No.22 March, 2001

Series


歴史の中のエズラ・パウンド 
第22回
 
第2部 モダンエイジ

第12章 嵐の30年代
(3分載の3、Section 5-6)



 一九三七年六月、『第五期のキャントウズ』(第四二篇−第五一篇)がフェイバー・アンド・フェイバーから出版され、同じ年の一〇月には、ニューヨークのファラ・アンド・ラインハートから出版された。

 第四二、四三篇は、シエナに一七世紀に設立され、繁栄を続けている銀行モンテ・デイ・パスキ(牧草地銀行)の創始を、理想的な銀行の姿として語っている。人々の努力によって、牧草地が生み出すと予想される所得を基礎に銀行が資金を貸し出すという話には、社会信用論の見方が反映されている。(1)

 第四四篇は、トスカーナ地方の歴史に題材をとり、中心に位置づけられている人物は、ピエトロ・レオポルド大伯爵と彼の子息フェルディナンドである。彼らは、借金による禁固刑、死刑と拷問を廃止し、モンテ・デイ・パスキを支え、穀物の分配に取り組んだ。そして、王族や教会に課税する一方で、土地改革を行い、印刷業者を検閲から解放した。(1)

 第四五篇は高利貸しを激しく弾劾している詩である。パウンドは、この「高利貸し」(ユジャーラ)という言葉を、アメリカやイギリスの金融資本を象徴する語として使った。そして、第四七篇は死や性、宇宙などの神秘性をうたい、第四九篇は中国の世捨て人が静かに世界を見つめるという詩である。この詩は、パウンドの両親が、ラパロを訪れた中国人の女性教師からもらった中国と日本の詩の英語訳を材料にしたとされている。(1)

 一九三八年には、パウンドはフェイバー・アンド・フェイバー社から『文化への案内(ガイド・ツー・カルチャー)』(2)を出版した。この著作で、パウンドは、西洋と東洋を比較する観点に立って自分の歴史観を書いた。「西洋の思想は、紀元前二〇〇年には、ほぼ輪郭が形成された」(3)とし、その後、西洋の思想はキリスト教となって行くが、「ギリシャ哲学の方が強く現れている」(4)という。そして、そのギリシャ哲学は、「上位に位置していると意識している少数者のハイブラウな観念論」(5)であり、「まったくの無責任」(6)な哲学であるという。それに対比して、「ローマは責任感のある支配者であった」(7)としている。そして、「永遠に集中したり、それを強調することは社会的ではない」(8)として、彼はギリシャ哲学やキリスト教の絶対性を否定的にとらえた。

 さらに、パウンドは、「国家の基本は経済的な正義である」とし、「プロレタリアート独裁をいう共産主義は野蛮、ユダヤ教的であり、ユダヤ教は原始的な宗教政治の段階にある」とした(9)。

 『文化への案内』で、ギリシャやローマ、さらにキリスト教や共産主義を論じる根底に、パウンドは儒教思想を置いていた。彼は、古代中国思想に、さらに強い関心を持つようになっており、この著作の後半ではアリストテレスの『ニコマシア倫理学』と孔子の道徳とを比較し、孔子を肯定し、アリストテレスを否定した。そして、西洋の三段論法のような線形の論理構造よりも、複数の要素を共時的に考える東洋のイデオグラミックな思考方法の方が優れているとした。

 この著作で、彼は北園克衛や彼を中心とする日本の前衛詩グループ『VOU』についても書いた。北園克衛は一九三五年に『VOU』を創刊し、それをフェイバー・アンド・フェイバー社気付けでパウンドに贈った(10)。それをきっかけにパウンドとの文通が始まり、『VOU』の一九三六年九月号にパウンドの寄稿が掲載された。パウンドは、北園との文通を通じて東洋文化への関心をさらに深めていった。

 この頃から、パウンドは、観念やイメージの表現方法としての漢字に強い関心を抱き、漢字についての知識を深めた。彼にとって、漢字は、イデオグラミックな表現方法や思考方法を象徴するものであった。

 ラパロで、パウンドは音楽の分野でも活動した。一九三三年六月からは、ファシスト文化研究所の後援を得て、ラパロの映画館でオルガ・ラッジとピアニストのゲルハルト・ミュンヒュを招いてモーツァルト・ウィークを開催した。こうした音楽活動の過程で、パウンドとラッジはヴィヴァルディを再発見し、ドレスデンの図書館に保管されている楽譜をマイクロフィルムで取り寄せて書き移す仕事などをした(11)。一九三九年には、シエナでヴィヴァルディの演奏会が開催され、パウンドとラッジが発見した曲も演奏曲目に取り上げられた。『文化への案内』でも、彼はイタリア音楽がドイツ音楽に与えた影響という観点からヴィヴァルディとバッハの関係などを論じている。

(写真は、Guide to Kulchur, New Directions, 1970.の表紙、絵はアンリ・ゴルディエ=ブルゼスカによるパウンドの素描)



 一九三八年十月、ドロシーの母オリヴィアが死去した。財産の整理をしたり息子のオマールに会うために、パウンドは、しばらくしてロンドンへ行き、その時にT・S・エリオットやウィンダム・ルイスらに会った。ルイスは、この時に、現在ロンドンのテート美術館に所蔵されているパウンドの肖像画を描いた。

 ロンドンで、パウンドはイギリス・ファシスト連盟のモズリーにも会った。それ以後、彼は、連盟の機関誌『ブリティッシ・ユニオン・クォータリー』に寄稿するようになった。彼は、イギリス・ファシスト連盟に対して明確な支持は表明しなかったが、ファシズムに反対する勢力を批判し、さらに社会信用論の考え方について述べた。この頃から、彼は、モズリーのとは別のファシスト団体である帝国ファシスト連盟の会長アーノルド・リーズとも手紙を交わし始めた。(12)

 『ブリティッシ・ユニオン・クォータリー』への寄稿では、パウンドはユダヤ人以外の銀行家も非難するなど注意深い表現を使った(13)が、彼の反ユダヤ主義的傾向は強くなっていた。レオン・シュレットは、パウンドの反ユダヤ主義が激しさを増したのは一九三六年であったとしている。(14)

 欧米における反ユダヤ主義の根底には、強い人種的、文化的、宗教的偏見や感情があるとみられ、さらに二〇世紀には、ユダヤ人の興隆に伴なって、その要素には嫉妬の感情も加わったのではないかとみられている。また、自由という近代的な価値をユダヤ的ととらえる傾向も見られ、そのような場合においては反ユダヤ主義は、近代という時代の中心的な価値観への反動的感情を屈折的に反映したものであるとみることもできるだろう。

 パウンドの場合、反ユダヤ主義は金融資本に対する強い反感と結びついていたようであるが、それは古来からある反ユダヤ主義の主要な類型の一つに属するものであったとみることができる。貨幣経済の拡大に伴なう金融資本の強大化は、近代という時代を特徴づける普遍的な社会経済変化であったが、一九三〇年代の世界的な経済的混乱の中で、彼はそれをユダヤ人と強固に結びつけてとらえるという偏見に陥ったのではないかと考えられる。しかし、彼の反ユダヤ主義はそれだけではないという見方も強く、西洋の知識人、芸術家における反ユダヤ主義という重要な問題であるために研究(15)が行われている。

 一九三八年になると、ヨーロッパはすでに危機的情勢に陥っていた。イタリアは、一九三七年一一月に、前年に締結された日独防共協定に参加し、一二月には国際連盟から脱退していた。ドイツは、一九三八年三月にオーストリアを併合し、チェコスロヴァキアにも侵入しようとしていた。

 ヒトラーがチェコスロバキアに侵入した一九三九年三月、パウンドはアメリカへ行くことを考えた。アメリカでも経済情勢は悪化していた。アメリカへの旅行は、それまでに手紙によって意見を交換していた共和党の有力議員らに、自分の考えを広めるのに役立つだけでなく、次の大統領選挙キャンペーンで自分が役割を果たすことにもつながるだろうと彼は考えていた。彼は、政府内に自分がポストを得ることも考えていたようだ。(16)

 三月二七日には、北園にも、アメリカへ行く計画について書いた手紙を送った。「二七年間アメリカを不在にしており、どのような結果をもたらすことができるかはわからない。しかし、三者(日本、アメリカ、イタリア)のよりよい理解に結びつけばよいと考える」。それに先立ち、パウンドは『ジャパン・タイムズ』の通信員になることを北園と相談し、さらに東京帝国大学か京都帝国大学の客員教授の職を得ることについても打診した。(17)

 パウンドが、日本の大学に職を得ることの可能性を北園に聞いたのは、イタリアを去らなければならない時が来るかもしれないと考えていたからだろう。彼は、アメリカへの一時的な旅行ではなく、移住という意味での帰国を真剣に考えなければならない状況に追い込まれていた。ムッソリーニはフランスとの戦争を辞さないと表明しており、戦争が起こればラパロは前線に近くなるため、そこに住み続けることは危険であった。

 この頃、アメリカミシガン州のオリヴェット大学に招かれていたフォード・マドックス・フォードも、パウンドがその大学でポストに就くことをしきりに勧め、彼が教えることに大学当局者も同意していることを告げた。しかし、パウンドの返事は明確ではなかった。彼は、イタリアにとどまることも諦めきれなかったのだろう。

 パウンドが、ニューヨークに着いたのは一九三九年四月二〇日である。彼が一等船室を利用したことから、この旅行はイタリアの宣伝省の援助を受けたものではないかという推測もされた。『ニューヨーク・タイムズ』は、彼がアメリカがヨーロッパに介入しないようにと助言しに来たと報じ、全体主義国家の統治者ではなく、銀行家や軍事産業が現在のヨーロッパの危機を招いているのだという彼の考え方を伝えた。

 彼は、ワシントンを訪れ、上院議員たちや議会、行政関係者に会った。しかし、ルーズベルト大統領に会うことはできず、のちに副大統領になった当時農務長官のヘンリー・A・ウォーレスが代わりに会った。パウンドは、彼ら政府関係者に自分の考えを受け入れさせることはできなかった。共和党議員のボラとは、アメリカ政府内に自分がポジションを得ることについても話し合った。しかし、ボラは無理であると答え、彼は失望した。

 ワシントンに滞在しているとき、パウンドは議会図書館を訪れて日本部長の坂西志保に会い、能『葵の上』の映画を見せてもらい、感銘を受けた。坂西はこの時、パウンドのフェノロサ訳に、原文にはない文が加えられていることを指摘したという。(18)

 ワシントンを去ったあと、彼は、ニューヨークでウィリアムズやカミングス、メンケン、フォード、ズコフスキーら友人たちにも会った。フォードは、パウンドに会ったあと、しばらくしてフランスへ帰り、六月末に死去した。

 友人たちに会ったあとの六月に、パウンドは母校ハミルトン大学を訪れて名誉博士号を贈られた。授賞式のあとの会食時に、彼は、名誉博士号を贈られたもう一人の同窓生と、政治的見解をめぐって激しく言い争った。

 アメリカへ立つ前に、パウンドは、ハミルトン大学の学長へ宛てた手紙で、母校で経済学と歴史学を教えたいという希望を示唆した。彼は、迷いながらもアメリカへ帰国することができるかどうか可能性を探っていたのだろう。しかし、学長から明確な答えは得られなかった。すべてに失望して、パウンドは、六月中旬頃、ニューヨークからイタリア行きの船に乗った。

 八月二八日、共和党の孤立主義者ティンカムは、パウンドに宛てて「ルーズベルトにとっては政治的な脱出口は戦争しかない。戦争が起これば、彼は我々をそれに巻き込むためにあらゆることをするだろう」と書いてきた。その数日後の九月一日に、第二次世界大戦が始まった。ティンカムは、一九三七年のはじめに、「一九三九年にはヨーロッパで戦争が起こるだろうと確信している」とパウンドに伝えてきた。パウンドは、その見解を否定しようとしていたが、ティンカムが予想した年に戦争は始まった。(19)

 ウィンダム・ルイスは第二次世界大戦が始まる少し前の一九三八年になって反ナチスの立場をとるようになり、第二次大戦が始まると北米へ渡った。

 ルイスは、『時代と波』という雑誌からヒトラーについての記事の執筆を依頼され、一九三〇年一〇月にドイツを訪れ、一九三一年には『ヒトラー』をロンドンで出版し、ヒトラーは「プロシアの軍国主義的伝統に反対している」「平和を愛する人間である」などと書いてヒトラーを好意的に見ていた(20)。そして、一九三七年までヒットラーに好意的であり続けたが、その後は、ナチスは俗的、好戦的、虚無的であるとして、それまでの見方を変え、反ナチスの立場をとるようになっていた(21)。

引用文献

1) Kearns, George: Ezra Pound. The Cantos (Landmarks of World Literature), Cambridge University Press, 1989. p.40-42.
2)Pound, Ezra: Guide to Kulchur, New Directions, 1970.
3) ibid. p.25.
4) ibid.
5) ibid. p.29-30.
6) ibid. p.29
7) ibid. p.38.
8) ibid.
9) ibid. p. 270-271
10) 藤富保男:北園克衛(近代詩人評伝)、有精堂出版、一九八三年。p.75.
11) Carpenter, Humphrey: A Serious Character--The Life of Ezra Pound, Houghton Mifflin Company, 1988. p.520-521.
12) ibid.p.551-553.
13) ibid.
14) Surette, Leon: Pound in Purgatory, From Economic Radicalism to Anti-Semitism, University of Illinois Press, 1999. p.6.
15) Surette, op.cit., Redman, Tim: Ezra Pound and Italian Fascism, Cambridge University Press, 1991., Casillo, Robert : The Genealogy of Daemons, Anti-semitism, Fascism, and the Myths of Ezra Pound, Northwestern University Press, 1988., Flory, Wendy Stallard: The American Ezra Pound, Yale University Press, 1989.; ibid. in Nadel, Ira B.(ED.): The Cambridge Companion to Ezra Pound, Cambridge University Press, 1999. 三宅昭良:光と人種の救済論、現代思想、1998年8月号、p.32-63.
16) Redman, op.cit,. p.186-187.
17) ibid. p.187-188.
18) Stock, Noel: The Life of Ezra Pound (An expanded edition), North Point Press, 1982. p.362.
19) ibid.,p.190, 176.
20) Meyers, Jeffrey: The Enemy, A Biography of Wyndham Lewis, Routledge & Kegan Paul, 1980. p.186-188.
21) Flory, op.cit., p.119-120.

 この章では、パウンドの伝記的記述は、Stock, Noel : The Life of Ezra Pound (An expanded edition), North Point Press, 1982.、Carpenter, Humphrey : A Serious Character, The Life of Ezra Pound, Houghton Mifflin Company, 1988. 、Redman, Tim: Ezra Pound and Italian Fascism, Cambridge University Press, 1991の3書を基本にした。


エズラ・パウンド関連サイト
http://www.lit.kobe-u.ac.jp/~hishika/pound.htm: Ezra Pound (神戸大学文学部・菱川英一氏による英文サイト。パウンドの晩年の肖像写真、主要文献リスト、年譜、関連サイトへのリンクなどが掲載されています。主要英米詩人についての情報を得るための同氏作成サイトにリンクしています。)


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