No7 September, 1999
歴史の中のエズラ・パウンド 第7回
第2部 モダンエイジ
第6章 イマジズム
(前半,Section 1-3)
1
パウンドが再びニューヨークを立ちロンドンに向かったのは一九一一年二月二二日である。その頃、ヨーロッパでは、世界を大きく変えていく進歩に対するシニシズムという性格を色濃く持ち、デカダンスに親近感を抱く唯美主義が、まだ芸術家たちに強く訴えるもの持っていた。トーマス・マンが唯美主義的な芸術家を主人公にして書いた『トニオ・クレーゲル』が刊行されたのは一九〇三年、『ヴェニスに死す』が刊行されたのは一九一三年である。マンと同じようにドイツ文化圏で活動していたハンガリーのジェルジ・ルカーチの唯美主義的な文芸評論『魂と形式』は一九一一年に刊行された。
しかし、そうした中で、人間生活を大きく変えようとしている時代の到来を強く意識した、新しい芸術運動が芽生えていた。一九〇八年から九年にかけて、パリではブラックやピカソが印象派の後を受けてキュビスム(立体派)の運動を起こしつつあった。一九〇九年には、カンディンスキーらがミュンヘンで新芸術家協会を設立し、「芸術家は、自然、外界から受ける印象のほかに、内面世界の体験をたえず集めたくわえる。われわれはこの思想から出発する」という設立回状を書いた(1)。「内的必然性」という抽象絵画の理論を形成しつつあったカンディンスキーはやがて新芸術家協会のメンバーと相いれなくなり、フランツ・マルクと共に協会を出て一九一一年に「青い騎士(ブラウエ・ライター)」の第一回展をミュンヘンで開いた。翌年の一九一二年に開かれたその第二回展には、フランスのキュービストたちの作品も展示された。そしてこの年、カンディンスキーは抽象絵画の理論を述べた『芸術における精神的なものについて』を出版した。
イタリアには、ガブリエーレ・ダンヌンツィオがいた。一八六三年生まれの彼は一八七九年に詩集『早春』を出し、一八歳になるとすでに名声を得ていた(2)。一八八九年には恋愛心理の葛藤、遍歴を描いた長編『快楽児』を著し、一八九二年にフランス語訳、続いてアーサー・シモンズの序を付けて英語訳が出版されると、ヨーロッパ中に名が知られた(3)。自分の作品を舞台で演じた女優エレオノーラ・ドゥーゼとの華やかな恋愛、庭に咲き乱れる赤いバラと深紅のクッションで飾られたフィレンツェの丘の上の別荘での生活、レースの下着に毛皮の衿のついたガウンを羽織ったり、気分が変われば僧服をまとったりという奇異な服装の好み(4)。このような生活を送っていた彼は、イタリアのオスカー・ワイルドであったというのがふさわしいのだろう。彼はワイルド亡き後のヨーロッパの寵児であった。
しかし、イタリアでも、新しい芸術運動が芽生えた。詩人・作家のフィリッポ・マリネッティは、一九〇九年二月二〇日、フランスの新聞『フィガロ』紙上に、「われわれは危険への愛、恒常的なエネルギーと蛮勇を歌おう」(5,
5a)という書き出しで始まる『未来主義宣言』を発表した。その宣言は、逆説であるかのように危険、スピード、機械、闘争、戦争、工場の騒音など近代文明の特徴がもたらす感動を芸術で表現しようと訴えていた。不吉な叫び声であったが、その宣言は近代文明の中での芸術の一つのあり方を明確に示していた。
同じ年の五月にはパリのシャトレ座で、ディアギレフ・ロシア・バレー団が、ストラヴィンスキーのバレー『春の祭典』を初演し、ヨーロッパ公演の第一歩を踏み出した。
新しいといえる芸術を何一つ持っていなかったロンドンはまだ静かだった。その静寂を破ったのはブルームズベリー・グループのロジャー・フライが企画して一九一〇年一一月にロンドンのグラフトン・ギャラリーで開催された「マネと後期印象派の画家たち展(後期印象派展)」だった。セザンヌ、ゴッホ、ゴーギャンの作品を軸にフォーヴィズムやピカソの立体主義より前の作品が展示され、フランスの新しい絵画に目を触れたロンドンの芸術愛好者たちはショックを受ける一方で、ヨーロッパの芸術が大きく変わりつつあることを知った。
企画者のフライは一八六六年に生まれ、ケンブリッジで自然科学を学んだのち、絵画を学び始め、イタリアを訪れてルネッサンスの美術に関する知識を身につけて美術評論家として知られるようになった(6)。その後、ニューヨークのメトロポリタン美術館のヨーロッパでの買い付けの仕事に携わったあと、再び活動の場をイギリスに戻した。彼はヴァージニア・ウルフの姉で画家だったヴァネッサ・ベルと彼女の夫、クライブ・ベルとの出合いをきっかけにして一九一〇年はじめからはブルームズベリー・グループの仲間になった。後期印象派点の成功によって、彼はロンドンの美術界の有力者になろうとしていた。
(写真は、「ダンヌンツィオ、ガブリエーレ:快楽児(森田草平訳)、博文館、一九一四年」の口絵写真に使われているダンヌンツィオの肖像写真)
2
パウンドは、イギリスへ戻ると、その三日後にパリへ行った。パリにいたアーノルド・ベネットやイェイツに会ってフランス文学の状況について聞き、またダンテと同時代の詩人グイド・カヴァルカンティの翻訳をしながら、彼は知り合いのアメリカ人音楽生ウォルター・モース・ルンメルと共に音楽に夢中になっていた。パウンドが音楽に強い関心を持ったのは、トルバドゥールの詩は旋律を持った詩であったと考えていたからであった。彼はトルバドゥールの音楽を復活させたいと考えていた。電信の発明者モースの孫であり、ドビュッシーのサークルに入って音楽を学んでいたルンメルの助力を得て、パウンドは自分の詩『プロヴェンサ』に旋律をつけて、数カ月後にロンドンで出版した。
五月の終わりになるとパウンドはパリを立ち、再びイタリアのシルミオーネへ向かった。その時期、ウイリアム・カーロス・ウイリアムズの弟で建築家になっていたエドガー・ウイリアムズが研究のためにイタリアを訪れていた。パウンドは、彼とともにヴェロナなどを訪れて建築を見た。その後、パウンドはシルミオーネに戻って滞在し、七月の終わりにトルバドゥールの最も偉大な詩人といわれているアルナウト・ダニエルの詩の原稿を調べるためにミラノの図書館を訪ねた。
イタリアからの帰途、彼はドイツのフランクフルトの北にある小さな大学町ギッセンで夏を過ごしていたフォードを訪れた。フォードは、『イングリッシュ・レビュー』が廃刊になったあと、愛人のヴァイオレット・ハントと共に、父方の親戚が住むドイツを訪れ、最初の妻との離婚の方策を探っていた。
パウンドが『カンツォーニ』を見せたとき、フォードはその詩のスタイルを強く批判した。新しい詩は新しい言葉で書くべきだという彼の批判は自分に強い影響を与えた、とパウンドはフォードへの「追悼文」(7)で書いている。
一九一一年八月の終わりにロンドンへ戻ると、パウンドは、週刊新聞『ニュー・エイジ』の定期寄稿者になった。編集長のA・R・オレージ(アルフレッド・リチャード・オレージ)はパウンドより一二歳年上で、一八七三年に生まれ、リードで小学校の教師になった(8)。熱心な神智学の傾倒者と知り合って結婚したのち、彼も神智学の傾倒者になり、一八九六年頃には神智学協会のリード支部長になった。協会には、フェビアン協会の会員や中世のギルド組織を研究していた建築家がいた。そのうちに、オレージは社会主義やニーチェの哲学に関心を持つようになった。また、彼は、協会の友人たちと「リード芸術クラブ」を設立し、絵画、工芸品の展示会や宗教、哲学、社会経済問題などをテーマにした講演会を開催した。このクラブが主催する集会には、イェイツ、ショウ、エドワード・カーペンター、G・K・チェスタートンらも参加した。クラブの会員には、フェビアン協会や新智学協会の会員になっているものも多くいた。
一九〇五年の終わり頃、オレージはロンドンへ出て、ジャーナリストとして生計を立てることを試みながら、神智学協会の会員やフェビアン協会の会員と交友した。一九〇六年と一九〇七年には、ニーチェに関する著作を著し、彼はイギリスへのニーチェの紹介者とされている。
一九〇七年五月、彼はリード時代の友人と共に、財政難に陥っていた『ニュー・エイジ』を買収した。買収のための資金は、バーナード・ショウとルイス・ウォレスというオレージの神智学を通じての友人が提供したとされている。一九一〇年一月からは、オレージが一人で編集責任を負うようになり、しだいに政治、経済、文化をカバーするアヴァンギャルド紙としての評価を築いた。
『ニュー・エイジ』の発行部数は二〇〇〇ほどであったが、ラディカルで活気のある紙面は、知識人や芸術家たちに大きな影響力を持っていた。ショウ、ウェルズ、チェスタートン、ベロックらが寄稿して社会主義の文化的な意味を論じ、一九一二年からは社会主義とウィリアム・モリスやジョン・ラスキンのギルド社会主義の思想を受け継ぐサンジカリズムの立場に立つようになった。(9)
オレージは、毎週近くのカフェにウェルズ、ベネット、F・S・フリント、キャサリン・マンスフィールドといった寄稿者たちと集まって意見を交わしていた。イェイツ、彫刻家のエプスタイン、画家のオーガスタス・ジョン、アメリカ人の作家アプトン・シンクレアらが現れたこともあった。パウンドはフリントの紹介でオレージと知り合い、定期寄稿者になって編集室やカフェの会合に参加するようになった。パウンドは、『ニュー・エイジ』に、美術、詩、音楽、世相などをテーマにして、一九二一年一月まで合計で約三〇〇本の記事を書いた。(10)
彼の最初の寄稿「私はオシリスの四脚を集める」は、一九一一年一一月三〇日から翌年二月まで一二回にわたって連載された。アングロ・サクソン語の古詩「船乗り」の翻訳で始まり、詩論に展開していったその評論で、彼は詩と詩人の存在論とでも言うべきものに取り組んだ。「芸術家は輝きを放つ微細を追求し、それを呈示する」「彼(芸術家)の仕事は心理学と形而上学の永遠の基礎として残る」(11)と書き、彼は、表現、言葉、社会的役割という三つの軸で新しい詩論を形成しようと試みた。
この頃、表現に関してパウンドに大きな影響を与えていたのはT・E・ヒュームである。ヒュームは一九一一年四月に、イタリアのボローニャで開かれた哲学の学会に参加してアンリ・ベルグソンの「イメージ」をテーマにした講演を聞き、『ニュー・エイジ』に報告を書いた。さらに、パウンドら仲間を集めて、ベルグソンの芸術論と哲学について講演し、その思想を広めようとしていた。ハーバート・リードが編集したヒュームの著書『思索集(邦訳書名:ヒュマニズムと芸術の哲学)』(12)の中の二つのエッセイ「ベルグソンの芸術論」と「ベルグソンの哲学----内包的に多様なるものの哲学」は、その時の講演をまとめたものだろうとされている。(13)
ヒュームが「ベルグソンの芸術論」の中で強調しているのは、比喩である。「散文は、事実上、詩人らの、生命を失った比喩の保存せられている博物館である」とし、「新鮮な比喩や形容語句の使われている場合」にのみ「純粋な美的情緒が得られる」と述べている(14)。ベルグソンは、詩人においては情緒はイメージになり、イメージはリズムの規則に従いながら言語に化するという考えを持っていた(15)が、ヒュームはイメージを言語化する上で、新鮮な比喩を求めることが詩人の役割であると主張した。
言葉に関してパウンドに大きな影響を与えていたのはフォードであった。ドイツでフォードの意見を聞いて以来、パウンドは現代語を使って詩を書くことについて真剣に考えるようになり、一九世紀末以降、文学で重要な位置を占めるようになった散文と対比して詩を考えていた。若い詩人たちの間には詩に対する危機感が生じつつあったが、パウンドも詩の古めかしい装飾的な表現は明確な概念を表現するものではなく、そうした言葉に依存していることによって詩は「たわごと」としか受け取られなくなっていると考えるようになっていた(16)。
一九一二年四月にニューヨークの雑誌『フォーラム』に寄稿した評論「詩の知恵」(17)では、彼は詩人の社会的役割を歴史的に考察した。古代においては、詩人は歴史家、系図学者、宗教的祭儀を司る人間などとしてコミュニティの中で役割を与えられ、中世のプロヴァンスでは詩(ゲイ・サヴォワール)は、劇、またオペラであり、トルバドゥールや吟遊詩人たちは著述家、劇作家、作曲家、俳優、そして人気のあるテノール歌手でもあった、と彼は述べている。そしてダンテやカヴァルカンティを生んだトスカーナでは、カンツォーネとソネットは随筆や短編小説でもあったのであり、シェイクスピアが活躍したイギリスのエリザベス朝時代には美しく話すことが流行になり、戯曲はそうした背景のもとで現れた、と書いている。そして、今も変わっていない詩人の社会的役割について、「思想は、民族にとって重要である。そして思想を保持するための媒体として言語は恒常的に摩耗している。話し言葉を鋳造しなおし、散文に生気のある語を供給することは常に詩人の機能であった」と書いている。彼は、詩と詩人の社会の中での役割を復活させようとも考えていたのだろう。
3
一九一一年から一二年にかけての冬、彼は頻繁にイェイツに会うようになった。ロンドンへ帰ってきたフォードの紹介で、一九一二年二月にはアメリカ人のエクスパトリエイト(海外移住者)であり、ロンドンの文壇の大物でもあったヘンリー・ジェイムズにも会った。
パウンドは、「クエスト・ソサイアティ」という神智学傾倒者たちの集まりにも参加していた。その集まりを主宰していたのはG・R・S・ミードという神秘主義者であった。ミードは一八六三年に生まれ、ケンブリッジ大学やオックスフォード大学で学んだあと、一八八四年にブラヴァツキーとオルコットが設立した神智学協会の会員になり、協会の機関誌である『ルシファー』(のちに『神智学レビュー』と改称)の編集やブラヴァツキーの著作『シークレット・ドクトリン』の改訂に携わった(18)。一八九〇年には新智学協会のヨーロッパ支部の会長になり、一九〇七年にオルコットが他界したときには神智学協会会長への就任を要請されたが、著述活動に専念するために辞退した。
一九〇九年に神智学協会が分裂したあと、彼は、「クエスト・ソサイアティ」を設立し、『クエスト』という雑誌を発刊した。この雑誌には、神話学、神秘主義、キリスト教の起源などをテーマにした寄稿論文が掲載され、インドの詩人ラビンドラナス・タゴール、イェイツ、東洋美術史家のローレンス・ビニョン、カバラの研究者であるG・ショーレム、宗教哲学者のマーティン・ブーバーら、それぞれの分野で現在でもよく知られている人たちが寄稿した(19)。
クエスト・ソサイアティの集会には、イェイツやT・E・ヒューム、ウィンダム・ルイスらも参加していた。オリビア・シェイクスピアもそのサークルのメンバーであった。エルマンが、イェイツの伝記の中で、ダイアナ・ヴァーノン(オリビア・シェイクスピア)は心霊術を使った、と書いているように、彼女は神秘主義に傾倒していた。彼女の娘であり、のちにパウンドの妻になったドロシー・シェイクスピアも神秘主義に傾倒していた。
パウンドは、一九一二年にクエスト・ソサイアティで講演した。その講演原稿は『クエスト』の第四号(一九一二年一〇月発行)に掲載され、さらに一九三二年に『ロマンスの精神』の中の一章(「トルバドゥールの心理」)として加えられた(20)。
西洋人にとって、神智学は、神(キリスト教)を否定したのちに、さらに新しい神を求めるという宗教的な渇望に応えるものであったのだろう。キリスト教の中心から離れようとする神秘主義には中世以来の流れがあるが、新智学は「古代インドの知恵」などを強調しているところに大きな特徴があった。その新智学への知識人たちの傾倒には、西洋の精神を支配していた西洋中心主義とキリスト教中心主義の否定、そしてより地球的、普遍的な宗教への志向が強く感じられる。
カンディンスキーは、神智学に強い関心を抱いていたことが知られているが、『芸術における精神的なものについて』の中で、「永年インドに滞在したのち、この「野蛮人」とわれわれの文化との間に固いきずなを結んだ最初の人、それはおそらくあのH・P・ブラバツキー夫人であっただろう」(21)と書いている。
知識人たちのインドに対する関心は、アメリカでは、すでに一九世紀末に高まっていた。一八九三年、シカゴでの世界コロンビア博覧会に伴って開催された初めての万国宗教大会で、インドから来たスワミ・ヴィエケナンダがヒンズー教の教義、ヴェーダンタについて講演し、多くのアメリカ人の関心を引きつけたことは、一九世紀末のアメリカ宗教界の大きな出来事であったとされている(22)。この大会では、英国神智学協会の有力者であり、その後、指導者になったアニー・ビーサントも神智学について講演した(23)。
また、神智学への傾倒は非合理主義の立場をとることでもあった。一八三九年に生まれ、大学を出たあと画家になったイェイツの父J・B・イェイツは、J・S・ミルの思想を支持する自由主義者であった。イェイツは、この父の思想に強く反発した。はじめラスキンやモリスに傾倒し、やがてアイルランド神話や神智学に強く傾倒するようになったイェイツは、神話や神智学に、自由主義や功利主義、社会主義などの新しい社会思想を超えるものを求めようとしたのだろう。
パウンドは、トルバドゥールと異教との関係や原始宗教に強い関心を抱いていた。彼は、キリスト教を地方主義的なものとみなし、より普遍的な知恵を原始宗教に見出そうとしていたようだ。
引用文献
1) カンディンスキー、ニーナ:カンディンスキーとわたし(土肥美夫、田部淑子訳)、みすず書房、一九八〇年。p.59.
2) ダンヌンツィオの伝記的記述は、主に「フェルミ、ローラ:ムッソリーニ(柴田敏夫訳)、紀伊国屋書店、一九六七年」による。
3) ダンヌンツィオ、ガブリエーレ:快楽児(森田草平訳)、博文館、一九一四年。p.2-3
4) フェルミ、ローラ:ムッソリーニ(柴田敏夫訳)、紀伊国屋書店、一九六七年。p.121.
5) 高木久雄ほか編:表現主義の理論と運動(ドイツ表現主義五)、河出書房新社、一九八八年。p.23.
5a) Harrison, Charles and Wood, Paul ed.: Art in theory 1900-1990, Blackwell,
1992, p.147.
6) ロジャー・フライの伝記的記述は、主に「ウルフ,ヴァージニア:ロジャー・フライ伝、(宮田恭子訳)、みすず書房、一九九七年」による。
7) Pound, Ezra : Selected Prose 1909-1965,ed.by William Cookson, Faber
and Faber,London,1973.p.431.
8) オレージの伝記的記述は、主にTryphonopoulos, Demetres P.: The Celestial
Tradition, A Study of Ezra Pound's The Cantos, Wilfrid Laurier University
Press, 1992.による。
9) Redman, Tim: Ezra Pound and Italian Fascism, Cambridge University Press,1991.
p.18.
10) ibid. p.19, Carpenter, Humphrey: A Serious Character--The Life of Ezra
Pound, Houghton Mifflin Company, 1988. p.168-169.
11) Pound, Ezra : Selected Prose ,p.23.
12) ヒューム、T.E.:ヒュマニズムと芸術の哲学(長谷川鑛平訳)、法政大学出版局、一九七〇年。
13) Stock, Noel : The Life of Ezra Pound(An expanded edition), North Point
Press,1982. p.106-107
14) ヒューム、T.E.、op.cit. p.146-147.
15) Stock, op.cit . p.106-107
16) ibid. p.112.
17) Pound, Ezra : Selected Prose , p.330-331.
18)ミードの伝記的記述は Tryphonopoulos , op.cit p.85-86.による。
19) Tryphonopoulos , op.cit p.86.
20) ibid. p.68., Stock : op.cit.. p.115.
21) カンディンスキー、ヴァシリ:抽象芸術論(芸術における精神的なもの)」(西田秀穂訳)、美術出版社、一九七〇年。p.46.
22) 山口清一:フェノロサ、日本文化の宣揚に捧げた一生、三省堂、一九八二年。下、p.45.
23) Leach, William:Land of Desire, Merchants, Power, and the Rise of a
New American Culture, Vintage Books, 1993. p.227.
この章では、パウンドの伝記的記述は、Stock, Noel:The Life of Ezra Pound(An
expanded edition), North Point Press,1982.とCarpenter, Humphrey : A Serious
Character--The Life of Ezra Pound, Houghton Mifflin Company,1988. を基本にした。
<エズラ・パウンド関連サイト>
http://www.lit.kobe-u.ac.jp/~hishika/pound.htm:
Ezra Pound (神戸大学文学部教授・菱川英一氏による英文サイト。パウンドの肖像写真、主要文献、年譜、関連サイトへのリンクなどが掲載されています。主要英米詩人についての情報を得るための同氏作成サイトにリンクしています。)
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