No.27 September, 2001

Series


歴史の中のエズラ・パウンド 
第27回
 
第3部 戦後

第14章 ゴリラの檻と精神病棟
(後半、Section 3-4)



 一九四六年二月一四日の陪審公聴会の翌日、若い詩人であったチャールズ・オルソンが、セントエリザベス病院にパウンドを訪ねた。彼は、一月四日にジェイムズ・ローリンの紹介でセント・エリザベス病院のパウンドを訪ね、そのあと、オーバーホルサー院長に定期的な訪問の許可を申請して認められていた。パウンドは元気を取り戻しており、庭へ出たいと思っていることをオルソンに告げた。それから数週間ほどして、パウンドは初めて病棟の外へ出ることが許可された。オルソンは、毎週のようにパウンドを訪ねていたが、やがて、それほど頻繁には訪問しなくなり、四月三〇日と六月に一度訪問したあと、二年間訪問を中止し、一九四八年二月に最後の訪問をした。(1)

 パウンドとの会見の記録は、出版されない約束になっていたが、オルソンは、会見の感想やメモを書きためていた。それらは、オルソンの死後、一九七五年に『チャールズ・オルソンとエズラ・パウンド、セント・エリザベス病院での出会い』という本にまとめられて出版された。パウンドとの会見を続ける過程で、オルソンは次第にパウンドの語る言葉の中に、社会的、経済的、政治的行動における反動性、大衆の否定などを見いだすようになり、嫌悪と反発をつのらせていた。オルソンがパウンドを訪問しなくなったのは、そうした嫌悪と反発によってであった。(2)

 セント・エリザベス病院にパウンドを訪ねる人々は、しだいに増えていた。一九四六年一月の初めには、ブラック・サン・プレスのカレス・クロスビーが病院を訪れて、パウンドと会った。彼女は、パウンドとウィンダム・ルイスが一九一七年に『リトル・レビュー』に発表した『想像上の文通』を出版したことがあったことなどによりパウンドと親しかった。H・L・メンケンは四月に、そしてマリアン・ムーアもこの頃、パウンドを訪ねた。五月には、ハーヴァード大学の英語学者で詩人のシオドア・スペンサー、さらに七月にはワシントンを訪れる機会のあったT・S・エリオットが訪問した。ウィリアム・カーロス・ウイリアムズはパウンドに会うことに神経質になっており、一年間ほど訪問を見合わせていたが手紙を交わすようになった。(3)

 文学史の貴重な証人であったパウンドの知識を求めようとする論文執筆中の研究者、雑誌編集者などからも多くの手紙が届き始めた。オーヴァーホルサーは、当初は手紙を検閲し、パウンドの政治的信念の熱狂的共感者は遠ざけるようにしていたが、やがて検閲は行われなくなった。パウンドもおびただしい数の手紙を出し、その郵便料の負担に病院側が不満を漏らすほどになった。ウィンダム・ルイスとも再び手紙をやり取りするようになった。ルイスはカナダとアメリカに六年間住んだあと、一九四五年夏にイギリスへ帰り、貧窮の中で生活を送っていた。(4)

 オルガ・ラッジは、エリオットらパウンドの友人たちから、表面に出ないようにと忠告されていた。愛人の存在が世間に与える影響を心配してのことであった。ラッジは、戦争が終わって以来、シエナに住んでいた。ヴェニスの家は没収されたままであった。一九四六年五月半ば、彼女はパウンドの母イザベルが骨折したことをコーネルを通じてパウンドに知らせた。イザベルは、パウンドとドロシーがかつて住んでいたラパロのアパートに住んでいたが、息子のいるワシントンへ移りたがっていた。しかし、ワシントンの老人ホームは入居の順番待ちが長く、また入居費用も足りなかった。(5)

 ドロシーは一九四六年七月の初めにワシントンに着き、七月一〇日にパウンドを訪ねた。一九四六年の冬から一九四七年にかけて、彼女は病院の守衛の自宅に一部屋を借りて住んだ。暖房のない部屋であった。ドロシーと共に、息子のオマーがパウンドを訪ね、チェスの相手をすることもあった。(6)

 一九四六年の終わりに、ウィリアム・カーロス・ウイリアムズは、トルーマン大統領に手紙を書き、パウンドを精神病院に拘禁することは正当ではないと訴えた。ホワイトハウスから手紙を回されたオーヴァーホルサー院長は、「パウンドを粗末に扱うことはない」とウィリアムズに返事を書いた。一九四七年二月四日、パウンドは、犯罪関係の病棟であるハワード・ホールから一般の病棟である中央棟のシダー・ホールの個室へ移され、訪問客と会うときには、面会室の使用が許され、庭へ出ることもできるようになった。その年の六月には、再びエリオットが訪ねた。

 一九四八年二月、パウンドは、チェストナット・ホールと呼ばれる個室へ移された。窓から芝生の庭を見ることができる部屋であった。ほとんどの患者は二人部屋をあてがわれ、ベッドが廊下に置かれている患者もいたことからすると、特別扱いであった。一九四八年一一月になると、エリオットは、パウンドがドロシーと一緒に庭を散歩できるようにすることを提起し、弁護士のコーネルがそれを申請して認められた。それ以後、パウンドは庭へ出てくつろぎ、訪問客にもそこで会えるようになった。(7)

 パウンドのこの頃の看護記録には、「静かで協力的、完全に正しい判断をしている。毎朝新聞を受け取り、ほとんどの時間を部屋の中で過ごす。部屋にいるときは、いつも鼻歌が聞こえる。ときどき夜どおし部屋に明かりがついている」と書かれている(8)。

 『ピザン・キャントウズ』が、ニュー・ディレクションズ社から刊行されたのは一九四八年七月二〇日である。その数カ月後の一一月一八、一九日の両日、新しい文学賞「ボリンゲン賞」の第一回受賞作の選考会が行われた。ボリンゲン財団は、銀行家で芸術愛好家のポール・メロンが、その数年前にユングの著作集を英訳出版するために設立した団体であり、ボリンゲンはスイスにあったユングの住居の名称である。議会図書館の詩部門顧問のアレン・テイトは、一九四三年に、詩作に対する年間賞を決めるために、文学関係者で構成される委員会を設置するよう議会図書館に提案していた。財源を提供とする団体としてボリンゲン財団の協力が得られ、一九四八年に実現した。

 その年の議会図書館詩部門顧問レオニー・アダムズが選考委員長となり、コンラッド・アイケン、W・H・オーデン、ルイズ・ボーガン、キャサリン・ガリクソン・チェイピン(パウンドを起訴した前司法長官フランシス・ビドルの妻)、T・S・エリオット、ロバート・ロウエル、カール・シャピロ、アレン・テイト、キャサリン・アン・ポーターらが選考委員になった。『ピザン・キャントウズ』とウィリアム・カーロス・ウィリアムズの『パターソン』(第二巻)が有力な候補作品になっていた。投票の結果は、『ピザン・キャントウズ』が八票、『パターソン』が三票、棄権二票となり、『ピザン・キャントウズ』への授賞が決まった。パウンドに投票したのは、オーデン、ボーガン、ロウエル、テイト、エリオットらであった。(9)

 元司法長官ビドルの妻チェイピンは、パウンドが候補に挙げられたこと自体が不当であると考え、そのことを夫に告げた。ビドルは、図書館に対し、「決定に反対する」との抗議の手紙を出した。翌年二月に郵便で再投票が行われたが、パウンドへの授賞は変わらなかった。

 委員会は、パウンドへの授賞に強い反発が生じることを予想し、「詩における業績以外のことを考慮に入れてこの決定を揺るがすことは、この賞の意義を破壊することになり、文明社会が依存しなければならない価値である客観的な認識の適切性を原理的に否定することになるだろう」(10)とする声明を発表した。論争が巻き起こったが、批判者が多くいた一方で、授賞を支持する声も同様に多かった。ある批評家は、この授賞を「暗い時代における最も明るい政治的行動」であると評価した(11)。

 『パーティザン・レビュー』は、一九四九年四月号でパウンドへのボリンゲン賞授賞に関する論評を掲載したのに続いて、五月号に文学関係者の意見を掲載した。W・H・オーデンは、反ユダヤ主義的感情は「不幸なことにユダヤ人以外のだれもがときどき抱くことがあるが、重要な問題は、それだけでなく、ほとんどの人はその感情を持っていることを恥じていない」ことであるとし、それを恥じることができなければ、その人は小児とみなされざるをえないのであり、『ピザン・キャントウズ』がそのような人たちに読まれるのであれば、それを検閲することに賛成するとした。そして、自分は「その作品が公衆から奪われる前に、その作品に賞を与えることを思いとどまろうとはしない」と述べて授賞に賛意を表明した(12)。

 また、ジョージ・オーウェルは、「パウンドの詩がその年の最も優れた作品であるとして授賞するのであれば、それは当然のことであるが、彼の経歴は忘れてはならないし、文学賞を受賞したという単純な事実によって、彼の思想が尊敬できるものになると感じてはならない」と述べた。そして、「連合国側の戦争宣伝に対する反発によって、戦争終結前から、パウンドは真のファシストでも反ユダヤ主義者でもなく、平和主義者の立場に立って戦争に反対しており、彼の政治活動は戦時に限られていたという見方があった」とし、パウンドが精神の平衡を欠いたり、イタリア政府に脅迫されて放送したというのは虚偽であると述べた。さらに彼は、「パウンドは一九二〇年代からムッソリーニの熱心な信奉者であり、それを隠したこともなかった」と述べ、パウンドの政治的思想については、「基本的にはイタリア型ファシズムへの熱狂」であり、「強いナチ支持や反ロシア思想は見られない」とし、これらの背景にある彼の真の動機は「イギリス、アメリカ、ユダヤ人に対する嫌悪である」との見方を示した。(13)

 オーウェルが、パウンドの政治思想を、このように詳細に捉えることができたのは、一九四一年から一九四三年まで、日本の影響力への対抗を意図したBBCのインド向けの宣伝放送に従事していたからでもあったのだろう。彼はファシズムに対して強い脅威を感じ、宣伝放送の企画制作や原稿執筆に熱情的に取り組んだ。しかし、その行為に対しては、アメリカのアナキスト、ジョージ・ウッドコックからの、「古くさい帝国主義的な忠誠に立ち返って、インドの一般大衆をたぶらかすためイギリスのプロパガンダを行っているBBCに働いている」(14)とする批判もあった。『パーティザン・レビュー』でパウンドの行為を評した際に、オーウェルは、「連合国側の戦争宣伝に対する反発」が連合国側の内部にあったと述べたが、その反発は彼に対して向けられたものでもあったのである。

 『ピザン・キャントウズ』へのボリンゲン賞授賞をめぐる論議は一九五〇年代に入っても続いた。ナチスのユダヤ人に対する残虐行為が明らかにされる中で、最も強い批判にさらされたのは、パウンドの反ユダヤ主義的な表現であった。

 パウンドへの授賞を支持した人たちと批判した人たちの主張は平行線をたどらざるを得なかったが、イギリスとアメリカの主要な詩人たちが彼への授賞を支持したことは大きな意味を持った。

 パウンドのボリンゲン賞受賞をめぐる論議のあと、アメリカ政府は、議会図書館の関与を中止することを決めた。そのためにボリンゲン賞は一時廃止されたが、一九五〇年から、エール大学が責任者となって復活し、第二回目の賞はウォレス・スティーヴンスに授与された。

(写真は、Cookson, William: A Guide to The Cantos of Ezra Pound, Anvil Press Poetry, 1985, 2001.の表紙に使われているウィンダム・ルイスによるパウンドの素描)



 パウンドを訪れる人々は、さらに多様になっていった。ボリンゲン賞の選考委員でもあったロバート・ロウエルは、一九四七年からパウンドに手紙を書いていたが、一九四八年からは訪問するようになった。ロウエルは、有名な家系の出身者であり、曽祖父に一九世紀末の詩人、ジェイムズ・ラッセル・ロウエルがおり、イマジストの詩人エイミ・ロウエルも血縁者であった。彼はハーヴァード大学を退学したのち、南部文化の復興を唱える詩人ジョン・クロウ・ランサムについて詩を学ぶために一九三七年にケニヨン大学に移った。一九四一年にはローマ・カトリック教徒になり、第二次世界大戦が始まると、徴兵を忌避して刑務所に入った。一九四四年に最初の詩集を出版し、一九四七年から四八年にかけて議会図書館の詩部門の顧問となった。一九四八年二月に初めてパウンドを訪ね、やがて友人も連れて訪れるようになった。精神病のために入院するという困難なども経験しながら、彼はアメリカの主要な詩人の一人になっていった。彼はアメリカの汎米主義的政策や帝国主義傾向、公民権問題への無関心などに反発し、六〇年代になるとヴェトナム戦争反対の立場に立った。(15)

 ロウエルのパウンドへの傾倒は、若い世代のパウンドに対する関心を代表していたともいえる。第二次世界大戦が終了した後、アメリカは共産主義との対立の時代に入った。一九五〇年代に入ると朝鮮戦争が勃発、若者たちは再び戦争に駆り出され、さらにマッカーシズムという反共の嵐が吹き荒れて知識人たちやハリウッドの映画人たちがそれに襲われた。一方で、アメリカは国内に依然として黒人差別という大きな問題を抱えていた。

 こうした時代の中で、ニューヨークやサンフランシスコでは、若い世代に反抗的なビートという文学が芽生え、アレン・ギンズバーグの『吠える』(一九五六年刊行)やジャック・ケルーアックの『路上』(一九五七年刊行)が熱狂的に読まれた。彼らは仏教に強い関心を抱いたが、それは西洋中心主義やアメリカ中心主義に異議を唱えることであり、儒教への強い関心を抱き、さらにイタリア・ファシズムを支持することによってアメリカに異議を唱えたパウンドは、彼らにとって極めて興味深い詩人であったと考えられる。

 パウンドに対する関心は、イギリスやカナダ、オーストラリアの若い世代にも広がっていった。ロンドンでは、ピーター・ラッセルが、「エズラ・パウンド・サークル」という会合を組織して、二週間に一度、パブで会合をもつようになった。パウンドが住んでいたラパロのアパートには、パウンドの許可を得てD・D・ページが住み込み、パウンドの手紙を整理した。二年間をかけたページ夫妻の仕事は、『エズラ・パウンド書簡集一九〇七ー一九四一』(16)となり、一九五〇年にハーコート・ブレース社から出版された。 (17)

 一九五〇年に、ピーター・ラッセルはパウンドの六五歳の誕生日を記念して、エリオット、エディス・シットウエル、アレン・テート、ヘミングウエイ、ヒュー・ケナー、マーシャル・マクルーハン、G・S・フレーザー、ロナルド・ダンカン、ウィンダム・ルイスらが書いたエッセイや評論を寄せ集めた『エズラ・パウンド』(18)を刊行した。この本に集められたエッセイは、パウンドのパーソナリティについて興味深く語っているが、ヒュー・ケナーやマクルーハンの評論は、パウンド研究が新しい展開を見せつつあることを示していた。

 トロント大学のマーシャル・マクルーハンと彼のもとで学んでいたヒュー・ケナーは、一九四八年六月に初めてセントエリザベス病院にパウンドを訪ねた。マクルーハンは新批評の立場に立ってT・S・エリオットを、ケナーはジョイスを研究していた。彼らは、その後もパウンドを訪ね、彼の詩を理解する方法を見いだしていった。ピーター・ラッセルが編集した本に収められた一九四九年に発表の評論で、マクルーハンは、『キャントウズ』がイデオグラム法で構成され、パウンドの評論『文化への案内』と密接な関係を持っていると述べているが、その考え方は、研究対象をジョイスからパウンドに変え、カリフォルニア大学に移ったケナーに受け継がれ、一九五一年の彼の著書『エズラ・パウンドの詩』(19)で確固としたものになった。この著書は、パウンドの詩の解釈に新しい時代をもたらした。その後、ケナーは、一九七一年に、評伝を軸にし、さらに構成にイデオグラム法を使ったとされるパウンド論『パウンドの時代』(20)を著し、大きな反響を呼び起こした。

 パウンドの研究によってモダニズム文学の中でのイデオグラム法の意味を知ったことにより、マクルーハンも大きな示唆を得たに違いない。彼が得たものは『メディア論』(21)の中に確実に生かされているように思われる。

 極端な右翼主義や民主主義の軽蔑者もパウンドを訪問するようになった。そうした人物としてジョン・カスパー、トーマス・デヴィッド・ホートンが知られている。カスパーとホートンは、パウンドを指導者として定価一ドルの「スクエア・ドル」シリーズの出版を計画し、漢字についてのフェノロサのエッセイ、パウンドによる『中庸』の訳書である『揺るがぬ軸』、パウンドの『論語』訳、アレクサンダー・デル・マーの経済に関する著作、一九世紀のハーヴァード大学の反ダーウィン主義博物学者ルイス・アガシーの著作などを刊行した。(22)

 セント・エリザベス病院で、パウンドは中国の古代詩の翻訳(23)に熱中した。それが終わるとソフォクレスの『トラキニエ(トラキスの女たち)』(24)を翻訳して出版した。これは、フェノロサの能の翻訳を読み、能の役者がギリシャ劇を演じたらどのようになるかをみたいという観点で翻訳したとされている。この作品は、一九五九年にドイツ、一九六二年にイギリスで上演された。 (25)

 『ピザン・キャントウズ』とヒュー・ケナーの『エズラ・パウンドの詩』を読んだオーストラリアのタスマニア島の二四歳の放送記者、ノエル・ストックは、一九五三年からパウンドに手紙を書くようになり、のちの一九七〇年に、パウンド研究の重要な資料になるパウンドの伝記『エズラ・パウンドの生涯』(26)を書いた。イギリスのウイリアム・クックソンは、ロンドンのウエストミンスター・スクールの生徒だった一九五五年にパウンドに手紙を書き始め、数年後にはパウンドの示唆で文学雑誌『アジェンダ』を発刊した。クックソンは、のちにパウンド研究の重要な資料になる『エズラ・パウンド散文集、一九〇九年ー一九〇六五年』(一九七三年刊行)(27)を編集した。

 フェイバー・アンド・フェイバーは、一九五三年にケナーの序文をつけてパウンドの『翻訳作品集』(28)を出版した。その翌年には、エリオットが、自らイントロダクションを書いて『文学論集』(29)を発刊した。このようにして、パウンドを研究するための資料がしだいに増していった。

 パウンドが一九五三年七月頃から書き始めていた次のキャントウズ、『ロック・ドリル・キャントウズ』(鑿岩編、第八五篇〜第九五篇)は一九五五年に発表された。ウィリアム・クックソンは、『ロック・ドリル・キャントウズ』は第八五篇〜第八九篇と第九〇篇〜第九五篇の二つの部分に分けられ、前の部分は歴史的、教訓的であり、後の部分は前の部分をベースにして叙情的に書かれていると述べている。(30)

引用文献

1) Carpenter, Humphrey: A Serious Character--The Life of Ezra Pound, Houghton Mifflin Company, 1988.p.734-741.
2) 富士川義之:記憶のランプ、沖積舎、一九八八年。p.124.
3) Carpenter, op.cit., p.736,759.
4) ibid.,p.759-760
5) ibid., p. 764-765
6) ibid.,p.767-769.
7) ibid.,p.769-775..
8) ibid.,p.778.
9) ibid.,p.787-793.
10) O'connor, William Van and Stone, Edward(Ed):A Case Book on Ezra Pound, Thomas Y.Crowell,1959.p.45.
11) Heymann, C. David: Ezra Pound: The Last Rower, A Political Profile, Carol Publishing Group,1992(First published 1976). p.218.
12) O'connor, William Van and Stone, Edward(Ed), op.cit., p.54-56.
13) ibid., p.60-61.
14) ウェスト、W・J編:ジョージ・オーウェル、戦争とラジオ、BBC時代(甲斐弦ほか訳)、晶文社、一九九四年。p.45.
15) Conn, Peter: Literature in America, An Illustrated History, Cambridge University Press, 1989.p.456.; Carpenter, op.cit., p.789-790.
16) Pound, Ezra: Selected Letters of Ezra Pound 1907-1941, Ed. by D. D. Paige, Faber and Faber, 1950.
17) Carpenter, op.cit., p.786-787.
18) Russell, Peter(ed.) : Ezra Pound, A collection of essays edited by Peter Russell to be presented to Ezra Pound on his sixty-fifth birthday, Peter Nevill, 1950.
19) Kenner, Hugh: The Poetry of Ezra Pound, University of Nebraska Press, 1985.(First published 1951).
20) Kenner, Hugh: The Pound Era, University of California Press, 1971.
21) マクルーハン、マーシャル:メディア論(栗原裕、河本伸聖訳)、みすず書房、一九八七年。
22) Carpenter, op.cit.,p.799-801.
23) Pound, Ezra: Classic Anthology Defined by Confucius, Harvard University Press, 1954, 1982.
24) Sohokles: Women of Trachis, A Version by Ezra Pound, New Directions, 1957, 1985.
25) Carpenter, op.cit., p.811-812.
26) Stock, Noel: The Life of Ezra Pound, Routledge and Kegan Paul, 1970.
27) Pound, Ezra: Selected Prose 1909-1965,ed. by William Cookson, Faber and Faber, 1973.
28) ibid., Translations, Faber and Faber, 1953.
29) ibid., Literary Essays of Ezra Pound, New Directions, 1968.
30) Cookson, William: A Guide to The Cantos of Ezra Pound, Anvil Press Poetry, 1985, 2001.p.168.

 この章では、パウンドの伝記的記述は、Stock, Noel : The Life of Ezra Pound (An expanded edition), North Point Press, 1982.、Carpenter, Humphrey : A Serious Character, The Life of Ezra Pound, Houghton Mifflin Company, 1988. を参考にした。


エズラ・パウンド関連サイト
http://www.lit.kobe-u.ac.jp/~hishika/pound.htm: Ezra Pound (神戸大学文学部・菱川英一氏による英文サイト。パウンドの晩年の肖像写真、主要文献リスト、年譜、関連サイトへのリンクなどが掲載されています。主要英米詩人についての情報を得るための同氏作成サイトにリンクしています。)


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