No.8  October, 1999

Series


歴史の中のエズラ・パウンド 
第8回
 
第2部 モダンエイジ

第6章 イマジズム
(後半,Section 4-6)



 ロンドンで最初の「未来派展覧会」が開かれ、マリネッティが講演したのは一九一二年三月である。ウィンダム・ルイスはこの展覧会から強い刺激を受け、ロンドンで、それに呼応した芸術運動を起こすことを考えるようになった。

 しかし、パウンドは「未来派展覧会」に強い関心は示さず、四月にはカヴァルカンティの詩の翻訳を出版し、六月になるとフランスへの旅行に出た。パリの国立図書館で、トルバドゥールの資料を調べたあと、パリから汽車でポワティエ近くのユヅェルシェまで行き、トルバドゥールの足跡をたどった。途中、汽車も使いながら、一日に二十ないし二五マイルの道を歩き、七月の最後の週にパリへ戻った。そして、パリから帰ると、『ニュー・エイジ』にアメリカに関する評論「パトリア・ミア」を書いた。

 その翌月、シカゴで詩の雑誌『ポエトリ』を創刊しようとしていたハリエット・モンローからパウンドの元へ寄稿の要請がきた。モンローは、五二歳の独身女性であり、それまで二五年間にわたって詩を書いていたが刊行することができないでいた。出版人への転身を図り、多数の後援者から資金の提供を得て、彼女は新しい雑誌の発行を間近にしていた。二年前にロンドンを訪れたときに、彼女はマシューズの書店を訪れてパウンドの詩集を入手し、評価するようになっていた。パウンドには、寄稿するだけでなく、海外通信員として編集に関与することも要請した。(1)

 『ポエトリ』創刊号は一九一二年一〇月に発行され、海外通信員としてパウンドの名前が記載された。その創刊号に彼は、テイト美術館でのホイッスラー展を見て書いた詩「アメリカ人ホイッスラーへ」など二篇の詩を寄稿した。また、彼は、イェイツが序文を書いて英訳が出版されることになったインドのタゴールの詩を『ポエトリ』に掲載することにも奔走した。タゴールの詩について、彼は同誌の一二月号で「西洋でこれまで達成されたよりも深い静寂とより深い確信が、この東洋的表現の中にある」と評した(2)。彼のタゴールに関する評論は『メルキュール・ド・フランス』にも引用された(3)。

 『ポエトリ』の編集に関与するようになった頃、パウンドは新しい詩の運動を起こそうと考えるようになった。その運動は、やがて「イマジズム」と名づけられ、英語詩の流れを現代詩へと向けて大きく変えた画期的な文学運動になった。ジョーンズは『イマジストの詩』(一九七二年刊)で、「イマジストの思想は今も我々の詩作の中心に位置している」(4)と書いている。

 パウンドは「イマジズム」という言葉を、十月初めにスウィフト社から刊行された彼の詩集『リポステス(当意即妙)』の中で初めて使った。ウィリアム・カーロス・ウィリアムズへの献辞が付されたこの詩集に集められた作品の多くは、まだ世紀末やラファエル前派の影響を残していたが、新しい韻律を使い、イェイツが賞賛した詩も入っていた。巻末には付録として、のちの一九二四年にエリオットが「英語で書かれた最も美しい短詩」と評したT・E・ヒュームの実験的な詩五編を収載した。日本の俳句の影響を受け、印象を簡潔に書きとめたヒュームの詩にパウンドは強い感銘を受け、これを発展させていくことを考えていた。この付録の序文で、彼は、ヒュームを中心に出現した新しい詩の考え方を「イメージ学派」と呼び、その「忘れられた一九〇九年の学派」の後継者として、「イマジズム」という新しい学派が出現すると示唆した(5)。

 一九〇九年にレストラン「エッフェル塔」に集まっていた詩人の中で、詩の現代化について最も積極的に意見を述べていたのは、フランスの象徴主義詩人たちについて詳しい知識を持ち、自由詩を唱道していたF・S・フリントであったとされている。パウンドは、フリントと話し合っているうちに、新しい詩の運動は必ずしも多数の詩人が賛同するものである必要はないと確信するようになり、まず彼自身と彼に師事していた二人の詩人の三人で「イマジズム」の運動を起こすことを決心した。

 彼に師事していた二人の詩人の一人は、両親の反対を押し切って一九一一年にロンドンへ来ていたヒルダ・ドリットル(H.D.)であり、もう一人は一八九二年生まれのイギリス人、リチャード・アルディントンであった。アルディントンは、弁護士であった父親と同じ道に進むことを嫌い、ロンドンのユニバーシティ・カレッジ在学中にに自由詩を書き始めた(6)。一九一二年のはじめにパウンドと知り合ったときは、まだ二十歳前の青年だった。パウンドは、一九一二年の春にパリへ行ったときにはアルディントンとドリットルを伴った。

 ロンドンの詩人たちの詩を『ポエトリ』に送るため、パウンドは毎週火曜日に自分の住居で詩の会を開くようになった。その会にはドリットル、アルディントン、フリントらが参加していた。『ポエトリ』の一九一二年一一月号に送ったアルディントンの詩を、パウンドはイマジストの詩であるとして紹介し、さらにドリットルの詩は、パウンドが加筆して、署名は「H.D.、イマジスト」とした。以後、ドリットルの詩人としての名前はH.D.が使われるようになった。

 パウンド自身は一九一二年半ば、『ポエトリ』に新しい試みを全面的に取り入れた「コンテンポラニア」と題した一連の詩を送った。末尾の「地下鉄の駅で」と題する詩は二行の詩である。この詩でパウンドは日本の俳句の形や表現法を取り入れ、地下鉄の駅で出合った美しい容貌の印象を濡れた枝に張り付いた花びらとして表現した。一九一三年四月に「コンテンポラリア」が『ポエトリ』に発表されると、強い反発や揶揄を呼び起こしたが、インパクトは大きかった。

 新しい詩を書き始めたパウンドは、イェイツの詩の古めかしさを批判するようにもなっていた。一九一三年一月の『ポエトリ』では、彼は、イェイツは現存する最も偉大な詩人であるが、ここ十年展望を広げていないと書き、彼の依頼に応じてイェイツが『ポエトリ』に寄稿した五編の詩に加筆して現代風にした。イェイツは激怒したが、いつのまにかパウンドの直し方に理があることを認めるようになり、最終的に詩集にまとめたときにはパウンドが直した形に近いものにしたとされている。イェイツ自身も、その頃、自分の詩に疑いを抱き、パウンドの意見を聞いて自分の詩の現代化しようとしていた。一九一三年一月にグレゴリー夫人に宛てた手紙には、イェイツは自分の詩に新しい生命を吹き込む上でパウンドの評が大きな助けになっている、と書いた(7)。

 一九一三年三月の『ポエトリ』に、パウンドはイマジストの宣言ともいえる評論を発表した。はじめにフリントがイマジストの思想を紹介し、続けてパウンドが「いくつかの禁則」「言語」「リズムと韻律」について書いた。フリントは、イマジズムは「あらゆる時代を通しての優れた詩人たち、サッフォー、カトゥラス、ヴィヨンらの伝統に従って詩を書こうと努力すること」(8)であり、イマジズムの詩を規定するルールは次の三項であると書いた。

一.物事を主観的であれ客観的であれ直接的に扱う。
二.プレゼンテーション(呈示)に寄与しない語は使わない。
三.リズムに関しては、音楽的なフレーズ(楽句)を用い、メトロノームの韻律は使わない。

 イメージという言葉によってパウンドが意味しようとしたのは視覚的な形象ではなかった。「いくつかの禁則」の中で、彼は「《イメージ》とは、知的、情緒的な《コンプレックス》を瞬間的に呈示するものである」(9)と書いている。「コンプレックス」という語を、彼は「新しい心理学」の専門用語に近いものとして使った。その「新しい心理学」とはフロイトやユングの心理学であり、「コンプレックス」とはフロイトのもとで学んでいたユングが「強い情動の纏綿とした観念群」(10)を意味するものとして提唱していた概念である。

 またイマジズムは、ベルグソンの意識の哲学に傾倒していたヒュームの強い影響を受けて形成されたという点でベルグソンの哲学思想をいれたものでもあった。

 一九一五年に『ニュー・エイジ』に掲載された評論の中では、パウンドはイマジストの言うイメージについて、「強い情動は、精神が十分に強ければ、そこにパターンを生む」(11)と書いている。そして、同じ年に『フォートナイトリ・レビュー』に掲載された評論では「イメージは定式化された言語を超えた言葉である」(12)と述べている。

 言語に関しては、イマジストの運動でパウンドが目指していたのは「簡潔で」「客観的で」「直接的な」表現だった。彼は特に「余剰の形容詞」の使用を批判した。

 イマジズムは、詩を一つの客体にする試みであったともいえるだろう。詩が言葉の配列によってイメージを表現しようとするものであるならば、鑑賞者はその言葉の配列からイメージを形成しなければならない。「定式化された言語を超えた言葉である」イメージは、通常の言語によるようには鑑賞者に伝達されないからである。客体化によって鑑賞者を突き放す点では、イマジズムは絵画や彫刻の抽象への志向と歩調を合わせたものであった。



 一九一三年初め、パウンドは、のちにアメリカの「国民詩人」と言われるようになったロバート・フロストを発見した。パウンドより九歳年上のフロストはアメリカで農業をしたあとロンドンに渡った。フリントと知り合いになり、彼を通じてパウンドに紹介された。パウンドは一九一三年五月の『ポエトリ』でフロストの詩集『少年の意志』を評論し、見たままの自然な話し方、描き方など特徴としてあげ、その力強さを賞賛した。

 四月になると、パウンドはパリを訪れた。秋に、『ニュー・エイジ』にパリの状況について書いた中で彼が取り上げたのは、レミ・ド・グールモン、ジュール・ロマン、シャルル・ヴィルドラック、フランシス・ジャム、アルチュール・ランボーらだった。

 これらの作家、詩人の中で、パウンドがのちに特に強く傾倒するようになったのはヒュームも高く評価していたグールモンである。象徴主義の優れた批評家であり、一八八九年に『メルキュール・ド・フランス』の設立に参加したグールモンは、一九一五年に他界するまで同誌に寄稿を続け、小説のほか、知的好奇心や鋭い分析力、アイロニー、怠惰の嫌悪などを特徴とするエッセイを書いた。グールモンの作品を翻訳している堀口大学は、彼について、「いつになっても大衆に愛読される作家ではない。理由は、この作家は気位が高く、皮肉だからだ」「グールモンの思考を味わいつくすには人知のあらゆる部門における働きに通じていなければならない」(13)と書いている。パウンドは、一九二〇年に刊行された評論集『扇動』の中のグールモンについての評論で、グールモンのエッセイは、「開化された精神のポートレートである」(14)と書いている。

 パリから、パウンドは再びシルミオーネを訪れ、五月になるとヴェニスへ足を延ばして、アルディントンと両親と一緒のドリットルに会った。アルディントンとドリットルは六月にロンドンへ帰って結婚した。

 七月には、パウンドは『ポエトリ』にD・H・ローレンスの新しい詩集『愛の詩など』について書き、『ポエトリ』はパウンドの勧めでローレンスの詩を掲載した。ローレンスは、一九一〇年頃から小説を書き始め、一九一一年に『白い孔雀』、一九一二年に『侵犯者』、一九一三年には『息子と恋人たち』を出版し、新進作家として注目されるようになっていた。その前年の一九一二年に、彼は、ユニヴァーシティ・カレッジのドイツ人教授の妻であったフリーダと駆け落ちして主にイタリアに住んでいた。

 ローレンスの詩の掲載を勧めるために『ポエトリ』のモンローに宛てて書いた手紙では、パウンドは「ローレンスは嫌いだが、注目しなければならない。彼は、現代的なテーマの扱い方を自分よりも先に身につけたと思う」と書いた(15)。フォードはローレンスを非常に高く評価しており、パウンドのローレンスに対する評価には、こうしたフォードの評価も影響したと見られている。

 一九一三年の夏、パウンドは、フォードとバイオレット・ハントの推薦によって、『ニュー・フリーウーマン』の文学担当編集者も務めるようになった。『ニュー・フリーウーマン』は、その二年前に婦人社会政治連盟のドラ・マースデン、ハリエット・ショー・ウィーヴァーらが創刊したフェミニズムの立場をとる隔週刊の刊行物だった。パウンドが編集者になった頃には、フォードの友人のレベッカ・ウエストも編集に参加していた。『ニュー・フリーウーマン』は穏健であったが婦人参政権促進の立場をとり、文学での性的解放に関心を持っていた。(16)

 この刊行物に、パウンドはイマジズムに関する評論、グールモンの翻訳、フォードの寄稿、ローレンスについて彼自身が書いた評論、フロスト、H.D.、アルディントンの詩などを掲載した。ヘンリー・ジェイムズにも寄稿を依頼したが断られ、そんなこと(編集者の仕事)をやっていては農奴になってしまうと警告されたという。

 文学面は部数を伸ばすのに寄与すると言われながら、それが実現しないのにドラ・マースデンがいらだち、やがてレベッカ・ウエストとパウンドは辞職を強いられた。しかし、パウンドの後任にはアルディントンが就き、パウンドは影響力を保持した。『ニュー・フリーウーマン』は男性にも読者層を広げるために一九一四年に『エゴイスト』と名称を変え、ハリエット・ショウ・ウィーヴァーが買い取った。『エゴイスト』は、やがてジェイムズ・ジョイスの小説家としてのデビューの舞台になっていく。

 パウンドは、この頃、ニューヨークの『スマートセット』にも定期的に寄稿し始めた。ロンドンを訪れた同誌の編集長から寄稿者を探すうえでの援助を求められていたため、パウンドはフォードやローレンスらの原稿も送った。しばらくすると、のちにアメリカ文壇の「恐るべき子供」といわれたH・L・メンケンがこの雑誌の編集に加わった。パウンドはのちにメンケンとも交友するようになった。

 パウンドは、アメリカでの詩の発表は『ポエトリ』に独占させると約束していたが、やがて『スマートセット』にも送り始めた。また、フロストの意向を確かめないまま彼の作品を送ってフロストの怒りをかった。これを機に二人の交友は途絶え、フロストとパウンドが再び接したのは、第二次世界大戦後、フロストがパウンドの釈放の請願運動に加わったときになった。

(写真は、グウルモン著、堀口大学訳:沙上の足跡、第一書房、一九三〇年の函)



 アメリカでも、イマジズムは詩人たちの注目を集めた。ニューヨーク郊外のラザフォードで、開業医として忙しい毎日を送りながら詩を書いていたウィリアムズは、パウンドに促されて、イマジストとして『ポエトリ』に寄稿するようになった。彼はパウンドの紹介でロンドンのマシューズから一九一三年に詩集『ザ・テンパーズ』を出版し、詩人としての地位を固めつつあった。

 一九一三年七月半ばには、アメリカの女性詩人エイミ・ロウエルが、イマジズムに関心を抱いてロンドンを訪れた。彼女はパウンドより一一歳年上で、一九世紀の詩人・外交官、ジェイムズ・ラッセル・ロウエルにつながるマサチューセッツ州の名門の娘であった。長兄パーシヴァル・ロウエルはモースが日本の要人宛に書いた紹介状を持って一八八三年に来日し、約一〇年間滞在して日本通になり、のちには天文学者になった。また別の兄アボット・ローレンス・ロウエルはハーバードの学長になるなど一族には文学界や学界で高い地位についている者が多くいた。一家は繊維工場を所有しており、富裕だった。

 彼女は、横幅がある体格で、男性のような服装をして葉巻を吸い、女優と一緒に住み、包装紙をほどくときには「脱がせるみたいだ」といって人を驚かせたという。最初の詩集『多色ガラスのドーム』は、注目を集めることができず、彼女は他の詩人たちから学ぼうとしていた。ロンドンでパウンドに会うと彼女は強い印象を受け、友人に宛てた手紙でパウンドの印象を、大変変わった若者、頭がよく、恐ろしくうぬぼれており神経過敏、ロンドンの通りではおそらくワイルドの時以来見かけられたことがないだろうというような服装をしている、と伝えた。(17)

 彼女は雇った自動車に乗ってロンドンを回わり、パウンドの紹介でフォードとイェイツにも会った。ロウエルは九月にマサチューセッツに帰り、パウンドから学んだ技法で詩を書き始めた。

 彼女は、四行や二行の詩をいくつか書いているが、これらはパウンドの「地下鉄の駅で」の影響を強く受けているといえるだろう。「状況」と題する詩は四行で、紅葉の葉の上の露と蓮の葉の露を対置して、日本的な視覚的イメージを浮かび上がらせている。

 パウンドがイマジズムの運動を始めた頃、イギリス人詩人のエドワード・マーシュとラパート・ブルックは、アンソロジー『ジョージアン・ポエトリ』の刊行を準備していた。マーシュはウィンストン・チャーチルの秘書だった。彼はヒュームを介してパウンドを知っており、アンソロジーに彼の詩を入れたいと頼んだが、マーシュらの詩に古さを感じていたパウンドが、自分が書いた古い詩である『カンツォーニ』の詩であればと答えたために実現しなかった。

 『ジョージアン・ポエトリ』は、一九一二年に出版されると好評でよく売れたが、パウンドは強く批判し、対抗意識もあって一九一三年九月にイマジストのアンソロジーの出版を計画した。

 出版を引き受けたのはニューヨークの若い詩人、アルフレッド・クレイムボルクだった。前衛的な画家であり、のちに写真家になったマン・レイを仲間にして、彼は新しい雑誌『グリーブ』を創刊しようとしていた。パウンドは、その創刊号をイマジストの詩のアンソロジーにすることを提案して受け入れられた(18)。また、パウンドは『ジョージアン・ポエトリ』の出版者ハロルド・モンローに、アメリカでの印刷シートを輸入して英国で出版するように説得して受け入れられた。そのアンソロジー『デ・ジマジスト』はアメリカでは一九一四年三月初めに、ロンドンではその翌月に、アルディントン、H.D.、フリント、スキップウイズ・カネル、エイミ・ロウエル、ウィリアムズ、ジョイス、フォード、アレン・アップワード、ジョン・カーノス、そしてパウンドの作品を集めて刊行された。

(写真は、Joy Grant : Harold Monro & the Poetry Bookshop, Routledge and Kegan Paul, 1967. の表紙カバー。モンローのポエトリ・ブックショップのイラストが使われている。)

引用文献

1) Carpenter, Humphrey : A Serious Caharacter--The Life of Ezra Pound, Houghton Mifflin Company, 1988. p.184-185.
2) Stock, Noel : The Life of Ezra Pound (An expanded edition), North Point Press, 1982. p.127.
3) Pound/Joyce : The Letters of Ezra Pound to James Joyce, with Pound's Essays on Joyce(Ed. by Forrest Read), New Directions, 1967. p.20.
4) Jones, Peter (Introduction and ed.) : Imagism Poetry, Penguin Books, 1972. p.14.
5) Pound, Ezra : Personae, The Shorter Poems of Ezra Pound, Ed.by Lea Baechler and Walton Litz, New Directions, 1990. p.266.
6) Carpenter : op.cit., p.177.
7) Stock : op.cit., p.130.
8) Jones : op.cit., p.129-130.
9) ibid., p.130.
10) 懸田克躬編:ユング、フロム、世界の名著七六、中央公論社、一九七九年。p.17.
11) Pound, Ezra : Selected Prose 1909-1965, ed .by William Cookson, Faber and Faber, London, 1973. p.344.
12) Pound, Ezra : Ezra Pound and the Visual Arts (Ed. by Harriet Zinnes), New directions, 1980. p.204.
13) グールモン、ルミ・ド:対話と言葉(堀口大学訳)第一書房、一九三八年。p.1.
14) Pound, Ezra : Literary Essays of Ezra Pound, New Directions, 1968. p.344.
15) Stock : op.cit.,p.140.
16) Carpenter : op.cit.,p.206.
17) ibid., p.208-209.
18) Stock : op.cit., p.210.

 この章では、パウンドの伝記的記述は、Stock, Noel : The Life of Ezra Pound (An expanded edition), North Point Press, 1982.とCarpenter, Humphrey : A Serious Character, The Life of Ezra Pound, Houghton Mifflin Company, 1988. を基本にした。また、イマジズムに関しては、エズラ・パウンド詩集(新倉俊一訳)、角川書店、一九七六年, p.348-371(詩論)、p.380-422(新倉俊一:エズラ・パウンド小論)を参考にした。


エズラ・パウンド関連サイト
http://www.lit.kobe-u.ac.jp/~hishika/pound.htm: Ezra Pound (神戸大学文学部教授・菱川英一氏による英文サイト。パウンドの肖像写真、主要文献、年譜、関連サイトへのリンクなどが掲載されています。主要英米詩人についての情報を得るための同氏作成サイトにリンクしています。)


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