No.29 November, 2001
歴史の中のエズラ・パウンド 第29回
第3部 戦後
第15章 統合を求めて
(3分載の2、Section 2)
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セント・エリザベス病院を去ったあと、パウンドは妻のドロシーと共に、しばらくワシントンに住み、一九五八年六月一八日に、かつて両親と共に住んでいたフィラデルフィア郊外のウィンコーテの家を訪れ、幼少時の友人にも会った。その後、ラザフォードのウィリアム・カーロス・ウイリアムズを訪ねたが、ウイリアムズは一九五一年に最初の脳卒中の発作に見舞われたあと、からだが不自由になっており、二人が多くを語り合うことはできなかった。
六月三〇日に、パウンド夫妻はニューヨークからイタリア行きの船に乗った。セント・エリザベス病院のパウンドを訪問していたマルセラ・スパンという女性が、秘書を務めるために一緒に乗船した。
船は七月九日にナポリに着いた。新聞記者が、アメリカの精神病院に一二年間拘束されていたことについての感想を聞くと、パウンドは、「アメリカ全体が精神病院である」と答えた。反ユダヤ主義については、「ファシスト独裁者は、ユダヤ人迫害の仕方で過ちを犯した。ユダヤ人と闘うことが間違っていたわけではない。闘い方が間違っていた。彼らを全体として攻撃するのではなく、個々のケースで検討すべきであった」と答えたと伝えられている。ジェノアで下船したあと、三人はヴェロナへ行き、そこでオルガ・ラッジとの間に生まれた娘メアリの出迎えを受けて車でチロルへ向かった。(1)
メアリはイタリアン・チロルの山の上に立つ城に住んでいた。彼女は、一九四六年にイタリアに亡命したロシア貴族の子孫というボリス・バラッティと結婚し、ノイエハウスという放置されていた城を無償で借りて住んでいた。パウンドの母イザベルは、この古い城の一室に移り住んでいたが、脳卒中で倒れ、パウンドがイタリアへ戻ってくる前の一九四八年二月に死亡して近くに埋葬された。その後、メアリ一家はチロロという山村の近くにある別の城ブルンネンブルグに移っていた。
パウンドの蔵書や書類は、ラパロからその城に移されていた。そして、そこがイタリアでの彼の住居になった。彼は、メアリが『キャントウズ』をイタリア語に翻訳するのを助け、孫たちの相手をし、庭仕事をし、料理にも関心を持った。秘書のマルセラの補助によって、アンソロジー『孔子からカミングスへ』(一九六四年刊行)(2)の編集にも取り組んだ。また、セント・エリザベス病院にいたときに書いた草稿を元にして、『キャントウズ』第九六篇から第一〇九篇の『キャンタレスの王位』も完成させた。
『キャンタレスの王位』は、「エゴイズムから抜け出し、地球上に、何らかの可能なあるいは考えうる秩序についての定義を確立しようとする試みである」とパウンド自身によって説明されている。また、ウィリアム・クックソンの解説書によると、
(1)ビザンチン皇帝レオ六世(在位886-912)が教区を統治する主教たちに向けて書いた法令書である『主教の書』、(2)康煕帝(在位1661-1722)が編纂した儒教書『聖喩』を、その子、雍正帝(在位1722-1735)が序を付して再編纂した書物、(3)国王の大権に対する国民の権利の擁護者であり、また「権利の請願」の中心的な執筆者であった英国の法学者、エドワード・コーク卿(1552-1634)による『英国の法体系』、の三書を正義と善を体現した統治の歴史的記念碑としてとらえて構成されている。(3)
ブルンネンブルグに半年ほど住んだ後、パウンドはそこに落ち着くことは難しいと感じるようになった。妻、愛人との間に生まれた娘、女性秘書という三人の女性が共に住む城には、彼が耐えられないような人間関係の緊張も生じ始めていたといわれている。彼はそこを去ることを決意し、一九五九年三月、ドロシーとマルセラ・スパンを伴ってラパロに移った。
BBCが、パウンドのドキュメンタリーを制作することになり、その撮影のために、パウンドは四月にブルンネンブルグを訪れた。そのあと、五月にはドロシーとマルセラを伴ってイタリアを旅行した。最初に訪れたのは、ピサのアメリカ軍規律訓練センターがあった場所であった。そこは、バラの苗木畑になっていた。そのあと、彼らはガルダ湖畔のシルミオーネを訪れた。
その年の後半以降、パウンドは病気で苦しむようになった。抑うつの症状が現れていた。マクリーシュに宛てて書いた手紙では、「使いものにならなくなった」「長年の闘いで疲労した」「助けを求めて叫び声をあげている」と訴えた。一九五九年九月にパウンド訪ねたローリンは、パウンドの状態を見て心配し、セント・エリザベス病院のオーバーホルサーに手紙を書いて相談した。オーヴァーホルサーは、イタリアにいる知人の教授を紹介したが、パウンドはその教授の診察を受けず、近辺の医師の治療を受けた。その医師は、降圧薬のレセルピンを処方したが、まったく逆の効果しかもたらさなかった。この薬は、その後、強い抑うつの副作用があることが知られるようになった薬であった。(4)
メアリは、パウンドには男性の友人が必要であると考え、一九六〇年一月に、夫ボリスの古い友人でローマに住むウゴ・ダドーネの家に同居させてもらうことを決めた。ダドーネは、第二次世界大戦時、アフリカ戦線に参加して負傷を負った元軍人であり、ダンヌンツィオの称賛者であった。ドロシーはしばらくローマに滞在したあとラパロへ戻ったが、パウンドはそこにとどまった。(5)
三月に、ローマのダドーネのアパートで、ドナルド・ホールが、『パリ・レビュー』誌のために、パウンドに三日間にわたってインタビューした。その間、パウンドは元気であった。彼の部屋には、スーツケースと三冊の本、『キャントウズ』、孔子、チョーサーがあった(6)。インタビューの内容は、経歴の確認などまで含めて多岐にわたっているが、パウンドの文学的意図を知るうえで重要と思われることが多く述べられている。
『キャントウズ』にとりかかった時期について、パウンドは一九〇四年頃から考え始めたと答えている。そして、ダンテの『神曲』以後の六世紀間を題材にしたかったのであると述べている。(7)
技法と内容の問題に対しては、内容のほうがより重要であると答えた。また、「自由詩はアメリカ的な形式か」という質問に対しては、「良い仕事をしようとしている者にとって、どのような詩も自由ではありえない」というエリオットの言葉をあげ、さらにアメリカ的であることなく、非イギリス的であることも可能であると述べている(8)。自由詩はアメリカ的な形式というよりも現代的な形式であるといっているのであろう。
「現代世界は詩のあり方を変えたのか」という質問に対しては、かつてなかったような他の表現方法との競争が生じていると答えた。ぺリというリスを主人公にしたディズニーの映画を例としてあげ、そこでは、勇気や優しさといった価値が誰もが理解できるような形にされており、天才がかかわっているといった。また、カメラは文学に対しての巨大な挑戦であり、文学にとって何がなされなければならず何が余剰であるのかという問題が投げかけられていると述べた。(9)
ホールは、美学的な問題から政治的な問題への関心の移行が、なぜ起こったのか、友人を多く失った第一次世界大戦がきっかけになったのか、という質問もした。(10)
これに対してパウンドは、関心の移行がいつ始まったのか、はっきりとわからないが、戦争が「システムの部分」であるという見方を持つうえで、『ニューエイジ』の編集室から影響を受けたと答えている。(11)
文学と政治という問題に関し、パウンドは『読書のABC』で、言葉を有能に使うことこそが著述家の機能であると書き、著述家の機能と彼が属する陣営を分離させているが、間違った陣営に属している著述家も有能に書くことができるのか、という質問に対しては、パウンドは、「それはまさに大きな問題であり、優れた銃は誰が使おうとも優れていることに変わりはない」と答えた。さらに、劣った言語は劣った政府に結びついて行くが、優れた言語が優れた政府を生み出すとは限らないと述べ、孔子を引用して命令が明確でなければそれを実行することはできないという例などをあげた。また、宣伝における言語と音楽の巧妙な組み合わせを批判的にあげ、思想を隠し、生きた直接的な答えをすべて保留しようとするために言語が使われるという害が生じていると述べた。(12)
こうした状況の中で、どのような活動が可能なのかという問いに対しては、「洗脳に対して勝利することができるただ一つのチャンスは、自分の考えをあるとき誰かにわかってもらえるという権利を誰もが持っていることだ」と答え、「既成の言葉を使っているかぎり、そして二五人の人間が二五通りの意味を持たせて使っているかぎり明確さは達成できない」と述べた。さらに、きわめて重要と自分には思われる問題に関して、人々から直接的な答えを得ることができなかったのは、自分の問いかけの枠組が暴力的であいまいであったためかもしれないが、いわゆるあいまいさは言葉のあいまいさによるのではなく、私が何のために言おうとしているのかがわかってもらえないためではないのかと思うこともあると述べている。(13)
画一性へのなだれや渦の中で地方、個人の個性、個々の文化の価値を保つこと、すなわち個人の精神を保持することにも闘いが必要であるとも述べている。敵は、歴史の抑圧であり、宣伝と洗脳、ぜいたくと暴力であるといっている。六〇年前には、詩は貧しい人間、ポケットにギリシャ語の本を入れて、野の果てにおもむく人間の芸術であり、最良のものを望む者は、それを人里離れた農場で手に入れることができた。しかし、映画が現れ、今はテレビが出てきたという。(14)
ディズニーの映画についての発言からもうかがえるが、パウンドは詩と競合するものとして、映像を強く意識していたようである。
ローマからの放送に関して、パウンドは、アメリカの法をやぶったという意識はないと答えた。憲法の観点に立って闘っていると考えたのであって、頭がおかしくなっていたのかもしれないが、反逆罪を犯しているとは感じていなかったと答えている。人種、信条、肌の色を理由として不利を被った人がいれば、現れて明確に指摘してほしいとも述べた。強奪者やアメリカを戦争に巻き込んだ者たちに対して議論ができるという考えは妄想であったのかもしれないが、まちがったものに従うという考えは嫌悪したのだという。(15)
『キャントウズ』を書き進めて行くのは困難な状況にあるのかという問いに対しては、とりあえず、あいまいさを明確にすることと、野蛮さの興隆に対して闘うための言葉の方式を見つけなけらばならないと述べた。さらに、叙事詩は歴史を内包した詩であり、テーマはいろいろとあると言い、個人の権利を守るための闘いは叙事詩のテーマとなり、その闘いが障害に突き当たるとき、統治者の本質が叙事詩のテーマとなると述べている。また、ヨーロッパと文明が崩壊するという見方に抵抗するために書いており、ヨーロッパ文化の最も優れた部分は他の文化とともに生き延びていくべきであると考えていると述べた。(16)
アメリカへ帰ることについては、そうしたい思いはあるが、もう存在しないアメリカ、アダムズ、ジェファーソンらの抽象的なアメリカへの郷愁なのか、あるいは何であるにせよ現在そうなっているアメリカに対する気持ちであるのかはわからないと答えた。(17)
パウンドは、イタリアへ戻っても元のイタリアは無くなっており、失望したとも述べている。「ヨーロッパはショックであった。自分が何かの中心にいると、もはや感じることができないということにもよっているのだと思われる」と述べ、有機的なアメリカというものはヨーロッパにおいて理解されないとも言った。(18)
五月半ばに、パウンドはドロシーのいるラパロへ行った。そして、夏になると、ドロシーと一緒にまたブルンネンブルグへ行った。しかし、パウンドは食事も拒むようになり、秋まで診療所に入院した。抑うつの症状が強く現れ、自己責苦、悔恨にますます悩まされるようになっていた。孔子の思想にも疑いを持つようになり、罪人の逃げ場にはならないなどと話すようになった。そして、以前は嫌っていたエリオットの『四重奏』を読んだりもした。発作的に、原稿を燃やそうとしたり、診療所に火をつけようとしたこともあった。そしてしばしば自殺したいと口走った。(19)
一九六一年の春の初め、パウンドはローマへ行き、再びダドーネのアパートに滞在したが、また体の具合が悪化し、ローマの診療所に入院した。六月には、メアリが付き添って、ブルンネンブルグ城の近くのメラノにある診療所を受診した。前立肥大にかかっていることがわかり、数カ月間入院した。(20)
一九六二年の初めに退院し、春先になって歩けるようになると、パウンドはラパロへ行き、オルガ・ラッジのサンタンブロジオの家に住んだ。ドロシーは、自分より十歳若いラッジに、パウンドの世話を委ねようとしていた。その後、パウンドはラパロのナーシングホームに入り、六月に泌尿器の手術を受けた。前立腺肥大により、尿毒症になっていた。手術により少し良くなったが、依然として抑うつの状態は続き、自分の過去の文学的業績を否定し、罪の観念を抱き、生活を続けていくための十分なお金を持っていないことを心配した。一九六二年の夏に退院すると、パウンドはサンタンブロジオに帰り、ラッジと共に暮らした。体力が回復した夏の終わりには、ラッジに付き添われてヴェニスを訪れた。(21)
ドロシーは、ほとんどの時間をラパロのホテルで過ごしていた。彼女は読書に励み、シェイクスピアを読み、『キャントウズ』に出てくる人物のリストを作ったりもしていた。彼女がパウンドとオルガ・ラッジに会うことは、ほとんどなくなっていた。イギリスのケンブリッジに住む息子のオマール夫妻をときどき訪ねたが、冬になると彼女はラパロのホテルへ帰り、ときにブルンネンブルグへも行った。次第に耳が遠くなり、白内障にかかったが、読書を続けた。(22)
一九六三年の夏、パウンドは再び入院し、前立腺の手術を受けた。それ以後、身体的には状態は良くなったが、話さなくなった。オルガ・ラッジは献身的にパウンドの世話をした。パウンドは、自分が彼女の重荷になっていると漏らすこともあったが、一方で彼女が彼を一人残して買い物に出たりすると、置き去りにされるのではないかという不安に駆られた。しかし、彼は少しずつであったが、読み、そして書いた。(23)
彫刻家の飯田善国は、一九六三年一〇月に、ヴェニスの画廊で主人と雑談しているときに、近くに住むパウンドが通り過ぎるのを見た。「周囲を深い沈黙と静けさが支配しているのが見えた」(24)と書いている。彼に寄り添っていた女性を、画廊の主人は「妹さんだ」といったが、ラッジだったのだろう。
一九六四年一月、ラッジはパウンドの抑うつを治療するためにスイスへ行き、いくつかの診療所を訪れた。しかし、抑うつは改善しなかった。
ヘミングウエイは一九六一年に、カミングスは一九六二年に、ウイリアムズは一九六三年に死去した。一九六五年一月にエリオットが死去したとき、パウンドはラッジに付き添われて、ウエストミンスター寺院で行われたエリオットの葬儀に参列した。葬儀が終わると、パウンドは、ケンジントンのエリオットのアパートでエリオット夫人と数時間を過ごした。その後、ダブリンへ行きたいと言い、ラッジは予定を変えて彼をダブリンへ連れて行った。ダブリンでパウンドはイェイツの未亡人に会った。(25)
ラパロに戻ったパウンドは、一九六五年の春にまた短期間入院した。一九六五年夏、彼はスポレト・フェスティヴァルに、このフェスティヴァルの創始者であった作曲家ジアン=カルロス・メノッティのゲストとして参加し、ロバート・ロウエルとマリアン・ムーアの詩を朗読した。しかし、自分の詩は読まなかった。パウンドは、翌年も、このフェスティヴァルに参加して詩を朗読した。一〇月三〇日、八〇歳の誕生日を迎えると、新聞や雑誌が彼に関する記事を掲載した。(26)
八〇歳になったとき、パウンドは何年かぶりにパリを訪れた。ナタリー・バーネイのサロンは、六十年たったその時もまだ続いていた。彼女は、パウンドのためにパーティーを開いた。そのあと、パウンドは、サミュエル・ベケットの『エンド・ゲーム』を見に行き、ベケットに会った。パウンドは、一九二〇年代に、ジョイスと一緒にいたベケットに会ったことがあった。(27)
パウンドは衰えていたが、ときどき旅行した。一九六五年頃にはギリシャを旅行した。一九六六年の春、抑うつの治療のためにジェノア大学の病院に一カ月間入院したが、一九六七年にはチューリッヒへ行き、ジョイスの墓を訪れた。アドリア海のクルーズやイタリア国内の旅行もした。一九六七年六月には、『読書のABC』『ハウ・ツー・リード』『スピリット・オブ・ロマンス』のフランス語訳の出版を機にパリを訪れた。(28)
一九六六年に、ブルンネンブルグに置いてあったパウンドの蔵書や原稿は、エール大学に譲渡された。(29)
(写真は、Carpenter, Humphrey: A Serious Character--The Life of Ezra Pound,
Houghton Mifflin Company, 1988の表紙カバー。パウンドの晩年の写真が使われている)
引用文献
1) Carpenter, Humphrey: A Serious Character--The Life of Ezra Pound, Houghton
Mifflin Company, 1988., p.843.; Heymann, C. David: Ezra Pound: The Last
Rower, A Political Profile, Carol Publishing Group,1992(First published
1976)., p.257.
2) Ezra Pound and Marcella Spann(Ed.): Confucius to Cummings, An Anthology
of Poetry, New Directions, 1964.
3) Cookson, William: A Guide to The Cantos of Ezra Pound, Anvil Press Poetry,
1985, 2001., p.213-217.
4) Carpenter, op.cit., p.859-861.
5) ibid., p.863.
6) Ezra Pound's Poetry and Prose, Contribution to Periodicals, Vol.IX,
1955-1971, Garland Publishing, Inc., 1991., p.327.
7) ibid., p.327-328.
8) ibid., p.329-330.
9) ibid., p.331.
10) ibid., p.344.
11) ibid., p.344-355.
12) ibid., p.345.
13) ibid., p.346-347.
14) ibid., p.347.
15) ibid., p.348.
16) ibid., p.351-352.
17) ibid., p.353-354.
18) ibid., p.354-355.
19) Carpenter, op.cit., p.871-872.
20) ibid., p.873-875.
21) ibid., p.875-879.
22) ibid., p.881-882.
23) ibid., p.882-886.
24) 飯田善国、エズラ・パウンドを見た日、ユリイカ、特集エズラ・パウンド、一四巻一三号(一九七二年、一一月号)、青土社。p.84-85.
25) Carpenter, op.cit., p.887-888.
26) ibid., p.888-889.
27) ibid., p.889-890.
28) ibid., p.890.
29) ibid.
この章では、パウンドの伝記的記述は、Stock, Noel : The Life of Ezra Pound
(An expanded edition), North Point Press, 1982.、Carpenter, Humphrey :
A Serious Character, The Life of Ezra Pound, Houghton Mifflin Company,
1988. を参考にした。
<エズラ・パウンド関連サイト>
http://www.lit.kobe-u.ac.jp/~hishika/pound.htm:
Ezra Pound (神戸大学文学部・菱川英一氏による英文サイト。パウンドの晩年の肖像写真、主要文献リスト、年譜、関連サイトへのリンクなどが掲載されています。主要英米詩人についての情報を得るための同氏作成サイトにリンクしています。)
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