No.19 November, 2000

Series


歴史の中のエズラ・パウンド 
第19回
 
第2部 モダンエイジ

第11章 ラパロの詩人
(後半、Section 3-4)



 一九二六年になると、パウンドは左翼思想にも関心を持つようになった。その年の十二月、アメリカの共産主義者の雑誌、『ニュー・マッシズ(新しい大衆)』は、その雑誌を読んでアメリカへ行きたくなったと書いたパウンドの手紙を、「パウンド、革命に参加」という見出しを付けて掲載した。パウンドは、『ニュー・マッシズ』の編集者に、ジョン・リードの『世界を揺るがせた十日間』とスコット・ニアリングの『ドル外交』を送ってくれるよう依頼した。

 その年の秋に、パウンドは、自分が編集する新しい雑誌の発行を計画し、ヘミングウェイ、カミングス、ジョン・ロドカーらに寄稿を頼んだ。その雑誌は、一九二七年春に、『エグザイル(亡命者)』という誌名で、パリで発刊された。ロドカーの小説の抜粋、ヘミングウェイの詩などを掲載し、パウンド自身の書いたものとして、『キャントウズ』第二十篇の一部と政治をテーマにした論評を載せた。

 その『国家』(1)と題した論評では、彼は、「共和国とは公衆の利便を意味するものであり、意味しなければならない」とし、その意味を失えば害になり、修正されなければならないと書いている。「ファッショとロシア革命は、共に興味深い現象である」としているが、彼は革命の必要性には疑問を呈している。そして、資本主義的帝国主義国家を、いまだ実現されていないユートピアと比較して評価してみるだけでなく、過去の封建国家や共和的、あるいは専制的小都市国家とも比較してみなければならないとし、社会正義、あるいは芸術、科学、文学などの永遠的な生産物においては、資本主義的帝国主義国家の評価は、それらの過去の国家と比べて否定的であるとしている。さらに、彼は、芸術家は革命に参加しないとし、芸術家は革命、反動、反革命、反反動のずっと先にいて、永遠の評価に耐え得る仕事をするべきであると書いている。彼はファシズムに関心を持ちながらも、それとの距離を保とうとしていた。

 この論評の中で、彼は、ケインズとケンブリッジ大学の経済学教授アーサー・ピグーの名を挙げ、消費財と恒久的な財を区別していない経済学者の無能ぶりを皮肉った。彼が、消費財としているのは、新鮮な野菜、贅沢品、安易な造りの家、偽りの芸術品、書物らしき物、戦艦であり、耐久的な財としているのはしっかりと立てられた建造物、道路、公共建造物、運河、よく考慮された植林、そして恒久的な財として挙げているのは科学的な発見、芸術作品、古典である。

 一九二七年秋に発行された二号目の『エグザイル』では、パウンドは、アメリカのすさんだ生活の根源は、「公共的なことと私的なことの混同」、「自己の問題や思想に秩序を確立しないまま、他人の問題に首を突っ込むことにある」という考えを述べた(2)。彼が、ここで提出しているのは儒教である。儒教は、自分自身のうちに秩序を打ち立てることの重要性を説いているとし、それを怠って他人の問題に首を突っ込んでいくことを悪と見る思想は、キリスト教にも、イスラム教にも、ユダヤ教にもないとする彼は、儒教の道徳に強い関心を持ち始めていた。

 この頃、彼は、一八五八年にフランス語で出版されたJ.P.G.ポウシエによる孔子の『大学』の翻訳に取りかかっていた。直接の動機は、シアトルにあるワシントン大学のグレン・ヒューズ教授からの依頼であった。教授は、自分が編集しているシリーズの中の一冊として、パウンドに自伝の執筆を依頼してきた。しかし、パウンドは気が進まず、代わりに孔子の翻訳を提案して受け入れられた。この本は、『孔子の翻訳、大学』(3)として、一九二八年四月に出版された。

 一九二七年の十月、パウンドは『ダイアル』から年間賞を贈られた。彼は、賞が『キャントウズ』と彼の詩作全体を対象とすることを条件にして受賞したいと申し出て、受け入れられた。

 パウンドの受賞を告知した『ダイアル』の一九二八年一月号には、『仮面』(4)の、エリオットによる評も掲載された。『キャントウズ』以外のパウンドの主要な詩を集めた『仮面』は、一九二六年十二月に出版された。評の中で、エリオットは、パウンドの功績を讃えたのち、最後に「パウンド氏は、何を信じるのだろうか」と書いた。(5)

 まだ公にしていなかったが、エリオットは、前年の六月に洗礼を受けて英国国教徒になっていた。改宗する前に、彼は、「バートランド・ラッセル氏は、自分が死んだら朽ちてしまうと信じている。私はこのような確信をもって、何かを信じることはできない」と書いていた。また、マルクス主義者に対しては、「彼らは、自分たちが信じていることに確信を持っている。私は、自分が信じていることに関しても懐疑の念を持っている。この懐疑の念から逃れられるとは思っていない」と書いていた。(6)

 エリオットにとって、改宗は、家族の宗教的歴史と遺産の清算という意味も持っていたとされている(7)。彼の祖父は高名なユニテリアン派の牧師であったが、ユニテリアン派は近代化に呼応した合理的・世俗的ともいえる宗派であった。人間は個人の努力によって救われるというユニテリアン派の考え方は人間の肯定であり、進歩を信じることであり、産業社会の出現とブルジョワ階級の興隆に呼応するものでもあった。しかし、カソリックの正統派からみれば、それは世俗化にほかならなかった。エリオットの家族の場合、祖父の世俗化した宗教への信仰は、父の代になると産業界への進出という形をとった。エリオットは、そうした家族の宗教的・精神的歴史を否定的にとらえたのである。(8)

 改宗して間もなく、一九二七年十一月に、エリオットは帰化して英国籍を得た。そして、一九二八年に刊行した評論集『ランスロット・アンドリュース』の序文では、「文学では古典主義、政治では王党派、宗教ではアングロ・カソリック」と書いた(9)。彼のその宣言は、フランスで、復興的な運動「アクション・フランセーズ」を指導していたシャルル・モーラスの強い影響を受けていた。アンシャン・レジーム(旧体制)を理想化し、フランスのカソリック知識人の共感を呼び起こしたモーラスは、フランスにおける政治的、社会的、文化的、その他あらゆる混乱は「フランス革命をもって始まった」とし、「古典主義、カソリック、王党派」を掲げた(10)。しかし、彼の思想はカソリックを掲げていたにもかかわらず、一九二六年にはローマ教会から非難され、第二次世界大戦時には、彼はペタンのヴィシー政権とナチの側に立ち、戦後投獄された。

 エリオットのモーラスへの傾倒は、彼が伝統的右翼思想に傾倒していたことを示している。そして、彼が、「パウンド氏は何を信じるのだろうか」という言葉によって問いかけたのは、パウンドの宗教思想であった。パウンドは、この頃、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教というヨーロッパと地中海世界の主要な宗教をすべて否定し、宗教よりも道徳、倫理に関心を持ち、それが儒教への関心となって表れていた。

 ジョイスの『ユリシーズ』は売れ続け、版を重ねていた。そうした中で、ジョイスは次の作品、『進行中の作品』(のちの『フィネガンズ・ウェイク』)に取り組んでいた。ジョイスは、その作品の原稿をパウンドに送ったが、パウンドの評価は否定的であった。パウンドは、後の一九三七年には、私信の中で、その作品を、「意識の下痢」と評し、ジョイスは「退行中」であると皮肉った(11)。道徳や政治に強く傾倒していた彼は、ジョイスの作品に対する関心を失っていた。

 パウンドの政治への傾倒には、多くの友人たちが気にとめるようになっていた。イェイツは、一九二八年二月に静養のためにラパロを訪れ、毎日のようにパウンドに会い、詩のパンクチュエイションなどについて彼の意見を聞いていた。グレゴリー夫人に宛てた手紙で、彼は、「パウンドは、世間一般に対して、モード・ゴーンとほとんど同じような(政治的、経済的)意見を持っています。ウィンダム・ルイスがいうように革命ばかになっています」と書いた(12)。

 そして、翌年刊行した『エズラ・パウンドに宛てた文集』で、イェイツは、「親愛なるエズラ君、貴国の上院議員などに選出されてはなりません」(13)と忠告した。イェイツは、一九二三年一月に、アイルランド議会上院の議席を提供されて受諾し、一九二八年七月まで議員を務めた。パウンドは、イェイツのアイルランド国民運動や上院議員を通しての政治への関与に、詩人の一つの生き方を見ていたのかもしれないが、イェイツは六年目にアイルランド上院議員の職をまぬかれてほっとしたといい、「われわれ興奮性の職業の者は、・・・・古参の法律家、銀行家、実業家にはとても、太刀打ちできるものではありません」(14)と書いている。

 一九二八年五月、パウンドは、オルガ・ラッジの演奏会のためにウィーンを訪れ、アメリカのカーネギー平和基金のヨーロッパ代表者であったメンスドルフ伯というオーストリア人と政治について意見を交わした。二人は、基金によって、戦争の原因が研究されるべきだという点で意見が合い、メンスドルフ伯が、パウンドの意見も入れて基金の理事長宛ての手紙を書いた。その手紙は、戦争の原因として、軍需品の強大な生産と販売、過剰生産とダンピング、利権グループの陰謀をあげ、軍需品と兵器についての貿易実態を把握すべきであるという意見を述べていた。ラパロへ帰ったパウンドのもとに、メンスドルフ伯から届けられた基金理事長からの返事の写しは、慇懃ではあったが真剣に取り合っていない内容であった。パウンドはアメリカの富裕階級に強い失望を感じ、以後、基金の理事長ニコラス・マレー・バトラーに激しい敵意を抱くようになった。(15)

(写真は、The Letters of Ezra Pound 1907-1941, Ed. by D. D. Paige, Harcourt, Brace and Company, 1950.)
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 一九二八年の夏、パウンドの両親がラパロを訪れた。彼らは、ラパロが気に入り、生活費も安くてすむので、そこに住み続けることになった。

 その年の九月には『キャントウズ第一七篇−第二七篇の草稿』がロンドンのジョン・ロドカーによって出版された。この詩集の主要な柱は、ルネッサンスのイタリアの考察と現代との対比である。『エグザイル』の論評で、資本主義的帝国主義国家を、過去の封建国家や共和的あるいは専制的小都市国家とも比較してみなければならないと書いた彼は、そうした比較によって得た認識を、これらの『キャントウズ』で詩にした。

 彼が強い関心を持ったのは、メチェナティズモ(学芸愛護)であったといえるだろう。その視点に立って、彼は、シジスモンド・マラテスタ、フェルラーラのエステ家のニッコロ・デステ、メディチ家のジョヴァンニ・デ・メディチ、ロレンツォ・デ・メディチらを題材にした。メディチ家の創設者ジョヴァンニは、「威厳、人種、選挙運動は、金を前にしては無力である」という家訓を語りながら築き上げた膨大な富を、メチェナティズモにつぎ込んでいく。そうしたルネッサンスの銀行家を、現代のロンドンの支配者たちや、政治家にとりいったり、詐欺まがいの方法に頼ってまで富を築こうとしていると彼が見るアメリカの事業家たちと対比させた。また、こうした詩の中に、彼は、女たちとの愛を書いた詩を織り込んだ。(16)

 一一月の終わり頃、再びラパロにやってきたイェイツは、パウンドと『キャントウズ』について論じ合った。イェイツは、『キャントウズ』に明解な構成がないことに疑問を感じていた。この詩には色鮮やかな王、女王、悪漢たちが登場するのに、なぜ順序立っていないのか。イェイツのそうした感じ方に対して、パウンドは、やがて「第百篇が仕上がれば、バッハの『フーガ』に似た構成があらわれる」(17)と答えた。しかし、そのように説明しながらも、パウンド自身も『キャントウズ』の形式については悩んでいた。

 一九二七年四月に父ホーマーに宛てた手紙で、彼は、この詩が現段階では漠然としていると述べている。そして、この詩の目安として三点をあげている。一つは生きている人間が死者たちの世界へ下りていくこと、第二点は歴史の繰り返し、そして第三点は変身を遂げて日常生活から神たちの住む永遠の国へ移り住むことである。(18)

 パウンドは、イェイツにもそうした説明をした。イェイツは、『エズラ・パウンドに宛てた文集』(19)の中で、パウンドのそうした考えを述べ、さらに彼が作り出そうとしているのは「色と影を散在させることにより、すべてが廻り、あるいは浮き上がってくる画像である」とし、パウンドは、『ユリシーズ』のような、現代芸術にふさわしい作品を書き上げようとしているのだと書いている。現在では、『キャントウズ』の技法については、コラージュであるという解釈がされているが、こうした技法についての解釈は、すでにこの時点で、パウンドの意図を伝えるという形で、イェイツによってなされていたと言えるだろう。

 一九二八年秋、『エグザイル』第四号が刊行された。この号は最終刊でもあった。ウィリアムズやズコフスキー、マッキャルモンらの詩や散文作品、批評などを載せ、彼自身は四〇ページにわたって主に政治的な論評を書いた。官僚についての考察では、「官僚は悪疫である」と書き、レーニンの官僚批判に共鳴し、「高位に就く官僚は、孔子の『大学』と『論語』に基盤を置かなければならない」という考えを述べた(20)。現代が範とすべき過去として、そして西洋が範とすべき東洋として、彼は古代中国の道徳について述べた。

 彼は都市論も書いた。未来の都市は、四角形の街区や直角に交差する道路によって作られるのでなく、スピードに対応した流線型をなすだろうとし、住宅は光と空気に溢れていなければならない、またオフィスビルには地下に駐車場が作られていなければならない、という考えを述べた。(21)

 こうした都市論から、彼の中では、輝かしい過去への郷愁とモダンな未来のイメージが交錯していたことがうかがえる。

 一九二八年秋から、彼は、再び『ダイアル』に寄稿するようになった。十月号には、ボリス・ド・シュレーゼルが書いたフランス語による『ストラヴィンスキー』論の翻訳の第一回分を寄稿し、十一月号では、『ドクター・ウィリアムズの立場』(22)というタイトルでウィリアム・カーロス・ウィリアムズについて書いた。

 一九二九年一月、パウンドは、『ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン』に、「いかに読むか、あるいはなぜ」という長い論評を寄稿した。この読書論、文学教育論の中で、彼は読むべき古典として、孔子、ホメーロス、オヴィディウス、カトゥラス、プロペルティウス、プロヴァンス詩集、ダンテ、カヴァルカンティ、ヴィヨン、ヴォルテール、スタンダール、フローベール、ゴーチェ、コルビエール、ランボーを挙げた。一九三一年に、『いかに読むか、あるいはなぜ』(23)は、ロンドンで単行本として出版された。

 一九二九年頃から、パウンドはドイツの人類学者、レオ・フロベニウスの思想に強い関心を持ち始めた。フロベニウスは、「世界の民族学の歴史における巨人の一人であり天才であった」(24)とされているドイツの民族学者であり、一九〇四年からアフリカでのフィールド調査を重ねて、アフリカ文化の特質を世界に紹介し、さらにヨーロッパ文化をアフリカ文化と比較して検討した。文化圏という概念を、最初に定義して用いたのは、彼であるとされている(25)。

 パウンドが特に熱中したのは、フロベニウスが使った「パイデウマ」という概念だった。フロベニウスは「パイデウマ」という概念を「文化の教育的なエッセンス」「人類の師としての文化」という意味で用いた。彼のフロベニウスに対する関心は、一九三〇年代になって、さらに高まっていった。

引用文献

1) Pound, Ezra: Selected Prose 1909-1965,ed. by William Cookson, Faber and Faber, 1973.p.450-453.
2) ibid., p.186.
3) Pound, Ezra: Confucius ( The Unwobbling Pivot, The Great Digest, The Analect ), New Directions, 1969.
4) Pound, Ezra: Personae, The Shorter Poems of Ezra Pound, Ed. by Lea Baechler and Walton Litz, New Directions, 1990.(仮面、小野正和、岩原康夫訳、書肆山田、一九九一年)
5) Stock, Noel: The Life of Ezra Pound (An expanded edition), North Point Press, 1982. p.273.
6)アクロイド、ピーター:T・S・エリオット(武谷紀久雄訳)、みすず書房、一九八八年。p.181-182.
7) 高柳俊一:T・S・エリオットの思想形成、南窓社、一九九〇年。p.23.
8) アクロイド、ピーター、op.cit.,p.6、Gordon, Lindall: Eliot's Early Years, Oxford University Press, 1977. p.12.
9) 高柳俊一、op.cit.p.111.
10) ibid.
11) Selected Letters of Ezra Pound 1907-1941, Ed. by D. D. Paige, Faber and Faber, 1950.p.292.
12) Stock, Noel: op,cit.,p.274.
13) イェイツ、W・B:ヴィジョン(鈴木弘訳)、北星堂、一九八八年。p.31.
14) ibid.,p.31.
15) Stock, Noel: op,cit.,p.275-277.
16) Makin, Peter; Pound's Cantos, The Johns Hopkins University Press, 1992.p.159.
17) イェイツ、W・B、op,cit.,p.4.
18) Stock, Noel: op,cit.,p.268-269.
19) イェイツ、W・B、op,cit.,p.5.
20) Pound, Ezra: Selected Prose, p. 187-189.
21) Stock, Noel: op,cit., p.279.
22) Pound, Ezra: Literary Essays of Ezra Pound, New Directions, 1968.p.389.
23) パウンド、エズラ:詩学入門(沢崎順之助訳)、富山房、昭和五四年。(ABC of Reading)で付録として翻訳されている。
24) 大林太良:現代文化人類学のエッセンス、ぺりかん社、一九八七年、p.120。(高田美一:フェノロサ遺稿とエズラ・パウンド、近代文芸社、一九九五年。p.284.での引用による)
25) 綾部恒雄編:文化人類学十五の理論、中央公論社、一九八四年。p.22.

 この章では、パウンドの伝記的記述は、Stock, Noel : The Life of Ezra Pound (An expanded edition), North Point Press, 1982.とCarpenter, Humphrey : A Serious Character, The Life of Ezra Pound, Houghton Mifflin Company, 1988. を基本にした。


エズラ・パウンド関連サイト
http://www.lit.kobe-u.ac.jp/~hishika/pound.htm: Ezra Pound (神戸大学文学部・菱川英一氏による英文サイト。パウンドの晩年の肖像写真、主要文献リスト、年譜、関連サイトへのリンクなどが掲載されています。主要英米詩人についての情報を得るための同氏作成サイトにリンクしています。)


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