No.2 March 1999
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歴史の中のエズラ・パウンド 第2回
第1部 世紀末
第1章 フロンティアとギルデッド・エイジ
1
エズラ・パウンドは一八八五年十月三十日に、アメリカ西部のロッキー山脈にある小さな鉱山町、アイダホのヘイリーで生まれた(1)。そこは、フロンティアという、地球をスプロールしていく西洋文明の最前線であり、またロンドン、パリという西洋文明の中心地から最も遠く離れた辺地でもあった。
カリフォルアで金鉱が発見され、一獲千金を目指してアメリカ各地、そして世界中から「フォーティナイナーズ」と呼ばれる男たちが集まってくる一八四九年のゴールドラッシュまで、ロッキー山脈の西はインデアンだけが住む未開拓の地だった。ゴールドラッシュのあと、コロラド、ネヴァダ、アリゾナ、アイダホ、モンタナ、ワイオミングなどでも次々と金鉱や銀鉱が発見され、各地に鉱山町ができたが、ヘイリーはそうしたフロンティアの鉱山町の一つだった。
パウンドは自分の生い立ちを綴った著書『無分別』(一九二三年刊)に、ヘイリーには通りが一本、ホテルが一軒、しかしサロンは四七を数え、新聞も一紙発行されていたと書いている(2)。ヘイリーは、西部劇に描かれているような町だったのだろう。
マーク・トウェインは、その頃のフロンティアの生活を経験し、それを小説の題材にした。小説家として成功する前のトウェインはユーモリストという職業講演家の中のスターだった。
彼のデビュー作『跳ぶ蛙』はフロンティアの男たちを描いた短編である。各地で語り好評を博したこの小話は、語り手の「私」が友人の頼みに応じてレオニダス・W・スマイリーという人物の消息を知るためにある金鉱の荒れ果てた宿泊所に老人を訪ね、ジム・スマイリーという別の人物についての話を聞かされる、という前口上のついた話である。老人が語るのは、いつも人をだましているスマイリーという男がだまされる話である。だましたり、だまされたりするところがフロンティアらしいのだろう。
トウェインはアメリカの田舎しか知らない作家ではなく、彼をベストセラー作家にした最初の本はヨーロッパ旅行記『赤毛布海外膝栗毛』(一八六九年)だった。彼は古いヨーロッパを皮肉な目で見て新興国アメリカの明るさを信じるようになり、それをこの本に書いて多くのアメリカ人に受け入れられたのである。
多くのヨーロッパ人にとっても、アメリカは希望の土地であり、明るさをイメージさせる国であったに違いない。しかし、アメリカを野蛮な国であると見る保守的なヨーロッパ人も多くいた。パウンドが生まれる数年前の一八八一年末から八三年初めにかけての約一年間、ロンドンの唯美主義者、そして売れない劇作家でもあったオスカー・ワイルドは、警句を散りばめた彼の巧みな話術に注目したオペレッタの興業師に誘われてアメリカへ講演旅行に出かけ、フロンティアを見た。帰国すると、彼は「善人のアメリカ人は死んだらパリへ行く。悪人のアメリカ人は死んだらアメリカに残る」と冗談を飛ばし、イギリス国内を駆けめぐった講演旅行では、「アメリカの個人的な印象」と題してフロンティアマンたちの犯罪と隣り合わせの毎日、芸術に対する無関心、酒や波乱に富んだ人生への関心、死を銃撃と結び付けて考える習癖などを語った。(3)
パウンドは、自分が生まれた時代のアメリカをトウェインのようにではなく、ワイルドのように見た。自伝的要素を多く取り入れた詩『ヒュー・セルウィン・モーバリー』(一九二〇年刊)で、彼は、「時代遅れの/野蛮に近い国で生まれた」(4)と書いている。そして、多くのアメリカ人を夢中にさせたトウェインを、彼は「三流の作家」であるとした(5)。彼にとって、アメリカの「田舎者根性」を題材にしていたトウェインの小説は「三文小説」に過ぎなかったのだろう。
2
パウンドが生まれた一九世紀の後半、アメリカは文化的にも経済的にも大きな転換点に立っていた。
北部を中心にした急激な経済の発展は一八五〇年代頃から始まり、一八六一年から一八六五年まで続いた南北戦争の間は一時停滞したが、戦後の復興が始まって七〇年代に入ると再び狂ったように活発化した。北部工業資本が南部農業資本に対して勝利を得たという結果を象徴するように工業生産は急激に伸び、アメリカ全体が工業化、近代化という大きな力に飲み込まれようとしていた。
詩人ウォルト・ホイットマンは、『民主主義の展望』(初版一八七一年)で、パウンドが生まれた二年ほど前の一八八二年六月二三日のイギリスの『タイムズ』の記事を注として引用している。その記事には、こう書かれている。「合衆国の驚くべき富の生産力は、・・・・すでに現在の最大の内乱(南北戦争)の痕跡をも、ほぼ全面的にぬぐい去ってしまった。アメリカのエネルギーと成功が現在の発展をもたらした・・・」(6)
世界一の工業国を自負していたイギリスさえもが驚きの目を持って、アメリカの急速な工業化と経済的発展を見ているというこの記事を引用して、ホイットマン自身はこう書いている。「わたしは合衆国が物質的に成功するだろうということについては少しも疑っていない。」「この共和国は間もなく(まだもし成し遂げていないとすれば)これまでに現れたすべての先例を出し抜いて、その結果、世界を制覇することになるに違いない。」(7)。ホイットマンにとって、この時期の経済的発展は、アメリカの民主主義の経済的な実現という夢を持っていた。
南北戦争で、軍隊に食糧、衣料、弾薬を供給した事業家や資金を用立てた銀行家ら多くの人々が、この時期に財を成した。また、一八七〇年の統計調査では、北部の一人当たり所得は十年前の二倍になったことがわかった(8)。
南北戦争後の急速な経済発展に特に強くはずみをつけたのは鉄道建設だった。鉄道業は政府の援助を受けて発展を続け、戦争終結四年後の一八六九年には最初の大陸横断鉄道を完成させた。戦後の八年間で鉄道の敷設距離は二倍になり、一九〇〇年にはアメリカの鉄道マイル数はヨーロッパ全体のマイル数を越えるまでになった(9)。
鉄道業で巨大な富を蓄積した富豪ヴァンダービルトが、電灯が輝くようになったニューヨークの五番街に建てた城のような大邸宅で、世界一多額の費用をかけたといわれるパティーを開いたのは、一八八三年の三月である(10)。グラント前大統領をはじめ約千人の客を招いて真夜中近い午後十一時半に始められ、午前四時まで続いたそのパーティーは、石油、鉄鋼、新聞、精肉など様々な業種から以後何人も現れてくる「アメリカの富豪」のデビューとなるものであった。
その年の五月には、マンハッタンと対岸のブルックリンを結ぶブルックリン・ブリッジが完成した。巨大な石造りの塔に直径一六インチのケーブルが渡された世界最長の橋は、アメリカの富と産業の実力を世界に誇示するものであったと同時に、ニューヨークを世界的都市として印象づけるものでもあった。
一八九〇年代には、アメリカは工業生産でイギリスを追い越して世界一の工業国になり、「アメリカの世紀」へと突入していった。
こうした急速な経済発展に伴って、アメリカ人の道徳観は大きく変わったとされている。経済活動が急拡大していく中で、強烈な事業欲によって抑制されることのない醜い物欲がばっこしたこの時代をトウェインは「ギルデッド・エイジ(金ぴか時代あるいは金メッキ時代と訳されている)」と呼んだ。彼が、同じ町に住む新聞編集者のチャールズ・ウォーナーと共著で、南北戦争後の経済ブームの中で平然と悪事を働く人物たちの「貪欲、搾取、投機熱」(11)などに題材をとった小説『ギルデッド・エイジ』を書いたのは一八七四年である。
トウェイン自身、ギルデッド・エイジの嵐の中を激しく生きた一人でもあった。ベストセラー作家となって一八七〇年に炭坑主の富豪の娘と結婚したあと、コネチカット州のハートフォードに大邸宅を建てた彼は、一八八〇年代になると作家としての仕事を続けながら傍らで印刷業や出版業への投資を始めた。そして失敗し、富を失って再び講演をして歩き、それで得た収入を借金の返済に充てるという金に振り回された人生を送った。『自伝』(12)の中で、彼は様々な事業に手を出して失敗ばかりしていた兄のことも語っている。
南北戦争前まで、アメリカでは、ブラーミンと呼ばれるボストンの知識人たちが精神的指導者として位置付けられていた。ブラーミンたちの指導者であったラルフ・ウォルドー・エマソンは、自然の中に神を見る超越主義の思想家だった。宗教が衰えていく時代の中で、なお精神的な価値観を追求するという高貴な精神を彼は代表していた。しかし、南北戦争後の経済的発展の中で新興の事業家たちが大きな力を手中にし、大衆が勃興していく中で、ブラーミンは急速に精神的指導者としての地位を失っていった。かつては人々が講演家として歓迎したエマソンのような思想家は人気を失い、トウェインのような現世的な「面白い話」を語るユーモリストたちが講演家として歓迎されるようになった。出版の中心地もボストンからビジネスの街、ニューヨークへと移っていった。
こうした時代の中で、トウェインと共にこの時代のアメリカを代表する作家ヘンリー・ジェイムズは、ヨーロッパの新しい文学思想であった自然主義に傾倒した(13)。彼の父親はニューヨークの裕福な事業家の息子として生まれ、スウェーデンボルグの神秘主義を信じた風変わりな宗教家だった。莫大な遺産を使いながら、彼はヨーロッパやアメリカ東部海岸の避暑地ニューポートに移り住んだあと、ボストン近郊のケンブリッジに住み、エマソンやヘンリー・デイヴィッド・ソローらブラーミンたちと交友した。彼は五人の子供を育て、そのうちの長男ウィリアムはアメリカ精神の意義を考察してプラグマティズムという哲学を築き、次男ヘンリーは偉大な小説家になった。
ヘンリー・ジェイムズはブラーミンの後裔であったと見ることもできるだろう。彼は、アメリカ文化を軽薄であるととらえ、一八七五年にアメリカを後にして以来、ロンドンの文壇で活動した。英国へ移住して間もなく、一八七八年に彼が書いてベストセラーになった『デイジー・ミラー』は、アメリカの新興富裕層の娘デイジー・ミラーと上流階級の青年フレデリック・ウインターボーンの恋愛を、ヨーロッパの旅行先というシチュエーションの中で描いた小説である。デイジー・ミラーは、工場主である父親をニューヨークの田舎町に残して母親、弟と共に夏をヨーロッパで過ごしている古いしきたりにとらわれようとしない粗野で開放的なアメリカ娘である。一方のウインターボーンは、デイジーと同じようにアメリカ人でありながらヨーロッパ的な価値観を重んじる礼儀正しい青年である。ウインターボーン青年は、デイジーの美しさに心を引かれながらも彼女の粗野な振る舞いを受け入れることができない。この二人の触れ合いを通して、ジェイムズはアメリカ文化とヨーロッパ文化を巧みに対比したが、そこには明るくて軽いアメリカ文化への彼の反発が強く現れている。
ジェイムズはアメリカが経済的に進歩しているということに価値を見いだそうとしなかった。彼にとってはアメリカは重厚なヨーロッパの文化を否定した国であった。彼はそうした国よりも、貴族階級がいてスラム街もある国にこそ小説に書くに値する人生の真実があると考えてイギリスへ移住し、古い文化に彩られたイタリアを頻繁に旅した。
彼のアメリカ文化への反発は、年を経るにつれて強まっていった。ほぼ二〇年をイギリスで過ごした後、一九〇三年から四年にかけて約一年間アメリカ各地を旅行した後、『アメリカ印象記』(一九〇七年刊)(14)の中で彼が語っているのは、アメリカの「むき出しの富の印象」であり、「封建制度の長所を欠くがゆえ」の「アメリカの村落の醜悪さ」である。彼のそうした言動は、「反動」あるいは「反ユダヤ主義」の立場に立つものとさえいえたが、彼が反発し続けたのは南北戦争後のアメリカ社会が新たに抱えこんだ「精神」よりも「富」という文化的な矛盾であった。
イギリスの指導的な知識人であり、詩人・批評家・そして教育者でもあったマシュー・アーノルドが講演旅行のためにアメリカを訪れたのは一八八三年である。その後、一八八八年に彼は『合衆国の文明』という評論を書き、アメリカは物質的には成功しているが、人間的な問題は解決されていないと批判した。彼はアメリカは美や高貴さに対する関心を欠いており、「凡庸にして卑小なるものの支配を永久にするために全力を尽くしている」と批判した。彼は、リンカンが典型的なアメリカ人であるとし、リンカンは「洞察力が鋭く、思慮深く、ユーモアに富み、正直、勇敢、果断な人」であり、「心からの敬意と称讃に値する資質の持ち主」であるが、「高貴さというものはない」とした。さらに彼はアメリカでは、すべてが高貴さ、そしてそれを崇拝することから生まれる高揚感を抑える方向に働き、「平均人」讃美は政治家や政論家の宗教にまでなっているとし、アメリカの「面白い男」好きは国家的災厄であるといった。(15)
この評論を読んだとき、トウェインは猛反発した(16)。「面白い男」とは、彼のようなユーモリストを指していると察したからだけではなかった。彼は人類の未来はヨーロッパにではなくアメリカにあると信じていたからであった。
ホイットマンやトウェインはアメリカ民主主義に明るい未来を見、ジェイムズやアーノルドは失望した。もっともアーノルドが失望したのはアメリカだけではなく近代という時代であった。彼は『合衆国の文明』の中で自国イギリスについてはこう述べている。「わが国が次第に民主的になるにつれて、その病患はたぶん、上流階級の唯物主義、中産階級の俗悪さ、下層階級の動物性ということではなくなるであろう。だが、平均人の支配から生まれる凡庸と卑小との支配もまた一つの病患である。」(17)
3
パウンドがヘイリーで育てられたのは生まれてのち十一ヵ月ほどである。父、ホーマー・パウンドは、その町の合衆国土地登記事務所長という官吏であった。事務所には数百マイル四方から、プロスペクターと呼ばれる金探しの男たちが登記の申請に来た。彼らは数エーカーの採掘権を与えられ、毎年最低限の貴金属を政府に提出することを義務づけられ、怠れば他の人間がその土地の採掘権を主張できる制度になっていた(18)。プロスペクターたちの間でトラブルが発生することも珍しくなく、ホーマーの仕事は気楽なものではなかった。
パウンドの父をこの職につけたのは祖父のサデウス・コールマン・パウンドだった。彼もギルデッド・エイジの急激な社会変化の中で上昇し、そして転落した一人だった。ウィスコンシン州のチペワ・フォールズに住み、林業会社の経理員からやがて経営者の一員となった彼は、一八七〇年には州の副知事になり、その後共和党員として合衆国の議員になり、婦人参政権や黒人の教育を実現するよう訴えるなど、政治家として活躍した。その後、彼は鉄道業に進出したが、その会社は大資本に吸収され、林業会社も金融混乱の中で破産し、パウンドが生まれた二年前の一八八三年には、彼はつつましく農業を営む境遇に転落していた。ヘイリーの近くに採掘権を持つ銀鉱も富を生むことはなかった。パウンドは、サデウスのことを『キャントウズ』の中で語っているが、彼の転落はパウンドに強い没落感を抱かせるものであったようだ。
サデウスは、軍学校へ入れても逃げ帰ってくるような学校嫌いだった息子ホーマー・パウンドを、政界とのコネを利用して、大統領が任命権を持っている合衆国土地登記事務所長の職に就けたようである。ホーマーは、この職に就いている時、ニューヨークのイザベラ・ウェストンと知り合い、一八八四年十一月に結婚した。イザベラは、銀行証券の売買や飼料販売などを手がけて裕福だった叔父と叔母の家に母とともに同居していた。彼女の母、すなわちパウンドの祖母は詩人ロングフェローの血縁者だった。母娘が、そのように親戚の家に身を寄せていたのは、父の行方がわからなくなっていたからである。母娘を同居させていた叔母は大統領の就任パーティーにはいつも出るという社交好きであり、ホーマーと彼女が大統領の就任パーティーで知り合ったのがホーマーとイザベラの結婚の縁になった。
パウンドはホーマーとイザベラが結婚して一年後に生まれた。その後夫婦に子供は生まれず、彼は一人っ子になった。
パウンドが生まれて十一カ月後の一八八六年九月に一家は厳しい生活を強いられるヘイリーを去った。一家は祖父サデウスの家に身を寄せた後、ニューヨークへ出て母イザベラの叔父叔母が経営するアパートに住んだ。その後、父ホーマーが合衆国造幣局の分析部の技師としての職を得て、一八八九年の六月、パウンドが四歳になる少し前に一家はフィラデルフィアに移り住んだ。
当時、ニューヨクなどと同じように、フィラデルフィアにもヨーロッパからの移民が押し寄せていた。移民に押し出されるようにして中流階級は郊外へ移り住み、当時の市の辺縁部に住んでいたパウンド一家も、翌年には隣接するジェンキンタウンに移り住んだ。農村の中心部だったジェンキンタウンは次第にフィラデルフィアのベッドタウンになり、パウンドの父親も列車による通勤者になった。さらに一八九二年には、一家はジェンキンタウンに隣接するウィンコーテに家を建てて移り住んだ。
その町には、『サタデイ・イブニング・ポスト』の編集人として有名になり、大きな財産を築いたジョージ・H・ロリマー、『レディーズ・ホーム・ジャーナル』の発行人でのちに『サタデイ・イブニング・ポスト』を買収して、ロリマーの雇用主になったサイラス・カーティス、フィラデルフィアの大商人でアメリカの百貨店業の始祖とされているジョン・ワナメーカーといった人々が住んでいた。彼ら成功者は大邸宅を建て、ウィンコーテはフィラデルフィアの郊外として急速に発展した。パウンドは、こうしたギルデッド・エイジのアメリカの興隆を間近に見て育った。(19)
一九二一年にトーマス・ハーディに宛てた手紙でパウンドはこう書いている。「私はアメリカの郊外から来ました。・・・そこで生まれたのではありません。・・・そこでは私の両親はよそ者でした」(20)。彼にとって、経済的に発展しているとはいえアメリカは寂しい国だったのだろう。
パウンドが生まれた一八八五年にホイットマンは六六歳、トゥェインは五〇歳、すでにイギリスに移住していたジェイムズは四二歳だった。やがて彼らを追って行くパウンドがウィンコーテに出来た最初の公立学校に入学したのは一八九四年九月、九歳になる少し前である。一八九七年九月、十二歳になる少し前には、彼は当時流行していた軍学校スタイルの私立学校チェルテハム・ミリタリー・アカデミーに入学した。
この学校に入学した翌年一八九八年の夏、一二歳の時に、パウンドはニューヨークでアパートを経営して裕福だった母親の叔母に連れられて英国、ベルギー、ドイツ、フランス、イタリア、スペインと広くヨーロッパを駆けめぐった。のちにこの大叔母も没落したが、『キャントウズ』第八四編の中で、パウンドは、大叔母も「あのでかすぎたホテルに投資してやっぱり同じ目に会った/けれどもおかげでヨーロッパ中を見てまわれた/タンジールでラバに乗ったり」(21)と書いている。
ヨーロッパはパウンドに鮮烈な印象を与えた。彼は『無分別』(22)の冒頭でも、大叔母に連れられて行ったこのヨーロッパ旅行の思い出を語っている。
引用文献
1)パウンドの伝記的記述は、Stock, Noel:The Life of Ezra Pound(An expanded
edition), North Point Press,1982.(Stock, Life)を基本にした。そのほかに、特に第二次大戦中に関してはRedman,
Tim: Ezra Pound and Italian Fascism, Cambridge University Press,1991.、戦後に関してはCarpenter, Humphrey :
A Serious Character--The Life of Ezra Pound, Houghton Mifflin Company,1988.
(Carpenter, Life) 、 Torrey, E. Fuller : The Roots of Treason, Ezra Pound
and the Secret of St. Elizabeth, Harcourt Brace Javanovich,1984.(Torrey)などを参考にした。
2) Pavannes and Divagations, New Directions, 1958. 29 (写真).
3) Holland,Vyvyan: Oscar Wilde, Thames and Hudson,1960,1966, 46.
4) エズラ・パウンド詩集(新倉俊一訳)、角川書店、一九七六年(詩集、新倉訳)、45.
5) Carpenter, Life, 11.
6) ホイットマン、ウォルト:民主主義の展望(鵜木奎次郎訳)、アメリカ古典文庫五「ウォルト・ホイットマン」、研究社、一九七六年、171.
7)ibid., 170
8) Morison, Samuel Eliot et al.: A Concise History of American Republic.2nd
ed. Oxford University Press, 1983, 325
9)ibid.
10) Clifton,Daniel(ed.),Chronicle of America,Chronicle Publications, 1989.,
458.
11))Ousby, Ian : The Cambridge Guide to Literature in English, Cambridge
University Press,1988, 393.
12)トウェイン、マーク:自伝(渡辺利雄訳・解説)、アメリカ古典研究文庫6「マーク・トウェイン」、研究社、一九七五年、9.
13) ヘンリー・ジェイムズの伝記的記述は主にKaplan, Fred : Henry James, The
Imagination and Genius, A Biography, William Morrow and Co.,1992.による。
14)ジェイムズ、ヘンリー:アメリカ印象記(青木次生訳)、アメリカ古典研究文庫一〇「ヘンリー・ジェイムズ」、研究社、一九七六年。
15)岩永健吉郎ほか訳:ヨーロッパ人のアメリカ論、アメリカ古典文庫二一、研究社、一九七六年、228.
16) Kaplan, Justin, Mr. Clemens and Mark Twain - A Biography, Simon &
Schuster, 1966, 229.
17) 岩永健吉郎ほか訳:ヨーロッパ人のアメリカ論、228.
18) Carpenter, Life, 3.
19)ibid., 23-24.
20) Ackroyd, Peter :Ezra Pound, Thames and Hudson, 1981, 5.
21)詩集、新倉訳、342.
22) Pavannes and Divagations, 3.
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