No.17 September, 2000

Series


歴史の中のエズラ・パウンド 
第17回
 
第2部 モダンエイジ

第10章 パリのアメリカ人
(後半、Section 4-5)



 一九二二年の後半になると、パウンドはフランスよりもイタリアに心を引かれるようになっていた。彼は、フランスが自分にとって馴染めない国であることを感じつつあった。そうした気持ちを、彼はプルーストとダンヌンツィオの比較によって表した。一九二二年十一月の『ダイアル』のコラム「パリからの手紙」で彼はガブリエル・ダンヌンツィオの自伝的小説『夜想曲』をプルーストと比較して評し、ダンヌンツィオは「男性的であり、教養がある」とし、プルーストは「細かな心ざわりを細々と書いている」と書いた(1)。彼はダンヌンツィオにイタリアのバイタリティーを感じ、プルーストによって代表されるパリの文学的環境に退屈さを感じていた。

一九二三年になると、パウンド夫妻は、前年の夏に短期間訪れて好きになっていたイタリアのラパロへ行った。収入が少なく、質素な生活を強いられていたが、ドロシーには遺産などでかなりの収入があったため困窮はしておらず、旅行もすることができた。

 ラパロはジェノアに近い海岸のリゾート地であった。ドイツで出版されていた有名な旅行案内書『ベデカー』の一九二八年版によると、当時の人口は七二〇〇人ほどで、多くのホテルがあった。また、カーペンターの記述によると、イギリス人やドイツ人が好んで滞在し、トーマス・マン、オスカー・ココシュカ、ゲルハルト・ハウプトマンらも訪れ、イギリスの作家マックス・ビアボームは別荘を持っていた。アメリカからは、禁酒法を逃れた富裕者らが訪れていた。イギリスの提唱によって、一九二二年四月にジェノアでヨーロッパ経済会議が開かれたときには、ドイツとソ連がここでラパロ条約を結んだ。

 ラパロに着くと、パウンドは、ヘミングウェイに手紙を書き、夫妻をマラテスタの史跡をめぐる徒歩旅行に誘った。その手紙を受け取ったとき、ヘミングウェイは、スイスのローザンヌの平和会議でムッソリーニを取材していた。パウンドの誘いに応じて、ヘミングウェイ夫妻は一九二三年二月初めにラパロを訪れ、そのあと両夫妻はオルベテロ、ローマとピサ間の海岸などを歩いた。そのあと別れて、ヘミングウェイ夫妻はドロミテへ行き、パウンド夫妻はローマとフィレンツェを訪れた。パウンド夫妻はさらにリミニ、チェゼーナを訪れ、パウンドはマラテスタについて調査をした。

 四月にパリへ帰ると、パウンドは『ダイアル』にマラテスタについて調査した成果について書いた。しかし、『ダイアル』のセイヤーは、パウンドが「パリからの手紙」で、マラテスタと「ベル・エスプリ」についてばかり書いているうえに、同誌が多くのパトロンで成り立っているのにもかかわらず、パウンドが「パトロンがいなくなった」と主張したのに我慢がならず、パウンドへの原稿依頼を打ち切った。パウンドはアメリカの雑誌への足掛かりを失った。(2)

 三カ月間のイタリア旅行で、パウンドは「マラテスタ・キャントウズ」(『キャントウズ』第八篇〜第十一篇)を書く材料を揃えることができた。四篇のうちの三篇は、一九二二年一二月前に書き終えていたが、この旅行の後、四篇目を書き、それらをまとめてエリオットが編集する『クライテリオン』の一九二三年七月の号に発表した。

 彼は『キャントウズ』の初めの十一篇を「パレット」にしたいと考えていた(3)。この「パレット」というたとえには、画家ホイッスラーの技法の影響が感じられる。ホイッスラーはキャンバスに描く前に、パレットの上で入念に色彩を整えるという技法をとっていた(4)。パウンドは、それに習い、以後の詩で展開させていくことになる詩の要素を、初めの十一編で準備しておくという技法をとろうとしたのだろうか。

 パウンドが初めの十一篇といっていたのは、おそらく『キャントウズ』の第八篇までに相当するのだろう。新しく展開させようとしている『キャントウズ』で、彼は歴史の実際の出来事を書きとめることに自分の仕事を見いだそうとしていた。「マラテスタ・キャントウズ」を書くために、彼は歴史書を読んでノートを取り、イタリアの図書館で古文書を筆写した。

 「マラテスタ・キャントウズ」に続いて書いた『キャントウズ』第十三篇では、彼は孔子を題材にした。そして「ヘル・キャントウズ」と呼ばれる第十四篇、第十五篇は一九二〇年代初めのロンドンの支配階級などを題材にして、ロイド・ジョージ、ウッドロー・ウイルソン、チャーチルなどを仮名にして痛烈に揶揄攻撃した。さらに第一六篇では、リチャード・アルディントン、ウィンダム・ルイス、ヘミングウェイら友人たちの第一次世界大戦の経験を題材にした。

 ヘミングウェイの紹介でパウンドの友人になった、パリに住む裕福なアメリカ人ジャーナリストのウイリアム・バードによって、『キャントウズ』は豪華な装丁と印刷で一冊にまとめられることになっていた。バードはスリー・マウンテン・プレスという出版社を設立し、手動の印刷機を買い、優れた本を少部数発行しようとしていた。『キャントウズ』のほかに、ヘミングウェイやウィリアム・カーロス・ウィリアムズ、ウィンダム・ルイス、エリオット、フォードらの本を出版することになっていた。高級な和紙を使い、中世風にデザインされた文字を使った『キャントウズ』は一九二五年一月に出版された。

(写真は、Williams, William Carlos: The Autobiography of William Carlos Williams, New Directions, 1967.の表紙に使われているWilliam Carlos Williamsの肖像写真)



 一九二三年六月に、ジョージ・アンティルという若いアメリカ人音楽家がパリへ来た。天才的な前衛音楽家と噂されていた彼は、シェイクスピア書店の上の階にあるアパートに住んだ。パウンドはシェイクスピア書店で彼に会い、すぐに友人になった。オペラを作っていたパウンドにとって、音楽家との交友は役立つことでもあった。パウンドは、アンティルが生活費に困っていることを知ると、得たばかりの収入をすぐに渡したり、ナタリー・バーネイの家へ連れて行ってピアノを弾かせたりした。

 パウンドは、アンティルをオルガ・ラッジに紹介した。ラッジは二八歳のアメリカ人バイオリニストであった。パウンドは一九二〇年終わり頃、ロンドンで彼女の演奏を聴き、『ニュー・エイジ』に批評を書いた。一九二三年になって、パリで彼女がリサイタルを開いたときにもパウンドは聴き、その後ナタリー・バーネイの家で知り合いになった。

 ラッジは、ドロシーとは対照的な活発な性格であった。一八九五年に、不動産業を営む父のもとにオハイオ州で生まれ、元歌手であった母に連れられて生後九カ月の時にヨーロッパへ来て、パリやロンドンのカソリック系の学校で教育を受けた。兄と弟はイギリスに定住し、一人は第一次世界大戦で戦死し、もう一人は医師になった。ラッジは、バイオリニストとして各国で演奏活動をしていた。二一歳の時にロンドンで初公演した際には『タイムズ』の評で注目された。(5)

 九月になると、ニューヨークのジョン・クインが再びパリを訪れた。クインはパウンドのアパートで、ジョイス、フォードとも会い、四人で記念の写真を撮った。パウンドは、フォードが計画している文芸雑誌『トランスアトランティック・レビュー』に対する援助をクインに頼んだ。フォードはバイオレット・ハントと別れ、ロンドンへ絵を学びに来ていたオーストラリア人女性ステラ・ボウエンと一緒にフランスに住んでいた。

 一九二三年一二月には、イェイツがノーベル文学賞を受賞した。パウンドはドイツの雑誌『クェルシュニット』の翌年春号に、『ノーベル賞』という題のエッセイを寄稿した。イェイツの受賞をついて書く趣旨であったが、彼はそれにはあまり触れず、「もしイェイツに授賞されるのでなかったら、賞は彼の同国者の中で最も際立つ『ユリシーズ』の著者に贈られるべきであったろう」とし、さらに「次回にアイルランド人としてのジョイスに授賞することができないとしたら、文学の共和国の代表者として、あるいは亡命者の代表者としてのジョイスに賞が与えられるべきだろう」と書いた。(6)

 フォードが編集する『トランスアトランティック・レビュー』はウィリアム・バードのスリー・マウンティン・プレスから出版され、一九二四年一月に第一号が出た。この雑誌で、フォードはアメリカとパリの文学界を連係させることをねらっていた。助手には、バジル・バンティングがついた。彼は、イギリスの医師の家庭に生まれ、第一次世界大戦が終わったあと、兵役忌避を主張して拘置され、その後、ロンドン・スクール・オブ・エコノミックスに短期間在籍したあとフランスへ渡った。

 『トランスアトランティック・レビュー』の第一号に、パウンドは『キャントウズ』の第一三篇と第一二篇の一部を寄稿し、第二号以降は音楽についての評論を書いた。これらの音楽に関する評論は『ニュー・エイジ』に書いたものと一緒にまとめられ、『アンティルとハーモニー論』という書名で十月に出版された。

 『トランスアトランティック・レビュー』は、パウンドの詩やエッセイのほかに、フォード自身の『楽園の終わり』の始めの部分、ジョイスの『ワーク・イン・プログレス』(後の『フェネガンズ・ウェイク』)の抜粋、ガートルード・スタインの『メイキング・オブ・アメリカンズ』などの作品を掲載したあと、創刊一年後に廃刊になった。援助をしていたクインが一九二四年七月に死亡したため、資金が続かなくなっていた。

 スリー・マウンテン・プレスは、一九二四年にヘミングウェイの『我らの時代に』も刊行した。その後、ヘミングウェイは急速に注目される作家となり、一九二六年に『日はまた昇る』、その三年後に『武器よさらば』が刊行された。

 一九二四年、ウィリアム・カーロス・ウィリアムズは医業を休み、一月にヨーロッパを訪れた(7)。パウンドはイタリアへ行っており、帰ってくるまで会えなかったが、パリへ着いたウィリアムズをロバート・マッキャルモンが案内した。ウィリアムズとマッキャルモンはニューヨークで一緒に『コンタクト』という雑誌を発刊していたが、マッキャルモンは不幸な結婚をしてパリに渡っていた。

 マッキャルモンが結婚した相手は、ブライアー・エラマンという、イギリスの富豪の娘であった。彼女は、H.D.と一緒にニューヨークを訪れ、ウイリアムズとマッキャルモンに会い、その後、ロサンゼルスへ行ったあと、再びニューヨークへ来た。ブライアーは、マッキャルモンに結婚を申し込み、マッキャルモンが受け入れ、二人は慌ただしく結婚式を挙げてアメリカを立っていった。

 しかし、それは見せかけの結婚であった。ウィリアムズが、『自伝』でマッキャルモン、H.D.、ブライアーの関係を隠さずに書いたのは、H.D.を非難する意図があったためかもしれない。ブライアーが共に生活を続けようとしていた相手はH.D.であり、マッキャルモンはブライアーが父親に結婚を報告するための夫でしかなかった。ウィリアムズがパリ訪れた時、マッキャルモンは一人で暮らし、ブライアーはH.D.とスイスで暮らしていた。そして、マッキャルモンは、富裕なパリのアメリカ人になり、友人たちに酒や食事をふるまい、金を湯水のように使っていた。ウィリアムズの手を離れ、マッキャルモン一人がパリで編集するようになった『コンタクト』は、豊富な資金によって力のある寄稿者たちを得て注目される雑誌になり、書籍も刊行していた。ヘミングウェイの本も、バードより先に、マッキャルモンが刊行していた。
 
 マッキャルモンの案内で、ウィリアムズはシェイクスピア書店やブランクーシのアトリエを訪れ、ウィリアム・バードに会い、ジョイス夫妻と共に食事をした。マッキャルモンは、ウィリアムズのために豪華な歓迎パーティーも開いた。高級なレストランにジョイス夫妻、フォード夫妻、マルセル・デュシャン、マン・レイ、ミナ・ロイ、シルヴィア・ビーチ、ルイ・アラゴンらが集まった。

 パリにしばらく滞在したあと、ウィリアムズ夫妻は、二月に南フランス、三月にはイタリアとオーストリアを旅行した。南フランスに滞在していたとき、ウィリアムズはモンテカルロに住んでいたナンシー・キュナードにも何度か会った。

 彼女もブライアーのようにイギリスの富豪の娘であり、祖父は、現在もクィーン・エリザベス号で知られる有名なキュナード汽船会社の創業者であった。彼女の母はロンドンの芸術家たちのパトロンであり、一九一〇年代にはウィンダム・ルイスやパウンドも彼女のサロンの客になっていた(8)。ナンシー・キュナードは、パウンドとは、一九一五年に母親が彼を招いたときに会っていた。一九二〇年代初め、彼女は、南フランス、パリ、スペイン、ヴェニスと、ヨーロッパの気を引く場所を転々と移り住んでいた。マッキャルモンやウィンダム・ルイスは彼女の親しい友人であった。一九二一年夏には、ナンシーはパリにいるパウンドに詩を送った。パウンドは厳しい批評を述べ、おそらくボツになるだろうが、その詩を『ダイアル』に送ったという手紙を書いた。(9)

 ウィリアムズと会ったとき、彼女は三冊の詩集を刊行していた。一九二三年六月に刊行された三冊目の詩集『アウトロー』は、ウィンダム・ルイスがヴェニスで描いたスケッチで飾られた。一九二〇年代後半には、彼女はルイ・アラゴンの恋人になり、その後、アメリカの黒人ピアニスト、ヘンリー・クラウダーと暮らすようになった。

 ウィリアムズは、ナンシー・キュナードの印象を「ボブ(マッキャルモン)と彼女は好みや生活の仕方で共通するものを多く持ち、根無し草の人間どうしが親しくなれるというような寂しい意味で親しい男と女だった」(10)と書いている。

 三月にパリへ帰ってからも、パリに住む芸術家たちとの賑やかな交遊の日々が続き、ウィリアムズがパウンドと会ったのはアメリカへ帰る日が近くなった六月であった。シルヴィア・ビーチ、ブライアー、H.D.、マッキャルモンと共に、ウィリアムズ夫妻は、シルヴィア・ビーチの友人である書店主、アドリエンヌ・モニエの家に招かれていた。食事が始まろうとしているとき、下の通りから叫び声が聞こえ、モニエが窓からのぞくとラパロから帰ってきたばかりのパウンドがいた。モニエは上がってくるようにいったが彼は断り、ウィリアムズが通りへ下りて行き、二人は別の日に会うことにして別れた。

 パウンドは、この頃、盲腸炎で体調を崩していた。数日後、ウィリアムズはパウンドのアパートを訪ねて、彼の病気のことやルネッサンスの音楽、詩の理論などについて語り合った。

 ウィリアムズがアメリカへ帰ったあとの七月に、オルガ・ラッジとアンティルの演奏会が開かれ、パウンドとアンティルが作った曲が演奏された。また、テノール歌手が、パウンドがヴィヨンを題材にして作ったオペラの曲を歌った。

 十月に、パウンド夫妻はパリを去ってイタリアへ移り住んだ。パリでは、だれもが痛飲していたが、酒を飲まないパウンドは、そのためにもパリに落ち着くことができなかったと、ストックは書いている(11)。退廃的でもあったパリの雰囲気を、パウンドは嫌っていたということなのかもしれない。また、ウィリアムズは、妻のドロシーもフランスを嫌っていたと書いている。体調を崩していたパウンドは穏やかな気候も必要としていた。また、イタリアは、彼にとって、ムッソリーニとダンヌンツィオの国でもあった。

引用文献

1) Carpenter, Humphrey: A Serious Character--The Life of Ezra Pound, Houghton Mifflin Company, 1988. p.426.
2) ibid., p.429.
3) Stock, Noel: The Life of Ezra Pound (An expanded edition), North Point Press, 1982. p.247.
4) Laver, James : Whistler, Faber and Faber, 1951.p.118.
5) Carpenter, op. cit., p.434.
6) Stock, op. cit., p.254-255.
7) ウィリアム・カーロス・ウィリアムズのパリ滞在についての記述は主にWilliams, William Carlos: The Autobiography of William Carlos Williams, New Directions, 1967. p.176-177; 185-233による。
8) ナンシー・キュナードの伝記的記載は、チザム・アン:ナンシー・キューナード、疾走する美神(野中邦子訳)、河出書房新社、一九九一年による。
9) ibid. p.139-140
10) Williams, op.cit., p.203.
11) Stock, op. cit., p.256.

 この章では、パウンドの伝記的記述は、Stock, Noel : The Life of Ezra Pound (An expanded edition), North Point Press, 1982.とCarpenter, Humphrey : A Serious Character, The Life of Ezra Pound, Houghton Mifflin Company, 1988. を基本にした。


エズラ・パウンド関連サイト
http://www.lit.kobe-u.ac.jp/~hishika/pound.htm: Ezra Pound (神戸大学文学部・菱川英一氏による英文サイト。パウンドの晩年の肖像写真、主要文献リスト、年譜、関連サイトへのリンクなどが掲載されています。主要英米詩人についての情報を得るための同氏作成サイトにリンクしています。)


Count
Copyright (C)2000 Hideo Nogami


HOME