No.24 May, 2001
歴史の中のエズラ・パウンド 第24回
第2部 モダンエイジ
第13章 第二次世界大戦
(3分載の2、Section 2-3)
2
パウンドは、イタリアとアメリカが戦争するのと同様、日本とアメリカが戦争をするのもばかげたことであると考え、日米関係が緊張する中で、アメリカが譲歩しなければ戦争は回避できないという見方をしていた。そうした考え方は、日本やイタリアの立場を擁護するものであったが、それよりも彼は自分の母国が戦争に参加しないこと、また戦争が世界規模のものに拡大しないことを願っていたのであろう。
一九四一年三月二十五日付けの手紙で、彼は、北園克衛に通信社ユナイテッド・プレス宛に太平洋の平和に関する声明を送ったことを告げ、「我々は、グアムを貴国に譲り、その見返りとして『熊坂』と『景清』(能の二題)を得るべきである。三〇〇の能が適切に上演されて、トーキ付きのフイルムに記録されるべきであると思う。そうすれば、アメリカの学生に、文化というものを教えることができるだろう」(1)と書いた。
彼は、経済が歴史を大きく突き動かしていることを知りながらも、経済ではなく文化によって歴史は作られるべきであると主張していたのだとも言えるだろう。
六月頃になると、アメリカ向けの放送でルーズベルトを非難したのを理由として、アメリカにあるパウンドの銀行口座は凍結された。そして、六月二二日、ドイツの侵入によってソ連が参戦すると、北園との文通は途絶えた。戦争の拡大がアメリカの参戦にかかっていたことを認識していたパウンドは、アメリカの動静を注意深く見守っていたが、しだいにアメリカの情勢は把握できなくなっていった。(2)
一九四一年一二月七日、彼は、ローマ放送で孔子や通貨制度の改革、ユダヤ人問題などについて語り、ルーズベルトはユダヤ人の手中に握られていると述べたり、アメリカを救うにはファシズムはすぐには役立たず、通貨改革によるのが最もよいなどとする考え方などを述べた。日本軍が真珠湾を攻撃したのは、その日であった。放送が終わったあと、彼はアメリカの通信社の知り合いの記者に会いに行き、アメリカの参戦を知らされた。
パウンドの放送は中断された。ローマにいたアメリカ人は帰国の準備を急いでいた。彼も帰国しようとしたが、アメリカ大使館に拒否されたという話も伝わっている。しかし、彼は自分の意志で、イタリアにとどまったという見方が強い。しばらくして亡くなった八三歳の父ホーマーは、当時、病気でベッドに寝たまま動けない状態になっていた。八二歳の母親もいた。帰国するとすれば、彼らをイタリアに残していかなければならなかった。そして、オルガ・ラッジと娘のメアリーもいた。
そうした束縛によっても、彼はイタリアにとどまる決意をしたのかもしれない。しかし、同時に、祖国とイタリアが戦争を始めた中で、彼はイタリアの側に立つ決意をしたのかもしれなかった。すでに六月に、彼のアメリカの銀行口座は凍結されており、彼はアメリカの政権と敵対関係に陥っていた。また、一つの国家の国民であることを超えた意識を持っていた彼にとって、アメリカへの帰国は、どうしてもなさなければならないことではなかったのかもしれない。
イタリアにとどまるとすれば、放送を続けて、その報酬によって生計を立てて行くしか道はなかった。その放送によって、反逆罪に問われるかもしれないことを、彼は認識していた。
迷いながらも、彼は放送を続ける決意を固めていった。一二月九日にはローマ放送の友人に宛てて、「アメリカの陸軍・海軍の行動やアメリカ軍・アメリカ国民の福祉に偏見を抱かせることを言わないかぎりにおいては、自分の名前を使って放送を続けていけない理由は見当たらない」「議会(と上院)、アメリカの立法の権威が、ある種のテーマ、あるいは外国の放送を言論の方法として利用することを禁止する法律を成立させないかぎり、私には言論の権利があると信じる」と書いた(3)。さらに一二月一二日には、同じ友人に宛てて、「この戦争は物量戦になる。宣伝のみが、この戦争を十年戦争になることを阻止することができる」と書き、彼は宣伝放送に積極的な意味を見いだそうとするようにもなっていた。また、別のイタリア人に宛てた十二月十六日付けの手紙では、彼は、中国の研究に打ち込む決意を告げた。(4)
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パウンドの放送は、一九四二年一月二九日に再開された。再開された最初の放送(5)で、彼は初めに、「真珠湾の日の正午に、私は古代の人たちの知恵を求めて古代ローマ帝国の首都を去り、ラパロへ引きこもった」と放送の中断について語った。彼が古代人と言っているのは孔子と孟子である。
彼は、放送の再開が、自分を危険に陥れるかもしれないことは十分に認識していた。「物事を安全にやり過ごしたいと思えば」、ラパロに置いている孔子や孟子の本とモリソンの六巻から成る中国語の辞書をもとに研究に打ち込むことができるが、「状況」が迫ってきた、と彼は語った。その状況とは「大変重い責任をになう地位にふさわしいとは思えない精神状態にある大統領の犯罪的行為によって、アメリカが、不法に何カ月間も戦争に参加してきた」ことであると言い、大統領は「選挙民との約束を破り」、「合衆国憲法への忠誠を犯し」てきたのであるから、アメリカが枢軸国と戦争状態になることは、単に何日の何時になるかという問題であったのであり、意外ではなかったとの認識を示した。
問題を明確にするのに一カ月を要した、と彼は語った。そして「孔子も孟子も同じような問題に直面し、帝国が崩壊するのを見た。二人ともだれよりも深く、人間の混乱の原因について洞察した」といい、孟子の「真の賢人は休止を求めない」という言葉に従ったのであると述べた。「静かな人々と直覚力のある人々の間のコミュニケーションが完全に遮断されてはならないということが、私にはわかり始めた」。
放送を再開を決意した経緯をこのように語ったあと、彼は、ナポレオン戦争によってヨーロッパ大陸から遮断され、その後も追いつくことはできなかったためにイギリスの思想は貧困であるとし、アメリカも間違った情報を与えられている、と主張した。そして、この戦争を起こした者が狙っているのは金本位制、高利貸し、独占であると語った。
彼は、「ありそうになかったことだが、だれかが何らかの公的な権限を託して私を日本に派遣していれば、私は日本との戦争を回避させることができたと個人的に信じている」という自負も語った。こうした言葉には誇大妄想の傾向を感じとることもできるだろうが、彼はおそらく願望を誇張して述べたのだろう。
「日本は一つの過去を持っている。もちろん、いま彼らと語り合えば、彼らは自分たちが現在も持っていると言うことを思い起こさせようとするだろう」。それに続けて、彼は、「彼らは将来については語らなかった」と言い、日本が展望を失っていることを暗示した。日本について、彼は、自分の認識は「トランクいっぱいに詰められたアーネスト・フェノロサのノートから学んだものを一部として構成されている」といい、「熊坂、景清、という題の劇を読んだことのある者ならばだれでも、タイムやアメリカの新聞に書かれているようなたわごとや、数日前の夜、BBCで聞いたような腐敗した低能さは避けられただろう」と語った。
彼の記憶しているところによれば、「一月八日頃、BBCの解説者は、ミュージックホールの聴衆を相手にしてのつもりだろう、日本はジャッカルであり、つい最近、数十年前に、野蛮な状態から抜け出してきたばかりだといった。このような腐敗した無知によって、どのような愛国的目的がとげられると、あなた方は、彼は、イギリスの当局者は考えているのか、私にはわからない」。
「日本の侍、北斎についてのホイッスラーの評の一瞥と葵の上、熊坂、錦木、船弁慶への親しみ。これらの日本の古典劇は、だれもに日本の文化の水準が、孔雀以上のものであることを確信させるだろう。フェノロサが言っているように、中国が自国の文化を保持できなくなったときに、それを保存したのも日本人だった」。そして彼は、「ボストンの文化人は、BBCの放送は俗っぽいロンドンのことだと馬鹿にしてはいられない。ボストンでも同じようなことが起こりうる」と警告した。
こうした発言からも、彼は、国家間の対立を現実的な政治経済的問題としてではなく、文化の面からとらえようとしていたのではないかということがうかがえる。
一月二九日に再開されたこの放送以後、パウンドがマイクに向かって話す前に、「(この放送は)知的自由と意見表明の自由を保障するというファシストの政策(に従ってパウンドにマイクの使用を提供し、彼は良心とアメリカ国民としての義務に反したことを言明することは求められていない)」という前置きが付けられるようになった。この前置きは、パウンドの放送が敵対行為ではないということを主張する意味を持っていた。
放送は、ほぼ週二回の頻度で行われた。アメリカ政府の連邦通信委員会は、この放送を受信して録音した。これを書き起こした記録も残されているが、短波放送であったために、聞き取りにくかったためなどもあって正確ではなかった。一九七八年になって、パウンドが書いた原稿を元にした放送の記録がレオナード・W・ドューブによって編集され、『エズラ・パウンド・スピーキング』(6)として刊行された。この本には一二〇の放送原稿が収められ、第二次世界大戦時のパウンドの思想を知るうえでの重要な資料になっている。
この放送で、パウンドは、多彩なテーマについて語った。一月二九日に、彼は、アメリカと日本の戦争が「三〇年戦争」になるのではないかと語り、二月三日の放送でも「三〇年戦争」という言葉を使った。彼は、そうした「三〇年戦争」に巻き込まれたのは、アメリカの精神が堕落したためだという認識を示し、一八六三年(奴隷解放布告、リンカーンのゲティスバーグ演説、国立銀行法制定の年)以来、「過去八〇年にわたって、アメリカは経済的、政治的梅毒に侵されてきた」(7)と南北戦争後のアメリカの発展の意義を否定した。
放送で、彼は『キャントウズ』(一九四二年二月一二日)を朗読し、ジョイス、カミングス、ルイス、エリオットら文学仲間についても語り、一九四二年四月二三日には、パリ時代に自分が教えた劇作家・詩人でルーズベルト政権の広報・文化担当の国務次官補の職に就いたアーチボルド・マクリーシュをテーマにし、「彼は犯罪的ギャングを防衛することを託され、しかも懸命にやっている」(8)と皮肉った。
ウィリアム・カーロス・ウィリアムズの妻フローレンスは、ある日銀行を訪れたときに、行員から、夫とパウンドは知り合いかと聞かれて驚いた。その行員は、パウンドの放送を聞き、ウィリアムズの名前を耳にしていた。しばらくすると、FBIの係官がウィリアムズの家を訪れ、音声がパウンドのものであるかどうかを確認することなどで協力を求めに来た。ウィリアムズは困惑した。(9)
(写真は、Pound, Ezra: Impact, essays on ignorance and the decline of
American civilization, Edited with an Introduction by Noel Stock, Henry
Regnery Company, 1960).
引用文献
1) Redman, Tim: Ezra Pound and Italian Fascism, Cambridge University Press,
1991. p.210.
2) ibid., p.213.
3) ibid., p.213-214.
4) ibid., p.214-215.
5) Pound, Ezra: Ezra Pound Speaking: Radio Speeches of World War II(Ed.
by Leonard W. Doob), Greenwood Press, 1978.p.23-27.
6) ibid.
7) ibid., p.29.
8) ibid., p.104.
9) Williams, William Carlos: The Autobiography of William Carlos Williams,
New Directions, 1967. p.316-318.
この章では、パウンドの伝記的記述は、Redman, Tim: Ezra Pound and Italian
Fascism, Cambridge University Press, 1991により、ほかにStock, Noel : The
Life of Ezra Pound (An expanded edition), North Point Press, 1982.、Carpenter,
Humphrey : A Serious Character, The Life of Ezra Pound, Houghton Mifflin
Company, 1988. を参考にした。
<エズラ・パウンド関連サイト>
http://www.lit.kobe-u.ac.jp/~hishika/pound.htm:
Ezra Pound (神戸大学文学部・菱川英一氏による英文サイト。パウンドの晩年の肖像写真、主要文献リスト、年譜、関連サイトへのリンクなどが掲載されています。主要英米詩人についての情報を得るための同氏作成サイトにリンクしています。)
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