欲望、嫌悪、無関心のイメージとして精確に呈示するという点で科学的である。彼の記述が精確であればあるほど、彼の芸術作品は永続性と確実性を持つ」と書いたとき、彼は、芸術の意義を本質にまで還元し、さまざまな科学が発達する時代の中での芸術の「最小限」の存在意義について考えていたのではないだろうか。
引用文献
1) Pound, Ezra : The serious artist, in Literary Essays of Ezra Pound,
New Directions, 1968.p.42.
2) ibid., p.46.
3) Reed, Christopher : Postmodernism and the art of identity, in Nikonos
Stangos ed. : Concepts of Modren art, Thames and Hudson, 1994. p.288.
4) Pound, Ezra : I gather the limbs of Osiris, in Selected Prose 1909-1965,
ed.by William Cookson, Faber and Faber, London, 1973. p.23.
5) Lukacs, Georg : The ideology of modernism (1955), in Lodge, David(Ed.):20th
Century Literary Criticism, A Reader, Longman, 1972. p.473-487.
6) ibid., p.476.
7) ibid, p.477.
(写真は、パウンドの文学評論を集めたPound, Ezra : Literary Essays of Ezra
Pound, New Directions, 1968。編集したのはT・S・エリオット、表紙の絵はゴーディエ=ブルゼスカによるパウンドの素描である)
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