No.25 June, 2001
歴史の中のエズラ・パウンド 第25回
第2部 モダンエイジ
第13章 第二次世界大戦
(3分載の3、Section 4)
4
一九四三年四月、北アフリカで枢軸国軍は敗走し、五月一三日には北アフリカのドイツ・イタリア軍は降伏した。同じ五月には、連合軍のイタリアへ向けての侵攻も激化した。七月一〇日には、連合軍のシシリー侵攻が開始された。敗北が迫ってくる中で、七月二四日には、ムッソリーニが罷免され、逮捕された。(1)
その二日後に、エズラ・パウンドはアメリカで起訴された。ドイツからの宣伝放送に関与していた七人のアメリカ人と同時の起訴だった。司法長官のフランシス・ビドルは新聞発表を行い、「起訴は単に放送の内容だけによっているのではない。これらの人々は、アメリカの戦時に敵国に協力することを自発的に決めたことによっている」とした。(2)
パウンドは、自分が起訴されたことをBBC放送で知り、ビドル宛に手紙を出した。スイスの公使館経由で国務長官に渡されたこの手紙で、彼は、「ラジオを通じて話すこと自体は、それがどこで行われようとも、反逆罪にはなり得ないと考える。それは、話された内容、動機によると考える」と主張した。そして、ローマ放送を通じて話すに当たって、自分の良心やアメリカ国民としての義務に反することが要求されてはならないという条件が守られているとし、「この戦争に関して、私は戦争を次々と連続的に起こすシステムに対する抗議以外は述べていない」と書いた。さらに彼は「人間の義務は知識と共に増す。アメリカとイタリアの戦争は奇怪であり、起こってはならなかった。そして平和は平和でなく、次の戦争への前奏でしかない。だれかがこれらのことをとりあげなければならない。自分の知識が部分的であり、自分が判断の誤りを犯す可能性を認めながら」と書いた。(3)
連合軍がイタリア本土に上陸したのは九月三日であった。この日、イタリア王国は、連合軍とシシリー島で休戦協定に調印し、八日に、それを公表した。多くのファシストがローマを去って北へ逃走した。スイスへ逃亡したファシスト幹部も多かった。パウンドは、この混乱のさなかローマにいた。友人は、まもなく戦争は終わるのでローマを去ることをやめるよう説得したが、パウンドは、一〇日に北へ向けて出発し、混乱の中を歩き、さらに列車と自動車を乗り継いでイタリアン・チロルにいる娘の家に到着した。そこで数週間過ごしたあとラパロへ帰った。
その間、九月一二日に、ドイツ軍は拘禁されていたムッソリーニをパラシュート部隊で救出し、一五日にはムッソリーニを傀儡として北イタリアにサロ共和国を設立した。
権力に復帰後、ムッソリーニは、最初の演説でサロ共和国の新しい基本的な方向の一つは、寄生的な金権政治を廃し、労働を経済の主体と国家の堅固な基盤とすることであると述べた。さらに、一九四三年一一月半ばには、共和ファシスト党の第一回会議をヴェロナで開催し、基本声明で、「何世紀にもわたるイギリスの策略的浸透をヨーロッパから追放し、国内の資本主義を廃絶し、世界の金権国家に対して闘うこと」を訴え、さらに、ユダヤ人を外国人とみなし、戦時は敵とみなすことも宣言した(4)。
この声明はナチス・ドイツの影響のもとに作成されたものとみられる。反ユダヤ主義の宣言が行われたのも、それを表している。ローマのファシスト政権は、反ユダヤ的な政策はとらなかったが、サロ共和国ではユダヤ人の収容が行われるようになった。一九四三年のクリスマスまでに、サロ共和国で一万人のユダヤ人が拘束されたと見られている(5)。
パウンドは、サロ政府の宣伝放送への協力も引き受けた。ミラノで行われていた放送は設備が十分でなく、またドイツ人が放送内容を検閲していたために、パウンドがローマ放送の時と同じように放送することは不可能であった。パウンドの強い意欲に対応して、放送局長はベルリンあるいはパリからの放送を提案したが、パウンドは拒んだ。パウンドはローマからの放送の時に知り合いになっていたドイツ人に頼み、一二月一〇日に放送を実現させた。しかし、続けて同じように放送することに放送局は難色を示し、翌年春からは原稿の執筆のみによる協力になった。これらの原稿が放送されたのかどうかは、パウンドも確認することができなかった。(6)
放送以外の面でも、パウンドは、サロのファシスト政権の宣伝活動に協力しようとした。特に新聞への寄稿を彼は求めた。一九四四年一月半ばには、新共和国の主要な新聞の一つ『イル・ポポロ・ディ・アレッサンドリア』に寄稿できるようになり、その後一年間にわたって、彼は同紙に四〇以上の記事を書いた。(7)
二月には、パウンドは、ラパロ周辺の著述家たちとの連名で、「時代の生気ある精神はファシスト精神によって浸透される」という書き出しの宣言をこの新聞に発表した(8)。ファシズムが先進性や普遍性を持つと訴えるこの宣言は、パウンドの主導によって書かれたのではないかと見られている。
また、三月には、彼はこの新聞に「ヘブライは人種ではなく病気である」 (9)
と書き、ユダヤ人によってこの病気にかかる度合いに違いがあるとし、アーリア人、アーリア混血人も、この病気にかかると述べた。
彼は反ユダヤ主義的主張を強くするようになっていたが、こうした言葉からは、彼の反ユダヤ主義におけるユダヤの概念は、人種的なものではなく文化的なものであったのではないかということが考えられる。その場合、彼がユダヤ的とするものは、たとえば「富や効率の追求」といった近世・近代になって正当性を得た価値観であったのではないかと考えられるが、それは普遍的な人間の一面であり、民族ではなく時代に裏づけを持った価値観であった。また、彼の反ユダヤ主義ヘの傾倒は、儒教への傾倒と平行しているようであるが、それは、ユダヤ的と彼が考える文化と儒教文化の二つを、彼が二項対立のような形でとらえていたことを示唆しているのかもしれない。
彼はファシズムの宣伝ポスターも何点か作った。孔子の言葉などをテーマにしたものであったが、これらのポスターが実際に使われたのかどうかはわかっていない。
また、彼は、サロ共和国の大衆文化省文化交流部長に働きかけてパンフレット出版も行った。彼自身が書いたパンフレット六冊がヴェニスの出版社で印刷された。『アメリカ、ルーズベルト、現在の戦争の原因』というタイトルの三二ページのイタリア語のパンフレットが発行されたのは一九四四年三月である。このパンフレットで、彼は、「この戦争はヒトラーとムッソリーニの気まぐれによって起こったのではない」「高利貸しと農民、高利貸し政治と日々の労働によって生きている人間の間の戦争である」と述べ、「国際的高利貸し」は国家に負債を負わせることによって自分たちの利益を得るため、そして自分たちの経済的独占への脅威と経済的正義への動きを断ち切るために戦争を起こしていると主張した。また、「高利貸し」は新聞と出版を操作して人々の経済的無知を維持しようとし、そうした策謀は大学でも行われ、教科書は「高利貸し」の支配を維持するために書かれていると述べた。そして、ムッソリーニは、ニューヨークの「高利貸し」とモスクワにいるその手先の関係に気づいたが、その瞬間に「国際的高利貸し」政治により排斥されたというような見方も示した。(10)
六月には、『アメリカ経済の本質についてのイントロダクション』、七月には『孔子の遺言』が刊行された。九月には『イル・メリディアノ・ディ・ローマ』に寄稿した政治経済関係の論評を主にまとめた『オリエンテーション』、一二月には『ジェファーソンと/あるいはムッソリーニ』を書き直してイタリア語にした『ジェファーソンとムッソリーニ』が印刷されたが、これらは発行されなかった。『オリエンテーション』が印刷されながら発行されなかったのは、ユダヤ人問題などに関して過激な記述が多くあったこの本を敗戦間近い時期に出版することを、出版社が適切ではないと判断したためではないかとみられている(11)。これらに続いて、一九四五年二月には孔子の『中庸』も刊行された。
パウンドの協力によって、一九四四年五月には、アーサー・キットソンの『産業不況』(一九〇五年、ロンドンで刊)と『銀行家の策謀』(一九三三年、ロンドンで刊)を二四ページに要約した『犯罪の歴史』というタイトルのパンフレットも刊行された。また、彼は能樂『景清』と『熊坂』の出版も働きかけた。(12)
パウンドは、捕虜の教育や国内の宣伝活動を目的として、アメリカやイギリスの本をイタリア語に翻訳することも、文化交流部長に提案した。彼が提案したのは、ウィンダム・ルイスの『神の国の猿たち』、ジョイスの『ユリシーズ』、スターリンの『レーニン主義の基礎』、ブルックス・アダムスの『文明の法則、退廃、新しい帝国』、アーサー・キットソンの『銀行家の策謀』、E・E・カミングスの『エイミス』、クリストファー・ホリスの『二つの国』、モントゴメリー・ブッチャートの『金』、ウィリス・オーバーホルサーの『アメリカ合衆国における通貨の歴史』、パウンド自身の『ジェファーソンと/あるいはムッソリーニ』などであった。こうした彼の提案は、戦時体制にある共和国の意図と一致しないことが多かった。(13)
一九四四年三月には、外交に関する重要な情報を伝えるためにムッソリーニに会いたいとして、パウンドは大衆文化相に仲介を要請した。さらに、彼は大衆文化相に中国研究も提案した。中国研究に関して、パウンドは、「イタリアを知るためにはローマ帝国が存在していたということを知らなければならない。日本文化は中国文化を基礎にしていた。ある時点から日本が引き継いでいく」とイタリアと日本の関係をあげて説得した。(14)
一九四四年五月になると、パウンド夫妻はラパロのアパートを退去させられた(15)。ドイツ軍が海岸地域の防備を固めるためであった。ラパロを退去させられたあと、夫妻は丘の上のサンタンブロジオにあるオルガ・ラッジの家に住まわせてもらった。ラッジとパウンドの間に生まれたメアリは、一九四三年終わり頃から、コルチナ・ダンペッツィオにに置かれていたドイツ軍の病院で看護婦として働いていた。
一九四四年の終わり頃になると、戦況は絶望的になり始めた。そうした状況の中で、パウンドはファシスト政権の失敗について考え、迫ってくる連合軍に対しては激しい憎悪を抱くようになっていた。彼はその気持ちを、「キャントウズ第七二篇、第七三篇」としてイタリア語で書いた。(16)
一九四五年四月初めには、『リデア・ソシャーレ』という雑誌に、彼の経済に関する寄稿が掲載された(17)。しかし、彼は経済的な解決に希望を見いだすことにはそれほどの熱意を示さなくなっていた。前年四月二〇日付けで『イル・ポポロ・ディ・アレッサンドリア』の編集長に宛てた手紙で、彼は、「初めの一五年間の研究では、貨幣経済は単純な問題だった。しかし二〇年がたって、それは複雑であることが分かってきた」と書いた(18)。敗戦を間近にした中で、彼は儒教の研究に打ち込むようになっていた。
一九四五年四月一八日、ムッソリーニはサロからミラノに移った。連合軍はボローニャに迫り、ロシア軍はベルリンに迫っていた。ムッソリーニが、ミラノでパルチザンに処刑されたのは四月二八日、そしてパウンドがアメリカ軍に拘束されたのは五月三日である。
(写真は、I Cantos, a cura di Mary de Rachewiltz, Arnold Mondadori Editore,
1985.)
引用文献
1) 第1回、プロローグ「敗北の日」参照
2) Carpenter, Humphrey: A Serious Character--The Life of Ezra Pound, Houghton
Mifflin Company, 1988. p.621-622.
3) Ibid.,p.623-625.
4) Griffin, Roger ed.: Fascism, Oxford University Press, 1995.p.86.; Redman,
Tim: Ezra Pound and Italian Fascism, Cambridge University Press, 1991.p.235-236.
5) Carpenter, op.cit., p.632.
6) Ibid., p.632-633.
7) Redman, op.cit., p.240.
8) Stock, Noel: The Life of Ezra Pound (An expanded edition), North Point
Press, 1982.p.403.
9) Redman, op.cit., p.243-244.
10) Ibid., p.245-247.
11) Stock, op.cit., p.240.
12) Redman, op.cit., p.252-254.
13) Ibid., p.248-250; 257-258.
14) Ibid.,p.250-251.
15) Carpenter, op.cit., p.635.
16) Redman, op.cit., p.263-264; 269.
17) Stock, op.cit., p.406.
18) Redman, op.cit., p.257.
この章では、パウンドの伝記的記述は、Redman, Tim: Ezra Pound and Italian
Fascism, Cambridge University Press, 1991により、ほかにStock, Noel : The
Life of Ezra Pound (An expanded edition), North Point Press, 1982.、Carpenter,
Humphrey : A Serious Character, The Life of Ezra Pound, Houghton Mifflin
Company, 1988. を参考にした。
<エズラ・パウンド関連サイト>
http://www.lit.kobe-u.ac.jp/~hishika/pound.htm:
Ezra Pound (神戸大学文学部・菱川英一氏による英文サイト。パウンドの晩年の肖像写真、主要文献リスト、年譜、関連サイトへのリンクなどが掲載されています。主要英米詩人についての情報を得るための同氏作成サイトにリンクしています。)
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