No.20 December, 2000
歴史の中のエズラ・パウンド 第20回
第2部 モダンエイジ
第12章 嵐の30年代
(前半、Section 1-2)
1
一九三〇年五月、パウンドはアンティルのオペラ『トランスアトランティック』の公演のために、ドイツのフランクフルトを訪れた。この時に、彼は、フロベニウスに会い、以後、文化人類学の知識を得るために、何度か彼に手紙を書いた。
夏になると、パウンドはヴェニスへ行き、ラッジと共に過ごした。イタリアン・チロルの農家に預けられていた娘のメアリーも夏には母の家に帰っていた。この年から、夏になると妻のドロシーはロンドンへ帰って母オリヴィア、息子のオマールと共に過ごし、パウンドはヴェニスへ行ってラッジ、メアリーと過ごすことが多くなった。
メアリーが、父パウンドを回想した著書『分別』(1)に書いているところによると、ラッジのヴェニスの家は三階建てになっており、二階がラッジの部屋、三階がパウンドの仕事場になっていた。ラッジの部屋には日本の着物や履き物が飾られ、彼女がダンヌンツィオのために演奏したときに記念に贈られた、宝石を散りばめた銀の鳥が置かれていた。三階のパウンドの部屋には、久米民十郎の描いた絵が掛けられ、木製の板を表紙にして製本したオヴィディウスの本があった。また、机のそばの壁には、シジスモンド・マラテスタの内妻、イゾット・デル・アグリのレリーフ像が埋め込まれていた。
パウンドの周りには何人かの若い詩人たちが集まり始めていた。e.e.カミングスとパウンドは、すでに一九二一年にパリで会っていたが、この頃から二人は手紙を交わすことが多くなった。
パリでフォードの『トランスアトランティック・レビュー』の編集を手伝っていたバジル・バンティングは、パウンドを追ってラパロに移住し、パウンドの指導を受けるようになっていた。
ニューヨークのユダヤ系アメリカ人のルイス・ズコフスキーは、パウンドがこの頃から注目しはじめた若い詩人だった。パウンドは、『エグザイル』にズコフスキーの詩を載せ、その後、彼を「アメリカに住むただ一人の知的な人間」とさえ評するようになった。パウンドはアメリカに行く若い詩人がいれば、彼に会ってくるようにといい、バジル・バンティングらに彼との友情を育むように指導した。
ズコフスキーは、アメリカでオブジェクティヴィズムという新しい詩の運動を起こそうとしていた。オブジェクティヴィズムは、詩の「客体化」を目指していた。エイミ・ロウエルが主導して「俗化」したともいえるイマジズムに対抗する運動でもあった。ズコフスキーは、オブジェクティヴィズムの詩として、パウンドの『キャントウズ』第三〇篇、ウィリアムズの『春とすべて』、エリオットの『荒地』と『マリーナ』、マリアン・ムーアの『観察』、カミングスの『is
5』、ウォレス・スティーヴンの『ハーモニアム』などを挙げ、客体化に最も成功しているのはパウンドの詩であるとし、彼の詩は「音楽的な意味での客体化」を達成しているとした(2)。
パウンドの勧めで、『ポエトリ』は、一九三一年二月に、ズコフスキーが編集する「オブジェクティヴィスト」特集号を発行し、ズコフスキー自身のほか、バンティング、マッキャルモン、ウィリアムズ、ケネス・レックスロスらの寄稿を掲載した。レックスロスは、サンフランシスコに住み、第二次大戦後、ビートの詩人たちに大きな影響を与えた詩人・評論家である。
『ポエトリ』の特集号を元に、さらにパウンドやエリオットの寄稿を加えて、ズコフスキーは一九三二年に『オブジェクティヴィスト・アンソロジー』を刊行した。この本はパウンドに捧げられた。
パウンドの文学活動をイギリスで支えていたのはフェイバー・アンド・フェイバーのエリオットであった。しかし、彼一人というわけではなかった。一九三〇年十月には、イギリスのBBCの刊行物『ラジオ・タイムズ』が、パウンドのオペラ『ヴィヨンの遺言』を紹介する記事を掲載し、その月の二十六日と二十七日にはそのオペラを放送した。
『キャントウズ三〇編の草稿』がパリのアワーズ・プレスから出版されたのは一九三〇年八月である。アワーズ・プレスは、ナンシー・キュナードが設立した小出版社であった。彼女は、フォード、ウイリアムズ、ヘミングウェイ、パウンドらの作品を刊行していたスリー・マウンテン・プレスのウィリアム・バードから手動印刷機を買い取って、一九二八年に、その出版社を設立した。この頃、彼女はシュールレアリストのルイ・アラゴンと別れ、アメリカ人の黒人ジャズ・ミュージシャン、ヘンリー・クラウダーと生活していた。アワーズ・プレスでは、彼女とクラウダーが植字を行った。(3)
『キャントウズ三〇編の草稿』は、第二八篇−三〇篇の三篇を新たに加えて、これまでの三〇篇全部をまとめたものである。この三〇篇までで、彼はイタリア・ルネッサンスの考察などに一つの区切りを付けた。これに続く第三一篇からはアメリカの建国時代の考察をテーマにした。第三十一篇から三十三篇までの三篇は、アメリカの二代目大統領ジョン・アダムズ、三代目大統領のジェファーソン、マルクスらの書簡や著作からの引用を元に構成し、一九三一年七月に『異教』という雑誌に発表された。
『キャントウズ』のテーマを、イタリア・ルネッサンスからアメリカ建国時代へ移行させたことは、歴史の流れに沿ったものであったといえる。ヨーロッパは一五世紀にイタリア・ルネッサンスという文化的な高揚期を迎えたあと、絶対王政の時代へ移り、一八世紀にフランス革命という近代の始まりとなる政治的事件を経験した。アメリカ革命は、そのフランス革命に先行した政治的事件であった。
パウンドは、アメリカ建国時代を現代アメリカと対比して見ようとしていた。ルネッサンス、ヴィクトリア時代のイギリス、二〇世紀のアメリカを見て、彼は高度な文化を生み出す力としての金銭の力を肯定的していたが、アメリカ建国時代や孔子への傾倒は、彼が、新たに「徳による専制」という中世的な政治理念に関心を抱き始めていたことを示していたのかもしれない。
一九三〇年四月、ラパロで療養していたイェイツは、パウンドと孔子について語り合った。その時、イェイツは孔子は古風な説教師であるという見方を述べたが、パウンドは、孔子が完全な人間であると主張して譲らなかったという(4)。パウンドにとって、孔子は西洋に対する東洋であり、現代に対する古代であるのと同時に、専制を裏付ける思想でもあったのかもしれない。
一九三〇年の終わり頃から、彼は、イタリアの雑誌やアメリカの少部数の雑誌に寄稿することが多くなった。シカゴで発行されていた『イングリッシ・ジャーナル』という雑誌の大学版の十一月号では、『リトル・レビュー』などのスモールマガジンが果たした役割について書き、パリで発行されていた『シカゴ・トリビューン』では、『アトランチック・マンスリー』『ハーパーズ・マガジン』などのアメリカの文芸誌の俗物性を攻撃的に批判した。
アメリカのニューメキシコ州のアルバカーキで発行されていた共産主義者の雑誌『前線』の十二月号には、パウンドは、自分の「信条」について書いた。彼はこの中で、大戦後のキリスト教への回帰の傾向は「疲労の表れ」であるとして、エリオットの改宗を批判的にとらえた。また、翌年の二月号では、アメリカや西ヨーロッパでの共産主義の必要性や実現の可能性に対して疑問を表明した。彼は、アメリカの議員たちへ手紙を書き、アメリカの貨幣制度、金融政策、経済政策などに影響を与えようとすることも多くなった。
こうした彼の政治的活動や評論活動は、『キャントウズ』の創作活動と一体化していた。
(写真は、パウンドと娘メアリーの写真を使ったde Rachewiltz, Mary:Discretions,
A Memoir by Ezra Pound's Daughter, Faber & Faber, 1971の表紙カバー)
2
一九二九年一〇月二四日にニューヨークの株式市場で起こった大暴落は、世界経済を崩壊させ、パウンドは世界の経済情勢に強い関心を抱くようになっていた。この突然の経済情勢の変化によって、アメリカでは企業の投資・生産の縮小、失業者数の増大が進み、「黄金の二〇年代」は崩壊した。ドイツは、最も深刻な影響を受け、一九三一年二月には、失業者数は五〇〇万人近くに達した。絶望的な経済情勢を背景に、一九三〇年九月の国会選挙で第二党に躍進していたナチスは、一九三二年七月の選挙では第一党になり、一九三三年一月には、ヒトラーが首相に任命された。(5)
イギリスでは、アメリカやドイツに比べると、大恐慌そのものによる影響は比較的小さいように見えた。しかし、それはイギリス経済が、その影響を受ける以前にすでに不況の状態にあり、一九二〇年代初頭から失業者が恒常的に一〇〇万人を超していたからであった。大恐慌によって失業者の数は二五〇万人を超え、不況の克服策として、保守勢力は国家財政の均衡を守るという方法を唱え、一九二九年から政権を担当していたマクドナルド労働党政府の主要大臣も、こうした考え方をとった。
しかし、自由党のロイド・ジョージや労働党のオズワルド・モズリーは、国家による大規模な公共事業への支出増大を図る方策などを提唱し、政府内部でも対立が起こった。一九三一年八月には、その対立が激化して労働党政府は崩壊し、保守党が労働党の保守勢力を取り込んで「挙国一致」内閣を組織した。労働党政府の保守的な経済政策を不満としていたモズリーは労働党を去り、一九三二年にイギリス・ファシスト連盟(BUF)を発足させた。(6)
ムッソリーニが指導するイタリアも大きな影響を受けた。製造業部門が深刻な影響を被り、農業部門の労働者を除く失業者数は一九二九年に三〇万人であったのが、一九三二年と一九三三年には一〇〇万人以上になった(7)。
こうした世界の経済情勢の中で、パウンドはムッソリーニへの傾倒を強めていた。彼は、アメリカやイギリスが主導する資本主義が世界経済を破壊し、ファシズムの夢を破壊しようとしていると考えていた。彼は、一九三一年の終わりには、手紙の日付を、ローマ進軍の年、一九二二年を元年とするイタリアのファシスト党の方式に変え、さらに一九三二年四月になると、ムッソリーニの秘書に宛てて、イタリアの印象を伝えるためにムッソリーニと会見したいという希望を伝える手紙を書いた。(8)
一九三二年一二月には、パウンドはファシスト政権の誕生を映画化するためのシナリオを送った。これに付した手紙で、パウンドは、アメリカの報道機関のムッソリーニに対する批判をかわすための方策を進言したいという希望を伝えた。この手紙によって、彼はムッソリーニに会見できることになり、一九三三年一月三〇日の午後五時半、ムッソリーニの執務室があるローマのヴェネチア宮殿を訪れた。(9)
『キャントウズ』第四一篇(一九三四年)(10)に、パウンドは、この時のことを書いている。彼が贈呈した『キャントウズ三〇篇の草稿』をめくりながら、ムッソリーニは「おもしろい」といい、要点をすばやく掴んだと彼は書いている。約三〇分間の会見で、パウンドは、「ソーシャル・クレジット」に関する自分の考え方などを伝えた。
ムッソリーニに会った次の月に、パウンドは『経済学のABC』(11)、『ジェファーソンと/あるいはムッソリーニ』(12)という二冊の本を書いた。『経済学のABC』は、一九三三年四月に、フェイバー・アンド・フェイバー社から出版され、一九四〇年にアメリカでも出版された。
この著作で、彼は、ダグラスの社会信用論を元にした彼独自の経済思想を述べた。経済学は善意に基づいてなければならないこと、生産の拡大に応じて信用の増加が図られなければならないという社会信用論の考え方の正当性、失業を防ぐための労働時間の短縮(制限)などを、彼は主張した。
自分の考えが「知性に基づかず、意志に基づこうとしていることは反対されるだろう」が、「善意に基づかない経済システムは価値がない」(13)と彼は主張した。さらに、「人は、人間の集団に対する何らかの責任感を持つべきである」(14)ということをドグマとして主張し、「少数でもこうした考え方をとる人間がいなければ社会秩序は長く続かない」(15)と書いた。
そして、「今の時代にあって、緊急的な解決を必要としているおそらくただ一つの経済的問題は、分配の問題である」(16)とし、「財は十分にある、財を過剰に生産できる過剰な能力がある。それなのに、なぜだれかが飢えなければならないのか」(17)と問い、この問に対する答は、「だれもがそうなってはならない」ということであり、「経済の科学あるいは研究には、だれもがそうならないようにとの意図がなければならない」と書いた(18)。
問題解決の出発点として、彼は、労働する意志のある人間は仕事を与えられるべきであるとの考え方をとり、「これはきわめてアメリカ的であり、反イギリス的である」(19)としている。そして、一九三三年の時点で、一日五時間以上働かなければ失業する人はいないのに、この解決法に対して反対するのは奇妙なことであるとして、労働時間の短縮を経済的問題の一つの解決策として提唱した(20)。
しかし、それだけでは問題は解決しないとして、彼は貨幣問題も論じた。貨幣の量が不足しているときに物価は上昇するが、経済的には、これは正当であっても社会的には正当ではないとし、「より多くの財貨が生産されたときにはより多くの労働証明書(信用)を供給する」という意味で「管理されたインフレを支持する」(21)とした。
彼は、ダグラスの社会信用論の考え方が最も簡単に理解できるたとえ話として、A・R・オレージが考えた、「劇場の座席数と同数の入場券を発売する」という話を挙げている。財を座席数、貨幣を入場券にたとえ、不況や失業は「入場券」の数が「座席数」より少ない数しか発行されていないから起こっているというものである。パウンドは、「ケインズあるいはイギリス自由主義の代弁者を除けば、だれもがこの簡単なたとえ話を理解できるだろう」(22)と書き、さらに、「ケインズは、今はもうわかっているかもしれない。彼は一九二〇年には理解できていなかった。C・H・ダグラスの価値を公に認めるのでなければ、私は彼をばかとみなさざるをえない」(23)と書いてケインズを批判した。
ケインズは、一九三六年に出版された『雇用・利子および貨幣の一般理論』によって、パウンドがいう「管理されたインフレ」による不況の克服策を精緻な経済理論として完成させた。それを成し遂げたとき、彼が、ダグラスの業績に批判を加えながらも、それに触れずにすますことができなかったことは、第九章の2で述べたとおりである。
『経済学のABC』に続いて、パウンドは、『ジェファーソンと/あるいはムッソリーニ』を執筆した。この本の扉の裏には、四十の出版社が出版を拒んだと書かれている。エリオットは、彼が編集者を務めるフェイバー・アンド・フェイバー社から『経済学のABC』を出版し、続いて『クライテリオン』にパウンドの「資本による殺人」という評論を載せたが、『ジェファーソンと/あるいはムッソリーニ』の出版を引き受けることは避けた。イギリス・ファシスト連盟のモズリーも拒み、最終的に、社会信用論に共感を抱いていたロンドンのスタンレー・ノットから、一九三五年の夏に出版された。そして、翌年には、ニューヨークのボニ・アンド・リバライトからも出版された。
『経済学のABC』が彼の経済論であったとするなら、『ジェファーソンと/あるいはムッソリーニ』は、彼の政治論であったともいえるだろう。この著作で、彼は、イタリア・ファシズムに対する「理解」を訴えた。冒頭で、彼はジェファーソンとムッソリーニの類似点は、「意志の方向」であるとし、ジェファーソンが今のイタリアを生きていればどのように考えて行動するか、ムッソリーニがアメリカ建国時代に生きていればどのように考えて行動したか、という観点からファシズムを見てみる必要があるとしている(24)。
彼は、一つの国の政治を歴史や文化と関連づけてとらえようとし、「アメリカの取り組みが、ロシアあるいはイタリアのようであれとは主張しない」(25)と書いている。『ジェファーソンと/あるいはムッソリーニ』を書き終えた時、彼はそのタイプ原稿と『経済学のABC』をムッソリーニに送った。それらはイタリア外務省の広報部から「ファシズムに友好的な内容である」とのコメントを添えてムッソリーニに届けられた。
一九三四年五月には、パウンドが教科書にすることを意図して書いた詩論『読書のABC』(邦訳書名:『詩学入門』(26))がロンドンのラトレッジ社から出版された。この本を訳した沢崎順之助は、「解題」で、この本の論述について、「組織的、体系的であるよりは、はるかに恣意的であり、奔放でさえある」「パラグラフからパラグラフへの移行、また文章から文章への移行にさえ、ときには大きな飛躍がある」(27)と書いている。この本の論述のこうした特徴は、パウンドがイデオグラム法(表意文字法)を使って書いたことを示しているとされている。
フェノロサの『詩の媒体としての漢字考』を読み続けることにより、パウンドは、西洋のメッセージの伝達法がアリストテレスの三段論法のような線形をなしているのに対して、中国の方法は複数の要素を共時的に呈示することによっていることに気づき、強い感銘を受け、思索、教育、詩作の技法として使おうとしていた。部首の総合によってメッセージや意味を形成する漢字に象徴される、そうしたメッセージの伝達法を、彼は、イデオグラム法(表意文字法、当初は彼はイデオグラフ法という言葉を使っていた)と呼んだ。
『経済学のABC』では、彼はイデオグラム法について、「まず最初に思想の必要な要素を集積すること」(28)と書き、『ジェファーソンと/あるいはムッソリーニ』では、「私は、これらの文章を線形の三段論法の形に配置しようとしているのではない。こうした古いトリックを使って読者を騙し、自分が証明してもいないことについての思索に誘い込もうとしているのではない。そうではなくて、私が書いた一文節を読めば、読者は一、二ダースの事実を検討し、総合することによって、ただ知ることのできる何かを知ることができるということである」(29)と書いている。彼は、イデオグラム法を『キャントウズ』の技法としても使おうとしていた。
一九三四年九月には、彼の評論集『改新(Make It New)』がフェイバー・アンド・フェイバー社から出版され、一〇月には『十一の新しいキャントウズ:第三一篇−第四一篇』が、ニューヨークのファラー・アンド・ラインハルト社から出版された。この『キャントウズ』は、翌年の春にはフェイバー・アンド・フェイバーからも出版された。
この『キャントウズ』にまとめられた主な詩の主題は経済と政治である。この詩集には、多くの人物がイデオグラム的に集められている。パウンドが讃えているのは、アメリカ建国者のトーマス・ジェファーソンとジョン・アダムズ、銀行と対立したアメリカのその後の三人の大統領、ジョン・クインシー・アダムズ、アンドリュー・ジャクソン、マーティン・ヴァン・ビューレン、そしてマルクスとレーニン、ダンテと同時代のイタリア詩人グイド・カヴァルカンティ、中世アイルランドの新プラトン主義的神学者のスコウタス・エリウゲナ、マハトマ・ガンジー、C・H・ダグラス、ムッソリーニらである。第四一篇のはじめの部分では、彼はイタリア・ファシスト政府の公共事業を称賛している。また、彼が忌むべき人物としたのは、アメリカの銀行家ニコラス・ビドル、銀行の側に立ったアメリカの政治家ジョン・C・カルーン、ダニエル・ウェブスター、資本家あるいは武器商人であるメテフスキー、メロン、モルガン、クルップ、シュナイダー、そしてイギリスの政治家チャーチルである。(30)
彼は、『経済学のABC』では、マルクスの経済思想を批判したが、この『キャントウズ』では、彼を偉大な社会思想家としてとらえており、ロシアはマルクスやレーニンの理想を生かせていないとした。銀行家や武器商人は、ヨーロッパやアメリカを破滅に導いている張本人たちであり、チャーチルはその側に立っている政治家としてとらえられている。また、カヴァルカンティやエリウゲナへの関心は、彼の宗教思想を表しており、彼はエリオットの英国国教徒への改宗を批判的にとらえ、神をもっと普遍性のあるものとしてとらえようとしていた。
パウンドは、ジョイスやヘミングウェイ、さらにイェイツの非政治的な姿勢を批判するようにもなっていた。彼の友人たちで強い政治意識を持っていたのは、T・S・エリオット、ウィンダム・ルイス、ウィリアム・カーロス・ウィリアムズ、ナンシー・キュナードらであった。
エリオットは、一九二〇年代後半から一九三〇年代にかけて、共産主義やファシズムに関心を寄せ、自分が編集する『クライテリオン』を、政治論争の場にした(31)。しかし、彼は、政治的な問題を常にキリスト教徒として見ていた。モーラスに対する強い傾倒に表れているように、彼の政治的思想は伝統右翼的であり、ファシスト的であったとする見方もあるが、彼はファシズムと共産主義を批判的に見る姿勢は失わず、モズリーにもかかわりを持たなかった。イギリスでは、モズリーのイギリス・ファシスト連盟は、一部の知識人から支持されていたが、一九三四年、黒シャツの男たちがファシストの大会で暴力事件を起こし、それを契機に大部分の知識層の支持を失った。
ウイリアム・カーロス・ウイリアムズは、一九三四年になると、パウンドの影響を受けてダグラスの社会信用論を支持するようになった。社会信用論は、彼が好まない国家的な統制を基礎にしていたが、一方で個人的の自由に基礎を置いていた。アメリカでは、社会信用論は関心を持たれていなかったが、一九三一年に、『ニュー・エイジ』の編集人であったA・R・オレージがニューヨークで講演したのち、支持者が増え始めていた。文芸評論家のゴーハム・マンソンがニューヨークで発行していた『ニュー・デモクラシー』は、社会信用論の立場をとるようになり、パウンドと共にウイリアムズも寄稿者になった。また、パリでパウンドの指導を受けたあと、『フォーチュン』の編集者になっていたアーチボルド・マクリーシュも、同誌で、社会信用論を紹介した。(32)
ハーヴァード大学の学生でピッツバーグの製鉄会社の所有者の息子であったジェームズ・ロクリンは、一九三三年にパウンドに手紙を書き、その後ラパロを訪れてパウンドの指導を受け、一九三五年には、『ニュー・デモクラシー』の文学欄「ニュー・ディレクション」の編集に携わるようになった。一九三六年に彼は出版社、ニュー・ディレクションズを設立し、パウンド、ウイリアムズ、ガートルード・スタイン、マリアン・ムーア、カミングス、ヘンリー・ミラーらの作品を出版するようになった。その後、同社は、パウンドの著作のアメリカでの中心的な出版元になった(最近になってノートン社に買収された)。(33)
黒人のジャズ・ミュージシャン、クラウダーと暮らしていたナンシー・キュナードは次第に左翼に傾倒するようになり、一九三四年二月に、人種問題をテーマにしたアンソロジー『ニグロ』を出版した(34)。このアンソロジーには一五〇人が寄稿し、パウンドやウィリアムズ、ズコフスキーも寄稿した。パウンドは、フロベニウスのアフリカ研究に関するエッセイを寄稿した。
友人ではなかったが、G・K・チェスタートンは、この頃のパウンドの政治意識に共感を持ち、自分が編集する『G・Kのウィークリー』にパウンドの寄稿を載せ始めた。そして、翌年にはラパロを訪れてパウンドと会い、互いに好感を持ち、BBCの放送でパウンドを好意的に評したりもした。彼らが互いに好感を持ったのは、二人ともイタリアのファシズムに共感していたからであったのだろう。
(写真は、Pound, Ezra: Jefferson and/or Mussolini, Liveright, 1970.)
引用文献
1) de Rachewiltz, Mary:Discretions, A Memoir by Ezra Pound's Daughter,
Faber & Faber, 1971.p.21-22.
2) Jones, Peter(Introduction and ed.):Imagism Poetry, Penguin Books, 1972.
p.37.
3) チザム、アン:ナンシー・キューナード、疾走する美神(野中邦子訳)、河出書房新社、一九九一年。p.176-220.
4) Stock, Noel: The Life of Ezra Pound (An expanded edition), North Point
Press, 1982. p.288.
5) 斉藤孝:ヨーロッパの一九三〇年代、岩波書店、一九九〇年。p.34-36.
6) 青山吉信、今井宏編:新版概説イギリス史、伝統的理解を超えて、有斐閣、一九九二年。p.199-202.
7) トニオロ、G:イタリア・ファシズム経済(浅井良夫、C・モルテーニ訳)、名古屋大学出版会、一九九三年。p.96-100.
8) Carpenter, Humphrey: A Serious Character--The Life of Ezra Pound, Houghton
Mifflin Company, 1988. p.489-490.
9) ibid. p.490.
10) Pound, Ezra: The Cantos, Faber and Faber, 1986.p.202.
11) ibid.: Selected Prose 1909-1965, ed. by William Cookson, Faber and
Faber, 1973.p.
12) ibid.: Jefferson and/or Mussolini, Liveright, 1970. p.
13) ibid.: Selected Prose, p.208.
14) ibid.p.204.
15) ibid.
16) ibid.
17) ibid.
18) ibid.p.205
19) ibid.p.207.
20) ibid.p.205-206.
21) ibid.p.206.
22) ibid.p.232.
23) ibid.
24) Pound, Ezra: Jefferson and/or Mussolini, Liveright, 1970.p.23.
25) ibid.p.40.
26) パウンド、エズラ:詩学入門(沢崎順之助訳)、富山房、昭和五四年。(ABC
of Reading)
27) ibid., p.iv-v
28) Pound, Ezra: Selected Prose, p.209.
29)ibid.: Jefferson and/or Mussolini, Liveright, 1970.p.28.
30) Kearns, George: Ezra Pound. The Cantos (Landmarks of World Literature),
Cambridge University Press, 1989.p.38-39.
31) 高柳俊一:T・S・エリオットの思想形成、南窓社、一九九〇年。p.171-219.
32) Mariani, Paul: William Carlos Williams, A New World Naked, Norton,
1990.p.348-349.
33) Carpenter, op.cit.,p.527-531.
34) チザム、op.cit.、p.332.
この章では、パウンドの伝記的記述は、Stock, Noel : The Life of Ezra Pound
(An expanded edition), North Point Press, 1982.とCarpenter, Humphrey :
A Serious Character, The Life of Ezra Pound, Houghton Mifflin Company,
1988. を基本にした。
<エズラ・パウンド関連サイト>
http://www.lit.kobe-u.ac.jp/~hishika/pound.htm:
Ezra Pound (神戸大学文学部・菱川英一氏による英文サイト。パウンドの晩年の肖像写真、主要文献リスト、年譜、関連サイトへのリンクなどが掲載されています。主要英米詩人についての情報を得るための同氏作成サイトにリンクしています。)
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