No.16 July, 2000

Series


歴史の中のエズラ・パウンド 
第16回
 
第2部 モダンエイジ

第10章 パリのアメリカ人
(前半、Section 1-3)



 パウンド夫妻は一九二〇年一二月にパリへ移り住んだ。『ニュー・エイジ』のオレージは、一九二一年一月の号で、「パウンドがロンドンを去ろうとすることに賛成はできないが、十分理解することはできる」(1)と書いた。パウンドは文学、音楽、詩、彫刻などの分野でイギリスの文化に足跡を残したが、イギリスの知性と文化を高めるために努力した何人かと同じように、友人たちよりも多くの敵を作ってしまい、生活できなくなっていた、とオレージは述べている。さらに、出版界は陰謀によって彼に門戸を閉ざし、彼の著書は無視されて、彼は日雇い労働者以下の収入で生活をしなければならなくなっていたという。

 一九二一年一月初めの『ニューヨーク・ヘラルド』紙には、「大英帝国の崩壊は、近くで見ているに耐えないから、ロンドンを去る」というパウンドの談話が掲載された。その中で、彼は、イギリスでは、信用の管理を握ることによって権力の集中がなされており、その信用のシステムを改革しなければ、経済は改善されないとし、高利率が不況の原因であるとの見方も示した。さらに彼は、ダグラスの考えが注目されるべきであるのに、極端な革命主義者とイギリスの「ユンカー階級」が、共にダグラスの理論にいらだっていると指摘した。また、彼は一二世紀音楽の研究に没頭したいと語り、長い詩を書いていることも話した。長い詩とは、もちろん、『キャントウズ』であった。(2)

 新聞記者にこのように語ったあと、パウンド夫妻は南フランスへ行き、コートダジュールのサンラファエルに滞在して、時折カンヌやニースを訪れて気ままに過ごした。そして四月の初めにパリへ戻った。

 パリで、パウンドは多くの芸術家たちと新たに友人となった。ルーマニア生まれの彫刻家、コンスタンチン・ブランクーシのアトリエを度々訪れるようになり、『リトル・レビュー』の九月号に、彼についてのエッセイを、二四点の作品の写真と共に発表した。このエッセイは、ブランクーシについて書かれた初めての評論であるとされている(3)。

一九二一年一二月、パウンド夫妻は仮の住まいからノートルダム・デ・シャンのアパートに移った。ノートルダム・デ・シャンは、かつてホイッスラーのアトリエがあった住区である。わずかな収入しかなかったパウンドは大工仕事を趣味とするようになり、テーブルや椅子などの家具を自分で作り、やがてシェイクスピア書店の家具の修理も引き受けるようになった。

 パウンドはナタリー・クリフォード・バーネイのサロンの客にもなった。バーネイは、パリに移り住んだ富裕なアメリカ人女性だった。古風な館に住み、フランスの多くの知識人と交遊していた。彼女は、パウンドをアナトール・フランスやジッド、ヴァレリーに紹介した。彼女はレズビアンであり、数々の美女を誘惑しているともいわれていた。レミ・ド・グールモンは、彼女から得たインスピレーションによって『アマゾンへの手紙』を書いたといわれている。パウンドは、『エゴイスト』に載せるためにグールモンの翻訳を始めた一九一三年に、彼女と手紙を交わして知り合いになり、一九一九年には彼女の詩集を批評していた。(4)

 パウンドは、ダダイスト、シュールレアリストら、パリの若い前衛芸術家たちとも交友した。モンパルナスに「ジョッキークラブ」という元騎手が経営するナイトクラブが開店した時には、ジャン・コクトー、トリスタン・ツァラ、マン・レイと共にパウンドも訪れ、一緒に写真を撮っている。前衛画家を目指していたマン・レイは、第一次世界大戦前、ニュージャージー州のリッジフィールドで詩人アルフレッド・クレイムボーグら前衛的な芸術家たちと共同生活をし、ウィリアム・カーロス・ウィリアムズとも知り合いになっていた。クレイムボーグは、のちに『アザーズ』を創刊し、その創刊号をパウンドのイマジズムのアンソロジー『デ・ジマジズト』として刊行した詩人であった。マン・レイは、ニューヨークに住んでいた時に、パリから移住してきていたマルセル・デュシャンらと知り合いになったあと、一九二一年からパリに住むようになっていた。彼は、やがて写真家として知られるようになった。彼が撮影したパウンドの肖像写真はシェクスピア書店に飾られた。(5)

 パウンドは、ダダイストの雑誌『391』にも寄稿した。しかし、彼はダダイストを特殊なグループと見ており、シュールレアリストとも部分的にしか共鳴していなかった。パリの前衛芸術家の中で、パウンドが最も評価していたのはピカビアとコクトーだった。一九二一年一月の『ダイアル』で、パウンドはコクトーの『詩集一九一七−一九二〇年』についての評論を書き、「視覚的な印象が連続し、重なり、交差する、映画のような」都会的知性の詩であるとし、イデオグラフィック(表意文字的)な技法を使っていると評した。イデオグラフィックな方法とは、パウンドがフェノロサの『詩の媒体としての漢字考』を読みながら、考えていた複数の要素を共時的・集積的に呈示してメッセージを伝達するという方法である。のちに、彼はイデオグラフィックに代えてイデオグラミックという語句を使うようになった。

 コクトーの詩について書いたパウンドのこの評論は、映画のようにイメージが切り替わるエリオットの『荒地』に示唆を与えたのではないかとされている(6)。フェノロサは『詩の媒体としての漢字考』で、象形文字を基盤にした表意文字で記述される中国語は「映画の特質を保有している」(7)と書いている。コクトーの詩を映画と対比して論じたとき、パウンドは、フェノロサのこの考察とも関連付けて考えていたのかもしれない。

 さらに想像すれば、映画のようにイメージが切り替わる詩『荒地』は、ソ連のセルジェイ・ミハエロヴィッチ・エイゼンシュタインが一九二五年に『戦艦ポチョムキン』でモンタージュ技法を確立した時、何らかの影響を与えたのかもしれない。

 しかし、エイゼンシュタインのモンタージュ技法は、彼が一九二〇年に赤軍のポスター画家としてミンスクの近くにいたときに、日本語の元教師と知り合いになり、漢字を学んだことと関連を持つのではないか、とヒュー・ケナーは示唆している。(8)

 いずれにしても、詩や文学の新しい試みは、映画の新しい技法と関連を持っていたといえる。哲学者のベルクソンは、一九〇〇年から一九〇四年までコレージュ・ド・フランスで「思考の映画仕掛け」について論じ、『創造的進化』(一九〇七年)の中でもそれについて書いた。そのベルクソンからT・E・ヒュームがイメージについての啓示を受け、ヒュームの影響を受けたパウンドがイマジズムを創始した。また、ジョイスの『ユリシーズ』も映画との関連が指摘されている。ジョイスは一九〇九年にトリエステの事業家を説得して、ダブリンに最初の映画館を開館させるという仕事もした。

 八月に『ニューヨーク・イヴニング・ポスト』に寄稿したパリの文壇についての報告では、パウンドは主にピカビアについて書き、さらに「四人のモダン・アーチス」として、ピカビア、ブランクーシ、ピカソ、ルイスについて書こうとしていたが、出版は実現しなかった。(9)

 パリにはアメリカからの訪問者が多くなりつつあった。一九二一年七月には、ニューヨークからジョン・クインが来た。クインはパウンドやジョイスを援助し続けていた。同じ月に『ダイアル』のスコフィールド・セイヤーも来た。セイヤーは、パリにいたアメリカの若い詩人E・E・カミングスをパウンドに紹介した。カミングスはパウンドを尊敬し続けた詩人であり、一方、パウンドはカミングスをアメリカの最も優れた詩人の一人として評価し続けた。

 カミングスだけでなく、文学を志望する多くのアメリカの若者がパリを訪れていた。彼らをパリへ呼び寄せたのは一九一七年のアメリカの参戦だった。カミングスと同じようにアーネスト・ヘミングウェイ、マルコム・カウリー、ジョン・ドス・パソスらが冒険心とヨーロッパへの憧れによって志願し、救援部隊や補給部隊のトラックの運転手になった。ヘミングウェイは一九一八年に負傷して帰国したが、一九二一年の終わり頃に新聞記者としてパリへ戻ってきた。カウリーは、一九一七年にハーバードを中退、補給部隊のトラック運転手になったあと帰国し、一九二一年に再びフランスへ戻った。ヘミングウエイとカウリーは一九二二年になると、パウンドに会うようになった。

(写真は、シャロン、ジャン:レスボスの女王(小早川捷子訳)、国書刊行会、一九九六年のカバーに使われているナタリー・バーネイの写真)



パウンドがパリへ移り住んだ後のロンドンで、エリオットは『荒地』を書いていた。パリは大戦の傷跡から立ち直りつつあったが、ロンドンでは経済的混乱が長引き、人々が失望にさいなまれる中で、エリオットも精神的な危機に陥っていた。妻であるヴィヴィエンの健康状態がますます悪化して、エリオットの疲労は増していた。その苦難の中で彼は創作に取り組み、一九二一年四月初めに『荒地』の草稿を書き上げた。

 夏になると、エリオットは、『デイリー・ミラー』紙の所有者の妻であるロザミア夫人を紹介され、彼女から文芸誌発刊の相談を受けた。雑誌は一九二二年初めにスタートさせる予定になった。

 『荒地』の創作、銀行員、新しい雑誌の準備という、いくつもの仕事を抱えたエリオットは、九月の初めになると頭痛に悩まされるようになり、医師から休息をとることを勧められて、十月に銀行勤務を休職した。田舎へ行って休息をとり、その後、ロザミア夫人が用意したモンテカルロの山荘で休養することにしていたが、オトライン・モレル夫人の勧めで、スイスのローザンヌのロジャー・ヴィトッツ博士の心理療法を受けることになった。モレル夫人自身やジュリアン・ハックスレーもヴィトッツの心理療法を受けていた。エリオットは十一月にロンドンへ帰り、しばらくして、パリ郊外で療養することになっていたヴィヴィエンと一緒に出発した。パリでヴィヴィエンと別れたエリオットは、パウンド夫妻を訪ね、『荒地』の草稿を見せた。このとき、その詩の題は「さまざまな声で彼は治安を維持する」となっていたが、十二月には『荒地』という題がつけられた。その詩を見せられたパウンドは厳しい評を述べ、それに従ってエリオットはローザンヌ滞在中に稿を改めた。

 体調がよくなり、一九二二年一月にロンドンへ帰る途中、エリオットは再びパリのパウンド夫妻を訪ね、書き改めた原稿を見せた。パウンドは原稿にさらにコメントを書き加え、一月下旬にエリオットに送った。「すばらしい作品に嫉妬する」とパウンドは書いたが、同時に大きく筆を入れていた。パウンドの勧めに従い、詩は元の半分の長さになった。このあとも何回か手紙を交わし、エリオットはパウンドの助言に従って詩を書き直していった。



 パリで、パウンドは、レミ・ド・グールモンの性愛に関するエッセイ『愛の物理学:性本能に関するエッセイ』を翻訳した。その翻訳は、性愛に関するパウンド自身のエッセイも加えて、『愛の自然哲学』という書名で、一九二二年八月にニューヨークのボニ・アンド・ライヴライト社から発行された。収入に窮していたパウンドは、一九二二年の一月にボニ・アンド・ライヴライト社と契約し、ペンネームを使って推理小説の翻訳もした。

 ジョイスの『ユリシーズ』は、自分の誕生日に発行したいというジョイスの望み通りに、一九二二年二月二日にシェイクスピア書店から発行された。パウンドは、『ユリシーズ』の校正刷りを読みながら何日も書店で過ごした。刊行前の予約申込者の名簿には、アーノルド・ベネット、ハックスリー兄弟、ヴァージニア・ウルフ、H・G・ウェルズ、ウィンストン・チャーチルらの名前があった。予約を獲得にはパウンドも協力した。パウンドが、イェイツから予約をもらい、それをビーチの机の上に置いたときには「ちょっとしたどよめきが起こった」という。パウンドは、バーナード・ショーにも手紙を書いたが、ショーは、なぜパウンドの好きなものを何でも好かねばならないのか尋ね、「パウンド(ポンド)よりもペニーを大切にしたい」といって断ってきた。(10)

 出版を祝うパーティーには、パウンドは出席しなかった。『ユリシーズ』の産婆役は、すでにパウンドからビーチに変わっていた。『エゴイスト』のハリエット・ショー・ウィーヴァーもジョイスを援助しており、もうパウンドの援助は必要とされなくなっていた。そして、パウンドのジョイスに対する熱意もさめつつあった。

 ジョイスが『ユリシーズ』を出版し、エリオットが『荒地』を完成させつつあった一九二二年の三月から夏にかけての三カ月間、パウンドはイタリアを旅行した。シエナに滞在し、ヴェニス、シルミオーネ、リミニ、ラベンナ、ヴェロナ、ラパロを訪れた。

 アドリア海に面した海岸の町リミニで、彼はテンピオ・マラテスチアノを訪れた。イタリア・ルネッサンス初期の最も衝撃的な建築物の一つとされるテンピオ・マラテスチアノは、フランシスカン派の教会であったが、一五世紀に、有力な傭兵隊長でありリミニの支配者であったシジスモンド・パンドルフォ・マラテスタの指示により、彼と愛人の記念建造物に改築された。シジスモンドは芸術家や人文主義者の庇護者であったが、三人の妻を殺してしまった残忍な性格の持ち主でもあった。パウンドは、一九世紀にフランス語で出版された伝記を読み、強い印象を持った(11)。パウンドはシジスモンドを『キャントウズ』の題材にしようとしていた。

 七月初めにイタリアから帰ると、パウンドは、自分のアパートに日本人画家、久米民十郎の作品を展示して友人たちに見せた。ヘミングウェイは『移動祝祭日』の中で、パウンドの質素なアパートを訪れたとき、壁にパウンドの知り合いの日本人画家の絵が飾られており、その日本人たちと会釈を交わしたが、その絵を理解することも、好きになることもできなかったと書いている(12)。その日本人たちの一人は久米であったのだろう。

 パウンドは、ロンドンでフェノロサの能の翻訳を作品に仕上げていた頃に、久米と知り合った。角田史郎の研究(13)によると、久米は一八九三年(明治二六年)に生まれ、学習院で学んだあと、一九一四年にロンドンのセント・ジョンズウッド美術学校で絵を学んだ。ロンドンでは、パウンドがフェノロサの能のノートを読むのを伊藤道郎が助けていたが、伊藤を通じて久米もパウンドに協力した。群馬県出身衆議院議員であった久米の父、久米民之助は富裕で、久米の少年時代、代々木に大邸宅を建て、能舞台も設けて能、狂言に興じ、久米も、その頃に能の舞をおぼえた。久米は、イェイツやパウンドに『羽衣』の天女の舞を踊って見せ、イェイツが能をモデルにした劇『鷹の井戸』を舞台化するときにも協力した。

 一九一八年に帰国したあと、久米は一九二〇年の後半にパリに来て前衛的な絵を描いていた。パリから帰国したあと、久米は一九二三年に再びヨーロッパへ行こうとして横浜のホテルに滞在していたが、そのとき関東大震災に会い死亡した。

 ヘミングウェイは、パウンドについて、「エズラは、私がこれまで知り合った著述家の中で最も物惜しみしない、そして私利私欲のない人だった」、「彼は才能があると信じる詩人、画家、彫刻家、作家を援助し、才能があると信じることができなかった場合でも困っていれば助けようとした」と書いている(14)。ジョイスも久米もヘミングウェイも、そのようにしてパウンドが援助していた芸術家であったが、ヘミングウェイがパウンドと初めて会ったとき、パウンドが最も心配していたのは、T・S・エリオットのことであった(15)。

 パウンドは、エリオットがロイド銀行をやめて創作活動に専念できるようにしなければならないという趣旨で募金活動を始めようとしていた。この募金活動は、ナタリー・バーネイが「ベル・エスプリ」と名付け、慈善ではなく創作のエネルギーを解放するために三〇人が毎年一〇ポンドずつ寄付するという計画だった。

 この計画にエリオットは戸惑ったが、夏になると、パウンドは予定している三〇人のうち二一人から参加の申し出があったと伝えた。エリオットは銀行をやめたがっていたが、「ベル・エスプリ」に頼ってやめるのには抵抗があった。結局、妻のヴィヴィエンの健康状態を理由として募金を受け取ることになった。

 「ベル・エスプリ」はエリオットの輝かしい出発への祝い金になった。『荒地』は、一九二二年十月に創刊した、彼自らが編集する雑誌『クライテリオン』の第一号に掲載され、その翌月にはアメリカで『ダイアル』に掲載されて、すぐに『ダイアル』の年間賞を受賞した。十二月には、『荒地』はアメリカでボニ・アンド・ライヴライトから書籍として出版され、翌年九月にはヴァージニア・ウルフのホガース・プレスから出版された。

 モダニズムを集約していたとされる作品『荒地』は、多くの人に衝撃を与えた。マルコム・カウリーは「私の年代、あるいは一九二一年に外国へ出たアメリカ人作家にとって、一番自分たちに近いと感じられたのはT・S・エリオットであった」(16)と書いている。アメリカの田舎からロンドンという世界の舞台へ出て、文学的な栄光を手にしつつあったエリオットは、文学を志す若いアメリカ人たちにとって驚きであった。「中西部出身の少年が、やがては完璧な詩人になれるのだろうか」。カウリーは、そのように感じたと書いている。

(写真は、Burckhardt, Jacob: The Civilization of the Renaissance in Italy, The Phaidon Press Vienna, London: George Allen & Unwin Ltd に収載されているシジスモンド・マラテスタのレリーフ、15世紀、作者不明)

引用文献

1) Stock, Noel: The Life of Ezra Pound (An expanded edition), North Point Press, 1982. p.235.
2) ibid. p.235-236.
3) 中原祐介:ブランクーシ、美術出版社、一九八六年。p.102.
4) Carpenter, Humphrey: A Serious Character--The Life of Ezra Pound, Houghton Mifflin Company, 1988. p.398.
5) レイ、マン:マン・レイ自伝、セルフポートレイト(千葉成夫訳)、美術公論社、一九八一年。p.189.
6) Stock, op.cit.,p.236.
7) Fenollosa, Ernest (ed. by Pound, Ezra): The Chinese Written Character
as a Medium for Poetry, City Lights Books, 1968. p.8-9.; アーネスト・フェノロサ、エズラ・パウンド;詩の媒体としての漢字考(高田美一訳)、東京美術、一九八二年。p.10.
8) Kenner, Hugh: The Pound Era, University of California Press, 1971. 162.p.
9) Stock, op.cit., p.240.
10) フィッチ、ノエル・R;シルヴィア・ビーチと失われた世代、上巻、(前野繁ほか訳)、開文社出版、一九八六、一九八七年。p.232-235.
11) パウンドとシジスモンド・マラテスタのかかわりは、Rainey, Laurence S.: Ezra Pound and the Moment of Culture, Text, History, and the Malatesta Cantos, The University of Chicago Press, 1991.に詳しく書かれている。
12) Hemingway, Ernest: A Movable Feast, Charles Scribner's Sons, 1964. p.107.
13) 福田陸太郎、安川c編:エズラ・パウンド研究、エズラ・パウンド生誕百年記念論文集、山口書店、一九八六年。p11.
14) Hemingway:. op.cit.,p.110.
15) ibid.
16) Faulkner, Donald W.: The Portable Malcolm Cowley, Penguin Books, 1990. p.44.

ブランクーシについては、本サイト:プランクシーのアトリエ(FMTP No.6 Art)
久米民十郎については、本サイト:久米民十郎の絵(FMTP No.4 Art)
イデオグラミック・メソッドについては本サイト:Collage(FMTP No.1 Essay), 漢字とIdeogrammic Method(FMTP No.2 Essay)
をご参照下さい。

 この章では、パウンドの伝記的記述は、Stock, Noel : The Life of Ezra Pound (An expanded edition), North Point Press, 1982.とCarpenter, Humphrey : A Serious Character, The Life of Ezra Pound, Houghton Mifflin Company, 1988. を基本にした。T・S・エリオットの伝記的記述は、Ackroid, Peter: T. S. Eliot, Sphere Books, 1989.(アクロイド、ピーター:T・S・エリオット(武谷紀久雄訳)、みすず書房、一九八八年)によった。


エズラ・パウンド関連サイト
http://www.lit.kobe-u.ac.jp/~hishika/pound.htm: Ezra Pound (神戸大学文学部・菱川英一氏による英文サイト。パウンドの晩年の肖像写真、主要文献リスト、年譜、関連サイトへのリンクなどが掲載されています。主要英米詩人についての情報を得るための同氏作成サイトにリンクしています。)


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