No.23 April, 2001
歴史の中のエズラ・パウンド 第23回
第2部 モダンエイジ
第13章 第二次世界大戦
(3分載の1、Section 1)
1
一九三九年九月一日、ドイツ軍はポーランド領内に侵入した。ポーランドから援助を求められたイギリス、フランス両国がドイツに対して宣戦した九月三日の数日後、パウンドは友人のオドン・ポアからアメリカ向けの宣伝の仕事をしてはどうかという手紙を受け取った。パウンドは、「ヒトラーの宣伝ではなく、イタリアの宣伝であれば」と返答した。彼は、ヒトラーの危険性を知っていたに違いないが、アメリカ、イギリス、フランスの経済行動などに問題があるから、ヒトラーが暴挙を働くのだという見方もしていたとみられている。(1)
九月一一日には、パウンドは、ポアにパンフレットの原稿二編の原稿を送った。イギリス向けの原稿は穏健なトーンで書かれていたが、アメリカ向けの原稿では激しくイギリスを非難し、アメリカがこの戦争に加担してはならないと主張していた。
(2)
政治宣伝の仕事をするのと同時に、彼はアメリカの議員や友人たちに、アメリカの参戦を阻止しなければならないと訴える手紙を書いた。パウンドは、戦争が拡大することだけでなく、イタリアとドイツが敗戦し、ファシズムの試みが挫折することも恐れていた。戦争が小規模にとどまり、ファシズムが存続していくためには、アメリカが参戦してはならないと考えていた。こうした自分の考えを実現させるために、パウンドは、ティンカムら共和党内の孤立主義者の活動に期待した。
ティンカムやH・L・メンケンから、ルーズベルトは必ず参戦するだろうとの見方を伝えられて(3)、戦争の拡大が避けがたいことを予感していた彼は、それを自分の力で阻止しようとしていた。また、彼は、イギリスの友人たちには、国防のためには農業が重要であり、できるだけ多くの耕地を確保すべきであるという手紙を書いた(4)。
イタリアもアメリカも、まだ戦争の外にいたが、両国共が、やがて参戦することは避けがたい情勢になりつつあった。そうした中で、彼は、翌年春にアメリカへ帰国することも考えていた。メンケンやティンカム宛ての手紙ではアメリカでの職を求めているという意志表示もした。(5)
こうした情勢の中で、彼は『キャントウズ』の第五二篇から第七一篇までの原稿を仕上げ、九月にロンドンのフェイバー・アンド・フェイバーへ送った。二〇篇のうち一〇編は中国、あとの一〇篇はジョン・アダムズとアメリカの歴史を題材にし、これらの中にヨーロッパの情勢や日本の歴史などを散りばめた。金融資本家、スターリン、イタリアのアビシニア侵略に対する国際制裁、教会などへの怒りを表明した詩から始まり、中国の静かな世界に入っていく。そして中国の五〇〇〇年の歴史を概観し、諸王朝の興亡を見て、アメリカ革命へと移っていく。(6)
この詩の中国史に関する部分を、彼はジョセフ・ド・マイヤの一八世紀の著作『支那通史』を元にして書いた。中国史を思想史の面からもとらえようとする彼にとって、役に立つ資料としては、このフランス語の本しかなかったのだろう。
ド・マイヤは、ルイ一四世によって、文化研究のために康煕帝時代の中国に派遣され、学僧になったイエズス会士である。『支那通史』は、康煕帝の時代に中国の学者数人が協力して完成させた史書『通鑑綱目』を、ド・マイヤがフランス語に翻訳したものである。訳稿は一七三七年にフランスに送られ、同年から一七八三年にかけて一三巻から成る書物として刊行された。(7)
正史の抄録であると同時に、道徳書としての性格も持つこの本は、中国の思想、道徳に強い関心を持つパウンドの目的にかなうものであった。
後半の「アダムズ・キャントウズ」とも呼ばれている一連の詩については、パウンドは、前年一〇月二八日付けの北園克衛への手紙で、「アメリカ建国者たちはアメリカの王室のようなものである。その没落は、アメリカの正統な文明の終焉を意味している。いま、アメリカ政府の中には巨大な伝染性の病がはびこっている。その現在の歴史も含めて、アメリカの歴史を書きたかった」と伝えた(8)。
これらの『キャントウズ』で、彼は、経済に関しては考察しつくしたと考え、哲学や宗教の問題に関心を移そうとしていた。
宗教に関して、彼は、ヨーロッパはユダヤ教の影響を脱した純粋なヨーロッパ的な宗教を必要としているという考え方をとり始めていた。こうした彼の宗教思想は、彼がドイツ的な考え方をとり、反ユダヤ的な傾向を強めていたことを反映していたともみられるが、根底には、神智学や新プラトン主義あるいは汎神論への傾倒があったのだろう。
九月初めのポア宛の手紙では、彼は、ユダヤ人問題に関して、ポーランドの一部をヒトラーからユダヤ人が買い取るようにすべきであるとの考えを表明し、さらにルーマニア、ロシア、ポーランドがシオニスト国家建設のための土地を提供すべきであると書いた。また彼は、政治を支配している国際金融資本の主要な構成者はユダヤ人であり、彼らに対する反感のために貧しいユダヤ人が犠牲になっているのはやむを得ない、という考え方をとっていた。そして、ユダヤ人が国を持っていないことに大きな問題があり、彼らに土地を持たせることが重要であると考えていた。ティム・レッドマンは、ユダヤ人問題に対するパウンドのこの考え方を「反ユダヤ主義的シオニズム」であるとしている。(9)
一二月、彼はアメリカ人哲学者、ジョージ・サンタヤナに会った。サンタヤナは、一八六三年にスペインのマドリッドで、スペイン人の父とアメリカ人の母のもとに生まれた。幼少時にアメリカへ移り住み、ボストンで教育を受けて、ハーヴァード大学に入学し、やがて同大学の哲学教授になった。T・S・エリオットがハーヴァードで学んでいた頃、サンタヤナは有名な教授の一人であり、エリオットは一時彼に傾倒した。サンタヤナもヘンリー・ジェイムズやエリオット、パウンドと同じように、アメリカになじもうとしないアメリカ人の一人だった。彼は、ハーヴァードの教授を二一年間務めたあと、一九一二年にイギリスへ移住した。そして一九二四年になるとローマに移住した。彼は純粋な哲学者ではなく、小説や詩を書く文芸批評家でもあった。(10)
パウンドは、一九三〇年頃から、サンタヤナの助手ダニエル・コリーと知り合いになり、一九三七年に、彼を通じてサンタヤナに会いたいという気持ちを伝えたが、サンタヤナは著作に没頭しており実現しなかった。一九三九年の一月に初めて会うことができたが、短時間の面会で終わっていた。一一月末になってやっと、サンタヤナは、執筆が終わったのでラパロかどこかで会うことができると伝えてきた。
信仰と哲学の問題を『キャントウズ』の新しいテーマにしたいと考えていたパウンドは、サンタヤナに会えることを喜んだ。一二月の下旬に二人はヴェニスで会った。
サンタヤナに、パウンドはフェノロサのイデオグラム法の考えを伝えようとしたが、サンタヤナは関心を示さなかったという。その後、パウンドはエリオットと相談して、エリオット、サンタヤナ、彼の三人が共著で「理想的大学、あるいは適切なカリキュラム」に関する本を書くことも提案したが、これも実現しなかった。
一九四〇年一月、巻頭に大きく「耀」(かがやく)という漢字が掲げた『キャントウズ:第五二篇ー第七一篇』がフェイバー・アンド・フェイバーから刊行され、アメリカでも、その年の九月にニュー・ディレクションズから出版された。
巻頭に彼が掲げた「耀」は、フェノロサが「日本と中国の詩」をテーマにした講演で、スライドを使って見せることを好んだ漢字だった。フェノロサは、この漢字を、菅原道真自撰の『菅家文章』についての森槐南の講義で学んだ。『菅家文章』の最初の詩「月夜見梅花」の一行目「月耀如晴雲」の中の「耀」の字を、彼は小鳥の羽根の集まりから発する光と解釈し、光芒を発する漢字の例としてとらえていた。(11)
詩の一語一語、一行一行、一連一連、一篇一篇が羽毛のような輝きを持ち、それらが全体となって光芒を発するような構造を持った詩を書こうとするのがイデオグラム法であったとするなら、「耀」の字はその技法を象徴していた。
一九四〇年二月に、パウンドはアメリカ政治・社会科学会の会員になった。そして、その学会員に向けて、「貴殿方は、現在の戦争におけるアメリカの責任を考えているのだろうか」と問いかけたメモを、同学会の年報の編集者に送り掲載を要請した。彼が、このメモで、イギリスのドイツに対する宣戦の背景には、アメリカのイギリスに対する激励があり、アメリカのそのような態度が戦争を拡大させているということを訴えようとしていた。
二月下旬には、彼は、ローマのアメリカ大使に宛てて、自分の主要な関心事は、ヨーロッパで最も優れた人間を含み持っているイギリス国民が、戦争に反対しているのにもかかわらず、それを表明し得ていないことだと訴える手紙を書いた。
(12)
イギリス国民が救われるには、アメリカが参戦してイギリスを助けるよりほかなく、そのようにして戦争が拡大していくことを、彼は心配していた。
三月には、パウンドは北園克衛から、『ジャパン・タイムズ』の通信員になることが受け入れられたという連絡を受けた。彼は、すでにイタリアの新聞『イル・メリディアーノ・ディ・ローマ』に政治経済的な問題に関しての論評を度々寄稿し、ファシズムとダグラスの社会信用論の関係を考察したりしていた。そうした寄稿の一つで、彼は、秩序正しく行動する習慣や慣習は文化的遺産であるとし、通貨システムは市民システムの共同作業の象徴であるという考えを述べた。そして、ファシズムの象徴はファッス、すなわち束であり、個を超越するこの束に対してはだれもが権利を持ち、どの市民もが形成に参加する社会的資産や国家の経済的繁栄からは、だれもが施し物、慈善ではない分配にあずかる権利を持つ、という考え方を述べた。(13)
一九四〇年四月になると、ドイツによってデンマークとノルウェーが制圧され、五月から六月にかけてはフランスが降伏し、六月一〇日にはイタリアが参戦した。
夏になると、アメリカの小切手を現金化することも不可能になり、父ホーマーが受け取っていたアメリカからの年金の到着が途絶え始めた。イギリスからのパウンドへの印税も届かなくなった。また、イギリスからの妻ドロシー宛ての利息などの送金も途絶えた。妻ドロシーと自分の両親、それに愛人のオルガと娘のメアリーの生活に責任を持たねばならなかったパウンドは、経済的困窮に陥った。(14)
パウンドは、ポアを通じて仕事を得ようと努める一方で、家族と共にアメリカへ帰ることも考えた。ブゼスカの彫刻やドルメッチュのクラビコード、書籍などは友人のデグリ・ウベルティの家に預けたが、書籍を預かったウベルティ家の息子リキャルドは、「アメリカが参戦しても、あなたがイタリアで危険な目に会うことはない。むしろ、帰国の途中でイギリスに拘束される危険性がある」といってパウンドに帰国を思いとどまらせようとしたという。(15)
イタリアのアメリカ領事館は、すでに前年九月にアメリカ人に対し、できるだけ早く帰国するようにと勧告し、一九四〇年春にはこの勧告を強化していた。旅費のない者にはローンの便宜を図り、帰国のための船も派遣した。しかし、実際には安全な航海ができる船の切符を得ることは容易ではなく費用も高額だった。パウンドは、乗船の予約はしたが、一二月一五日の便しか予約できなかった。一〇月二九日に北園に宛てて書いた手紙では、「嫌がらせをするためにアメリカへ行くことを考えたが、一二月一五日まで、船は郵便物しか輸送しないことになっており、ここに留まらざるを得ない」と書いている。(16)
彼は、『ジャパンタイムズ』『ジャパンタイムズ・ウィークリー』『イル・メリディアーノ・ディ・ローマ』に頻繁に記事を書くようになっていた。ストックが日本のパウンド研究者、児玉実英の協力によって得た資料をもとに書いているところによると、七月に『ジャパンタイムズ』に載った寄稿で、パウンドは、ヒトラーの戦争目的が基本的には正当であり、チャーチルはロスチャイルドの店番に過ぎないとしているという。
さらに、八月に『ジャパンタイムズ』に掲載された寄稿では、彼は「現在のヨーロッパでは、民主主義国家はユダヤ人によって支配される国家であると定義される」と書いた。ストックは、こうした論調から、パウンドのナチズムへの接近がうかがえるとしている。
パウンドは、「ユダヤ人とこの戦争」という題を付けた『イル・メリディアーノ・ディ・ローマ』への寄稿では、ヨーロッパで広く読まれ、ナチスの世論操作にも使われた反ユダヤ的な出版物『シオンの議定書』に多くを基づいて書いた。
(17)
彼は、『イル・メリディアーノ・ディ・ローマ』に加えて、イタリアの他の新聞にも寄稿するようになっていた。経済的な困窮がこれらの新聞への寄稿を促進したのだろうと見られている。
一一月一九日付けポア宛ての手紙では、彼は「これまでと同じ収入を得たいと思っているのではない。つつましい生活のための費用が必要なのだ」と書いた。ポアはパウンドから借りていたお金の一部を返したが、それでは足りず、パウンドは自分自身でも仕事を見つけようとし、大衆文化相でファシスト宣伝委員長のアレッサンドロ・パヴォリーニに会おうとした。パウンドは宣伝の仕事をする決意を固めていたのだろう。一二月二日付けで外務省の知り合いに宛てた手紙では、アメリカ、ヨーロッパの新聞の切り抜き作業ができないかと求職の相談をした。(18)
一九四一年になると、知り合いのイタリア人でイギリス向けの宣伝活動をしていたカミロ・ペリツィに宛てて、「アメリカ人のために、メガフォンで叫びたい」と訴えた。ペリツィはパウンドをイタリアの海外向け放送局に紹介した。(19)
レオナード・ドゥーブによると、パウンドは一九四〇年から宣伝放送用の原稿を書き始め、一九四一年一月からは宣伝放送の録音を始めた(20)。宣伝省から正式に要請を受けたのは、一月一八日であるという。北アメリカとイギリス向けに放送し、報酬を受け取った。ローマに一週間ほど滞在して、一度に何回分かをまとめて録音していたようだという。アメリカ向けの放送は週二回以上、ニューヨーク時間の夜十時に放送された。テーマによっては、イギリス、オーストラリア向けに再放送された。原稿だけを書き、それを他の人間が読む場合もあった。(21)
(写真は、Selected Cantos of Ezra Pound, New Directions, 1989の表紙。一九三八年頃のパウンドの写真が使われている。撮影はJames
Angleton)
引用文献
1) Redman, Tim: Ezra Pound and Italian Fascism, Cambridge University Press,
1991. p.191-192.
2) ibid. p.193.
3) Stock, Noel: The Life of Ezra Pound (An expanded edition), North Point
Press, 1982. p.368.
4) ibid.
5) Redman, op.cit., p.195.
6) Kearns, George: Ezra Pound. The Cantos (Landmarks of World Literature),
Cambridge University Press, 1989. p.43-45.
7) 後藤末雄:中国思想のフランス西漸、1、(矢沢利彦校訂)、平凡社、一九六九年。p.251-253.
8) Redman, op.cit., p.200.
9) ibid., 191-192, 196.p.
10) Bullock, Alan & R. B. Wooding, ed.: The Fontana Biographical Companion
to Modern Thought, Fontana,1983. p.674.
11) アーネスト・フェノロサ、エズラ・パウンド;詩の媒体としての漢字考(高田美一訳)、東京美術、一九八二年。p.77-78,
86-87.
12) Stock, op.cit., p.378.
13) Redman, op.cit., p.198-199.
14) ibid., p.201, 204.
15) ibid., p.204-205.
16) ibid., p.205-206; Stock, op.cit., p.383.
17) Stock, op.cit., p.384.
18) Redman, op.cit., p.206-207.
19) ibid., p.207.
20) Ezra Pound Speaking: Radio Speaches of World War II(Ed. by Leonard
W. Doob), Greenwood Press, 1978., p.xi.
21) Redman, op.cit., p.208-209.
この章では、パウンドの伝記的記述は、Stock, Noel : The Life of Ezra Pound
(An expanded edition), North Point Press, 1982.、Carpenter, Humphrey :
A Serious Character, The Life of Ezra Pound, Houghton Mifflin Company,
1988. 、Redman, Tim: Ezra Pound and Italian Fascism, Cambridge University
Press, 1991の3書を基本にした。
<エズラ・パウンド関連サイト>
http://www.lit.kobe-u.ac.jp/~hishika/pound.htm:
Ezra Pound (神戸大学文学部・菱川英一氏による英文サイト。パウンドの晩年の肖像写真、主要文献リスト、年譜、関連サイトへのリンクなどが掲載されています。主要英米詩人についての情報を得るための同氏作成サイトにリンクしています。)
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