No.18 October, 2000

Series


歴史の中のエズラ・パウンド 
第18回
 
第2部 モダンエイジ

第11章 ラパロの詩人
(前半、Section 1-2)



 パウンドがラパロに住み始めた一九二五年のはじめ、ムッソリーニは、すでに確固とした支配体制を確立しつつあった。その五年前、一九一九年一一月の総選挙では、政党「戦闘ファッショ」はムッソリーニ、マリネッティ、のちにファシストに反対してアメリカへ亡命した音楽家のアルトゥーロ・トスカニーニらを候補者に立てたが、ミラノの投票数二七万票のうち、四六五七票しか得ることができず、完敗した。選挙の翌日、大敗したムッソリーニを嘲笑した社会党の機関紙『アヴァンティ』の編集所の前で、選挙の勝利を祝っている集会に、手榴弾が投げ込まれた。それをファシストの仕業と見た社会党幹部の要求によって、ムッソリーニは逮捕され、二十四時間拘留された。この事件によって「戦闘ファッショ」は過激な暴力集団とみなされ、急激に支持を失った。(1)

 しかし、ムッソリーニは、各地に「戦闘ファッショ」とは別個に組織されつつあった多くのファッショを組織化し、一九二一年五月の総選挙では、保守勢力と選挙連合を組むことによって、三五人の議員を当選させた。さらに、八月には社会党と平和協定を結び、一一月に「戦闘ファッショ」を「全国ファシスト党」へと組織変えした。

 ファシストが、ローマ進軍に決起したのは、一九二二年十月二八日である。このクーデターに対してファクタ首相は戒厳令を発して対処しようとしたが、国王は署名を拒否し、逆にムッソリーニに組閣を命じ、社会党と共産党以外のほとんどの政党とグループが参加する連立政権として、ムッソリーニ政権が成立した。一九二二年十二月に、ムッソリーニは統制力を強化するために、ファシズム大評議会を設置し、その後、投票総数の二五%を超えた最高得票の党に全議席の三分の二を与えるとする新憲法を導入し、一九二四年四月の選挙でファシスト・グループは定数五三五議席中の三七五議席を得た。パウンドがラパロに住み始めた時期である一九二五年一月三日には、ムッソリーニは議会での演説で野党との対決的な姿勢を明確にし、独裁体制を確立しようとしていた。(2)

 「フィレンツェやシエナ----ゾッとする。ファシストが台頭してのさばるようになった。すべては憎しみから生まれたのです。あのフィレンツェのダンテ・フェスティバルで、ご臨席の王様に向かって叫ぶ「万歳!」を聞くと、ああ! 歯が浮いてくる。まったくの偽善、憎悪の叫びだ」(3)。D・H・ローレンスは、自伝的政治小説『カンガルー』(一九二三年刊)の中で、自分をモデルにした主人公の作家リチャード・ラヴァト・サマーズに、こう語らせている。

 この小説の舞台は、第一次世界大戦後のオーストラリアのシドニーである。リチャードは、妻と共にシドニーに着き、郊外のバンガローを借りて住み、隣に住むコールカット夫妻と知り合いになる。夫のジャック・コールカットは、自動車修理工場の主任で、ディガーズ・クラブという復員兵で構成されている国家主義的な団体の幹部でもある。リチャードは、ジャックや左翼団体の周辺にいる彼の義弟によって、国家主義的団体の指導者や左翼団体の指導者に紹介される。ヨーロッパの状況を聞き出そうとする左翼団体の指導者に答えて、リチャードは、イタリアのファシズムに対する、このような激しい嫌悪感を表明するのである。

 ローレンスは、第一次世界大戦が終わった後、一九一九年終わり頃にイギリスを去り、二年ほどイタリアに住んだ後、一九二二年二月にアメリカに向かった。その途中セイロンに寄り、そこに四〇日間ほど住んだ後、さらにオーストラリアに行き、五月から八月までの三カ月余り、シドニー郊外に住んだ。

 イギリスという旧世界の民主主義も、オーストラリアという新世界の民主主義も信じることができない。そして、力を得ようとしている新しいイデオロギーである共産主義とファシズムの現実を、シドニーの政治活動家たちとのかかわりの中で見て、恐怖感さえも感じるようになっていくリチャードは、ローレンスの姿でもあるといって良いのであろう。リチャードは政治を信じることができず、原始や愛の観念の追求へと関心を向けていく。

 バートランド・ラッセルは、『自叙伝』(一九六七〜一九六九年刊)の中で、「私は強固な民主主義者であったが、ローレンスは政治家が考えつく前にファシズムのすべての哲学を展開していた」(4)と書いている。第一次世界大戦が始まった頃、オットリン・モレル夫人の紹介でローレンスと知り合ったラッセルは、反抗的なローレンスが自分と同じような考え方をしているのではないかと考えていたが、次第に真っ向から対立する思想を持っていることに気づいたと言っているのである。

 ラッセルは、ファシズムをロマン主義と強く関連付けてとらえていたのであろう。ローレンスのロマン主義に、ラッセルはファシズムの哲学を感じとったのであるともいえるだろう。しかし、『カンガルー』を書いたとき、ローレンスはイタリア・ファシズムに対して反発するだけでなく、政治に絶望していた。

 イタリアでファシズムが確立した一九二〇年代の半ば、ドイツではナチズムが根を張ろうとしていた。一九二二年夏からドイツでは、大戦後続いていたインフレが激化し、一九二三年には破局的様相を呈した。大地主は巨額の負債を一掃し、資本家も莫大な利得を得たのに対し、労働者や中間層は大きな苦難にさらされた。一九二三年一月には、賠償金の支払い不履行のためにフランスとベルギーが、ドイツ経済の心臓部ルール地方を占領した。こうした政治経済情勢の中で右翼的な政治団体であるドイツ労働者党に入党して、首領になったアドルフ・ヒトラーは、一九二三年一一月八日夜、武装した突撃隊員と共に、ミュンヘンのビアホールで開かれていた政府要人も参加した記念講演会に押し入り、新政府成立を宣言して、ベルリン進軍を呼びかけた。一揆に失敗したヒトラーは逮捕され、獄中で『我が闘争』を口述した。それが刊行されたのは一九二五年である。(5)

 大戦勃発時にドイツ精神を擁護する『戦時の思想』を書いたトーマス・マンは、一九二四年に小説『魔の山』を刊行した。革命的、民主主義的思想を持つ理想主義者のイタリア人セテンブリーニと、絶対服従、恐怖主義を唱道する非合理主義者のユダヤ人イエズス会士、ナフタとの論争を中心に据えたこの小説は、終戦間際に刊行された『非政治的人間の考察』での、反民主主義的なドイツ精神と民主主義的な国際主義や合理主義の対比を小説にしたものでもあった。

 主人公のハンス・カストルプは造船技師になろうとしている平凡な青年である。スイス・アルプスのダヴォスにあるサナトリウムで、療養中の従兄を見舞って滞在しているうちに自分にも病変が見つかり、療養者になってしまう。そのサナトリウムで、カストルプは、さまざまな男女に出会うが、セテンブリーニとナフタはその中の二人である。

 二人の論争の中心をなすのはカソリシズムであり、中世の評価である。中世を暗黒時代ととらえ、市民革命を進歩であるとするセテンブリーニに対し、イエズス会士ナフタは執拗に中世を擁護する。セテンブリーニが代表するのは合理的な進歩の思想であり、ナフタが代表するのは非合理的な保守の思想である。二人の論争は当時の知識人たちの思想状況を鋭くとらえ、その後のドイツの行方を暗示していた。二人は最後に決闘に至るまで対立を深め、その決闘でナフタは自らを撃ち殺す。ナフタが最後に達成しようとしたのは暗い美であった。

 『魔の山』を刊行した頃、マンは保守主義を放棄しつつあった。自分の作品がイギリス、フランス、アメリカなどで翻訳されて読まれ、高い評価を得たのを知ったことなどをきっかけに、彼は、ドイツ精神と対立するものと見ていた民主主義や国際主義に理解を深めていく(6)。やがて、彼はナチスの反感を買う文化人となり、一九三三年にはドイツ国外へ亡命し、さらに一九三八年にはアメリカへ逃れた。

 このように、ヨーロッパでは、芸術家たちは絶望的な社会経済情勢の中で、政治と芸術の関係を考えることを迫られていた。しかし、第一次世界大戦を経て一九二〇年代に世界経済の頂点に立ち、「黄金の二十年代」とも呼ばれる繁栄の時代を迎えようとしていたアメリカでは、芸術家たちは甘美な夢に耽ることができた。左翼の活動が活発化する一方で、アメリカ南部出身の詩人たちは農業社会への復帰に憧れる保守的傾向を生み出そうとしていた。第一次世界大戦が終わった頃から、テネシー州ナッシュヴィルのヴァンダービルト大学とその周辺にいた詩人のアレン・テイトやジョン・クロウ・ランサム、ドナルド・ダヴィッドソンらは、「南部文学ルネッサンス」とも呼ばれる文学運動を興した。

 彼らは、一九二二年に雑誌『フュージティヴ』を発刊し、伝統的な価値観の中に残されている力を追求しようとした。ダヴィドソンは現代の都市生活の多忙な物質主義を古代ギリシャの静かな簡潔さと対比して非難し、現代世界ではそうした静寂は南部でのみ見いだし得ると示唆した(7)。彼らが意図していたのは、南北戦争に破れて以来、常に日陰に追いやられていた南部文化の復興でもあったが、それは同時に、南北戦争に勝利して以来、アメリカを支配するようになった北部の合理主義的、産業主義的な文化に対する反発でもあった。彼らは、のちに、新批評という文学思想によってアメリカの文学界で大きな勢力を形成した。

(写真は、Sternhell, Zeev with Sznajder, Mario and Asceri, Maia: The Birth of Fascist Ideology, Translated by by David Maisel, Princeton University Press, 1994)



 一九二四年一〇月にラパロを訪れたあと、パウンド夫妻は一九二四年一二月にシシリーを訪れ、そこに住むことも考えた。しかし、翌年二月の終わり頃にはラパロに戻り、しばらくホテルにいた後、海岸沿いに立つホテルの最上階の六階にあるアパートに住むことを決めた。

 パウンドは『キャントウズ』に打ち込んでいた。一九二五年一月には、パリのスリー・マウンテン・プレスから豪華な装丁の『十一篇のキャントウズの草稿』を刊行し、『ジス・クォーター』誌の一九二五年秋冬号には、第一七篇と、前年十一月に草稿を書いた第十八篇、第十九篇を発表した。『ジス・クォーター』は、パリでパウンドと知り合ったアーネスト・ウォルシュという詩人たちによって、その年の春に創刊された。第一号はパウンドに捧げられ、ジョイスやヘミングウェイがパウンドの功績について書いた文を載せた。

 『キャントウズ』の第一七篇は神々の住む天国を描いている。続く第一八篇で彼が取り上げたテーマの一つは、メテフスキという武器商人であった。メテフスキは、貧困の中から立ち上がってヨーロッパの武器商人になり、のちにイギリス政府から爵位を授かったバシル・ザハロフの仮名であるとされている。(8)

 第十九篇は、一九二四年にパリでアメリカのジャーナリスト、リンカン・ステファンズの講演を聞いたときのことや、同じ年にパリでアイルランドのシン・フェイン党の指導者アーサー・グリフィスに会い、彼に対してダグラスの経済理論を勧めたときのことを題材にしている。ロシア革命をテーマにしたステファンズの講演が終わると、パウンドは、立ち上がってダグラスの考え方について語り、グリフィスに対してダグラスの考えに従って新しい国を建設するように説得していることを述べたという。この詩では、パウンドは、グリフィスは「人々を経済学のような冷たいもので動かすことはできない」と語った、と書いている(9)。

 パウンドが、政治に強い関心を持ち始めていたことは、この詩からも明らかである。一九二五年一月に発行された『デア・クエルシュニット』というドイツの雑誌に、彼は『定義』(10)と題した短い論評を寄稿し、国家を論じた。優れた国家は「国民の身辺を侵害することが最も少ない国家である」とし、国家の機能は「材料、空気、水、熱、石炭、動力源としての水、エネルギー、思想などの流通を容易にすることである」と彼は書いている。

 このように述べている時、彼が理想として描いたのは、自由な精神を持つ、物質的にも文明化された国家であったといえるだろう。しかし、彼の思想の根幹には、強い保守性が宿っていた。彼は、この論評で、さらに国民精神の古典への復帰の必要性を述べ、「政治家とは群衆の航路である」とし、「歴史は貴族の低劣な振る舞いの連続である」としながらも、「貴族なくしては、文明は不可能である」と書いている。彼は、世襲的な貴族を否定し、文化的・知的エリートという新しい貴族によって先導される、古典精神を志向した自由主義的なユートピアを思い描き、そのユートピアをムッソリーニのファシズムに見いだし始めていた。

 バイオリニスト、オルガ・ラッジは、前年秋に、パリでパウンドの子を宿していた。ラッジは七月にイタリアン・チロルへ行き、パウンドとの子供メアリを生んだ。メアリは農家に預けられ、そこで養育されることになった。

 オルガ・ラッジらとの音楽活動に、彼は情熱を注ぐようになっていた。一九二六年五月に、ラッジはローマで演奏会を開き、エリック・サティの曲の初演奏をし、パウンドが作った曲も弾いた。その翌月一九日には、パリのシャンゼリゼ劇場でアンティルの『バレエ・メカニック』が初演された。九台のピアノ、電気ベル、スピーカー、飛行機のプロペラなどが発する、すさまじい轟音に、会場は騒然として混乱に陥った。会場にいたパウンドは、アンティルを支持して大声で聴衆を静めようとしたという。

 同じ月の二九日には、パリで、パウンドが作ったオペラ『ヴィヨンの遺言』が上演された。このオペラは、フランソワーズ・ヴィヨンの同名の詩を脚色した作品である。公演はパウンド夫妻が招待する私的な会として開かれ、ジョイス、エリオット、ヘミングウエイ、ロバート・マキャルモンら、パウンド夫妻の友人たちが集まった。このオペラは一九三一年十月にBBCのラジオで全国放送され、翌日もロンドンを中心とする地域で放送された。

 この年の九月、ドロシーがパウンドの二人目の子供を産んだ。ドロシーは一九二五年の終わり頃から二六年のはじめにかけて、休養のためエジプトを訪れていた。妊娠して帰り、ロンドンで男児を産んだ。出産にはヘミングウエイが付き添った。子供はオマリ・シェイクスピア・パウンドと名付けられ、預けられてロンドンで養育された。(11)

(写真は、『十一篇のキャントウズの草稿』(A Draft of XVI Cantos, Three Mountain Press, 1925) の第8篇の冒頭の装飾文字と第十一篇の第一ページ目を複製した、Rainey, Laurence S.: Ezra Pound and the Moment of Culture, Text, History, and the Malatesta Cantos, The University of Chicago Press, 1991.の図版2と3)

引用文献

1) フェルミ、ローラ:ムッソリーニ(柴田敏夫訳)、紀伊国屋書店、一九六七年。p.158-160.; 清水広一郎、北原敦編、概説イタリア史、友斐閣、一九八八年。p.162-163.
2) 清水広一郎、北原敦編、ibid. p.164-166.
3) ローレンス、D・H:カンガルー(丹羽良治訳)、彩流社、一九九〇年。p.277-278.
4) Russell, Bertrand: The Autography of Bertrand Russell, 1872-1914, George Allen and Unwin, 1967. p.244.
5) 林健太郎(編):ドイツ史(世界各国史三)、山川出版社、一九九三年。p.390-391, 388-390; 斉藤孝:ヨーロッパの一九三〇年代、岩波書店、一九九〇年。p.29-31.
6) シュレーター、クラウス:トーマス・マン(山口知三訳)、理想社、一九八一年(原著一九六四年)。p. 124-125.
7) Conn, Peter: Literature in America, An Illustrated History, Cambridge University Press, 1989. p.420.
8) Terrell, Carroll F.:A Companion to the Cantos of Ezra Pound, University of California Press, 1993.p.76.; Wilhelm, J.J.: Ezra Pound, The Tragic Years,1925-1972,The Pennsylvania State University Press,1994. p.54.
9) Stock, Noel: The Life of Ezra Pound (An expanded edition), North Point Press, 1982. p.256.; Terrell, Carroll F.:A Companion to the Cantos of Ezra Pound, University of California Press, 1993. p.77-80.; Norman, Charles: Ezra Pound, Macmillan, 1960. p.272.
10) Selected Prose 1909-1965,ed. by William Cookson, Faber and Faber, 1973. p.183.
11) Carpenter, Humphrey: A Serious Character--The Life of Ezra Pound, Houghton Mifflin Company, 1988. p.184-185.

 この章では、パウンドの伝記的記述は、Stock, Noel : The Life of Ezra Pound (An expanded edition), North Point Press, 1982.とCarpenter, Humphrey : A Serious Character, The Life of Ezra Pound, Houghton Mifflin Company, 1988. を基本にした。また、D・H・ローレンスの伝記的記述は、 Meyers, Jefferey: D. H. Laurence, A Biography, Vintage Books, 1992.(Originally Published: New York: Knopf,1990).によった。


エズラ・パウンド関連サイト
http://www.lit.kobe-u.ac.jp/~hishika/pound.htm: Ezra Pound (神戸大学文学部・菱川英一氏による英文サイト。パウンドの晩年の肖像写真、主要文献リスト、年譜、関連サイトへのリンクなどが掲載されています。主要英米詩人についての情報を得るための同氏作成サイトにリンクしています。)


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