No.5  June 1999


Ezra Pound in History

歴史の中のエズラ・パウンド 第5回

第1部 世紀末

第4章 アメリカの二十世紀



 ギルデッド・エイジに始まったアメリカの工業の発展は、二十世紀に入ると、さらに加速し、生活様式を画期的に変える新しい工業製品を次々と実用化していった。電気、電話、映画、自動車。

 一八九三年にエジソンが発明したのぞき穴から見る活動写真は、フランスのリュミエール兄弟によってスクリーンに映写する映画に発展し、一八九五年にパリで上映されると、翌年にはニューヨークでも上映された。映画は、アメリカで巨大な娯楽産業への道を歩み始めた。

 アメリカでは、自動車は一九〇〇年にすでに八〇〇〇台、電話は一三〇万台が使われていた(1)。一九〇三年には、ライト兄弟が飛行に成功し、その翌年にはニューヨークに地下鉄が開通した。一九〇八年になるとヘンリー・フォードが大衆車の原型とされるT型フォードを発表し、ゼネラル・モーター社も設立されて自動車の普及にさらに拍車が掛かった。

 一八八六年、四八歳の時にジョン・ラファージと共に日本を訪れたヘンリー・アダムズは、一九〇〇年には六二歳になっていた。その年、彼はパリの博覧会で巨大な発電機を見た。アダムズにとってその発電機は、新しい時代の制御できない力を体現したものに見えた。『ヘンリー・アダムズの教育』(一九〇六年)の中で、彼は、「一九〇〇年に、突如として科学が頭をもたげ、(過去を)否定した」(2)、「一九〇〇年生まれの子供は、新しく到来する時代の中に産み落とされたのであり、その時代は統一性ではなく多様性の時代である」(3)と書いている。このように書いたとき、彼は、すでに老年を迎えており、自分の生涯を振り返りながら、これまでに形成してきた自分の知性では、これからの時代には対処できないと感じていた。

 彼に時代の断絶を感じさせたのは、新しい「物」だけではなかった。社会秩序も大きく変わっていた。工業の進展が可能にした巨大な富の蓄積や民主政治による大衆の興隆が社会を支配するようになり、貴族主義的な立場から人々を指導していこうとするような考え方は社会から相手にされなくなっていた。彼は自分を時代遅れの人間であるとみなしたが、それは自己卑下ではなかった。

 二〇世紀に入ると、彼のようなボストン出身の知的エリートは影響力を失い、文壇の大物は新聞記者出身のマーク・トウェインとウイリアム・ディーン・ハウエルズの二人になっていた。

 トウェインは、一八八〇年代まで活発な文筆活動を続けたあと、印刷業への投資で多額の負債を負って経済的苦境に陥り、講演などで得た収入でそれを徐々に克服するという破産した事業家としての生活を続けていた。しかし、大作家としての地位はすでに確立しており、一九〇七年にはオックスフォード大学から名誉文学博士号を授与された。

 マーク・トウェインやヘンリー・ジェイムズの親しい友人であった編集者出身のウイリアム・ディーン・ハウエルズは、二〇世紀に入るとアメリカの文壇の実力者になった。

 彼も、トウェインやホイットマンと同じように、新聞記者から出発した。一八三七年に、オハイオ州の田舎町で生まれ、正規の教育は受けず、九歳の時から印刷業の父について植字工として修練を積んだあと、父親が発行する新聞などの記者として働き、詩を書いた(4)。一八六〇年、二三歳の時に、リンカーンの大統領選挙キャンペーンの伝記作者となり、その報奨として、一八六一年から六五年まで、ベニスのアメリカ領事に任命された。帰国後はボストンに住み、イタリアでの経験を書いた著作で注目され、一八六六年から八一年まで新しい文芸誌『アトランティック・マンスリー』の副編集長、編集長に起用された。その後、ミドルクラスに題材をとった多数の小説を書き、一九〇八年にアメリカ芸術院の会長になって一九二〇年までその椅子に座り続けた彼は、アメリカン・リアリズムという力強い文学が形成されていく中で大きな役割を果たした。

 編集者としてトウェインやヘンリー・ジェイムズを発見したのは彼であったとされているが、同じように彼が発見した新しい世代の作家の一人にスティーヴン・クレインがいる。クレインは一八七一年に、ニュージャジー州ニューアークで牧師の家に生まれ、大学に入る前から新聞記者の見習いをし、大学に入るとニューヨーク・トリビューンの通信員の職を得た。大学は半年ほどで退学、新聞記者をしながら作家活動に打ち込んだ。西部からメキシコへかけての探訪、冬のフロリダ沖での遭難、ギリシャ・トルコ戦争への参加、米西戦争中のキューバへの潜入と、彼の人生は冒険に彩られているが、結核のため一九〇〇年六月にドイツで死亡した。(5)

 彼の最初の作品は、ニューヨークのスラム、バウアリー街の若者たちの生態を鋭いリアリストの目で観察した『街の女マギー』(一八九三年)である。貧困の中で喘ぎながら悪に染まっていく男や女をきびきびとした文体で描いてみせたこの作品は、やがてハウエルズの目に止まり、クレインは文壇へのデビューを果たした。クレインの作品は、アメリカ文学に新しい世界を切り開き、ヘミングウエイら、のちの世代によって絶賛された(6)。

 スティーヴン・クレインの登場はリアリストの目で非情な世界を見るという二〇世紀アメリカ文学の大きな方向を暗示していた。彼に続いて、フランク・ノリス、アプトン・シンクレア、シオドア・ドライザー、ジャック・ロンドンといった近代社会の非情さを冷徹に観察する作家たちが次々と現れた。

 フランク・ノリスは、『オクトパス』(一九〇一年)(7)で、カリフォルニアの鉄道資本と農場主の対決を書いた。そこに描かれているのは、鉄道業という近代を象徴する力によって、農場主という中世的な価値観に支配されている人々が非情なまでに打ちのめされていく過程である。

 こうした作家たちが登場して来たのも、そこに非情な世界があったからだといえるだろう。ギルデッド・エイジに始まった経済的な無秩序の世界に秩序をもたらそうとしていたのは独占・寡占といった強者の論理だった。自由競争の中で弱者が淘汰され、生き残った強者が秩序を作っていくという自然界の論理「進化論」は、人間社会にも適用されるとみなされ、アメリカでも信奉者を増した。既成の秩序による束縛が少ないアメリカでは、こうした「進化論」の解釈は、イギリス以上に受け入れられやすかったといえるだろう。進化論は、ノリス、ロンドン、ドライザーといった二十世紀初頭に登場してきた作家たちの世界の見方に大きな影響を及ぼした(8)。



 一九〇〇年一〇月にエズラ・パウンドは一五歳になった。彼は詩人になろうと心に決め、三〇歳までに世界のだれよりも詩についてよく知っている人間になろうと決意したという(9)。

 一五歳が終わろうとする一九〇一年の秋に、彼はフィラデルフィアにあるペンシルヴェニア大学に入学した。この頃、彼はウィリアム・ブルック・スミスという二歳年長のフィラデルフィア工芸学校の画学生と親しい友人になった。パウンドは、スミスから、ビアズリーの挿し絵が入ったワイルドの『サロメ』を贈られたが、「その絵を醜悪であると感じ、その挿し絵を破り捨てた」(10)とのちに書いている。彼は、やがて、その行為を冷静さを欠いた熱狂であったと思うようになり、それらの絵を「ビアズリーの歪曲の功績」とみなすことができるようになったが、一五歳の彼にとってイギリスの世紀末はまだあまりにも強烈過ぎる世界であったのだろう。スミスは一九〇八年に結核で死亡した。その年にヴェニスで詩集を出版したパウンドは、あまりにも早く他界した彼、「画家にして夢見る夢想家」を記念して、その詩集を『消えた微光』と命名した(11)。

 一九〇二年六月から九月にかけて、彼は両親と共にヨーロッパを旅行し、ロンドンやヴェニスを訪れた。彼にとっては二度目のヨーロッパ旅行であった。このヨーロッパ旅行の後、大学へ戻った彼は、のちに彼と同じようにアメリカの代表的な詩人の一人になったウィリアム・カーロス・ウイリアムズと出合った。パウンドは一七歳になろうとし、ウイリアムズは、一九歳になってすぐのときだった。

 ウイリアムズは、一八八三年九月一七日にニューヨーク近郊のニュージャージー州ラザフォードで生まれた(12)。父親のウイリアム・ジョージ・ウイリアムズは一八五一年生まれのイギリス人であり、離婚した母親に連れられて五歳の時にニューヨークへ来てブルックリンに住んだ。やがて、母親が西インド諸島のセント・トーマス島から写真材料の買い付けに来ていた写真家と再婚したため、そこに移り住んだ。自分で一家を支えなければならない年齢に達すると、ジョージ・ウイリアムズは、ニューヨークへ戻ってブルクリンで生活の基礎を築き、母親と兄弟、婚約者を呼び寄せた。一八八二年にブルックリンで結婚すると、彼はマンハッタンを挟んで対側にあるラザーフォードに移り住んだ。ラザフォードはニューヨークの郊外にあり、近隣にはパターソンという工業都市が発展していた。パターソンは、のちにウイリアムズの代表作のテーマになった。

 オーデコロン製造会社に職を得て、ラザフォードからマンハッタンへ列車で通勤していた父ジョージが、工場を設置する職務のために一年ほどブエノスアイレスに出張した一八九八年から翌年の一八九九年にかけて、母と二人の息子はヨーロッパに住んだ。父は子供たちにヨーロッパを見せておきたいと考え、母のエレナも、結婚前に絵を学ぶために住んだことのあるパリを再び訪れること望んでいたからであった。パウンドの場合と異なって、ウィリアムズはヨーロッパに強い印象を抱くことはなかったようだ。

 ウイリアムズは、医師と歯科医師の免許を取得することを目指して一九〇二年にペンシルヴェニア大学に入学した。パウンドと同じように、彼も詩人になることを夢見ていたが、生活の基盤を持ち、その中で詩を書きたいと考えていた。パウンドは、ブラウニングやスウィンバーン、イェイツらの詩に関心を持ち、ウイリアムズは、イギリスのロマン派の詩人、特にキーツに夢中になっていた。

 ホイットマンを、パウンドはどう受け止めていたのだろうか。ホイットマンが没したのは、一八九二年一月、パウンドがペンシルベニア大学に入学した年の一〇年ほど前である。アメリカの民主主義や宇宙、そして性愛や男性同性愛を形式にとらわれない口語によって大胆に表現したホイットマンの詩は、一九世紀末のイギリスで、ダンテ・ゲイブリエル・ロッセティの弟であるウィリアム・ロセッティやスウィンバンによって高く評価され、ワイルドもアメリカへ講演旅行をした一八八二年にホイットマンを訪問した。しかし、このようにヨーロッパでも高く評価される一方で、わいせつであるとしてアメリカで激しい反発もあった。彼が没したとき、ニューヨークの新聞は訃報で、「アメリカ文学の中で、ホイットマンの位置がどのようなものになるのかを予測することは不可能である」と書いた(13)。

 パウンドは一九〇九年に、「ウォルト・ホイットマンについて感じること」というエッセイ(14)で、「イギリスへ来て初めてホイットマンを読むことができた」と書いている。彼が、それまでホイットマンを読むことができなかったのは、アメリカを低くみなし、ヨーロッパに強く傾倒していたからであったのだろう。しかし、ヨーロッパへ渡って、アメリカ人としての意識を強くするにつれ、ホイットマンは彼の意識の中で次第に大きな存在になっていったに違いない。このエッセイで、彼は、ホイットマンの偉大さ、そして彼がヨーロッパ的な伝統とは無縁なところにいる詩人であるとの認識を表す言葉として、「彼はアメリカである」と書いている。

(写真は、パウンドの本格的な伝記として最初に刊行されたCharles Norman : Ezra Pound, The Macmillan company, 1960. 。表紙カバーに使われているのは、Alvin Langdon Coburn が1913年に撮影したパウンドの肖像写真である)



 一九〇三年の秋、パウンドは、ペンシルヴェニア大学を中途退学し、ニューヨーク州北部の都市、シラキュースの近郊にあるハミルトン大学に編入した。ハミルトン大学は学舎に蔦のはうハーヴァードのような雰囲気を持つプレスビテリアン派の大学であり、学長は力強い説教を行う牧師だった。文学では、ハミルトン大学はペンシルヴェニア大学よりも高い水準にあった。

 パウンドがこの大学に移ったのは、十一歳の頃通っていた教会の牧師カーロス・トレイシー・チェスターの影響があったのではないかとされている(15)。チェスターは、この大学の卒業生であり、文学に関心を持つ活発な人物であった。パウンドは彼の息子と友人になり、彼から文学に対する関心を喚起された。

 ハミルトン大学での教育は詩人パウンドを形成していく上で決定的ともいえる役割を果たした。経済的に恵まれた階級に属していたものの、利息や地代、遺産で生計を立てていくことができる境遇にはなかった彼は、大学を卒業したあとは自立せねばならず、法律家や外交官になることも考えていた。しかし、熱心な教師との出会いによって、イギリスの古典詩や、ダンテ、フランスの中世文学に対する関心と知識を深め、彼は、文学で身を立てる決意を次第に固めていった。

 彼はドイツ語・ドイツ文学、英文学、ロマンス語の教授たちから多くのことを学んだが、なかでもロマンス語教授のウィリアム・ピアース・シェパードから多くを教えられた。『キャントウズ』第八〇篇(16)にうたわれているシェパードは、パウンドにフランス語、イタリア語、スペイン語を教えただけでなく、プロヴァンス語を個人的に教授した。プロヴァンス語を学びながら、パウンドは中世フランスの宮廷の詩人たち、トルバドゥールに関心を深めていった。

 トルバドゥールの叙情詩は、一二世紀から一三世紀にかけて南西フランスの騎士・宮廷文化の中で生まれた。ドーソンによると、その文化は、「第一回十字軍の時代に南西フランスに突如として現れ」、宮廷的儀礼の崇拝と恋愛の崇拝によって生活の優雅さを追求するものであった(17)。イスラム文化との接触によって形成されたと考えられる生活の優雅さを追求し、宮廷とそこに仕える騎士たちの文化という点では封建社会を基盤にしていたが、それまでのヨーロッパの封建社会を特色づけていた野蛮や暴力とは鋭い対照をなし、一方、現世的で快楽主義的であるという点で、超世俗性や禁欲主義というキリスト教的な思考とも対照をなしていた。

 この新しい宮廷文化は、キリスト教的な中世ヨーロッパが瓦解し、世俗的な貴族文化がヨーロッパ全体に発展していく兆しでもあった。その文化の中で生まれたトルバドゥールの叙情詩は、やがてイタリアに広がり、ダンテやカヴァルカンティ、ペトラルカらの作品の基盤となっていき、次第にヨーロッパ文学のルーツとしての位置を占めていった。

 トルバドゥールの叙情詩の研究は、パウンドがヨーロッパ文学への理解を深めるうえで大きく役立っただけでなく、彼の詩人としての生き方にも強い影響を与えたに違いない。彼の反キリスト教的思想も、トルバドゥールへの傾倒とつながるものであったということができる。

 一九〇五年六月にハミルトン大学を卒業すると、パウンドはペンシルヴェニア大学の一年間の修士課程に入った。フィラデルフィア郊外の家へ帰った彼は、ペンシルベニア大学の天文学の教授の娘であり、のちにH.D.のペンネームで詩を書いて、やはりアメリカの代表的な詩人の一人になったヒルダ・ドリットルと再び会うようになった。パウンドは、ペンシルヴェニア大学に入学した一九〇一年に彼女と知り合い婚約していた。しかし、この婚約はその後、解消された。

 婚約解消の理由ははっきりしていないが、パウンドは一九〇四、五年頃、一五歳年上のキャサリン・ルース・ヘイマンというコンサートピアニストに心を奪われるようになっていたことが知られている。彼女とは、ウィリアム・ブルック・スミスを通じて知り合ったのではないかと見られている。ヘイマンはオカルトに強く傾倒し、神智学に傾倒したロシア人作曲家・ピアニストとして知られるアレクサンドル・ニコラエヴィッチ・スクリャーピンを尊敬していた。パウンドは、この頃、ドリットルに多くの本を勧めたが、それらのなかには、モリスやイプセン、バーナード・ショウなどロンドンの文学的傾向を代表しているもののほかに、バルザックの『セラフィータ』、スウェーデンボルグやヨギ・ラマカチャカラの著作など、オカルト関係の本も多くあったことがドリットルによって回顧されている。こうしたことから、パウンドは、ヘイマンに心を奪われるのと同時に、彼女を通じてオカルトにも関心を持つようになったのではないかと見られている。(18)

 一九〇六年に修士号を得た二〇歳のパウンドは、その夏に三度目のヨーロッパ旅行をした。一六世紀スペインの戯曲の研究をするための奨学金を得て、ロンドンの大英博物館で文献を調査して多くの時間を過ごしたほか、スペインのマドリッドやフランスを訪れ、八月にアメリカへ戻った。このヨーロッパ旅行では、奨学金を得てはいたが十分ではなく、彼はアメリカ人旅行者のガイドをしながら旅行を続けた。

 このヨーロッパ旅行の後、彼はインディアナ州クロウフォーズヴィルにあるプレスビテリアン派のワバシュ大学のロマンス語教師として職を得た。人口一万人以下の小さな町での生活は、ヨーロッパに憧れる彼にとって、いつかは打ち切られなければならなかったに違いない。しかし、転機はあまりにも早く、赴任後六カ月後に到来した。

 ある冬の夜、寒さと空腹で町をさまよい歩いていた旅芸人の少女を、彼が自分の宿舎に泊めたことが大学で問題にされた。無実を訴えたが、ボヘミアンタイプとして日頃から警戒の目で見られていた彼は、大学から追放された。

 田舎町での生活に嫌気がさしていたに違いなかったとしても、一方で彼はアカデミズムに未練を感じてもいただろう。その後、彼は何度か大学での職を得ようと試みた。大学で古典を研究しながら詩を書く生活は、彼にとって一つの理想の生き方であったのかもしれない。

 大学を追放されたパウンドは、ヨーロッパで詩人になろうと決意した。ニューヨークからヨーロッパへ向けて旅立ったのは一九〇八年三月一七日である。『キャントウズ』第八〇篇に彼は「アメリカを出たとき八十ドルしかもっていなかった」(19)と書いている。三月二三日に、ジブラルタルで下船、四月にジェノア行きの船に乗り、北イタリアを回って、その月の終わりにヴェニスに着いた。ヴェニスで、彼は詩人であることの証として、最初の詩集『消えた微光』一五〇部を自費出版した。

 ヴェニスで、彼はキャサリン・ルース・ヘイマンのヨーロッパ・コンサートツアーの旅行マネージャーとなって旅行費用を得た。ヘイマンのコンサートツアーが終わって、彼がヴェニスを立ったのは一九〇八年八月一一日である。

引用文献

1) Clifton, Daniel(ed.), Chronicle of America, Chronicle Publications, 1989. p.529.
2) Adams, Henry : Novels, Mont Saint Michel, Education, The library of America,1983. p.1132. (Conn, Peter: Literature in America, An Illustrated History, Cambridge University Press, 1989. p.295-301.を参考にした)
3) ibid.,. p.1138.
4)ハウエルズの伝記的記述は、主にMorison, Samuel Eliot et al.: A Concise History of American Republic.2nd ed. Oxford University Press,1983.による。
5) クレイン、スティヴン:ニューヨーク バウアリー物語、岩月精三、岡田量一訳、彩流社、一九八二年。p.213-216.
6) Conn, Peter: Literature in America, An Illustrated History, Cambridge University Press, 1989. p.289.
7) ノリス、フランク:オクトパス、カリフォルニア物語(八尋昇訳)、彩流社、一九八三年。
8) Morison, Samuel Eliot et al.: A Concise History of American Republic.2nd ed. Oxford University Press,1983. p.454.
9) Elliott,Emory(ed.):Columbia Literary History of The United States, Columbia University Pess, New York, 1988. p.12.
10) "Ezra Pound Speaking":Radio Speaches of World War II (Ed. by Leonard W. Doob),Greenwood Press,1978. 192.
11) collected early Poems of EZRA POUND,New Directions,1976. 5 ; 消えた微光(A Lume Spento)(小野正和、岩原康夫訳)、書肆山田、一九八七年。p.7.
12) ウィリアムズの伝記的記述は主にWilliams,William Carlos:The Autobiography of William Carlos Williams, New Directions, 1967.; Mariani, Paul : William Carlos Williams,A New World Naked,Norton, 1981.による。
13) Allen,Gay Wilson:The Solitary Singer, A Critical Biography of Walt Whitman,The University of Chicago Press,1985.(First Published 1957) . p.542.
14) Pound, Ezra : Selected Prose 1909-1965,ed.by William Cookson, Faber and Faber,London,1973. p.115.
15) Carpenter,Humphrey: A Serious Caharacter--The Life of Ezra Pound, Houghton Mifflin Company,1988. p. 46.
16) エズラ・パウンド詩集(新倉俊一訳)、角川書店、一九七六年。p.302.
17) ドーソン、Ch:中世ヨーロッパ文化史ー宗教と西方文化の興隆ー(野口洋二、諏訪幸男訳)、創文社、一九三三年。p.175-179.
18) Tryphonopoulos, Demetres P.: The Celestial Tradition, A Study of Ezra Pound's The Cantos, Wilfrid Laurier University Press, 1992. p. 60-65.
19) エズラ・パウンド詩集(新倉訳)、p.294.

 この章では、パウンドの伝記的記述は、Stock, Noel:The Life of Ezra Pound(An expanded edition), North Point Press,1982.とCarpenter, Humphrey : A Serious Character--The Life of Ezra Pound, Houghton Mifflin Company,1988. を基本にした。


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