No.26 July, 2001

Series


歴史の中のエズラ・パウンド 
第26回
 
第3部 戦後

第14章 ゴリラの檻と精神病棟
(3分載の1、Section 1-2)



 一九四五年五月三日に逮捕されたあと、パウンドはジェノアのアメリカ軍対抗情報センター(CIC)の管理下に置かれた。ローマからFBIの係官が到着し、パウンドに対して尋問を始めたのは、パウンドが出頭した日の翌日、一九四五年五月四日の午後である。約一週間、尋問が続き、彼が関係していた場所であったローマ、サロ、サンタンブロジオで捜索が行われた。

 ジェノアでの拘束中、五月八日に新聞記者がインタビューした。このインタビューで、パウンドは、自分がファシストの側に立ったとして反逆罪を問われていることに対しては、断固として闘うつもりであることを明確に述べた。

 「自らの信念を重んじるなら、そのために死ぬこともあるだろう。持つに値する信念であるならば、それは表現するに値する」と彼は語り、記者の質問に答えて、ムッソリーニ、ヒトラー、チャーチルら戦争指導者についての自分の見方を語った。「ムッソリーニとルーズベルトの、どちらを私が好んだかは疑問の余地がない。放送では、私はファシズムの経済的な建設について好意的に話した。ムッソリーニは非常に人間的だった。自分を見失ってしまった不完全な人間だった」「ウィンストン(チャーチル)は、最大限の残忍性によって強化された最大限の不正義を信念にしていた」「スターリンは、今の政治家ではもっとも賢い。しかし、私がボルシェヴィキになるという意味ではない」「ヒトラーはジャンヌダルクであり、殉教者だった。多くの殉教者と同様、彼も極端な思想を持った・・・・彼もムッソリーニも、孔子の教えに従ってさえいれば成功しただろう」(1)

 パウンドは、放送によって報酬を受け取っていたことも認め、放送では、アメリカが参戦すべきではなかったと話したが、軍務を放棄するよう呼び掛けたりはしなかったと言った。放送以外には、『ジャパン・タイムズ』から原稿料を受け取っていたことを認めた。記者は、このインタビューで、パウンドが、自分がいま問われている反逆罪についてよりも孔子について多く語ったことに強い印象を受けた。

 パウンドが、ジェノアから、アメリカ軍がピサの北部に建設した規律訓練センターに移送されたのは五月二四日である。規律訓練センターは、婦女暴行、殺人、略奪など軍規を逸脱した行為を行った兵士を収容するための施設であった。そこに移送されると、パウンドは滑走路建設用の鉄板をアセチレン・トーチで切断して作った鉄格子で囲まれた檻に入れられた。彼は、のちにそれを「ゴリラの檻」と呼んだ(2)。孔子の本と中国語の辞書、紙と鉛筆の使用は許され、軍支給の聖書が与えられた。

 彼は、コンクリートの床の上に毛布を敷いて寝た。雨が降り込み、風やほこりが吹き込んだ。強い日差しも差し込んだ。夜間も警戒のための照明が檻の中を照らした。檻の中には排泄のための缶が置かれていた。収容されて約三週間後、彼は激しい恐怖感に襲われ、体重は減少し衰弱した。

 六月に半ばに、彼は精神科医による診察を受け、このまま拘禁を続ければ精神異常が生じる可能性があるとされたため、檻から出されて、医療施設へ移され、テントを与えられた。そうした収容条件の緩和により、体調は改善し、食欲が旺盛になって不眠に悩まされることはなくなった。

 医療スタッフは、ローマのサンタヤナを訪ねて、パウンドについて聞いた。サンタヤナは、パウンドの業績を讃え、彼が詩人、そして芸術家の援助者として理解されることを望むと話し、外国の政権の中に迷い込んだことは理解され、許されるべきであると話した。

 やがて、パウンドは囲いの中での散歩や運動も許され、便所の使用も許されるようになった。便所に置き忘れられたポケット詩集を手に入れ、鉛筆もいつのまにか手に入れた。黒人兵士が空き箱で作ってくれた机を使い、九月からは診療室のタイプライターの使用も許されるようになった。

 毎晩、食事のあと、パウンドは診療室のタイプライターを叩いた。彼は、そうして『ピザン・キャントウズ』を書いていた。その冒頭の『キャントウズ』第七四篇はトイレットペーパーにメモした下書きもあると伝えられているが、大部分は軍の用箋に鉛筆で筆記されている。神話的、文学的比喩を多用し、さらにラテン語やギリシャ語を織り交ぜて、検閲で意味を把握されないようにしたとされている。

 『キャントウズ』第七四篇は、「農夫の曲がった肩にひそむ夢の桁はずれた悲劇」(3)というファシズムの挫折を嘆き悲しむ言葉から書き始められている。そして、ムッソリーニと愛人クラレッタが、ミラノで逆さ吊りにされたことに対して、「死んだ雄牛を蛆虫たちがむさばるために」(4)と怒りを投げつけている。「雄牛」はムッソリーニであり、「蛆虫」はパルチザンを指しているのであろう。

 そして、「エリオットにこう言ってやれ」(5)と書いている。「メソメソした啜り泣きではなく 勇ましい音だと/デイオケスの都市を築くためには」(6)。エリオットは『空ろな人間』の末行で「こんな風に世界は終わる/勇ましい音ではなくて メソメソした啜り泣きで」と書いた(7)。それをとらえて、パウンドはデイオケス(ユートピア)を築くためには、勇ましくなければならなかった、と言っているのであろう。

 彼は「雨もまた「道」の一部」(8)と、苦難を受けとめようとしている。しかし、「唐の歴史も知らないような薄ぎたない野蛮人のたわごとなどに騙されるな」(9)と、言葉は激しい。「薄ぎたない野蛮人」とは、彼がルーズベルトを指して使っていた言葉であった(10)。さらに、彼は、チャーチルがとった金本位制への復帰の経済政策を非難し、ローマからの放送については、「ラジオでの言論の自由がないのであれば、言論の自由はないに等しい」(11)と言う。「この死の独房のうえに囀ずるひばりのように/軍国主義が西へ侵攻している」(12)というとき、「軍国主義」とは勝者となったイギリスとアメリカの政治傾向に対する彼の見方を言い表しているのであろう。そうして、彼は記憶の断片の中に楽園を求めてさまよい出て行く。

 『ピザン・キャントウズ』は、悔恨、否認、罪のあがないをしようとするものであり、失敗と過誤の告白であるとする評もあるが、第七四篇には、このようにファシストの側に立った彼の信念が書き綴られている。

 第七六篇では、破壊された文明の挽歌をうたったのち、「こわれた蟻づかから這い出たいっぴきの蟻のように/ヨーロッパの廃虚から出た、俺は語部だ」(13)と書いた。そして、第八一篇では、「おまえが深く愛するものは残る/その他は滓だ」(14)とし、「なにもせずにいないで なにかしたこと/それは虚栄ではない」(15)「誤りはすべて なにもしないことにある」(16)と自らの肯定へと行き着いた。

 パウンドは、一〇月に、『ピザン・キャントウズ』の原稿を診療室のタイプで打ち終わり、それを妻のドロシーを通じて娘のメアリーに送り、タイプの清書を頼んだ。詩の中に散りばめられている漢字はドロシーがレタリングした。その詩集がニュー・ディレクションズ社から出版されたのは一九四八年七月である。

 ピサの規律訓練センターで、『ピザン・キャントウズ』の主要な部分を仕上げた後、パウンドは孔子の翻訳に取り組んだ。『大学』を新しく翻訳し直し、『中庸』『論語』『孟子』も翻訳した。彼の孔子への傾倒は変わることなく、一九四六年にはチャールズ・オルソンに、「孔子をもっと早く読んでさえいたら、こうした混乱には巻き込まれなかっただろう」と語ったという(17)。

 規律訓練センターで、彼は、小説、雑誌など、与えられたあらゆる出版物をむさぼるように読み、アメリカ軍の新聞『スター・アンド・ストライプス』や『タイム』、『ニューズウィーク』を読んで最近の出来事も知った。フランスのヴィシー政権のペタンの裁判が、死刑の判決と減刑の終身刑で終わったこと、ノルウェーのヴィトクン・キスリングが処刑され、ドイツから宣伝放送を行ったイギリス人のウィリアム・ジョイスが九月の裁判で死刑となったこともおそらく知っていたとみられている。

 パウンドの居場所を妻のドロシーが知ったのは、一九四五年の八月になってからであった。ドロシーは一〇月三日にピサを訪ね、一時間半の面会を許された。そして、一〇月一七日には、オルガ・ラッジと娘のメアリーがパウンドに会いに行った。一一月三日には、再びドロシーが会いに行った。

 パウンドがピサからワシントンへ移送されたのは、それから二週間後の一一月一六日である。飛行機は、一八日夜の一〇時半に、ワシントンの空軍基地に到着した。

(写真は、 Ezra Pound and Dorothy Pound, Letters in Captivity, 1945-1946, Ed. by Omar Pound and Robert Spoo, Oxford University Press, 1999.の表紙カバー)



 パウンドがワシントンに連行されて一〇日ほど後の一九四五年一一月二五日、ニューヨークの新聞『PM』は、パウンドを知っている文学関係者たちの談話を掲載した。ウィリアム・カーロス・ウィリアムズは、ヒトラーを殉教者と呼ぶなどの「(パウンドの)軽率な発言を聞いたときは、彼の友人であることを忘れたいと思う」が、「(彼が行った)馬鹿なことを犯罪とすることは、より大きな馬鹿げたことによって我々が動かされるという罪に、我々自身を曝すことになろう。パウンドがアメリカに何らかの脅威であったとしても、我々の中に潜んでいる悪に比較すると、それはまったく子供じみている。彼は危険ではない」とした。(18)

 カミングスは、「非動物的な想像力と殺人は個人的な悪であり、虐殺は社会的な徳であるという前提のもとに、この美しい地球の上に線を引かれた地理的な抽象の中に、芸術家は住んでいるのではない」「すべての芸術家にとって、まったく境界のない国は彼自身である」とし、さらに、自分に嘘偽りない人間は、だれもが不死身であり、「時空の中にあるすべての反芸術家のすべての原子爆弾をもってしても、この不死身の者を手なずけることはできない」という考えを示した。(19)

 ハーヴァードのF・O・マティセン教授は、パウンドの経済関係の著述は「気違いじみている」とし、放送は「反ユダヤ主義的であるなど悪意的であるが」、「宣伝としては考慮しうるような力は持ちえなかった」とした。『ダイアル』の編集人としてパウンドを知っていたコンラッド・アイケンは、パウンドは「反逆者というよりも馬鹿である」と考えるべきだとした。『PM』は、その後一九六〇年にパウンドの評伝を著したチャールズ・ノーマンによるリポートも掲載したが、読者からパウンドを弁護しているという抗議を受けた。共産主義の立場に立つ雑誌『ニュー・マッシズ』は、『PM』の記事を追って同じようにパウンドのケースを記事にしたが、その記事の中で劇作家のアーサー・ミラーら四人の作家は、パウンドが詩人であることによって死刑は免除されるべきではないとする意見を表明した。パウンドを弁護する人たちと、厳しい追究を受けるべきであるとする人たちとの対立は、その後も続いた。(20)

 パウンドを助けようとする動きは、一九四三年七月にパウンドが起訴されたときに始まっていた。ルーズベルト政権で広報・文化担当の国務次官補を務め、ローマ放送でパウンドから「犯罪的ギャングの防衛者」と非難された詩人・劇作家のアーチボルド・マクリーシュは、一九四三年に、パウンドの放送を書き起こした記録をヘミングウエイに送った。ヘミングウエイは、マクリーシュに対して、パウンドは「明らかに狂っている」と返事した。彼は罰と辱めを受けるべきであるが、滑稽であるというのが最もふさわしいとした。しかし、パウンドは死刑に処されるべきではないし、殉教者とされるべきでもないとした。ヘミングウエイが考えていたのは、パウンドは狂気であることが証明されることによって、刑は免れ得るということだったのではないかとみられている。(21)

 パウンドが逮捕されて間もない時期、まだジェノアで拘束されているときに、エリオットはマクリーシュに、「エズラ・パウンドに対してとられる措置を軽減できるようなことがあれば、なんであってもしたい。助言をお願いしたい」という電報を打った。さらにエリオットは、マクリーシュに、「パウンドに関しては、できるだけ軽い扱いがされて、できるだけ早く忘れ去られるようにと願う声以外は聞こえてこない」と手紙を書いた。(22)

 妻のドロシーが、ピサの規律訓練センターにパウンドを訪ねて以後は、弁護の方策が、ドロシーやエリオット、ニュー・ディレクションズ社のジェイムズ・ローリンら友人たちの間で相談されるようになった。パウンドも、妻ドロシーの父親が設立したロンドンの弁護士事務所であるシェイクスピア・アンド・パーキン事務所弁護士のアーサー・ムーアに連絡をとった。彼は、パウンド夫妻の顧問弁護士を務めていた。ムーアは、最良の弁護士を探すべきであり、法廷では自分自身で弁論してはならないと助言した。

 最終的に、弁護士として、ジェイムズ・ローリンが推薦したジュリエン・コーネルが選ばれた。コーネルは三五歳と若かったが、良心的兵役忌避者や公民権関係の裁判の弁護で名前を知られていた。コーネルは起訴状を読み、有罪になりにくいだろうが、世論が問題であるとの意見をローリンに伝えていた。

 ワシントンに連行されて拘置所で一夜を明かした翌日、パウンドは予備審査で、弁護は自分で行いたいと表明したが、判事は、問われている罪状が重すぎるとした。

 翌日一一月二〇日の朝、コーネルがパウンドを訪ねると、パウンドは、彼の質問には答えようとせず、孔子やジェファーソンの思想について語った。コーネルは、パウンドについてローリンに「彼の話は全く合理的だが、精神は動揺している」と報告した。パウンドは、自分の経済思想の健全さを訴え、それが政府高官に理解される可能性があると考えていた。また、イタリアや日本に関する自分の知識が、トルーマン大統領にとって大変有用なものであると言った。コーネルは、パウンドがそのようなことを言うのは、「精神が、まだかなり混迷している」ためであると感じた。(23)

 コーネルは、パウンドが正常な精神状態にないと主張して弁護する方針を固めつつあった。しかし、ジェノアでパウンドを診察した三人の精神科医は、彼が精神異常を来たしていると診断していなかった。また、パウンドにインタビューした新聞記者も、記事で、彼は精神異常ではないとしていた。

 司法省は、新たに集めた証拠によって、パウンドの再起訴を準備していた。新たな起訴では、イタリア王国から宣伝放送の職を受け入れたこと、イタリア王国の相談相手になって援助したことなどによって有罪であるとしていた。これらの行為は、アメリカの国民と住民に対して、戦争状態にあるアメリカ合衆国への協力を拒否するよう呼びかけるものであり、アメリカ政府への信頼を弱め破壊しようとしたものである、としていた。(24)

 一一月二三日、連邦起訴陪審が行われ、起訴が認められた。陪審が行われている間、パウンドは控え室に留め置かれたていた。一一月二五日、パウンドは閉所恐怖症の発作に見舞われ、治療を受けた。その翌日、起訴陪審での起訴は地方裁判所に移管され、公判の開始は翌日二七日の午後からと予定された。

 公判の日の朝、コーネルはパウンドを訪ね、初め一時間ほどパウンドが自作の詩を読むのを聞いたりしたあと、公判の予定を告げ、弁護の方針について急ぎ説明した。初めに罪状の認否を行わなければならないが、無罪を主張するよりも黙秘した方が賢明であるとコーネルは告げた。そして、黙秘した場合と無罪を主張した場合、それぞれの応じ方が今後の裁判の予想される展開にどう関係してくるかを説明した。そして、コーネルは、パウンドがどちらを選ぶかを聞いた。コーネルによると、パウンドは答えることができず、気分が悪くなったと訴え、診療所に戻ることができないかと聞いた。急に重大な決定を迫られて、パウンドは動揺したようだった。その午後の裁判にはパウンドも出廷したが、コーネルは、被告は自ら抗弁できる状態にはないとし、パウンドは黙秘した。

 続いて、コーネルが裁判長に裁定申請を提出し、その主旨を説明した。コーネルは、パウンドが精神異常に陥っていること、肉体的に極限まで疲労していること、そのために医療を必要としており裁判には耐え得ないと述べ、さらに口供書では、パウンドが逮捕によって精神的衰弱と記憶の喪失を来したこと、その後、健康は部分的に回復したが、なお精神障害を来していると思われ、このまま拘禁されれば回復が望めなくなると考えられること、裁判に耐えられないだけでなく、この時代の文学的天才の一人が永遠に失墜してしまうだろう、と訴えた。これらの理由を挙げて、コーネルは、パウンドを精神病院かサナトリウムに収容することを求めた。

 コーネルは、反逆罪が成立しないことを立証することは避けたいと判断したようであった。検察側は医学的な検査には反対しないと表明し、裁判長は、パウンドが精神科医の診察を受けることと、その結論が出るまでは保釈の決定はしないことを命じた。

 一二月四日、パウンドは拘置所からゴーリンガー地域病院の精神科病棟へ移された。身体的な検査では何も異常がないと診断され、精神科の診察はジョンズ・ホプキンス大学助教授のウェンデル・マンシーによって行われた。検察側の精神科医としては、刑務所医師部長のマリオン・キング(精神科を専門としない一般医師)、ゴーリンガー病院精神科医のジョセフ・L・ギルバート、そしてセント・エリザベス病院院長のウィンフレッド・オーバーホルサーが診察した。 パウンドを診察した四人の医師の見解は、「精神的に裁判に適しない」で一致した。これは異例のことであった。普通、裁判では検察側の医師は「異常がない」と診断し、弁護側の医師は「異常がある」という診断を下し、それぞれの主張を裁判官が勘案して判断が下される。コーネルは、この場合もこうした展開がされるものと見ていたが、検察側も「異常がある」との診断をした。トーリーは、検察側の医師がこうした診断を下したことには、オーバーホルサーの意見が大きな影響を与えたとみている(25)。

 裁判は一二月一四日に再開され、一二月二一日に開かれた第二回目の裁判では、四人の医師の見解が「精神異常」で一致したため、その日の午後、パウンドはセント・エリザベス病院に移された。セント・エリザベス病院は、ワシントンの南西部、アナコスチア川とポトマック川の合流地点近くの台地の上の広い敷地に建てられた大学キャンパスのような雰囲気を持った国立の精神病院である。一八五五年に開設され、海軍と陸軍の関係者や、ワシントン地域住民のための精神病治療施設として機能する一方、一八九一年には犯罪関係の精神病患者の専用病棟も併設された。六五〇〇人から七〇〇〇人の患者を収容し、アメリカの公立精神病院の中では第一位にランクされ、世界的にも際だった施設の一つであった。(26)

 パウンドが収容されたのは、犯罪関係の精神病患者専用病棟、ハワード・ホールであった。病棟には、恐怖を抱かせるような患者が多く収容されており、パウンドは、彼らから隔離された一人用の部屋に収容された。病院の医師たちが、彼を診察して注目したのは「優れたマナー」「自己中心的性格」「自己の誤謬絶無を信じようとする傾向」、そして「自分の貨幣、経済に関する思想については、診察に当たっている医師も含めて、だれも理解できないので議論しても仕方がないと感じている」ことであった。(27)

 診察した医師のすべてが、パウンドには分裂症的な異常はないと診断した。彼らの見解は、オーヴァーホルサー院長が法廷で述べた見解とは異なっていた。彼らは自分たちの診断結果を院長に告げたが、彼は「現在の実際的な状況を混乱させる必要はない」と返答した。しかし、彼は公聴会の前にもう一度診察することを約束した。彼が、再び診察した時、パウンドは、六カ国もに影響力やコネクションを持っていると言い、囚人としてでなく国務省のアドヴァイザーとして米国に連れ戻されるべきであったと信じていることなどを話した。こうした話の内容から、オーバーホルサー院長は、パウンドには妄想が認められるとした。また、別の医師は、パウンドには同性愛的傾向があるとし、さらにうつ状態に陥っていると診断した。こうした医師の診断とはかかわりなく、パウンド自身は、自分が精神的に病んでおり、生気を失い始めていると感じ始めていた。(28)

 パウンドがセントエリザベス病院に収容されてしばらくのちの一九四六年一月三日、ドイツから宣伝放送を行ったイギリス人ウィリアム・ジョイスが処刑され、続いて同じようにベルリンから放送したもう一人のイギリス人ジョン・アメリーが処刑された。アメリーはイギリスの元インド担当外相の息子であった。『ワシントン・ポスト』は、社説でパウンドと彼らのケースを比較し、パウンドのケースが処刑に価するかどうかは疑問であるとしたが、他の新聞は、パウンドとジョイスを同じ範疇で論じた。ニューヨークの市民グループは、トルーマン大統領に手紙を送り、「彼は虐殺の犯人たちに加担した」とし、処刑されたイギリス人たちと同じように扱うことを求めた。(29)

 そうした中で、陪審公聴会が開かれたのは二月一三日である。弁護側の精神科医ウェンデル・マンシーは、パウンドの妄想あるいは妄想に近い症状として、パウンドが合衆国憲法を救おうとしていたこと、孔子の本が世界平和の鍵になると考えていたこと、日本などいろいろな国の知識人と一緒になって世界に秩序をもたらしうると考えていたこと、米国への連行は国務省の仕事を補助するためであると考えていたのに裏切られたと考えていること、その裏切りがイギリスの情報機関の使者によって行われていると考えていること、などをあげた。また、孔子の翻訳を成し遂げ、さらに日本へ行って、その国の詩人たちと共に世界秩序のために働くことができていれば枢軸の形成を阻止することができた、と彼が考えているのは誇大妄想の現れであると述べた。(30)

 検事が、「特異な性格は、精神異常であることになるのか」と質問したのに対して、マンシー医師は、「そうではない」と答えた。パウンドの記憶の状態については、マンシーは、ピサの規律訓練センターに収容されていた時の一時期については欠落が認められるが、そのほかの時期については異常がないと答えた。また、検事はパウンドが孔子の翻訳を通して世界平和を達成できると考えたり、枢軸の形成を防げると考えていたことは精神異常の現れなのかと聞いたのに対して、マンシー医師は、「彼は、状況の現実からどんどん遠ざかっているように見える。そのこと自体が精神異常を示すものかどうかについては、そうではないと答えざるをえない。精神異常と呼ばれることなく、変わった考え方を持つことができる」と述べた。さらに、検事が、パウンドの妄想は、ヨーロッパの指導者たちが世界征服ができる思想を持っていたと妄想していたことと同じかと聞いた時、マンシーは、「そうかもしれないが、調べてはいない」と答えた。(31)

 オバーホルサー院長は、パウンドの状態を述べ、裁判でその状態が悪化する可能性があると指摘した。また、彼は、診察した医師たちの間に見解の不一致がある点については、「典型的ではない彼の病状に関しては議論があったが、正式の診断はまだ付いていない」とした。(32)

 最後に、裁判長は、医師の一致した見解を強調したまとめを行い、陪審員たちは相談のために退席した。数分後に席に戻った陪審員たちは、全員一致でパウンドは異常であると判断した、と報告した。これによって、パウンドは精神病院に収容されることが確定した。

 裁判で法的な結論には行きついたが、パウンドが精神異常に陥っていたのかどうかについては、その後も議論が続いている。フローリーは、『アメリカ人、エズラ・パウンド』(33)で、パウンドは、ムッソリーニとファシズムに傾倒しながら、ムッソリーニが戦争を始めたという苦悩にさいなまれ、精神異常に陥ったとする見方を示している。また、精神科医であるトーリーは、『反逆のルーツ』(34)で、パウンドの精神異常は、彼を助けようとした友人たちやセント・エリザベス病院のオーヴァーホルサー院長らによって作りあげられた「神話」であり、虚偽であったという見方を示している。

引用文献

1) Heymann, C. David: Ezra Pound: The Last Rower, A Political Profile, Carol Publishing Group,1992(First published 1976), p.158.
2) Carpenter, Humphrey: A Serious Character--The Life of Ezra Pound, Houghton Mifflin Company, 1988. p.658.
3) エズラ・パウンド詩集(新倉俊一訳)、角川書店、一九七六年。p.228.
4) ibid.
5) ibid.,p.229.
6) ibid.
7) ibid.
8) ibid.
9) ibid.,p.230.
10) Terrell, Carroll F.:A Companion to the Cantos of Ezra Pound, University of California Press, 1993.p.363.
11) The Cantos, Faber and Faber, 1986.p.440.
12) エズラ・パウンド詩集(新倉俊一訳)p.230.
13) ibid.,p.277, 411.
14) ibid., p.314, 413.
15) ibid., p.316.
16) ibid., p.317.
17) Carpenter , op.cit., p.688.
18) Norman, Charles: Ezra Pound, Macmillan, 1960. p.412-414.
19) ibid., p.415.
20) Carpenter , op.cit., p.688.698-699, 743.
21) ibid., p.699.
22) Norman, op.cit., p.408; Cornell, Julien: The Trial of Ezra Pound, A Documented Account of the Treason Case by the Defendant's Lawyer, John Day, 1966. p.13-15.
23) Stock, Noel: The Life of Ezra Pound (An expanded edition), North Point Press, 1982. p.416.
24) Cornell , op.cit., p.145-148.
25) Torrey, E. Fuller, The Roots of Treason, Ezra Pound and the Secret of St. Elizabeth, Harcourt Brace Javanovich, 1984., p.187-191.
26) Carpenter , op.cit., p.725-726.
27) Torrey, op.cit., p.200-201.
28) ibid.,p.204.
29) ibid.,p.199.
30) ibid.,p.210-211; Cornell , op.cit., p.157-159.
31) Cornell , op.cit., p.163-168.
32) ibid.,p.189-191.
33) Flory, Wendy Stallard: The American Ezra Pound, Yale University Press, 1989.
34) Torrey, op.cit.

 この章では、パウンドの伝記的記述は、Stock, Noel : The Life of Ezra Pound (An expanded edition), North Point Press, 1982.、Carpenter, Humphrey : A Serious Character, The Life of Ezra Pound, Houghton Mifflin Company, 1988. を参考にした。


エズラ・パウンド関連サイト
http://www.lit.kobe-u.ac.jp/~hishika/pound.htm: Ezra Pound (神戸大学文学部・菱川英一氏による英文サイト。パウンドの晩年の肖像写真、主要文献リスト、年譜、関連サイトへのリンクなどが掲載されています。主要英米詩人についての情報を得るための同氏作成サイトにリンクしています。)


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