No.30 December, 2001
歴史の中のエズラ・パウンド 第30回
第3部 戦後
第15章 統合を求めて
(3分載の3、Section 3)
3
一九六〇年代の中頃になると、オルガ・ラッジとパウンドが住むヴェニスとラパロの家には、研究者、ジャーナリスト、傾倒者たちが多く訪ねてくるようになった。一九六七年の夏には、アレン・ギンズバーグが仲間たちと不意にサンタンブロジオのラッジの家を訪ねてきた。一九五〇年代にケルーアックと共にビートのヒーローになったギンズバーグは、六〇年代になるとヒッピーのヒーローになっていた。ギンズバーグは、ラッジの家の前で「ハレ・クリシュナ」を唱え、秋になるとヴェニスの方のラッジの家を訪ねてきた。ビートルズとボブ・ディランのレコードをパウンドに聞かせ、マントラを唱えた。そして一九六七年一〇月二八日にヴェニスのレストランでパウンドとの会見が実現した。マイケル・レックと彼の息子、それにピーター・ラッセルが同席した。(1)
ギンズバーグは、『ピザン・キャントウズ』の中に出てくる場所について質問し、パウンドの認識の方法についての思想やウィリアムズの「観念よりも物へ」という考えが、若い詩人たちにとって示唆に富んでいると話した(2)。
パウンドは、自分の詩は「意味をなさない」と言った。ギンズバーグらが「しかし、私たちにとっては意味がある」と言っても、「でたらめばかりだ」といった。「七〇歳になって、自分は狂っているのではなく、能力がない者であることがわかった」とパウンドは言った。彼は自分が書いたものを「混乱している」と言い、「バカげており、無知である」とも言った。(3)
こうしたパウンドの言葉には、卑下や悔恨よりも、依然として続く抑うつの症状が強く反映されていたのではないかと考えられる。
ギンズバーグは、「あなたの経済学は正しかった。われわれは、それをヴェトナムを通じて知りつつある」と言った。ギンズバーグがユダヤ人であることを意識して、パウンドは、自分が犯した最大の過ちは反ユダヤ的な郊外的偏見を持ったことである、といった。「それをあなたから聞くことはうれしい」とギンズバーグは言い、さらに「知識のある人は、それがユーモアであることを理解できる。ドラマの一部分であり、あなたの認識のモデルであることを理解できる」と言った。ギンズバーグは、パウンドにまだ書き続けなければいけないと言ったが、パウンドは黙ったままであった。(4)
伝記映画の撮影のために、パウンドがアメリカ訪れる予定もあったが実現しなかった。その後、一九六九年六月四日に、パウンドとラッジは突然ニューヨークを訪れた。ニューヨーク公立図書館で開かれる『荒地』の原稿展示会に出席するためであった。招待を受けていたが、返事は送られていなかった。ホテルからの電話を受けて、ニュー・ディレクションズ社のローリンが彼らを迎えに行き、二人とアメリカに留学していたメアリの息子を自分の家に招いた。その二日後、ローリンは、パウンドの母校であるハミルトン大学から名誉学位を授けられることになっており、車で大学を訪れた。パウンドも同行した。その帰途、深夜にハンバーガーを食べるために道路脇のレストランに立ち寄ったとき、ローリンが勘定を済ませている間にパウンドは姿を消した。彼は森の中へ姿を消そうとしていた。ローリンがやっと見つけた時、パウンドは、置き去りにしてくれれば、だれにも迷惑をかけなくてすむとつぶやいた。(5)
ニューヨークに帰ると、パウンドはエリオットの原稿の展示会を訪れた。エリオット夫人がパウンドの書き込みのある『荒地』の草稿を見せると、彼は「自分が書き込んだことを思い出すことができない」と言ったが涙を流した。(6)
パウンドの研究は、次第に活発になっていた。一九七二年の初め、メイン大学の英語学教授キャロル・F・テレルは、パウンドの専門研究誌『パイデウマ』を創刊した。
ウイリアム・クックソンは、パウンドの政治経済に関するものまで含めた評論を掘り起こし、『パウンド散文選集』(7)として、一九七三年にフェイバー・アンド・フェイバー社から出版した。前年の一九七二年夏に書いた前文で、パウンドは、「私、それ以上に我々という代名詞で始まる文章の八〇%を削除できたら、この本はもっとまともなものになったろう。一般的法則であることを示すために私を、我々あるいは人々という集合的名称で置き換えることは、単に個人的な見解にすぎないことを普遍的法則であるかのごとく誇張するための見かけだおしの試みである」「グループあるいは人種に言及した文章では、彼らという言葉は大きな注意を払って使わなければならない」と述べ、さらに彼が頻繁に使った「高利貸し」という言葉に関して、「私は症状を原因であると取り違え、焦点をはずしていた。原因は貪欲であった」と述べた(8)。
一九七二年一〇月三〇日、ラッジは、パウンドの八七歳の誕生日を祝ってパーティーを開いたが、パウンドはベッドに寝たままで、階下に降りていくことはできなかった。パーティーの前に、パウンドは胃が痛いと漏らしていた。その翌日、オルガは医師を呼んだ。医師はパウンドは入院する必要があると言った。その日の深夜、家の下の運河に救急ボートが到着した。パウンドは病院に運ばれることを拒んだが、行くならば立つと言い、ボートに乗って病院へ行った。そして、翌日の一一月一日の午後八時、パウンドは病院で死亡した。直接の原因は、突発した腸閉塞であった。(9)
その数カ月前、ヴェニスではストラビンスキーの葬儀が行われ、パウンドとオルガを含め多くの人々が集まったが、パウンドの葬儀はひっそりと行われた。葬儀は、一一月三日に教会でカソリックの儀式で行い、プロテスタントの儀式を墓地で行なった。メアリー夫妻は駆けつけることができたが、イギリスにいたドロシーは衰えていたため来ることができず、代わりにオマールが来た。ヒュー・ケナーによると、パウンドはアイダホ州のヘイリーに埋葬されることを望み、ブゼスカが刻んだ自分の像を墓碑にして欲しいと言っていた。しかし、パウンドはヴェニスの市立墓地に埋葬されることになり、ゴンドラでそこへ運ばれた。墓碑にはただ「エズラ・パウンド」とあるだけである。ドロシーは、パウンドが死亡した八カ月後に大腿骨を骨折してナーシングホームに入り、そこで一九七三年一二月八日に死亡した。(10)
(写真は、Baumann, Walter: Roses from the Steel Dust, Collected Essays on
Ezra Pound, The National Poetry Foundation, 2000. パウンドの墓碑の写真が表紙に使われている)
引用文献
1) Carpenter, Humphrey: A Serious Character--The Life of Ezra Pound, Houghton
Mifflin Company, 1988. p.897.; エズラ・パウンド詩集(新倉俊一訳)、小沢書店、一九九三年,
p.152-164.
2) Carpenter, op.cit., p.898.
3) ibid.
4) Carpenter, op.cit., p.899.; Heymann, C. David: Ezra Pound: The Last
Rower, A Political Profile, Carol Publishing Group,1992(First published
1976)p.296-298.; Miles, Barry: Ginsberg A Biography, Harper Perennial,
1990.(First Published 1989), p.400-406.
5) Carpenter, op.cit., p.900-901.
6) ibid., p.901.
7) Pound, Ezra : Selected Prose 1909-1965,ed. by William Cookson, Faber
and Faber, 1973. ; ibid., New Directions, 1973.
8) Pound, Ezra : Selected Prose 1909-1965,ed. by William Cookson, Faber
and Faber, 1973. p.6.
9) Carpenter, op.cit., p.910.
10) ibid. p.910-911.
この章では、パウンドの伝記的記述は、Carpenter, Humphrey : A Serious Character,
The Life of Ezra Pound, Houghton Mifflin Company, 1988. を参考にした。
<エズラ・パウンド関連サイト>
http://www.lit.kobe-u.ac.jp/~hishika/pound.htm:
Ezra Pound (神戸大学文学部・菱川英一氏による英文サイト。パウンドの晩年の肖像写真、主要文献リスト、年譜、関連サイトへのリンクなどが掲載されています。主要英米詩人についての情報を得るための同氏作成サイトにリンクしています。)
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