No.9  November, 1999

Series


歴史の中のエズラ・パウンド 
第9回
 
第2部 モダンエイジ

第7章 ヴォーティシズム
(前半,Section 1-3)




 一九一三年の後半に、パウンドは、タゴールとの交友で知り合い、ロンドンに住んでいたインドの女性詩人サロジニ・ナイヂュの家で、アーネスト・フェノロサの未亡人メアリー・フェノロサに会った。フェノロサの死後、彼女は遺稿整理を始め、鉛筆で書いたフェノロサのノートとそれを元に彼女が作ったタイプ原稿を持って一九一〇年の春に日本を訪れ、有賀長雄と狩野友信に校訂を依頼した(1)。その後、大英博物館のローレンス・ビニヨンらの協力も得てフェノロサの東洋美術研究の成果を『中国と日本美術の諸時代』として一九一二年に出版した。しかし、使われなかったノートがまだ多く残っていた。それらは主に有賀長雄の通訳による森槐南の漢詩講義の記録と平田禿木の通訳による梅若実の能の講義の記録だった。メアリー夫人はこれらのノートも出版したいと考えて、その仕事を託せる人間を探していた。

 パウンドと会ったのち、メアリー夫人は彼にノートを託すことを決めた。小説家であり、パウンドのイマジズムの詩「コンテンポラリア」も読んでいた彼女は、彼の文学界での位置をよく知っていたに違いない。俳句の方法を英詩に取り入れようとしている詩人こそ、夫のノートを託すのにふさわしい人物であると判断したのかもしれない。

 ノートを託すに当たって、彼女はパウンドに研究費を渡し、それ以上の費用は彼が負担しなければならないが、書物の刊行などによって得られた収入は彼のものにしてよいという条件を示し、パウンドはこれを受け入れた。ノートの一部は、メアリー夫人から直接パウンドに手渡されたとみられているが、一九一三年の終わりに一部が郵送され、残りのものは一九一五年に彼女のアメリカの自宅から送られた。ノートは全部で一六冊になり、これらの中には、パウンドの詩の思想の形成に大きな影響を与えた言語、詩、漢字などについての考察であり、のちに彼がフェノロサ著の『詩の媒体としての漢字考』(1a)として一九一九年に『リトルレビュー』誌に発表し、その後一九三六年に書籍として刊行したノートも含まれていた。

 これらのノートは、のちに出版されることによってフェノロサの業績や中国の詩、日本の伝統的な芸術である能への関心を呼び起こしただけでなく、パウンドの日本や中国の文学・芸術に対する関心と理解を高め、さらに彼が詩人としての活動の幅を広げていくうえで大きな役割を果たした。

 パウンドがフェノロサのノートを託された二〇世紀初め、ロンドンには、中国や日本の文化についてよく知っている芸術家は、まだ多くはいなかった。日本美術は、一九世紀後半から知られ始め、その技法は画家ホイッスラーによって取り入れられた。また、ラザフォード・オールコックの著書『日本の美術と工芸』(一八七八年)やウイリアム・アンダーソンの著書『日本絵画史』(一八八六年)と『日本の木版--その歴史と技術と特色』(一八九五年)でも紹介された(2)。しかし、まだ一部の人たちに知られていただけであり、パウンドは、彼がロンドンに来た頃、「東洋の芸術は新しくて奇妙なものであり、中国絵画は受けが悪く、日本の版画もどれもが同じように見えるという人がいた」(3)と書いている。

 美術に続いて、日本の文学も一九世紀末から欧米に紹介され始めた。日本の詩の独訳書と英訳書である『東洋からの詩の贈り物』が日本で一八九六年に刊行されたのち、日本の同じ版元から三巻で成る『古今和歌集』の抄訳集が刊行された。フリントは、一九〇八年に『ニュー・エイジ』で、この詩集を、感動させるものであると評し、マラルメの詩との類似性を論じた。これは、イギリスでの日本文学に対する最も初期の関心だったといえるのだろう。(4)

 また、アメリカでは、ロングフェローが、「ケラモス」という一八七七年の作品で、日本のイメージをうたった(4a)。その後、一八九〇年代から一九一〇年代にかけて、アメリカでは日本を題材にした小説がたくさん読まれていたという(4b)。メアリー・フェノロサも、そのような日本趣味の小説を書いていた小説家であった。

 イギリスの東洋文学研究者としてはアーサー・ウェイリーがよく知られているが、彼が『一〇七篇の中国詩』を刊行したのは一九一八年であり、六巻から成る『源氏物語』訳書の最初の巻を刊行したのは一九二五年である。彼は、むしろパウンドらに啓発された研究者とみなされている。

 フェノロサのノートを託される前、パウンドは、ホイッスラーの絵画作品や、仲間であったフリント、ローレンス・ビニヨン、T・E・ヒュームらから日本に対する関心を呼び起こされていた。ロンドンに来て間もない時期にパウンドが加わったヒュームを中心とする「エッフェル塔」グループは、一九〇八年から一九〇九年にかけて、日本の短歌や俳句を英詩に新しい世界を切り開くための一つの手本と見なしていた(5)。こうした彼らの取り組みも、文学のジャポニズムとでも呼ぶべき運動であったといってよいのだろう。フェノロサのノートは、パウンドが、その文学のジャポニスムともいうべきものを大きく発展させていくうえで、このうえない貴重な資料となった。

 フェノロサのノートを託された一九一三年、パウンドは孔子と孟子も知った。彼に孔子と孟子を読むようにすすめたのは東洋文化に関心を持つアレン・アップワードだった。彼は弁護士であったが、中国研究家、宗教史研究家でもあった。また、推理小説や詩、戯曲、政治評論も書くなど、多彩な関心と知識をもっていた(6)。彼は、神智学にも関心を持ち、クエスト・ソサイアティーの主宰者であったG・R・S・ミードの友人であった。また、『ニュー・エイジ』の編集長オレージとは、一九〇〇年頃から知り合い、同誌に定期的に寄稿していた。パウンドは、一九一一年に、ミードのクエスト・ソサイアティで初めてアップワードに会った。その後、アップワードは、イマジストのグループに入って詩を書き、『ポエトリ』『エゴイスト』『ニュー・エイジ』などにも寄稿するようになった。パウンドは『ポエトリ』に載った彼の詩『香り高い葉---中国のティーポットから』や、民話や人類学についての彼の該博な知識に引きつけられていた。彼の家を訪れたとき、パウンドは中国文学史の本を見せられて強い関心を持ち、彼の勧めに従って孔子と孟子のフランス語訳を読んだ。(7)

 パウンドがフェノロサのノートを本格的に読み始めたのは一九一三年の秋からである。パウンドはイェイツの秘書になり、一一月初め頃から、イェイツがサセックス州で冬を過ごすために借りた家「ストン・コテージ」に滞在した。その家で、パウンドは、イェイツの手紙の作成を手伝ったり、視力が悪化していたイェイツが読書するのを朗読によって補助しながら、フェノロサのノートを読み、その編集に取り組んだ。翌年一月には、彼は世阿弥元清の能『錦木』のフェノロサによる翻訳を書き改めて『ポエトリ』に送り、アーネスト・フェノロサによる元清の翻訳として五月号に発表した。以後、彼はフェノロサの能の翻訳のノートの編集と刊行を続け、その仕事は彼の大きな業績となっていった。パウンドとフェノロサによる能の翻訳は、日本のパウンド研究者たちによって詳しく研究されている(7a)。

 イェイツとパウンドのストン・コテージ滞在は、一九一六年まで三冬続いた。ジェイムズ・ロンゲンバックは、この間のイェイツとパウンドの交友を『ストン・コテージ』に詳しく書いている。彼は、二〇世紀の最も重要な二人の詩人が三冬を同じ家で過ごした、その交友は、「モダニズムの秘密結社」(8)とも言えるものであったとしている。

 ストン・コテージ滞在中に、イェイツは、パウンドが書き改めたフェノロサの能の翻訳を読み、それを自分の劇作の糧にした。『鷹の井戸』(一九一六年)が、そうしてできた作品であることはよく知られている。一方、パウンドは、イェイツからオカルトについて多くの知識を得て、それを詩作の源泉にした。また、ストン・コテージでの二人の交友は、イェイツとパウンドのエリート主義的傾向を強めるなど、モダニズムの特徴を方向付けるうえで大きな意味を持ったとロンゲンバックは書いている。

(写真は、Longenbach, James : Stone Cottage, Pound, Yeats, and Modernism, Oxford University Press, 1988.)



 ストン・コテージで、パウンドは、イマジストのアンソロジー『デ・ジマジスト』の編集も続けた。イェイツからジョイスの存在を知らされ、一二月一五日には、トリエステのジョイスに宛てて、『エゴイスト』『ポエトリ』『スマートセット』などの編集と関わりを持っているので作品の発表に協力したいという手紙を書いた。彼は、『デ・ジマジスト』にジョイスの詩を入れたいと考えていた。ジョイスがイェイツのもとへ送ってきており、そのままになっていた詩『軍隊の声が聞こえる』の原稿をイェイツが探し出し、それを読んだパウンドは、一二月二六日に、ジョイスに宛てて「二人とも(自分もイェイツも)この詩によって強い印象を受けた」と手紙で伝え、その詩を『デ・ジマジスト』に入れさせて欲しいと頼んだ。(9)

 一九一四年の一月初めにジョイスは、パウンドに承諾の返事を送った。トリエステで英語教師をしていたジョイスは、一九〇六年にロンドンの出版人、グラント・リチャーズと『ダブリン市民』の出版の契約をしていたが、原稿を読んだリチャーズは、彼の使用している語の中に、世間の非難を招くものがあるという理由で、出版を拒否していた。その後、ジョイスはダブリンの出版人マウンセルと交渉したが、彼もエドワード七世についての記述が不適切であることを理由に出版を拒否した。

 ジョイスは、マウンセルが告げてきた理由を不当であると考え、バッキンガム宮殿に宛ててイギリス王室がその記述を不適切と考えるかどうか、確認するための手紙を書いたが、王室は回答を拒否し、事態は進展しなかった。パウンドは、ジョイスが一九一一年にその経緯を書いてダブリンの新聞に投書した手紙を『奇妙な歴史』というタイトルを付けて『エゴイスト』の一九一四年一月一五日号に掲載した。

 その後、ジョイスはパウンドに『ダブリン市民』と書き終えたばかりの『若き芸術家の肖像』の第一章の原稿を送った。ジョイスの「明解で直接的」な表現に強い印象を受けたパウンドは、『若き芸術家の肖像』の第一章の原稿をすぐに『エゴイスト』に送り、ジョイスへの一月一九日付けの手紙で「この文章で、あなたに原稿料が支払われないようにしてしまったら罪になる」と書き、『エゴイスト』は一、二の語句についてなにか言ってくるかもしれないが、交渉は自分が請け合うと伝えた。そして、多分理解してもらえないだろうが『ダブリン市民』の三章分をニューヨークの『スマートセット』に送ると書き加えた。(10)

 『スマート・セット』には、『ダブリン市民』の中の「邂逅」「下宿屋」「小さな雲」の章が送られたが掲載されなかった。しかし、『エゴイスト』はジョイスの三二歳の誕生日、一九一四年二月二日に発行された号に『若き芸術家の肖像』の初回分を掲載し、以後連載することを決めた。これに勇気づけられて、ジョイスはグラント・リチャーズと再び交渉し、『ダブリン市民』は一九一四年六月に出版が実現した。

 ストン・コテージに滞在したあと、イェイツは一九一四年一月末にアメリカへ行き、三月一日のシカゴの講演ではパウンドの実験的な試みを高く評価した。そのようにして、詩人としての活動ぶりがシェイクスピア家の両親に何とか認められるようになったパウンドは、一九一四年の四月二〇日にドロシー・シェイクスピアと結婚した。

 ドロシーは、母オリヴィアと同じように知的な女性であり、文学書を広く読み、絵画の才能もあって、のちにはパウンドの本の装丁なども手がけるようになった。二人は新婚旅行でストン・コテージへ行き、そこに滞在している間、パウンドはフェノロサの能のノートを読むことに熱中した。



 未来派のマリネッティが再びロンドンを訪れたのは一九一三年一二月である。ウィンダム・ルイスはマリネッティ歓迎のディナーパーティーに出席し、マリネッティにならって新しい芸術運動を起こすことを考えていた。

 ルイスは、その頃、ロンドンの画壇で前衛画家としての地位を固めつつあった。それまで、彼はブルームズベリー・グループのロジャー・フライと親しくしており、フライが一九一二年に開いた第二回の後期印象派展には彼の作品も展示され、ヴァージニア・ウルフの姉ヴァネッサの夫、クライヴ・ベルも彼の作品を購入した。一九一三年春にフライがパリにいたアメリカ人作家ガートルード・スタインのコレクションを見せてもらうために彼女を訪問した時には、ルイスも同行した。そして同じ年の七月、フライがヴァネッサ・ベルやダンカン・グラントの出資も得て美術工芸品を制作販売するオメガ工房を設立した時には、ルイスは作家の一人として参加した。しかし、前衛芸術を志向するルイスの目から見れば保守的なオメガ工房の中心メンバーと協調することはできず、やがてルイスはフライと口論の末、十月に主要な作家たちを連れてオメガ工房を去った。

 一九一四年三月に、ルイスは前衛芸術のセンターとして「レベル・アート・センター(反抗芸術センター)」を設立し、自分たちのグループの作品を展示を始めた。五月には、彼は、そのセンターでマリネッティの講演会を開催して、未来派との接近を図った。また、センターではパウンドやフォード、ヒュームらが詩を朗読し、講演した。

 ルイスがレベル・アート・センターを設立した一九一四年始め、ロンドンの先進的な芸術家の間では、新しい芸術とは何かという問題などをテーマにして『エゴイスト』誌上などで論争が繰り広げられていた。パウンドも一九一四年二月の同誌に『新しい彫刻』というエッセイを寄稿した。彼は、このエッセイで、芸術家たちは圧迫者たちと平和な関係を長く維持し続けてきたが、もう十分であり、芸術家が民主主義の中で弄ばれるという愚劣は終わらせなければならないとし、「芸術の貴族主義が再び役割を担う時期に来ている」(11)と書いた。

 パウンドがいう圧迫者とは、文学界や出版界、美術界で大きな影響力を持つ人々や、彼らの影響を介して作品を購入するブルジョワ階級であったといえるだろう。芸術を職業とする彼らにとって、作品が購入されるかされないかは大きな問題であった。前衛芸術を志向する彼らにとって、購入者を得ることは容易ではなかった。そのために彼らが求めていたのはパトロンであったと思われるが、それも容易ではなかった。

 また、パウンドがいう芸術の貴族主義とは、社会的な大勢への反抗、大衆からの自己疎外、芸術家が大衆の美意識を指導していくという気概を持つというような意味合いでのエリート主義などを意味するものであり、孤立や権威主義につながっていく危険をはらむ意志表明でもあったといえるだろう。

 この戦闘的な芸術論は、前衛的な彫刻家ジェイコブ・エプスタインとアンリ・ゴーディエ=ブルゼスカの支持を表明したエッセイでもあった。エプスタインは、早くからヒュームを中心とする前衛的な芸術家のグループの中にいた。また、ゴーディエ=ブルゼスカはこの頃注目され始めた彫刻家だった。彼もフライのオメガ工房に所属していたが、ルイスと共に去り、レベル・アート・センターのメンバーになっていた。パウンドは彼の彫刻に強く心を引きつけられていた。

 パウンドが、彼を知ったのは一九一三年七月にオリヴィア・シェイクスピアとともにアライド・アーチストというグループの展覧会を見に行った時だった。パウンドはゴーディエ=ブルゼスカの作品に出合い、二二歳だった作者と言葉を交わした。

 ゴーディエ=ブルゼスカは、建具師の息子として一八九一年一〇月に中部フランスに生まれた(12)。イギリス、フランス、ドイツを転々として芸術を学び、パリで、チェコの詩人の示唆を受けて彫刻家になった。パリで彼は二〇歳年上のポーランド人ソフィー・ブルゼスカと知り合って結婚し、二人でロンドンへ来た。彼は美術館で作品を見ながら学び、はじめロダンの影響を受けていたが満たされないものを感じ始めてキュービズムに似た作品やエジプト、アフリカの彫刻の影響を受けた作品をつくりはじめた。(13)

 展覧会で話したあと、パウンドは彼の住所を調べて夕食に招く手紙を出した。返事は来なかったが、やがて、ゴーディエ=ブルゼスカがパウンドをアトリエに招待したいと手紙で伝えてきた。パウンドが訪ねると、そのアトリエは鉄道の高架路の下にあり、暗く、床は土のままだった。翌年、ゴーディエ=ブルゼスカは石でパウンドの頭像を彫った。

引用文献

1)フェノロサ、アーネスト:東亜美術史綱(有賀長雄訳)、第一巻、創元社、一九三八年。p.36.
1a) Fenollosa, Ernest (ed. by Pound, Ezra) : The Chinese Written Character as a Medium for Poetry, City Lights Books, 1968. ; アーネスト・フェノロサ、エズラ・パウンド;詩の媒体としての漢字考(高田美一訳)、東京美術、一九八二年。
2) 山口清一:フェノロサ、日本文化の宣揚に捧げた一生、三省堂、一九八二年。上巻、p.106-107.
3) Pound, Ezra : Gaudier-Brzeska, A Memoir, New Directions, 1974. p.126.
4) 新倉俊一:エズラ・パウンド小論、エズラ・パウンド詩集(新倉俊一訳)、角川書店、一九七六年。p.385-386.;Stock, Noel : The Life of Ezra Pound(An expanded edition), North Point Press, 1982. p.64.
4a) 児玉実秀:アメリカのジャポニズム、中央公論社、一九九五年。p.90.
4b) ibid.,p.95.
5)新倉俊一:エズラ・パウンド小論、エズラ・パウンド詩集(新倉俊一訳)、角川書店、一九七六年。p.388.
6) アップワードの伝記的記述は主にTryphonopoulos, Demetres P. : The Celestial Tradition, A Study of Ezra Pound's The Cantos, Wilfrid Laurier University Press, 1992. p.74-78.による。
7) Carpenter, Humphrey : A Serious Character--The Life of Ezra Pound, Houghton Mifflin Company,1988. p.218.
7a)Miyake, Akiko, Sanehide Kodama and Nicholas Teele ( ed. ) : A Guide to Ezra Pound and Ernest Fenollosa's Classic Noh Theatre of Japan, The National Poetry Foundation, Univ. of Maine and The Ezra Pound Society of Japan, Shiga Univ., 1994.
8) Longenbach, James : Stone Cottage, Pound, Yeats, and Modernism, Oxford University Press, 1988. p.x.
9) Pound/Joyce : The Letters of Ezra Pound to James Joyce, with Pound's Essays on Joyce (Ed. by Forrest Read), New Directions, 1967.p.17-19.
10) ibid.p.24-25.
11) Pound, Ezra : Ezra Pound and the Visual Arts (Ed. by Harriet Zinnes), New directions, 1980.p.182.
12)ゴーディエ=ブルゼスカの伝記的記述は主に Pound, Ezra : Gaudier-Brzeska, A Memoir, New Directions, 1974.による。
13) Carpenter, Humphrey, op.cit., p.247.

 この章では、パウンドの伝記的記述は、Stock, Noel : The Life of Ezra Pound (An expanded edition), North Point Press, 1982.とCarpenter, Humphrey : A Serious Character, The Life of Ezra Pound, Houghton Mifflin Company, 1988. を基本にした。また、ジョイスの伝記的記述は、Anderson, Chester G.: James Joyce, Tames and Hudson,1967., ルイスの伝記的記述は、 Meyers, Jeffrey: The Enemy, A Biography of Wyndham Lewis, Routledge & Kegan Paul, 1980.とウルフ,ヴァージニア:ロジャー・フライ伝、(宮田恭子訳)、みすず書房、一九九七年などによった。


エズラ・パウンド関連サイト
http://www.lit.kobe-u.ac.jp/~hishika/pound.htm: Ezra Pound (神戸大学文学部教授・菱川英一氏による英文サイト。パウンドの肖像写真、主要文献、年譜、関連サイトへのリンクなどが掲載されています。主要英米詩人についての情報を得るための同氏作成サイトにリンクしています。)


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