No.4 May 1999
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歴史の中のエズラ・パウンド 第4回
第1部 世紀末
第3章 ジャポニスム
1
一九世紀後半に、日本文化と西洋文化は初めて大規模な出合いをした。この出合いによって、相互が驚きと喜びを感じたことは、この時代のグローバルな変化の大きな要素だったということができるだろう。
この出合いは、芸術家たちにも大きなインパクトを与えずにはおかなかった。そのインパクトがいかに大きかったかは、西洋の多くの主導的な芸術家たちが、日本の芸術からひらめきを得て、「ジャポニスム」と呼ばれるようになった技巧を展開したことに如実に表れている。
パリで日本の版画が前衛的な芸術家たちに注目され始めたのは一八五〇年代である。一八六二年には「支那の門」という日本美術専門店が開店し、常連として版画家のファンタン=ラトゥール、画家ドガ、マネ、モネ、ティソ、詩人ボードレール、作家ゴンクール兄弟、ロンドンのアメリカ人画家ホイッスラーらが出入りするようになった(1)。
一八七一年には、マネら前衛的な画家たちと親しかった美術評論家テオドール・デュレが日本を訪れ、美術品を収集して一八七二年に帰った。一八七五年には美術商サミュエル・ビングも日本を訪れ、美術品輸入の手はずを整えてパリに日本美術店を開いた。この店にはゴンクール兄弟ら作家や画家が訪れ、やがてゴッホもこの店を訪れるようになった。
貴族的な階級や社寺のために描かれた屏風絵などの装飾的な日本美術ではなく、市民階級のための美術工芸品であった浮世絵に彼らは傾倒した。主に浮世絵が彼らの目に触れうる日本美術であったためなのかもしれないが、市民社会が形成されていく時代の中で、個人主義的な目で見た世界を描こうとしていたパリの前衛的な芸術家たちにとって、エッチングとは比べものにならない華美な色彩を持ち、凝った構図に洗練された都会性が感じられる浮世絵は、驚きであったのだろう。彼らにとって、日本美術は、まさにモダンだったのである。
ロンドンでも、日本美術は先端的な芸術家たちの心を強く引きつけずにはおかなかった。イギリスに、日本美術を紹介した先駆者としては、一八五九年に来日し、一八六四年まで滞日した初代駐日イギリス公使、ラザフォード・オールコックと一八七三年から七年間、日本の海軍病院に勤務した医師、ウィリアム・アンダーソンが知られているが、パリの印象派画家たちと交流し、「支那の門」の客でもあったアメリカ人画家ジェイムズ・アボット・マクネイル・ホイッスラーも大きな役割を果たした。
ホイッスラーは一八三四年にマサチュウセッツ州ロウエルに生まれた(2)。幼少時、鉄道技師としてロシア政府に雇われた父に連れられてロシアに住んだ彼は、ペテルブルグでフランス語と絵を学んだ。父の死によって帰国したのち、ウエストポイントの軍学校に入学したが馴染めなかったため退学して軍の製図工になったあと、彼は一八五五年にパリへ行った。エッチングを制作し、一八五八年にはファンタン=ラトゥールらと「三人の会」を作り、パリの前衛画家の仲間になった。その翌年にロンドンへ移ったが、彼はパリを頻繁に訪れ、ファンタン=ラトゥールに加えてクールベ、マネらと交友した。
ロンドンでは、一八六二年にラファエル前派のダンテ・ゲイブリエル・ロセッティや詩人A・C・スウィンバーンと知り合い、スウィンバーンをマネに紹介するなど、ホイッスラーはパリとロンドンの前衛的な芸術家たちの間の橋渡しをした。ホイッスラーと知り合ったロセッティは彼と張り合って日本や中国の陶磁器を買い集めるようになった(3)。
ホイッスラーの一八六四年の作品『紫と金の狂想曲:金屏風』は、広重のものと思われる版画を床に広げ、その一枚を手に取っている着物姿の西洋人女性を描いている。同じように着物姿の西洋人女性を立ち姿で、浮世絵を模した構図で描いた『薔薇と銀:陶器の国の王姫』もその頃の作品である。パリの印象派画家モネの『日本の着物を着たモネ夫人』は『陶器の国の王姫』と似た構図をとっているが一八七五年から七六年にかけての作品であり、ホイッスラーのジャポニスムはパリの印象派画家たちに先んじていたのだろうか。
一八七〇年代になると、ホイッスラーは自分の母親やカーライルの肖像を古典的な手法で描く一方で、日本美術の強い影響を受けた前衛的な絵を描くようになった。『新鮮な色彩と緑の変奏曲:バルコニー』(一八七〇年)、『灰色と緑の交響曲:大洋』(一八七二年)、『夜想曲』の一連の絵などは、印象派の枠の中でとらえられるのかもしれないが、写実を超えて作品を客体化しようとする先駆的試みであったとみることもできる。ペイターは『ルネッサンス』のジョルジォーネ派を論じた章で「すべての芸術は絶えず音楽の状態に憧れる」(4)と書いているが、ホイッスラーがこれらの作品に音楽のカテゴリーのタイトルを付しているのは、その美術論に符合させようとする意図を持っていたためなのかもしれない。
日本の着物を着た女たちが三味線を弾いたり、団扇をもって横になってくつろぐバルコニーの遠景に、テームズ河畔の工場地帯がぼんやりと描かれた『バルコニー』が呼び起こすのは東洋と西洋、美への耽溺と産業主義の対比されたイメージである。ブルジョワたちは彼の絵を高い値段で買った。
そうしたホイッスラーの前衛的な絵は、やがてラスキンの反感を買うようになった。衝突は、一八七七年に、ラスキンが、暗い夜空に散る花火を描いたホイッスラーの『夜想曲』を、「間違った教育による自惚れが悪意に満ちたぺてんの域にまで近づいている」と酷評し、さらに「公衆の顔に絵具の壷を投げつけているようなものに高い値段を付けてはならない」とその絵を展示した画廊主を批判したことによって表在化した。
ホイッスラーは、この批判によって侮辱され、著しい損害を被ったとしてラスキンを訴えた。法廷で、浮世絵の構図を模した作品『夜想曲:青と金―古いバッテルシー橋』について法相が「橋の上の影は人間を意図して描いているのですか」と質問したのに対し、ホイッスラーは「それらはどのようにでも受け取れます。この絵が何を表しているのかについて言えば、それはだれがそれを見るのかによります」と答え、作品の意味はそれを見る人によって決められるという考え方を示した。
この訴訟ではラスキンが勝訴した。しかし、彼はこれをきっかけにオックスフォードの教授を辞職するという代償を払い、一方のホイッスラーは訴訟費用の負担によって破産した。ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティの弟のウィリアム・ロセッティは、この訴訟でホイッスラーの側に立ち、スウィンバーンやモリスの友人であった画家バーン=ジョンズらはラスキンの側に立った。ホイッスラーとラスキンの衝突は、前衛的なホイッスラーとラスキンやラファエル前派の画家たちのロマン主義との衝突を象徴していたといえるのだろう。
敗訴によって生じた借金を返済するためにヴェニスへ行ってエッチングを制作したあと、一八八〇年代にロンドンへ帰ったホイッスラーは、オスカー・ワイルドと交遊した。ワイルドは妻の持参金を使い、ホイッスラーに頼んで応接間を日本風に飾り立てた。天井には孔雀の羽根が張られ、華やかな色のグランドピアノや黒と白に塗った竹製の椅子などを置いたこの部屋に、ワイルドは、マーク・トウェインやラスキンなど数々の知名人を招いた。
『芸術家としての批評家』の中で「画家や彫刻家の用いる材料など言葉にくらべりゃあ貧弱」(5)とギルバートに語らせているワイルドとホイッスラーの友情は長続きするはずはなかったのかもしれない。やがて、ホイッスラーとワイルドの友情は冷め、そのあと、ホイッスラーの理解者はパリの詩人ステファン・マラルメになった。
ホイッスラーは、パウンドに大きな影響を与えた。ウィンダム・ルイスは一九四八年に書いたエッセイの中で、「パウンドの最も近い過去の類型はホイットマンではない、といってマーク・トウェインでもなく、画家ジェイムズ・マクネイル・ホイッスラーである」とし、「文芸におけるパウンドのように、ホイッスラーは自分の好みの基本的な適合を東洋の最果ての場所に見いだした」(6)と書いている。
パウンド自身は、ロンドンのテイト美術館でのホイッスラーの展覧会を見て書いた詩『アメリカ人、ホイッスラーへ』を、一九一二年一〇月に発行された『ポエトリ』創刊号に寄稿し、ホイッスラーを、「アメリカの衝動を芸術へとねじ込んでいこうとする我々の励ましになる」(7)と讃えた。
『ポエトリ』の創刊号が出る前月に『ニュー・エイジ』に寄稿したエッセイでは、彼は、「ホイッスラーの展覧会から生きる勇気を得た」(8)と書いている。パウンドがホイッスラーの絵から感じとったのは技巧に対する真摯な姿勢だった。「彼はあらゆる方法を試み、何事も骨惜しみすることなく、それが完成するかあるいは自分の表現方法として不適切であることが判明するまで一つの方向に向かって苦闘した」(9)と書いているが、それはパウンドのその後の人生での詩に対する姿勢でもあったといえるだろう。また彼は「ホイッスラーが決定的に証明したことは、アメリカ人に生まれたことは永遠に呪われることではなく、芸術で究極の高い達成を成し遂げることを妨げるものでもない、ということである」(10)とも書いている。この文章にはアメリカ人であるとの強い意識が現れている。
(写真は、ホイッスラーが指名した伝記作者であるPunnellの『ホイッスラー伝』(二巻本)(E.R.
and J. Pennell : The life of James Mcneill Whistler, Vol.II, William Heinemann,
1908)の口絵写真に使われているホイッスラーの自画像)
2
二〇世紀になってパウンドが日本と出合うまでには長い道程があった。その過程を遡っていくと、意外にも、アメリカの一八三八年生まれの博物学者、エドワード・シルベスター・モースの日本訪問に突き当たる。(11)
マサチューセッツ州に住み、貝や蝸牛に夢中になっていた製図工だったモースは、やがて、ハーヴァード大学の博物学者ルイス・アガシ教授の元で助手を務めるようになった。アガシは、パウンドが『読書のABC』の冒頭で、彼の教育方法に関する逸話を紹介しているだけでなく、『キャントウズ』でも題材にしている人物である。彼は、事物の観察と記述の方法について独自の思想を持っており、特に晩年になってパウンドは、その思想に強く傾倒した。
モースは新しい思想である進化論に傾倒していたが、アガシは反進化論者であった。そのアガシの元を離れたあと、モースは、腕足類(シャミセンガイ等)の研究のためにカリフォルニアを訪れ、その彼方にあり、珍しい腕足類が生息する日本に行きたいと思うようになった。
そして幼少時から共に貝集めをしてきた親友の銀行家の援助を得て、彼が日本を訪れたのは一八七七年である。その年に、彼は開設されたばかりの東京大学の理学部動物学・生理学の教授に招聘された。
着任間もなく、彼は大森貝塚を発見した。そして、大学の図書・教材の調達や物理学と政治学の教授適任者を探すことを大学から依頼され、その年の秋に一時帰国した。そのときハーヴァード大学の総長や美術史教授が推薦したのがアーネスト・フランシスコ・フェノロサであった。
フェノロサは一八五三年に、スペインから移民した音楽家を父としてマサチューセッツ州セーラムに生まれた(12)。一八七〇年にハーヴァード大学に入学して哲学を専攻した彼は、卒業すると大学院に進み、ヘーゲルを研究して一八七六年に修了した。ギルデッド・エイジの旺盛な経済的精神に背を向け、エマソンに傾倒する青年だったフェノロサは、大学を去ると自活の道を求めてユニテリアン神学校に通い、翌年に開設されて間もないボストン美術館に付置された絵画学校に入学した。経済が豊かになるのにつれ美術が国民の関心を集め、一八七一年にニューヨークにメトロポリタン美術館が開設されたのに続いて各地に美術館ができるという時代の中でフェノロサは美術批評家を志していた。
一八七八年八月に、フェノロサは妻を伴って日本へ来た。東京大学では文学部で政治学と理財学(経済学)を担当した。着任した年にフェノロサが受け持った学科の学生には、一年生に小説家になった坪内勇蔵(逍遥)、社会学者・国際法学者になった有賀長雄ら、二年生に講道館を開設し、教育者としても活動した嘉納治五郎、外交官を経て政治家になった牧野伸顕、三年生に日本美術運動の指導者になった岡村覚三(天心)らがいた。
フェノロサは彼らに、デカルトに始まりヘーゲルに至る近代哲学史の体系、J・S・ミルの功利主義哲学、ハーバート・スペンサーの進化論哲学などを教え、そのかたわら、日本美術に心を奪われていった。
来日翌年の一八七九年には、フェノロサは有賀長雄を通訳に狩野派の画家、狩野永悳(えいとく)に師事して日本画流派の研究を始め、翌年には狩野派の画家たちを雇って関西へ旅行し、画家たちに古社寺の古画を模写させた。この旅行にはその年に東京大学を卒業して文部省の官僚になった岡倉覚三も同行したとみられている(13)。一八六二年に横浜で貿易商を父として生まれ、幼少時から英語と漢学を学び、漢詩を詠む青年になった岡倉は、日本の伝統的な文化が西洋化の波の中で失われようとしていることを悲しみ憤っていた(14)。フェノロサがアメリカのギルデッド・エイジの産業主義に背を向けたように、彼は明治の文明開化の風潮に反抗しようとしていた。
そうして、フェノロサが、岡村らとともに日本美術の価値を発見しつつあったとき、一方でモースは、アメリカで日本への大きな関心を呼び起こしていた。一八七九年に帰国した彼は、翌年、ボストンで日本について講演し、芸術愛好者たちに日本への強い親密感を抱かせた。モースの講演を聞いて感銘を受け、まず来日したのはボストンの医学者ウィリアム・スタージス・ビゲロウである。美術愛好家であり、仏教に関心を抱く彼は、一八八二年に日本陶器の収集を主な目的として再び日本を訪れたモースに付いて来日し、フェノロサの仲間になった。フェノロサ、ビゲロウ、モースの三人は、一八八二年六月に、通訳として有賀長雄を伴って七月に関西へ収集旅行に出た。
モースは、その後、梅若実に入門して謡曲の稽古をし、日本の住居も子細に観察したあと、一八八三年に中国、ヨーロッパを回って帰国の途についた。彼は、パリではボストンで知り合ったオスカー・ワイルドと再会し、日本美術について語り合った(15)。ワイルドはアメリカから帰った後、日本へ行くことを望んでいたが果たせないでいた(16)。
モースが日本を去った後の一八八三年、モースの話を聞いて日本に関心を抱いていた「ボストン社交界の女王」イザベラ・スチュワート・ガードナー夫人が夫と共に世界旅行の途中に日本を訪れた。その三年後の一八八六年には、アメリカの画家ジョン・ラファージとヘンリー・アダムズも日本を訪れている。
ラファージは、のちに岡倉が『茶の本』を捧げた画家である。彼は、ホイッスラーが生まれた年の翌年、一八三五年にニューヨークのフランス系移民の家庭に生まれた(17)。はじめ法律を学んだが、やがて美術と文学に関心を持つようになり、一八五六年にパリへ絵を学びに行き、さらに翌年にはイギリスへ渡ってラファエル前派の画家たちの作品を見た。一八五七年末頃にニューヨークへ帰ったあと、彼は法律の勉強を再開したが間もなくラファエル前派の画家たちのように壁画やステンドグラスの制作を手掛けるようになった。
彼は浮世絵の収集家でもあった。一八六一年に幕府に招かれて日本を訪れたアメリカ人地質学者ラファエル・パンペリーが持ち帰った北斎の作品を見て、一八六三年頃からは広重の作品を中心にした浮世絵の収集を始め、パンペリーが編者となって一八六九年に刊行した『アメリカからアジアへ』の中では版画と漆器を中心にした日本美術の研究論文を書き、アメリカでのジャポニスムの先駆者になった。
一九七三年にラファージは再びイギリスに渡り、半年ほどをそこで過ごし、ラファエル前派の作品を見た。その時には、アメリカ人ホイッスラーのロンドンやパリでの活躍ぶりも知ったに違いない。日本を訪れる二年前の一八八四年には、ラファージは鉄道王ヴァンダービルト邸の日本趣味の部屋の孔雀のステンドグラスを制作した。孔雀はホイッスラーが一八七六年頃にロンドンの富豪レイランドの邸宅の食堂を東洋的な意匠で飾るのに用いた主題でもあった。
ラファージと連れだって日本を訪れたアダムズは、祖父は六代目大統領のジョン・クィンシー・アダムズ、曾祖父は二代目大統領のジョン・アダムズ、父は南北戦争当時、駐英公使として外交で大きな成果を上げたチャールズ・フランシス・アダムズという名門の家庭に一八三八年に生まれた。彼はハーヴァード大学で歴史を教えていたが、政治に関心を持つようになってワシントンに豪壮な邸宅を建てて移り住み、政治家や文人を集めてサロンを開きながら著述家として活動していた。この旅行の時に、彼はロンドンの文壇にいた友人ヘンリー・ジェイムズを誘ったが、ジェイムズはアジアまで出かけていくのには躊躇して断った(18)。
ラファージとアダムズは、フェノロサとビゲロウ、岡倉らの案内を得ながら三カ月間、横浜、東京、日光、大阪、京都などを旅行した。アダムズはこの日本旅行によって大きなインスピレーションを得ることは出来なかったが、ラファージは、日本にさらに関心を深め、この旅行で得たイメージを作品に使い、さらに旅行記『画家東遊録』を著した。
3
フェノロサは、一八八四年になると古美術商に勧められて狩野派や土佐派の画家たちと日本古画の鑑定を行うクラブ「鑑画会」を設立したほか、岡倉、狩野芳涯らとともに、文部省が美術教育のあり方や古美術の保存策などの諮問を目的として設立した図画調査会の委員になった。一八八六年には、彼は帝国大学と改称した東京大学の職を辞任し、文部省美術事業幹部御雇として四年間の契約を結び、その年の九月には、政府の美術取調委員として、岡倉と共に約九カ月間の欧米美術事業調査の旅に出た。サンフランシスコへ向けて出港する船には帰国の途についたラファージとアダムズ、そしてビゲロウも一緒だった。
欧米の視察旅行から帰国後、岡倉は東京美術学校幹事になり、一八八九年には美術雑誌『国華』を創刊、日本美術運動の指導的立場に立ち、一八九〇年には東京美術学校校長になった。一方、フェノロサは、その年にボストン美術館の学芸員に就任するために日本を去った。ボストン美術館で、日本美術の学芸員として働くかたわら、彼は日本美術の紹介者として米国各地で講演し、詩を書き、一八九三年にはシカゴで開かれたコロンブス米大陸発見四〇〇年を記念する万国博で日本美術について講演した。
一八九四年に、彼は日本美術品目録を作成する助手としてボストン美術館に採用されたメアリー・スコットと恋愛し、翌年結婚した。その年、ボストン美術館を辞職してメアリー夫人と共に再び日本を訪れたフェノロサの関心は、美術や宗教だけでなく、アメリカやイギリスでまだ未知の分野であった東洋文学にも広がっていた。七月に日本に着いた彼は美術・仏教の研究と同時に漢詩、日本の古典の翻訳にも取り組み、一一月まで滞在した。
その二年後、一八九七年四月にフェノロサは夫人を伴って三度目の来日をして翌年一月、高等師範学校非常勤講師(英文学担当)の職を得た。その年の三月、東京美術学校では日本画と西洋画の両派の争いが激しさを増し、岡倉は東京美術学校を去り、七月に国粋美術の維持と発展を趣旨とした日本美術院を設立した。フェノロサはビゲロウとともにその賛助会員になった。
一一月からフェノロサは、東京師範学校付属中学の教師でのちに英文学者・翻訳家になった平田喜一(禿木)の助けを得て能楽師、梅若実に再入門し、謡曲の稽古を始め、ノートも取った。また彼は一八九九年二月からは有賀長雄を通訳に森槐南の漢詩講義を聴講し始めた。
森は、岡倉が東京大学在学中に漢詩を学んだ漢詩人、森春涛の息子であり、一八六三年に名古屋で生まれ、一八八一年、一八歳の時に太政官になり、枢密院属、帝室制度取調局秘書官、式部官などを歴任した後、東京大学文科講師になった(19)。彼は詩によって伊藤博文に知られ各所に随行した詩人でもあった。
一九〇〇年八月に帰国するとフェノロサは、翌年二月、デトロイトの日本美術収集家チャールズ・ラング・フリーアと親交を始めた。フリーアは鉄道車両の製造会社を興して富を築き、一九〇〇年にホイッスラーと会ったのち、彼の作品の最大の収集家になった。彼はホイッスラーと会う前にすでに二度、日本美術収集のために日本を訪れていたが、ホイッスラーの勧めによってさらに日本美術を買い集めようとしていた。彼がフェノロサとの親交を求めたのは、そのためだった。(20)
フェノロサは一九〇一年五月に夫人と共に四度目の来日をし、九月まで滞在した。日本に着くとすぐに、彼は有賀、平田を通訳として連日、森槐南、梅若実を訪ね、三巻の漢詩論聴講ノートをまとめ、さらに能楽の翻訳をノートにまとめた。アメリカへ帰ると彼は日本美術だけでなく日本と中国の詩についても講演するようになり、コロンビア大学で中国語を学び、漢字に対する関心も深めていった。
岡倉は一九〇一年一一月インドへの旅に出た。インドでは詩人タゴールと親交し、青年革命家たちとも交遊した。一九〇四年二月には、岡倉は横山大観、菱田春草らを連れてアメリカへ行き、彼らの作品展を各地で開き、五月のセントルイスの万国博覧会では講演者として招かれ、「機械力の暴圧に屈服している欧米の社会」は芸術の発展に役立たないとし、自分たちが起こしている日本の芸術運動はこの欧米の風潮に反抗するものであると訴えた(21)。この訪米の時から彼はボストン美術館顧問に招かれ、日本絵画の目録作成と日本の美術品収集を職務として毎年六カ月間執務することになった。その年の一一月には、ニューヨークで『日本の目覚め』、一九〇六年には『茶の本』を刊行した。民族の美意識を論じている点でラスキンの『ヴェニスの石』の中の「ゴシックの精神」にも似る『茶の本』は、ボストンの知識人たちをはじめとする西洋人やインドのタゴールらに大きな影響を与えた。
一九〇八年四月、フェノロサはヨーロッパ美術研修旅行解説者としてヨーロッパに向かった。この旅行の時に、フェノロサはパリのルーブル美術館で偶然に岡倉に出会った。二人は夜会うことにしていたが、フェノロサから岡倉への連絡はなくそのままになった。パリ、ロンドン、ケルンなどを回り、ロンドンに戻った九月、フェノロサは狭心症の発作を起こして死亡した。
フェノロサの遺骨は、遺志によって一九〇九年に三井寺法明院に埋葬された。一八八九年にボストンへ帰ってハーヴァード大学で仏教哲学を教えたあと一九二六年に死亡したビゲロウの遺骨も、仏教徒としてフェノロサと同じように三井寺に埋葬された。彼らは、東洋へのエクスパトリエイト(海外移住者)だったといえるのだろう。
フェノロサの遺稿を整理していたメアリ夫人は、一九一〇年に日本を訪れて有賀長雄と狩野友信に校訂を依頼した(22)。彼らの協力を得たのち、遺稿はさらに大英博物館の東洋美術研究家ローレンス・ビニョンらの協力を得て一九一二年にロンドンとニューヨークで二巻から成る『中国と日本の美術の諸時代』として刊行された。翌年にはフランス語訳とドイツ語訳が刊行された。そして日本では有賀長雄の訳により『東亜美術史綱』として、一九二一年(大正一〇年)に刊行された。
フェノロサの遺稿のうち、漢詩と能楽に関するノートは、メアリ夫人によってロンドンでエズラ・パウンドに託された。一九一三年のことである。それは英語文学でのジャポニスムの始まりを画した出来事になった。
引用文献
1) 大島清次:ジャポニスム、印象派と浮世絵の周辺、講談社、一九九二年。39-40.
2) ホイッスラーの伝記的記述はSpencer, Robins:Whistler, Portland House,
1990.による。
3) ラングラード、ジャック・ド:D・G・ロセッティ(山崎庸一郎、中条省平訳)、みすず書房、一九九〇年。203.
4) ペイター、ウォルター:ルネッサンス、美術と詩の研究(富士川義之訳)、白水社、一九九三年。141.
5) ワイルド、オスカー:オスカー・ワイルド全集4(西村考次訳)、青土社、一九八九年。99.
6) Russell, Peter (ed.): Ezra Pound, A collection of essays edited by Peter
Russell to be presented to Ezra Pound on his sixty-fifth birthday, Peter
Nevill, 1950. 262.
7)Pound, Ezra : Personae, The Shorter Poems of Ezra Pound, Ed.by Lea Baechler
and Walton Litz, New Directions,1990. 249.
8) Pound, Ezra: Ezra Pound and the Visual Arts(Ed.by Harriet Zinnes), New
directions, 1980. 1.
9)ibid.
10)ibid, 2.
11) モースの伝記的記述は、ウェイマン、ドロシー・G:エドワード・S・モース(蜷川親正訳)、上下巻、中央公論社美術出版、一九七六年(原著一九四二年刊)による。
12) フェノロサの伝記的記述は、主に、山口清一:フェノロサ、日本文化の宣揚に捧げた一生(上下二巻構成)、三省堂、一九八二年(山口:フェノロサ)による。
13) 山口:フェノロサ上, 188.
14)岡倉天心の伝記的記述は、色川大吉(編):岡倉天心(日本の名著三九)、中央公論社、一九八四年、岡倉一雄:父岡倉天心、中央公論社、一九七一年、堀岡弥寿子:岡倉天心、アジア文化宣揚の先駆者、吉川弘文館、一九七四年、堀岡弥寿子:岡倉天心考、吉川弘文館、一九八二年、による。
15) 山口:フェノロサ上, 198.
16) ワイルド、オスカー:オスカー・ワイルド全集4(西村考次訳)、青土社、一九八九年、付録。
17)ラファージの伝記的記述は、ラファージ、ジョン:画家東遊録(久富貢、桑原住雄訳)、中央公論美術出版、一九八一年、による。
18)Kaplan, Fred: Henry James, The Imagination and Genius, A Biography,
William Morrow and Co., 1992. 400.
19) 磯田光一ほか編:新潮日本文学辞典、新潮社、一九八八年。
20)Spencer, :Whistler, 136.
21)岡倉一雄:父岡倉天心、194.
22)フェノロサ、アーネスト:東亜美術史綱(有賀長雄訳)、第一巻、創元社、一九三八年。36.
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