No.21 February, 2001

Series


歴史の中のエズラ・パウンド 
第21回
 
第2部 モダンエイジ

第12章 嵐の30年代
(3分載の2、Section 3-4)



 社会信用論への理解を訴えるために、パウンドは、一九三四年にムッソリーニの娘婿で当時新聞・宣伝担当相を務め、のちに外相になったガレアッツォ・チアノにも手紙を書いた。それがきっかけとなって、パウンドは、イタリア政府がアメリカへ向けて行っていた宣伝放送の出演者として招かれた。パウンドは、一九三五年の一月一一日、「ファシズムの経済的勝利」のタイトルで放送した。(1)

 また、一九三五年七月に『ジェファーソンと/あるいはムッソリーニ』が出版されると、パウンドは、友人のオドン・ポアの仲介で、それをムッソリーニに送り、さらに、ファシズムの最近の様相について書くための会見を申し込んだ。しかし、これは拒否された。(2)

 仲介したポアは、一九〇三年からイタリアに住み始めたハンガリー人であった(3)。一九一二年に、ムッソリーニが編集長を務めるイタリア社会党の機関紙『アヴァンティ』の特派員としてロンドンに住み、イギリスのサンジカリストの党派新聞『サンジカリスト』の編集にも関与して、さらに『ニュー・エイジ』や『イングリッシ・レビュー』にも寄稿していた。C・H・ダグラスの思想に関心を持っていたが、一九三三年からは、イタリア・ファシズムに傾倒するようになった。

 パウンドは、一九三四年頃から、ポアと活発に文通を始め、強い影響を受けるようになった。ポアは、当時、ミラノにあった国際政治研究所のローマ事務所長の職につき、ファシズム政権下での重要な雑誌の一つであった『シヴィルタ・ファシスタ』に、毎月、経済に関する記事を書いていた。

 イタリア政府に対して社会信用論への理解を訴えるようとするだけでなく、パウンドはイギリスでも運動を展開していた。一九三五年には、彼は『アルフレッド・ヴェニソンの詩集』、『社会信用論:一つの衝撃』という二つの小冊子をスタンレー・ノットから出版した。前者は、実名は使わず、アルフレッド・ヴェニソンという夜間学校でしか教育を受けられなかった男が辞書を引きながら書いたという体裁をとり、社会の底辺に生きる人間たちの怒りと悲哀を歌っている。この詩は、前年の一九三四年に、オレージが編集する『ニュー・イングリッシ・ウィークリー』に投稿が採用されたという形で掲載されたものである。一方、後者は貨幣制度や社会信用論に関するパウンドの考えを述べたものである。スタンレー・ノットから出版された、この小冊子のシリーズの執筆者には、パウンドのほかにハーバート・リードらもいた。リードも、当時、社会信用論の支持者であった。

 一九三五年頃から、パウンドは、ダグラスと共にゲゼルの経済理論に関心を持ち始めた。シルヴィオ・ゲゼル(一八五二〜一九三〇)は、ドイツで生まれ、南米で事業を行って財産を築いたあと、一九一九年にバイエルンにできたソヴェット共和国の蔵相になった経済の専門家であった。その後、ナチスに捕らえられて刑務所に拘留された時期もあった。

 資本主義の枠内での変革を提唱している点では、ゲゼルの理論はダグラスの理論と同じであったが方法は異なっていた。一九〇九年に出版され、補追されて版を重ねた著書『経済の自然秩序』で、彼は、貨幣そのものが価値を持つ金本位制度のような貨幣制度を廃止すべきであると提案し、代わりに、貯蓄しておくと次第に価値を失う貨幣の導入を提唱した。具体的には、紙幣に空欄を設け、政府から購入したクーポンを、そこに定期的に貼り付けることによって、額面が維持されていくという貨幣制度である。クーポンは、貨幣の所持に対する課税の意味を持っている。パウンドは、ゲゼルの理論の簡潔さと明解さに強い印象を受け、ダグラスの理論よりも実行に移すのが容易であり、健全な課税制度であると考えた。(4)

 ゲゼルは、このシステムを、彼が蔵相を務めていたバイエルン政府で実行しようとしたが、政府が崩壊したためにできなかった。ケインズは、このシステムを、「反マルクス主義的社会主義」であり、基本的には健全であるとしたが、貨幣に代わる宝石、貴金属などの貯蔵によって、こうしたシステムをくぐり抜けることは可能であり、根本的な問題は解決されないとしている。(5)

 アメリカでは、貨幣数量論で知られる経済学者のアーヴィング・フィッシャーが、ゲゼルについて論じた。パウンドは、フィッシャーの著作を読み、ゲゼルのスタンプ・スクリプの考えを知った。一九三三年には、『ニュー・イングリッシ・ウィークリー』にフィッシャーの著書の書評を書き、一九三四年にはフィッシャーに宛てて手紙を書いた。

 オーストリアのヴェルクルという町では、実際にゲゼルの理論が町政に取り入れられており、パウンドは、一九三〇年代の初めにそのことを知って『キャントウズ』の第四一篇(6)に書いた。また、一九三五年の夏、オルガ・ラッジと共にザルツブルグ音楽祭に行ったときには、ヴェルクル町長の家を訪ねた。町長は木を切りに出かけていて留守だったが、パウンドは夫人と話した。その時のことを、彼は、『ピザン・キャントウズ』(第七十四篇)(7)に書いている。

(写真は、Redman, Tim: Ezra Pound and Italian Fascism, Cambridge University Press, 1991の表紙カバーに使われているパウンドの晩年の写真)



 一九三五年、イタリアのファシズムは新しい局面を迎えていた。アビシニアでの武力介入が迫っていた。パウンドは、イタリアを弁護する立場に立ち、エリトリア、ソマリアでのイタリア人入植者を保護するためであるというファシスト政権の主張を支持した。その年の一〇月に、ムッソリーニがアビシニアを侵略すると、パウンドはムッソリーニを支持し、制裁を決めた国際連盟を非難した。(8)

 イギリスでは、チェスタートンが同じような立場をとっていた。彼は、イタリアの侵略は「乱暴な搾取」を狙ったものではなく、入植の地を求めようとしているのだとした。そして、「人口が増えているという理由で他国の領土を占領する権利があると主張するのは、力の原理を最も醜い形で主張することにほかならず、それは人間をイナゴのレベルにおとしめる」と述べながらも、「最も過激なファシストでさえ吐き気を感じるような手段」で広大な帝国を築いたイギリスは、イタリアを道徳的な見地から非難できる立場にはないと主張してイタリアの立場を弁護した。(9)

 パウンドは、イタリアがアビシニアを侵略した十月に、ムッソリーニに孔子の『大学』の翻訳を送り、新しい経済とスペイン情勢について話したいとして会見を申し込んだ。しかし、このときも拒絶された。(10)

 また同じ月に、彼は、アメリカ上院外交委員会のウィリアム・ボラに宛てて、イタリアの立場を弁護する手紙を書いた。ボラは、アビシニア戦争に国際連盟が反対したのはイギリスの指示によるものだとして、パウンドに共感を示す返事を送ってきた。この制裁にアメリカ、ドイツ、日本などは参加しなかったが、そうしたアメリカの中立的な対応を、パウンドは喜ばしいこととして受け止めた。(11)

 パウンドは、国際連盟のイタリア制裁にあたって、イギリスがイニシャチブをとったことに激しい怒りを感じていた。彼の心の中には、イギリスの支配階級に対する強い反感が宿っていたが、同時にヨーロッパが再び戦争に見舞われることも強く恐れていた。 (12)

 イタリアのアビシニア侵入ののち、一二月の終わり頃から、パウンドはムッソリーニ政権のイギリス向け宣伝紙である『英伊ブレッティン』の定期的な寄稿者になり、「強いイタリアはヨーロッパを安定させ、より良い生活、文明の支えになる」といった言葉でイタリアのアビシニア侵略を支持した。また、ファシスト政権の下にあるイタリアの知的雰囲気を賛美し、制裁が課せられてのちイタリアの生活レベルは向上しているなどと述べた。 (13)

 初め、パウンドはエチオピア問題に触れなかったが、寄稿し始めて一二週後になって経済的独立の確保、物質的富の確保、イタリアの人民に食料と衣服を供給するための原材料の確保のために、イタリアはアビシニアを必要としており、イタリアが、こうした手段を選ぶのに「人類の敵から許可をとる必要はない」と書いた。(14)

 ムッソリーニに傾倒し、イタリアを弁護するこうしたパウンドの態度には、イタリアとファシズムへの強い共感が表明されているといえる。彼はすでに一〇年ほどイタリアに住み、イタリア国民と強い一体感を持つようになっていたと考えられる。また、ファシズムは、彼の世界観と共通するものを持っていたのだということが考えられよう。

 バートランド・ラッセルは、D・H・ローレンスについて、「政治家が考えつく前にファシズムのすべての哲学を展開していた」(15)と『自叙伝』で述べているが、パウンドのファシズムへの傾倒も、その根底にあるものは、ムッソリーニによってファシズムが政治的イデオロギーとして確立される前に形成されていたのではないかとする見方もある。

 ジーヴ・スターンへルらは、ファシズムのイデオロギーは、フランスで芽生えた国家主義や革命的右翼、さらにソレルの革命思想に根源があるとしている。ソレルの思想は、イタリアで革命的サンジカリストによって反物質主義的、反合理主義的な修正主義的マルクス主義に発展し、それにムッソリーニが国家主義という要素を加えて、イタリア・ファシズムが成立するに至ったと見ているのである。(16)

 ソレルに大きな影響を与えたニーチェ、ベルグソン、ウィリアム・ジェームズの思想は一方でマリネッティにも大きな影響を与えて未来主義を生み、さらに未来主義はウィンダム・ルイスとパウンドが起こしたヴォーティシズムに強い影響を与えた点にもスターンヘルらは注目している。ヴォーティシズムは、ソレルやベルグソンの影響を強く受けていたT・E・ヒュームの思想の影響も強く受けていた。(17)

 こうしたことから、スターンヘルらは、未来主義やヴォーティシズムは、ファシズムと根源を同じにしており、さらに反物質主義的、反合理主義的といった同じ性格を持ちながら平行して形成されていったアヴァンギャルド文化運動であったのではないかと考えているのである。

 そのように考えれば、パウンドのムッソリーニやファシズムへの傾倒は、彼がロンドンに住み始めた頃から準備されつつあったのだとみることができるだろう。

 エチオピア戦争の間に、再びアメリカへの関心を高めていたパウンドは、一九三四年に、二度ルーズベルト大統領に宛てて手紙を書いた。ムッソリーニに対してだけでなく、彼はルーズベルトにも影響を与えたいと考えていたのではないかとみられている。しかし、やがて、彼はルーズベルトに失望し、共和党の議員たちに望みを託すようになった。一九三六年には、彼は、ラパロを訪れたボストン出身の共和党議員であり、孤立主義者であったジョージ・ホールデン・ティンカムと親交を結ぶようになった。(18)

 パウンドは、アメリカへ行き、ボラ議員やルーズベルト大統領に会見したいという意志も持っていた。アメリカでは大統領選挙キャンペーンが始まっていた。彼は、ボラが共和党の大統領候補になることに期待をかけ、彼を通じてアメリカ政治に自分の考えを反映させたいと思っていた。(19)

 一九三六年七月になると、スペインで内戦が勃発した。ヨーロッパでは、自由主義、共産主義、ファシズムというイデオロギーの力の対立が明確になっていた。ヨーロッパやアメリカの左翼的な知識人たちは、コミンテルンの組織する国際義勇軍に参加してファシズムと対決した。イギリスではジョージ・オウエル、スティーヴン・スペンダー、W・H・オーデンらが国際義勇軍に参加した。

 ナンシー・キュナードは、内戦が勃発するとスペインを訪れ、翌年の一九三七年六月には、アラゴン、オーデン、スペンダー、ハインリッヒ・マン、トリスタン・ツァラらの賛同を得て、イギリスやアイルランドの作家、詩人らに、この内戦について彼らがどう考えるかを聞くアンケートを送った。回答を寄せた一四八人のうち、一二六人が共和国側、五人がフランコ側、一六人が中立の立場をとっていた。パウンドは、問題の根源は貨幣制度にあるのに、それを理解している人間がいないとし、「ごまかしの争いでどちらかの側に立つというようなことはしたくない」として中立の立場を表明した。彼のほか、T・S・エリオット、オルダス・ハクスリー、H・G・ウェルズ、バーナード・ショウらが中立の立場をとった。(20)

引用文献

1) Redman, Tim: Ezra Pound and Italian Fascism, Cambridge University Press, 1991.p.158.
2) Carpenter, Humphrey: A Serious Character--The Life of Ezra Pound, Houghton Mifflin Company, 1988. p.540; Redman: op.cit.,p.163.
3) Redman: op.cit.,p.160.
4) Carpenter, op.cit.,p.523-524.
5) ibid., p.524.
6) Pound, Ezra: The Cantos, Faber and Faber, 1986.p.205
7) ibid.,p.455.
8) Redman: op.cit.,p.164-165.
9) Ffinch, Michael : G. K .Chesterton, Weidenfelt and Nicholson, 1986.p.341.
10) Carpenter, op.cit.,p.541-542.
11) Redman: op.cit.,p.166.
12) ibid.
13) Carpenter, op.cit., p.534.
14) ibid.,p.534-535.
15) Russell, Bertrand: The Autography of Bertrand Russell, 1872-1914, George Allen and Unwin, 1967., p.244.
16) Sternhell, Zeev with Mario Sznajder and Maia Asheri: The Birth of Fascist Ideology, translated by David Maisel, Princeton University Press, 1994. p.4-6.
17) ibid.p.233-242.
18) ibid.,p.527.
19) Redman: op.cit.,p.169-170.
20) チザム、アン:ナンシー・キューナード、疾走する美神(野中邦子訳)、河出書房新社、一九九一年。p.372-375. Stock, Noel: The Life of Ezra Pound (An expanded edition), North Point Press, 1982. p.345.

 この章では、パウンドの伝記的記述は、Stock, Noel : The Life of Ezra Pound (An expanded edition), North Point Press, 1982.、Carpenter, Humphrey : A Serious Character, The Life of Ezra Pound, Houghton Mifflin Company, 1988. 、Redman, Tim: Ezra Pound and Italian Fascism, Cambridge University Press, 1991の3書を基本にした。


エズラ・パウンド関連サイト
http://www.lit.kobe-u.ac.jp/~hishika/pound.htm: Ezra Pound (神戸大学文学部・菱川英一氏による英文サイト。パウンドの晩年の肖像写真、主要文献リスト、年譜、関連サイトへのリンクなどが掲載されています。主要英米詩人についての情報を得るための同氏作成サイトにリンクしています。)


Count
Copyright (C)2001 Hideo Nogami


HOME