No.6 July, 1999

Series


歴史の中のエズラ・パウンド 
第6回
 
第2部 モダンエイジ

第5章 ロンドンのモダニズム前夜



 エズラ・パウンドがロンドンのヴィクトリア駅に降り立ったのは、オスカー・ワイルドの事件から一〇年ほどが過ぎた頃の一九〇八年八月一四日である。その約一カ月後の九月二一日にはフェノロサがロンドンで客死した。

 エドワード王在位の時代に移り、ロンドンでは新しい時代の出現を感じさせる出来事が次々と起こっていた。パウンドが到着した数カ月前の五月には、イギリス・フランス合同の博覧会が郊外のシェパーズブッシュで開かれた。ルネッサンス様式を思わせる建物が立ち並び、運河が張り巡らされた会場にはゴンドラが往来し、長さ二〇〇メートルの回転シーソ「フリップ・フラップ」が人気を呼んだ(1)。機械やスピードによって得られる眩暈が人々の新しい関心事になり始めていた。

 フェミニズムの運動が勢いを増し、六月にはハイドパークでWSPU(婦人社会政治連盟)主催の婦人参政権要求デモが行われて二五万人の女性たちが集まった(2)。女性たちの地位向上への熱意はすさまじく、小説も、女性読者が急増したことで特徴づけられるようになった。この時代の小説についてイギリスの歴史学者ロバート・エンサーは、H・G・ウエルズ、アーノルド・ベネット、ジョン・ゴールズワージー、ジョージ・ムーアらは女性の読者が増えたことを意識し、小説のテーマは男性的な冒険から女性主人公の目で見た「性的な冒険に移り変わった」(3)と書いている。

 世紀末は時代遅れになり、理想主義的傾向が勢いを増していた。エンサーは、若い知識人たちは「自分たちがある時代の終わりにいるのではなく、新しい時代の始まりにいると感じていた」(4)と書いている。保守主義は依然として強い支配力を持ってはいたが、理想主義が自由主義、社会主義などに結びついて新しい思想を模索していた。

 文学では、イプセンの戯曲がヨーロッパを席巻し、イギリスでも劇作が主要な位置を占めるようになりバーナード・ショウの作品が人気を博した。エンサーは、ショウは「登場人物の性格を作り出す劇から思想を議論する劇に流れを変えた」(5)と書いている。ショウの戯曲では、性や階級による不平等の撤廃、伝統的なタブーからの解放、科学や産業の成果にそれなりの役割を与えること、時代の状況に合わせるために政治的枠組みを変えること、宗教が攻撃される中で、人生の目的を見つけるために宗教的な展望を見いだすこと、などがテーマになった。

 ロンドンへ着いたパウンドは、わずかな金しか持っておらず、知り合いもいなかった。湯も使えない安アパートに住み、空腹に悩まされるような生活をしていたが、九月末には父親からの送金が届くようになった。何とか生活できるようになった彼は空席になったポリテクニック校の短期講座の講師の職に応募し、「南ヨーロッパ文学の発達」をテーマとして翌年の講座の講師に採用された。ロンドンにも、プロヴァンス文学を知る人間はそれほど多くはいなかった。一九二九年に書いた『いかに読むか』の中で、彼は「イギリスに来たとき、・・・・まだ若くて無知蒙昧だった時期のわたしが《博学》と見られた」(6)と回顧している。

 収入を得るための努力をしながら、彼は詩人として認められるための方策を探っていた。新聞に詩を掲載させることに成功し、作家や批評家が足しげく通うエルキン・マシューズの書店を訪れた。マシューズは、一八九〇年代にジョン・レインと共に文芸雑誌『イエロー・ブック』を出版していた文壇のキー・パーソンの一人だった。『イエロー・ブック』が一八九七年に廃刊になったあと、レインとマシューズは別個に事業をすることになり、マシューズは、ワイルド、イェイツ、アーサー・シモンズ、ライオネル・ジョンソンらの作品の出版を手がけた(7)。

 マシューズは、パウンドがヴェニスで出版した『消えた微光』を店に置いてくれた。ある新聞は、書評でこの詩集の新鮮さを誉め、パウンドはアメリカにもこの詩集を送り書評を求めた。フィラデルフィアの新聞は、彼の才能に注目すると同時に、彼の詩が「学者をいらだたせること」、彼の「曖昧さや難解さを好む傾向」、「ホイットマンの影響」などに注目した(8)。

 パウンドは、マシューズに『消えた微光』の再版発行とヴェニスで書いた詩集『サン・トロバッソ』の出版も頼んだが実現しなかった。そこで、その中の十五編の詩を『今年の降誕祭のための一五の詩』(9)と題して自費出版した。マシューズは、一二月にその詩集の再版を出版し、翌年一月には、『消えた微光』の一部に新しい作品を加えたパウンドの三冊目の詩集『仮面(ペルソニ)』の出版も引き受けた。

 若い無名の作家や詩人に理解があったマシューズは、パウンドがロンドンへ来た前年の一九〇七年に、ジェイムズ・ジョイスの初めての詩集『室内楽』を出版していた。パウンドより三歳年上のジョイスは、一八八二年にアイルランドのダブリンで生まれた(10)。ダブリンの大学在学中の一九〇〇年に、『フォートナイトリー・レビュー』にイプセンに関するエッセーを書いて頭角を現し、詩や短い散文のスケッチも書き続けていた。一九〇二年に大学を卒業すると、芸術家としての生活の基盤を得るために医師になることを考え、講義にも出席したが学資が続かなかった。衝動的にパリのソルボンヌ大学へ医学を学びに行くことを考え、その経済的基盤を得るためにイェイツの紹介で彼のパトロンとして名高いグレゴリー夫人に手紙を書き、新聞の書評の仕事を紹介された。

 一九〇二年一二月一日にダブリンを立ち、ロンドンでイェイツに会ったあと、パリに着いたがソルボンヌでの医学の勉強は短期間しか続かなかった。ダブリンへ帰って一カ月ほど過ごしたあと、再びパリへ行くと、彼は国立図書館で本を読む生活を送ったが、一九〇三年四月頃、母親が危篤状態になったためダブリンへ戻り、八月に彼女の死を看取った。その後も彼はダブリンにとどまって詩を書き、一九〇四年二月には、のちに『若き芸術家の肖像』となる『スティーヴン・ヒーロー』の第一章を書き終えた。執筆を続けながら、歌手になることを考えて歌唱指導を受けたり、短期間教師をしていた彼は、六月にホテルで働いていた愛らしい田舎娘、ノラ・バーナクルに出合い、その恋が熟して行くのを待ちながらダブリンで暮らしていた。

 七月に、『アイリッシ・ホームステッド』という新聞から短編小説の注文が来たため、のちに『ダブリン市民』の中の一編になる作品『姉妹たち』を彼はスティヴン・ディーダラスというペンネームを使って書いた。のちに『室内楽』に収められた詩の何編かも、この頃いろいろな雑誌に発表した。

 十月になると、彼はベルリッツ語学校の英語教師になり、妻と共にスイスのチューリッヒへ旅立ち、そこからオーストリア領のトリエステへ派遣され、さらにイストリア半島の先端にあるポラへ派遣された。語学教師をしながら、『スティーヴン・ヒーロー』を書き続け、それを読んでもらうために弟のスタニスロースに送っていた。

 一九〇五年三月に、外国人の国外退去が命じられたため、ジョイスはトリエステに移った。約十年間住むことになるトリエステはアドリア海に面した美しい港町であり、ポラと同じようにオーストリア領であったが、イタリア系住民が人口の主要な部分を占めている土地だった。七月には長男のジョルジオが生まれ、十月には、弟のスタニスロースが、兄の勧めに従ってダブリンから出て来て、同じようにベルリッツに職を得た。

 二十歳のスタニスロースは、兄とは対照的な性格で、堅実だった。やがて彼は、『兄の番人』(11)としてマネージャーのような働きをすることになる。ジョイスはこの弟から、金を借りては酒を飲み、『ダブリン市民』や『スティーヴン・ヒーロー』を書いた。

 トリエステから、ジョイスは『室内楽』と『ダブリン市民』をロンドンの出版人グラント・リチャーズに送り、『ダブリン市民』は一九〇六年三月に契約が交わされた。しかし、残りの章の原稿を送ると道徳的に問題があるとして、グラント・リチャーズは問題の部分を削除して出版したい意向を示した。ジョイスは、この提案を拒否したため、『室内楽』も『ダブリン市民』も出版されなかった。

 一九〇六年五月、ベルリッツから夏の間は兄弟二人分の給料は払えないと告げられ、ジョイスはスタニスロースをトリエステに残してローマの銀行に職を得た。ローマに馴染めなかったジョイスは、ダブリンを懐かしく思い、その気持ちを弾みにして『ダブリン市民』を書き直した。

 マシューズが、イェイツの友人アーサー・シモンズの紹介で持ち込まれた『室内楽』の出版を引き受けたのはこの時期である。一九〇七年二月には校正刷りが出来ていたが、三月にトリエステへ帰ったジョイスは、『ダブリン市民』を出版したいという気持ちで心がいっぱいになっており、『室内楽』の出版には関心を失っていた。四月には、マシューズに『室内楽』の出版の中止を求める電報を打とうとしたが、スタニスロースが説得してやめさせた。そうして『室内楽』は出版された。



 マシューズの書店の周辺で毎日を送っていたパウンドは、やがてイェイツの知己を得た。マシューズが紹介してくれた詩人たちの誘いで、ある夫人のサロンを訪れ、そこで小説家オリビア・シェックスピア夫人と知り合いになったことがきっかけになった。

 オリビア・シェイクスピアは、イェイツが『回想』の中で、ダイアナ・ヴァーノンと呼び、初めて会った時の印象を「奥深い教養を身につけ、フランス、イギリス、イタリア文学に通じていた。そしていつも人生を楽しんでいる風だった」(12)と書いている女性である。

 彼女は、軍人の娘で、ロンドンの弁護士、ヘンリー・ホープ・シェイクスピアに嫁いで、一人娘のドロシーを生んだ。結婚後一〇年を過ぎた一八九五年頃からは、ライマーズ・クラブの詩人であり従兄弟であったライオネル・ジョンソンの紹介で知り合ったイェイツと恋愛関係になった。しかし、イェイツがアイルランド独立運動に身を投じていたイギリス人女性のモード・ゴーンに恋をし続けていることを知り、彼女はイェイツから離れていった。一八八九年に初めて会ったとき以来、イェイツはゴーンに熱烈な恋をし、結婚も求めていたが、彼女は拒み続けた。オリビア・シェイクスピアとの恋は、その心の痛みの中での出来事だった。二人はそれ以来何年かは会わなかったが、パウンドがオリビア・シェイクスピアと知り合った一九〇九年一月頃には、二人は友人関係を取り戻していた。(13)

 一九〇九年四月に、パウンドはシェイクスピア母娘とともにイェイツのロンドンの住居を訪れた。そこでは、毎週月曜日に、イェイツの賞賛者や友人が集まってサロンが開かれていた。G・K・チェスタトンは、『ウィリアム・ブレイク』(一九一〇年刊)で、「現在英語でものを書いているもっとも偉大な詩人といえばそれはイェイツ氏を指していることはお断りするまでもない」(14)と述べているが、そのイェイツの知己を得たことは、パウンドにとって大きな出来事であった。

 パウンドはやがてロンドンの多くの詩人たちとも知り合いになった。一九〇九年の二月には、マシューズの紹介で、詩人たちの集まり「ポエッツ・クラブ」に参加するようになった。同じ頃、彼はのちにメアリー・フェノロサが夫の遺稿の出版するのを手伝った大英博物館のローレンス・ビニヨンと知り合い、彼の「東洋と西洋の美術」という講演を聞いて東洋の文化に強い関心を呼び起こされた。また、四月からは、T・E・ヒュームを中心とする前衛的な詩人たちのグループに加わった。

 彫刻家のジェーコブ・エプスタインは、美術評論家のハーバート・リードが編集したヒュームの著書『思索』の「はしがき」で、ヒュームについて、「プラトンやソクラテスのように、彼は自分のまわりに当時の知的な青年を引きつけた。今のイギリスには、彼と同じような人間はひとりもいない」(15)と書いている。パウンドもそのように彼に引きつけられた一人であったが、のちにはT・S・エリオットも彼から大きな影響を受けた。

 T・E・ヒュームは、一八八三年九月に生まれ、ケンブリッジで数学を学んだが、学生仲間と喧嘩を起こして一九〇四年に退学処分になった。その後、ロンドン大学で生物学などを学んだあとカナダへ行き、広大な土地に心を打たれて、文学や哲学を学ぼうと決意した。ヨーロッパへ戻って彼が強い関心を持ったのはアンリ・ベルクソンのイメージの哲学だった。一九〇八年にロンドンへ戻ると、彼は週刊の『ニュー・エイジ』誌に寄稿するラジカルグループの仲間になり、「哲学者」という評判を得た。ヒュームもポエッツ・クラブのメンバーだったが、満足できず、一九〇八年に自分たちのグループを作った。彼らはレストラン「エッフェル塔」に集まり、英詩を新しくすること、自由詩の可能性、日本の詩やヘブライ詩の形式を英詩取り入れることなどを議論し、自分たちの詩を朗読して仲間の評を聞いた。(16)

(写真は、Ezra Pound and Drothy Shakespear Thier letters 1909-1914, ed. by OmarPound and A.Walton Litz, New Directions, 1984)



 パウンドの詩を、最初に掲載したロンドンの文学雑誌は、『イングリッシ・レビュー』の一九〇九年六月号だった。その雑誌を編集していたフォード・マドックス・フォード(当時の名前はフォード・マドックス・フーファー)は、一八七三年一二月生まれで、パウンドより一二歳年上だった(17)。父は音楽評論家のドイツ人、母はラファエル前派の画家フォード・マドックス・ブラウンの娘だった。フォード・マドックス・ブラウンは、ダンテ・ゲイブリエル・ロッセティより十歳ほど年上で、温厚な性格のためにアヴァンギャルドであったラファエル前派から距離を置いていたが、ロセッティとは終生親しくした。一八六〇年代にロンドンのチェルシー地区に移ったあとのブラウン邸は「イギリスの知識人の中心地」になり、ツルゲーネフ、ロセッティ、ラファエル前派の画家ホウルマン・ハント、詩人スウィンバーン、ウィリアム・モリス夫妻、画家ホイッスラー、モリスと親しい画家バーン=ジョーンズ夫妻らが集まった(18)。

 フォードは、ラファエル前派の芸術家たちを身近にして育ち、モリスの社会主義者の集まりにも参加していたが、やがて作家になり、パウンドが会ったときにはすでに童話や歴史小説など多数の本を出していた。その中の小説二編は、まだ無名だったジョセフ・コンラッドとの共著だった。英語による著述がまだ十分にできなかったポーランド人のコンラッドを彼が助けた。やがてコンラッドは「売れる作家」になり彼から離れていった。

 そのコンラッドやウェルズらの援助で、フォードは一九〇八年の一二月に『イングリッシ・レビュー』をスタートさせた。財政的に破綻したため一年余りしか続かなかったが、この雑誌はイギリスの文壇に知的センセーションを巻き起こした。創刊号にはコンラッド、ウェルズ、ジェイムズ、ハーディ、W・H・ハドソン、ゴールズワージーらイギリスの文壇を代表する作家たちの寄稿やトルストイの翻訳小説が集められた。

 作品の投稿を友人から勧められて、ある日、パウンドはロンドン西部の鮮魚店の二階にあった『イングリッシ・レビュー』編集室に三〇代半ばのフォードを訪ねた。フォードは、編集者として鋭い感覚を持っていた。この年、彼はD・H・ローレンス、ウィンダム・ルイス、エズラ・パウンドという三人の天才を発見したといわれている。

 D・H・ローレンスは一八八五年九月一一日、イギリスの炭坑町イーストウッドで炭坑労働者の家に生まれた(19)。パウンドとは同年の生まれである。ほとんどの同級生は炭坑夫になったが、彼は奨学金を得てハイスクールに進んだ。一九〇一年、一六歳の時にハイスクールでの教育を終え外科用具の会社に就職したが、病気がちのために教員になり、その後一九〇六年にノッチンガムのユニバーシティ・カレッジに入学し、卒業後、ロンドン南東の町クロイドンで教員になった。

 彼は教員生活をしながら詩を書いていた。一年を過ぎた頃の一九〇九年六月、幼なじみで恋人だったジェシー・チェインバースが投稿を勧めた。彼は自信がなかったが、ジェシーが、いくつかの詩を、『イングリッシ・レビュー』のフォードに送った。フォードは、一九〇九年一一月にローレンスの詩四編を掲載した。それがローレンスの文壇へのデビューになった。

 パウンドとローレンスは、フォードの紹介で知り合いになり、二人はパーティーなどで何度か会ったが、親しい友人関係には発展しなかった。ローレンスは友人への手紙に「パウンドの神は美だが、自分の神は生だ」と書いた(20)。

 ウィンダム・ルイスは、アメリカ人の父親とイギリス人の母親の間に生まれた(21)。父親は弁護士であったが、放蕩者であった。自分の年齢の半分にしか達していない一六歳のイギリス人女性と結婚したが、やがてその妻は、一八八二年に生まれたルイスを連れて、夫の不実を理由にイギリスへ帰った。 イギリスで、ルイスはエリート養成校のラグビー・スクールへ入学したがうまく行かず、一五歳のときに当時の有名な画家オーガスタス・ジョンを生んだスレード美術学校に入学した。そこで彼は図案画家としてすばらしい才能を持っていることを認められたが、やがてその学校も気に入らなくなり去った。その後、七年間、彼はヨーロッパ各地を放浪した。彼の小説『タア』(22)に描かれているのは、この頃の生活だろう。ドイツ人女性との間に子供が生まれたが、その子供を残してイギリスへ帰ったルイスは、一九〇九年に『イングリッシ・レビュー』のフォードを訪ねた。ルイスは、のちに画家として認められるようになり、多くの評論も書いたが、そのときに彼が目指していたのは小説家であった。

 パウンドとフォードの交友は、一九三九年にフォードが南フランスで亡くなるまで続いた。『イングリッシ・レビュー』が廃刊になったあと、フォードは、イギリス国内やフランス、アメリカを転々としながら小説を書いたが、イギリスでは彼の本は売れず、むしろ晩年にアメリカで人気が高まった。彼は、若い作家に寛大な作家だった。ローレンスは「才能ある若手にとってのたった一人の叔父さん」と彼を評した(23)。

 作品がフォードの『イングリッシ・レビュー』に掲載され、マシューズの店からも刊行されたことによって、ロンドンへ来て一年もたたないうちに、パウンドは新しい詩人として注目されるようになった。有名な風刺雑誌『パンチ』も、マシューズが売り込んでいる新しいアメリカ人として彼を記事の材料にした。その記事は、パウンドが「束縛のない西部、ロンドンの骨董商街の語彙、ボルジアのイタリアの不吉な奔放さを混ぜ合わせたイメージを作り出すことに成功している」と評した(24)。

 一九〇九年一〇月には、マシューズから詩集『歓喜』が出版された。厳しい評がある一方で、好意的な評も多かった。

 彼の詩がロンドンで高く評価されたのは、詩の斬新さと共に彼の中世文学の知識にも負うところが多かった。イェイツは、時には五時間もパウンドと話し込み、彼のプロヴァンス文学の話に聞き入った。彼はポエッツ・クラブでも、頼まれてトルバドゥールの詩人、アルノー・ダニエルについて講演した。

 ウイリアム・カーロス・ウイリアムズは、この頃、ロンドンにパウンドを訪ねている。彼は、一九〇八年にニューヨークの子供病院の医師になったが、半年ほどで辞職し、故郷のラザフォードへ帰って開業することになった。その前に、彼は一九〇九年九月から翌年二月までドイツのライプツィッヒで小児科学の研修を受け、帰途ロンドンのパウンドを訪ねた。パウンドはウイリアムズをイェイツの家の集まりに連れて行った。



 一九世紀末から二〇世紀初めにかけて、ロンドンの文壇で活躍した作家や詩人には外国人が多い。ワイルド、イェイツ、ショウ、ジョイスはアイルランド人、ジョセフ・コンラッドはポーランド人、ヘンリー・ジェイムズとパウンドはアメリカ人、ウィンダム・ルイスも半分外国人であった。

 大人しいイギリス人の中で、新しい芸術運動を起こそうとしていたのは、ブルームズベリー・グループである。その中心にいたヴァージニア・ウルフは一八八二年生まれた。彼女の父、レズリー・スティーヴンは著名な著述家であり、ケンブリッジ大学在学中からアルプス登山に情熱を注いだ一九世紀の有名な登山家の一人でもあった(25)。彼は、一八七一年にサッカレーが編集していた『コーンヒル・マガジン』の編集長となり、さらに一八八二年に『英国人名辞典』の編集長になった。ヘンリー・ジェイムズやアメリカの詩人・批評家さらに外交官でもあったジェイムズ・ラッセル・ロウエルとも親交を結んだ。

 一九〇四年二月、ヴァージニアが二二歳の時にレズリー・スティーヴンは死亡した。母はすでに他界しており、父も亡くなると、スティヴーン家はヴァネッサ、ヴァージニアという女二人、トゥビー、エイドリャンという男二人の子供たちだけの家庭になった。ヴァージニアは二度目の神経症にかかって転々と知り合いの家に預けられたが、残った子供たちは一九〇四年の夏、両親が残した家を引き払い、ブルームズベリー地区へ引っ越した。この家に、のちにヴァージニアの夫になったレナード・ウルフ、伝記作家になったリットン・ストレイチー、画家になったヴァージニアの姉ヴァネッサの夫になったクライヴ・ベル、近代経済学の生みの親と呼ばれるようになったジョン・メイナード・ケインズらトビーのケンブリッジ大学時代の友人が次々と訪ねて来るようになった。一九〇五年二月から毎週木曜日定期的にスティーヴン家に集まるようになった彼らは、のちにブルームズベリー・グループと呼ばれるようになった。(26)



 一九一〇年三月に、パウンドはイタリアへ向けて旅立った。パリで知り合いの音楽家に会った後、ヴェロナへ向けて立ち、その後、北イタリアのガルーダ湖畔の小さな岬にある町シルミオーネのホテルに投宿した。シルミオーネはローマの詩人カタラスが愛した場所である。ロンドンとニューヨークで出版されることになった『ロマンスの精神(スピリット・オブ・ロマンス)』の校正刷りをそこで読みながら、彼はこれからの仕事について思いをめぐらせた。

 序文の中で母校ハミルトン大学の指導教授ウィリアム・P・シェパードに謝辞を述べているように、『ロマンスの精神』(27)は、彼のハミルトン大学時代からの研究のまとめともいえる作品だった。この本で彼は、アルノー・ダニエルを初めとするプロヴァンスの詩人たち、スペイン語の現存最古の文学作品とされる叙事詩『わがシッドの歌』、トルバドゥール文学、トスカーナ文学、ダンテ、フランソワーズ・ヴィヨン、スペインの劇作家ロペ・デ・ベガ、ルイース・ヴァズ・デ・カモインなどについて論じた。

 四月になるとシェイクスピア母娘が、シルミオーネへやって来た。シェイクスピア家の一人娘ドロシーとパウンドの間にはすでに恋が芽生えていた。三人は、そこからヴェニスへ行き、パウンドはそこで母娘と別れてヴェロナへ戻り、五月の終わりにロンドンへ帰った。

 ロンドンへ帰ると、母親のオリヴィアがパウンドと娘ドロシーの結婚に反対したため、彼はシェイクスピア家への出入りが禁じられた。注目され始めていた詩人であったとはいえ、パウンドはドロシーと結婚して生計を立てて行けるほどの収入は得ていなかった。

 イタリア旅行から帰って一カ月半後の六月一五日、ロンドンにほぼ二年間住んだ後、パウンドは両親が強く希望していたこともあってアメリカへ帰った。ロンドンで詩人として暮らして行けるのか、アメリカで詩人としてあるいは学者として生きていくことをもう一度試してみるべきではないのか、といった迷いもあった。帰国に先立って彼はペンシルベニア大学で職を得る可能性も探ったが実現しなかった。

 帰国後、両親の家に戻ったあと、彼は主にニューヨークに住み、カヴァルカンティの詩の翻訳などをしながら友人たちに会った。ウィリアムズ、ヒルダ・ドリットル、ハミルトン大学時代の友人、ヴェニスで彼がコンサートツアーのマネージャを務めたピアニストのハイマン、そしてイェイツの父である画家ジョン・バトラー・イェイツ(J・B・イェイツ)にも会った。熱心なプロテスタントだったイェイツの父はアメリカへ移住していた。

 パウンドはJ・B・イェイツのパトロンであったアイルランド系アメリカ人ジョン・クインにも会った。クインは、一八七〇年にアイルランド人の両親のもとに生まれ、ハーバード大学で法律を学んだ後、ニューヨークの法律事務所の共同経営者になった。独身で慎ましい生活を送り、貯めた金のすべてを芸術作品の購入に注ぎ込んでいた。一九〇二年にアイルランドとイギリスを訪れ、J・B・イェイツと彼の弟のジョンの絵を購入し、翌年には息子のW・B・イェイツのアメリカ講演旅行を実現させた。イギリス人画家ジョン・オーガスタスの絵も買い、ジョセフ・コンラッドとも友人になって彼の原稿を買い集めていた。のちには、パウンドの勧めに従ってウィンダム・ルイスの絵も購入し、パウンドの文学活動やジョイスの作品の出版も援助した。(28)

 一九一〇年一一月には、ボストンの出版社から彼のアメリカでの初めての詩集『プロヴェンサ』が出版された。『仮面』と『歓喜』の詩を中心に編んだ詩集だった。

 パウンドは、アメリカで事業をして金を貯め、金のことを心配せずに詩人としての生活を続けていくという夢のようなことも考えていたようだ。ニューヨークにいた彼から事業の話をもちかけられた時のことを、ウィリアムズが『自伝』(29)に書いている。それは、ドイツの病理学者エールリッヒが世界に向けて発表したばかりの新しい梅毒治療薬をアフリカ北海岸で販売して大金を手に入れようという計画だった。医師であるウイリアムズが医学的な面を担当し、パウンドが営業的な面を担当して、一年ほどで大金を貯め、あとは文学に没頭しよう、というような話だったという。ウイリアムズは、本気になって、父親に相談したが、経験を積んだビジネスマンであった彼は即座に頭を横に振った。それ以後、パウンドはビジネスの話に夢中になるのはやめた。

 パウンドは新しく結成されたアメリカ詩人協会の第一回会合にも招かれて出席したが、ロンドンの雰囲気には比べようもなかった。新しい詩を書こうとする彼は、ヨーロッパへ戻らなければならなかった。

引用文献

1) 小松左京ほか編:二〇世紀全記録、講談社、一九八七年。p.119.
2) ibid.p.120.
3) Ensor, Robert: Englamd 1870-1914, Oxford University Press,1936.p.548.
4) ibid, p.527.
5) ibid. p.548.
6) パウンド、エズラ:詩学入門(沢崎順之助訳)、富山房、昭和五四年。(ABC of Reading, How to read).p.363. (Ezra Pound : Literary essays of Ezra Pound, ed. by T.S. Eliot, New Directions, 1968, p.17.)
7) Carpenter, Humphrey: A Serious Character--The Life of Ezra Pound, Houghton Mifflin Company,1988.p.98.
8) Stock, Noel : The Life of Ezra Pound(An expanded edition), North Point Press,1982.p.55.
9) タイトルの訳は、エズラ・パウンド:仮面(Personae:The Shorter Poems of Ezra Pound, Collected Early Poems of EzraPound),(小野正和、岩原康夫訳)、書肆山田、一九九一年、による。
10) ジョイスの伝記的記述は以下の書による。Anderson, Chester G.: James Joyce, Tames and Hudson,1967., Ellmann, Richard: James Joyce, Oxford University Press,1982., ジョイス、スタニスロース:兄の番人、若き日のジェームズ・ジョイス(宮田恭子訳)、みすず書房、一九九三年。
11) ジョイス、スタニスロース:op.cit.
12) Yeats, W.B. : Memoirs, ed. by Denis Donoghue, Macmillan,1988(First Published 1972).p.74.
13) Carpenter : op.cit.,p.104.
14) チェスタトン、G・K:ウィリアム・ブレイク、ロバート・ブラウニング(G・K・チェスタトン著作集評伝篇3、P・ミルワード編、中野記偉訳)、春秋社、一九九一年。p.113.
15)ヒューム、T.E.:ヒュマニズムと芸術の哲学(長谷川鑛平訳)、法政大学出版局、一九七〇年。p.iv. (T.E. Hulme : Speculations, Routledge & Kegan Pul, 1960.p.viii)
16) Stock, Noel,op.cit,p.63-4., Jones, Peter(Introduction and ed.):Imagism Poetry, Penguin Books,1972.p.14-5.
17) フォードの伝記的記述は主としてJudd, Alan: Ford Madox Ford, Harvard University Press,1990.による。
18) ラングラード、ジャック・ド:D・G・ロセッティ(山崎庸一郎、中条省平訳)、みすず書房、一九九〇年)。p.215.
19) ローレンスの伝記的記述は、主としてMeyers, Jefferey: D.H. Laurence, A Biography, Vintage Books, 1992, New York.(Originally Published : New York:Knopf,1990).による。
20) Stock, Noel : op.cite.117.
21)ルイスの伝記的記述は、主として Meyers, Jeffrey: The Enemy, A Biography of Wyndham Lewis, Routledge & Kegan Paul, 1980.による。
22)ルイス、ウィンダム;ブルジョワ・ボヘミアンたち(飯田隆昭訳)、思潮社、一九六六年。
23) Judd, Alan, op.cit.,p.345.
24) Stock, Noel: op.cit.,121.
25) レズリー・ステーヴンの伝記的記述は、小野寺健:英国文壇史、一八九〇ー一九二〇年、研究社出版、一九二二年。p.125-167.による。
26)ibid.p.155-160.
27) Pound, Ezra : The Spirit of Romance, New Directions,1968.
28) Carpenter : op.cit.,p.153,276.
29) Williams, William Carlos : The Autobiography of William Carlos Williams, New Directions, 1967.p.92-93.

 この章では、パウンドの伝記的記述は、Stock, Noel:The Life of Ezra Pound(An expanded edition), North Point Press,1982.とCarpenter, Humphrey : A Serious Character--The Life of Ezra Pound, Houghton Mifflin Company,1988. を基本にした。


エズラ・パウンド関連サイト
http://www.lit.kobe-u.ac.jp/~hishika/pound.htm:神戸大学文学部教授・菱川英一氏による英文サイト。パウンドの肖像写真、主要文献、年譜、関連サイトへのリンクなどが掲載されています。20世紀主要英米詩人についての情報を得るための同氏作成サイトにもリンクしています。


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