No.3  April 1999


Ezra Pound in History

歴史の中のエズラ・パウンド 第3回

第1部 世紀末

第2章 ロンドンのアヴァンギャルドたち



 一九世紀後半のアメリカ人たちにとって、イギリスは自分たちの前に立ちはだかる巨大な山のような存在であったといえるだろう。古い国、旧宗主国として軽蔑しながらも、ヴィクトリア時代の重厚さは認めざるを得なかった。新しい時代を築こうとするのであれば、それは乗り越えなければならない山であった。アメリカ人にとってだけでなく、二十世紀初めのイギリス人にとっても、新しい時代はヴィクトリア時代を乗り越えたところにあるはずであった。

 一八三七年から一九〇一年まで、ヴィクトリア女王が在位したイギリスのその六十数年間は、現代の資本主義社会の原型が作られると同時に、社会主義、進化論、唯美主義といった新しい思想が生まれた時代でもあった。

 女王が即位して十数年後の一八五一年に、ロンドンで開かれた万国博覧会の会場に建てられた鉄とガラスの巨大な構築物「クリスタル・パレス」が象徴していたように、産業革命は「結晶」し、イギリスは「世界の工場」となって繁栄を享受する時代を迎えていた。

 加速する工業の進展と繁栄は人々の考えを急速に変え、個人の独立と自由を求める意志がますます強くなっていく一方で、宗教心や封建主義的な価値観は急速に衰退していった。

 アダム・スミスが前世紀の一七七六年に『国富論』で説いた自由放任主義の経済理論はデイヴィド・リカードらの理論展開によってさらに発展し、一八四六年には穀物の保護関税を決めた穀物法が廃止されて自由貿易の信奉者が勝利を得た。その経済思想と歩調を合わせるようにして、道徳の面ではベンサム、J・S・ミルらの功利主義という個人の自由を重視する思想が支配的になった。また、一八五九年に出版されたダーウインの『種の起源』は、キリスト教に対する懐疑論に拍車をかけただけでなく、強者が弱者を制し、それが進化につながっていくという社会進化論の形成を促し、自由主義と繁栄を支える社会思想になった。

 工業の発展による繁栄は、一方では資本家、労働者という新たな階級区分の形成、都市スラムの出現といった新たな問題を生み出し、そうした中で自由主義に対抗する新しい思想として社会主義が芽生えた。工場経営という実践的活動の中で、産業革命によってもたらされた新しい事態を観察して、すでに一八二〇年頃にローバート・オウエンはいわゆる空想的社会主義を掲げるようになっていた。一八四八年になるとマルクスとエンゲルスがロンドンで『共産党宣言』を出版した。資本主義対マルクス主義という二〇世紀後半まで続くイデオロギーの対立が始動したのは、この時代であったということができるだろう。

 マルクス主義は、反逆の一つの形態でもあった。バートランド・ラッセルは、一九世紀の反逆は大きく分けて二つの形態をとったとしている(1)。一つは、君主制と貴族階級に対する産業主義の反逆である。この場合、反逆者たちは資本家とプロレタリアートの双方であり、その反逆は哲学的な急進主義、自由貿易運動、そしてマルクス主義的社会主義によって代表されている。

 そして、これとはまったく異なったもう一つの反逆の形態はロマン主義だった。ロマン主義的反逆は、君主制と貴族階級に反逆しながら力を増していく産業主義に対する反逆という色彩を色濃く持っていた。自由主義者や社会主義者が合理主義的な反逆者であったするなら、ロマン主義者たちは非合理主義的な反逆者であった。ロマン主義者たちは「平和や安静を目標とはせず、活発で情熱的な個人生活を目指し」、産業主義を醜いものとして拒否し、功利的な基準を審美的な基準で置き換えた(2)。

 一九世紀前半にワーズワス、コールリッジ、バイロン、シェリー、キーツらが詩によって情緒的に表現したロマン主義をヴィクトリア時代になって唯美主義という思想にしていったのはジョン・ラスキンである。

 ラスキンは、一八一九年にロンドンで、富裕な商人を父として生まれ、オックスフォード大学を卒業した翌年の一八四三年、二四歳の時に『近代画家論』を著して美術評論家としての注目を集めた。以後、一八六〇年にかけて五巻まで出版されたこの著作は、ターナーの絵を擁護しようとした主張でもあったが、芸術作品や社会を美を基準にして見るという立場に立っており、その思想は強い影響力を持った。

 『近代画家論』の執筆を続けながら、ラスキンは建築の研究にも傾倒していった。イタリアでの研究をもとに一八四九年に『建築の七燈』、一八五一年から一八五三年にかけて『ヴェニスの石』を刊行した。ヴェニスの建築を文化と関連づけて論じたこの著作で、彼は北方精神とキリスト教信仰に忠実なゴシックの精神を賛美する一方で、人間中心でありギリシャやローマの古典精神を模したルネッサンスを堕落であるとして否定した。

 こうした彼のルネッサンス芸術、ゴシック芸術に対する見方には同時代のイギリス社会に対する彼の見方が強く反映されていたともいえる。産業主義を批判的にとらえ、中世の社会に理想を見いだそうとした彼は、繁栄した自由貿易国家ヴェニスに、やはり自由貿易で繁栄するヴィクトリア時代のイギリスの姿を見たと言えるのだろう。

 一八五四年から一八五八年にかけて、キリスト教社会主義者のF・D・モーリスが開設した労働者専門学校(ワーキング・メンズ・カレッジ)で講義を受け持ったあと一八六〇年になると、ラスキンは、ディッケンズと並ぶ大作家だったサッカレーが編集する『コーンヒル・マガジン』に『この最後の者にも』を発表した。その中で彼は、アダム・スミス、J・S・ミル、リカードらの自由主義的な経済思想を激しく攻撃し、論文の冒頭で「近世のポリティカル・エコノミーという自称の科学」は「社会的活動についての有利な規則が、社会的情愛の力とは無関係に決定されうるという考えにもとづいているものである」(3)と述べた。この論文は、自由主義的風潮の中で強い反発を受け、『コーンヒル・マガジン』は論文の掲載を四回で打ち切った。

 (写真は「ジョン・ラスキンとヴィクトリア朝の美術展、1993年」カタログp.190-91。左ページ:ラスキンのヴェネツィア研究のノート、ハウスブック I 、1849年。右ページ:ラスキンのスケッチ、パラッツォ・ドゥカーレの柱頭36番、1849‐52年)



 ラスキンの唯美主義は、芸術的側面と政治的社会的側面を持っていた。彼の支持を受け、その芸術的側面を力強く展開させていったのは、ラファエル前派の画家たちである。イタリアから亡命してきた炭焼党員(カルボナリ)の息子、ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティを中心とするラファエル前派の画家たちは、当時のイギリス画壇に反発し、ラファエル以前の一四世紀(トレチェント)、一五世紀(クワトロチェント)、フランドルのプリミチフ派などを範としてロマン主義的な世界を表現したアヴァンギャルドだった。彼らが熱狂したのもラスキンと同じように中世であった。彼らは、ラスキンの支持を得て認められていった。

 ウイリアム・モリスは、ラスキンの唯美主義の政治的社会的側面を実現させようとした。彼もラスキンと同じように新興の富裕なブルジョアの息子として、一八三四年にロンドン郊外で生まれた。一八五三年、一九歳の時にオックスフォード大学に入学して以後は、ラスキンを終生の師として仰ぐようになった(4)。

 一八五五年に学位を得ると、ラスキンの寄稿を載せた月刊の文芸誌『オックスフォード・アンド・ケンブリッジ・マガジン』を自分で出資して約一年間発行し、そのあとゴシック建築家の事務所に入って家具のデザインを学んだ。ロセッティの勧めで絵も描くようになったが、絵画の世界を究めることは諦め、一八五八年に最初の詩集『グウィネヴィアの抗弁』を出版した。

 その翌年、彼は自分やロセッティの絵のモデルをしていたジェイン・バーデンと結婚し、親から贈与された資金でロンドン郊外にゴシック風の大きな住宅を建て、それを「レッドハウス」と呼んで住んだ。ここには毎週末のようにロセッティや学生時代からの親友で画家になったエドワード・バーン=ジョーンズ、やがて象徴派の詩人になるアルジャノン・チャールズ・スウィンバーンらが訪れた。

 一八六一年には工芸品を作る工房を設立し、ステンドグラス、装飾タイル、家具、壁紙、絨毯、カーテン地などのデザインを手掛けるようになった。こうして日常生活の唯美主義化を仕事にしながら、彼はラスキンと同じように社会の唯美的主義的実現を図ろうとした。

 彼がそのような思想を持ち始めたヴィクトリア時代の中期、一八七〇年代のイギリスは新たな変化の時代を迎えていた。アメリカやドイツの工業が進展し、イギリスは独占的な地位を脅かされるようになっていた。また、自由貿易によってアメリカから安い農産物が流入しはじめ、農村は荒廃していった。そうした経済的状況の中で、イギリスは、工業製品や投資資金のはけ口、豊かな資源の確保を意図して次々と植民地を獲得し、帝国主義を強化していった。従来からのカナダ、インド、南アフリカ、アイルランドなどに加えて、東南アジア、アフリカ、中近東などの国々が次々とイギリスの植民地になっていった。

 四二歳になったモリスが工芸品の工房「モリス商会」の経営者、デザイナー、そして文筆家としての仕事を続けるかたわら、政治活動に情熱を注ぎ始めた一八七六年頃、イギリスはロシアの南下政策に対してトルコを支援する政策をとっていた。モリスは、ブルガリア農民を圧迫して苦しめていたトルコを支援するイギリスの戦争政策に反対する自由党急進派の運動に参加する形で、政治活動に没頭していった。

 一八七九年には、モリスは全国自由党連盟の会計幹事になった。しかし、翌年、グラッドストーンが率いる自由党が政権を獲得すると、保守党と大差がないことに失望し、社会主義に傾倒して一八八三年には労働者階級を基盤にした団体、民主連盟(後に社会民主連盟と改称)に入った。しかし、内部対立が起こり、翌年脱退した。

 一八八五年になると、モリスは社会民主連盟を脱退した仲間とともに社会主義連盟を結成した。一八八七年一一月一三日、失業者のデモに対する弾圧やアイルランド弾圧に抗議してトラファルガー広場に総勢数十万人が集まり、警官隊と激しく衝突して、のちに「血の日曜日」と呼ばれるようになった集会には、モリスは指導者の一人として参加した。

 ロンドンのハマースミスにあるモリスの自宅の馬小屋を改造した講堂では、日曜日の晩に社会主義連盟ハマースミス支部の集会が開かれていた。その集会にはフェビアン協会のジョージ・バーナード・ショウ、社会民主連盟の指導者ヘンリー・メイヤーズ・ハインドマンやアナーキストの指導者クロポトキンらも来ていた。

 ショウは、一八八四年五月に社会主義者の団体、フェビアン協会の会員になった。一八五六年にアイルランドのダブリンで生まれ、不動産会社の事務員などをしながら演劇に熱中し、アルコール中毒の父を捨てた母を追ってロンドンへ出たショウは、大英博物館の図書館に通い、小説を書き、経済学に関心を深め、様々なグループに参加していた。その中で彼が定着したのが発足間もないフェビアン協会だった。

 フェビアン協会は、ロンドンの街頭演説者トーマス・ダヴィドソンに傾倒する理想主義者たちが集まって一九八三年にできた。ジャーナリスト、建築家、医学生、政府職員、進歩的な考えを持った婦人ら理想主義者たちは、宗教に変わる新しい心の支えを探し求め、南カリフォルニアに新しい村を建設することなどを考えていた。しかし、彼らは、やがて宗教志向と政治志向という二つの方向に分裂した。政治を通して社会を改革していこうとする仲間が結成したのがフェビアン協会であった。ショウはフェビアン協会の発足を知り、第二回目の会合から仲間に加わった。(5)

 モリスの家での集会にはW・B・イェイツも参加していた。イェイツは、画家ジョン・バトラー・イェイツを父として一八六五年にアイルランドのダブリンで生まれ、青年になって美術学校に通い始めたが、やがて文学の道に進んだ。

 イェイツをモリスに引きつけたのは、社会主義に対する関心よりもモリスその人に対する関心だった。『自叙伝』(6)の中で、彼は、もしもう一度人生を選ぶ機会が与えられたら「自分のよりも、他のだれのよりも彼の人生を生き、彼の詩を作り、そして彼のすべてを選ぶ」(7)と書いている。

 しかし、やがてイェイツはこの集会を去った。ある夜、集会で宗教が批判された時、イェイツは社会変革には「心の変化がなければならない。それができるのは宗教だけである」と主張して他のメンバーと論争になった。それ以後、彼はこの集会に参加しなくなった。『自叙伝』の中でイェイツは「自分がそのとき言ったことを常に信じていたわけではないが、よりよいものを求めて急激な変化を考えたり、計画したりすることは次第にあきらめるようになった」(8)と書いている。

 社会主義連盟では次第にアナーキストが主導権を握るようになり、一八九〇年には、モリスが率いるハマースミス支部は独立してハマースミス社会主義者協会を設立した。そうして政治活動を続けながら、一八九〇年から、モリスは中世手稿本や初期印刷本の収集を始め、翌年一八九一年には、これらの収集本を手本にして中世の様式の本を出版するためケルムスコット印刷所を設立した。

 ラスキンと同じように中世を愛し続けたモリスの唯美主義的社会主義は、科学に立脚しようとする社会主義運動とは相容れない側面を強く持っていた。

 モリスが死去した一八九六年にバートランド・ラッセルは、『ドイツ社会民主主義』(9)を出版した。一八七二年に生まれたラッセルは、幼少時に父母が死亡したため、兄と共に祖父の元首相ジョン・ラッセル卿(後に伯爵)の元で養育された(10)。ケンブリッジ大学で、はじめ数学を学び、最終学年で哲学を学んだあと、彼は一八九五年に二度ドイツを訪れ、二度目の訪問ではドイツ社会主義を研究、帰国後、フェビアン協会やロンドン・スクール・オブ・エコノミックスで研究成果を報告した。『ドイツ社会民主主義』はその講演録である。

 彼は一九一四年に社会主義者になって労働党に入党したが、この本を書いたとき、彼はドイツ社会民主党の現状を、資本主義と民主主義社会を先行して経験したイギリスの「一人の正統な自由党員の立場」から見た。民主主義の理論的根拠である人権という極度に個人主義的な理論は「まったく偽りであり、論理的に突き詰めれば社会生活の一切の可能性を実際に破壊してしまうことを確信するようになった」と彼は書いているが、民主主義が一度も存在したことのないドイツでは、「政治理論はまだ民主主義以前の段階」にあり、もし社会民主党が突然の革命によって権力を獲得したならば、「馬鹿げた破壊的な実験をすることになるであろう」とも書いている(11)。新しい政治思想である社会主義の現実を、ラッセルは冷徹に見ていた。



 ラスキンの唯美主義の芸術的側面は、デカダンスへと発展する要素を内包していたともいえる。世紀末になって、ラスキンに反抗しながらも、唯美主義のデカダントな側面を展開させていったのは、ウォルター・ペイターとオスカー・ワイルドである。

 一八五四年にアイルランドのダブリンで医師の家庭に生まれたワイルドは、一八七四年にオックスフォード大学に入学すると、彼が入学する四年前にオックスフォード大学の美術論教授に就任していたラスキンの講義に興味を持った(12)。しかし、中世のキリスト教精神や北方精神を賛美し、人間中心のルネッサンスを堕落として否定するラスキンの思想になじめなかった彼は、ルネッサンス研究に没頭していたペイターに傾倒していった。

 ペイターは、一八三九年にロンドンで生まれ、オックスフォードで教育を受けた後、一八六四年に研究員になった。彼はラスキンの影響を強く受けていたが、中世とルネッサンスの評価に関してラスキンとは全く逆の立場をとり、ルネッサンスの人間中心の精神を肯定する立場に立って芸術批評を展開した。ワイルドがオックスフォードに入学する前年の一八七三年、彼が三三歳のときに刊行された『ルネッサンス』は、ボッティチェルリ、ミケランジェロ、ダ・ヴィンチらルネッサンスの芸術家たち、そしてルネッサンス美術を研究した一八世紀のドイツの美術評論家、ヴィンケルマンらを論じながら美術論や詩論を展開し、十九世紀末から二十世紀にかけてイェイツやパウンドにも強い影響を与えた芸術論である。この彼の芸術論は同性愛への共感が感じられ、さらに唯美主義を宗教の上位に置いているとしてオックスフォードの教授や聖職者の激しい反発を呼び起こした著作でもあった。(13)

 オックスフォードでペイターに傾倒したワイルドは、卒業するとロンドンへ出て、定職につかず詩人としての生活を送り、舞台衣装のような服装でロンドンの目抜き通りを歩くようになり、それが変わり者、唯美主義者としての彼の評判を高めた。

 一八八五年から雑誌に文芸批評や劇評を寄稿するようになり、一八八七年に女性誌の編集者になった後、本格的な著作活動に入ると彼は大作家への道を一気に駆け上った。一八九一年には、文学理論や芸術家の政治的態度についての考察などを対話形式で書いた『芸術家としての批評家』など四編の評論をまとめた『意図』、『ドリアン・グレイの肖像』などを出版し、『フォートナイトリー・レビュー』に書いた社会主義についての評論(『社会主義下の人間の魂』)では、アナーキストとしての信念を表明した。翌年、劇作『ウィンダーミア夫人の扇』が大評判になってからの三年間は絶頂期となった。一八九四年にはビアズリーの装丁で『サロメ』を出版し、一八九五年一月に始まった『理想の夫』の公演の初日にはプリンス・オブ・ウエルズも現れた。

 そうした成功の絶頂期『まじめが肝心』の公演が始まって四日目の一八九五年の二月一八日に、彼の元へ一通のカードが届けられる。「男色家を気取るオスカー・ワイルドへ」と書いてあったそのカードの差し出し人は、彼が親しくしていた美貌の青年アルフレッド・ブルース・ダグラス卿の父、クィーンズベリー第八代侯爵という貴族だった。

 憤慨したワイルドは、三月一日にクィーンズベリーを中傷したとして告訴した。クィーンズベリーは裁判のあと保釈され、四月に開かれた第三回目の公判で無罪となったあと、逆にワイルドを告訴し、ワイルドは同性愛の罪を問われ即座に逮捕された。五月二十日に始まった第二回目の公判が六日間続いたあと、彼は二年の重労働の刑を言い渡された。

 ワイルドは唯美主義者として、劇作家としてロンドンを湧かせた時代の寵児だった。その彼が、ある日突然牢獄へ入れられるという事件は、彼一人がかかわる事件ではなく、美への耽溺という時代の風潮に冷水を浴びせかけた事件でもあった。

 イェイツは、一八八七、八年頃から、ワイルドと頻繁に会うようになっていた。一八八九年に初めての詩集を出版した時には、ワイルドが好意的な書評を書いた。イェイツもワイルドと同じようにペイターの影響を受け、一八九〇年代には、ロンドンでライマーズ・クラブという若い詩人の集まりを作った。クラブの詩人たちは、ペイターの説く「美しい瞬間」を追求するようなデカダンス志向の詩を書いていた(14)。

 そうした中で起きたオスカー・ワイルドの事件はライマーズ・クラブの詩人たちのデカダンス志向に大きな打撃を与えずにはおかなかった。イェイツは、二十世紀に入ると世紀末の精神的ムードの中から抜け出し、本拠をダブリンのアビー劇場に置くアイルランド国民劇団を設立してアイルランドの民族文化活動に情熱を注ぐようになった。

 一八九四年に創刊された『ザ・イエロー・ブック』は、ビアズリーの絵、ヘンリー・ジェイムズ、H・G・ウェルズ、アーノルド・ベネット、イェイツなどの作品を掲載し、時代を代表する文芸誌になったが、ワイルドの事件のあと、第一三号を発行したあと、一八九七年に廃刊になった(15)。

 セバスチャン・メルモスと名前を変え、隠れるような生活の末に、オスカー・ワイルドが、パリの小さなホテル、オテル・ダルザスで失意のうちに死んでいったのは一九〇〇年十一月三〇日である。牢獄から解放されたのは、その三年ほど前の一八九七年五月一九日の朝である。同性愛の相手だったといわれる文芸評論家のロバート・ロスが迎え、その夜ワイルドは、隠れるようにしてフランスへ渡った。ロスをはじめとする友人たちの援助で北フランスの寒村に住み、創作に取り組んだが進まず、翌年パリに移り住んだ。貧困と酒の末に頭痛に悩まされるようになり、生活破綻者、そして人々から忘れられたような孤独の中で彼は死んでいった。その死は「世紀末=デカダンス」という時代の終わりを象徴していた。


引用文献
1) ラッセル・バートランド:西洋哲学史(市井三郎訳)、みすず書房、一九七〇年。669.
2) ibid.
2a)Ruskin, John:The Stones of Venice(ed. by J.G.Links), Da Capo Press, 1960.
3) 五島茂編、世界の名著「ラスキン、モリス」、中央公論社、一九七九年。60.
4) モリスの伝記的記述は、主としてヘンダースン、フィリップ:ウィリアム・モリス伝、川端康雄・志田均・永江敦訳、晶文社、一九九〇年(原典発行一九六七年)および五島茂編、世界の名著「ラスキン、モリス」、中央公論社、一九七九年による。
5) Holroyd, Michael : Bernard Shaw, A Biography, Vintage Books,1990( originally published 1988), 131-2.
6) Yeats,W.B.:Autobiographies,Macmillan,1955.
7) Ibid. 141.
8) Ibid. 148-9.
9) ラッセル、バートランド:ドイツ社会主義、河合秀和訳、みすず書房、一九九〇年。
10) ラッセルの伝記的記述は主にウッド、アラン:バートランド・ラッセル−情熱の懐疑家−、碧海純一訳、木鐸社、一九七八年による。
11) ラッセル:ドイツ社会主義、162-6.
12) ワイルドの伝記的記述は主にHolland, Vyvyan: Oscar Wilde, Thames and Hudson, 1960, 1966.による。
13) 富士川義之:ある唯美主義者の肖像、ウォルター・ペイターの世界、青土社、一九九二年、48、57.
14) Rogers, Pat(ed):The Oxford Illustrated History of English Literature, Oxford University Press,1987, 385.
15) 小野寺健:英国文壇史、一八九〇−一九二〇年、研究社出版、一九二二年、62。


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