No.15 June, 2000
歴史の中のエズラ・パウンド 第15回
第2部 モダンエイジ
第9章 社会信用論
(後半、Section 3-5)
3
パウンドは、『ポエトリ』の一九一九年三月号に、『セクストゥス・プロペルティウスヘの敬意』と題する一二編から構成された詩を発表した。この詩は、戦後の空しさの中での彼の気分を表したものでもあった。
セクトゥス・プロペルティウスは、紀元前一世紀ローマの恋愛詩人である。プロペルティウスはキュンティア(シンシア)との愛を四巻の詩集に歌った。この詩集は、中山恒夫によって翻訳されている。その解説によると、当時のローマでは恋愛は人妻や遊女との恋を意味し、キュンティアも遊女であった。「恋の喜び、幸福、不安、悩み、嫉妬、悲しみなど、情熱的な激しい感情に満ちた」(1)第一巻の詩集によって、プロペルティウスは、文人のパトロンであり政界の大物でもあったマエケーナース(メッシーナス)の庇護を受けるようになった。マエケーナースはウェルギリウス、ホラティウスらの庇護者でもあった。
マエケーナースは、プロペルティウスに、恋愛詩を減らし、政治、軍事を主題にした詩を書くように勧めたが、プロペルティウスは恋愛詩を書き続けた。キュンティアとの馴れ初めから死による別れまで、四巻の詩は一貫してキュンティアとの恋愛を軸にしており、恋愛小説のようでもある。
パウンドの『セクストゥス・プロペルティウスヘの敬意』は、プロペルティウスが自分の詩の永遠性を歌った第三巻の冒頭の詩から始まり、叙事詩よりも哀歌を歌うという姿勢を表明した詩、そしてキュンティアとの恋愛を歌った詩へと展開していく。パウンドは部分の抽出、再構成によってプロペルティウスの詩のエッセンスを、短く歌い上げようとした。
軍事よりも恋愛を歌うというプロペルティウスの姿勢は、大戦後、国家への不信が高まる中できわめて現代的であった。ティム・レッドマンは、パウンドがこの詩で訴えようとしたのは、「芸術家の使命と仕事は、国家の危急を凌ぐ」という考え方、「国家の要求を知っていてもそれを拒否する」という芸術至上主義の思想であったとしている(2)。
プロペルティウスの詩は、性愛も大胆に歌っているが、そうした部分はキリスト教的なメンタリティーによって正確に訳されていないと見たパウンドは、自分の翻訳では大胆な語句を用いた。検閲を刺激することを恐れた『ポエトリ』のハリエット・モンローは、一二篇のうちの四篇しか掲載しなかった。その年の一月の『リトル・レビュー』に掲載されたジョイスの『ユリシーズ』は、郵政当局により没収されて焼却され、五月の掲載分も同様の処分を受けていた。映画の検閲は一九〇八年頃から社会を騒がせていたが、性表現の自由の問題は文学にも波及し、作家と国家との対立は緊張を高めていた。
『プロペルティウス』が『ポエトリー』三月号に発表されると、シカゴ大学のラテン語教授は、パウンドの翻訳の些細な誤りや「デカダント」な解釈を指摘し、もしパウンドがラテン語学者であったなら、自殺しか道は残されていないと激しい言葉を使って批判した。しかし、パウンドは意に介さず、『ニュー・エイジ』の一九一九年夏の号に六編を発表し、十月に出版された詩集『キア・パウペル・アマヴィ』(オヴィディウスの詩句を用いたもので、「施しの愛」の意味)(3)に全編を発表した。この詩集の出版は、『プロペルティウス』に批判的だったマシューズが拒んだため、エゴイストから出版された。
このようにして『プロペルティウス』は全編の出版に到達したが、パウンドは出版界から警戒されるようになっていた。ニューヨークのクノップは、彼の評論集『扇動(インスティゲイション)』を出版する約束をしていたが、取り止めた。そのために、ボニ・アンド・ライブライトという小出版社から出版された。
『プロペルティウス』をめぐって騒ぎが起こっていた四月終わり頃から九月まで、パウンドとドロシーはフランスを旅行していた。パリを始点にツールーズ、ニーム、アルレス、アビニヨン、ピレネー地方などを訪れた。八月半ばには、エリオットが、ツールーズのパウンド夫妻の滞在先を訪れた。
九月に、ロンドンへ帰ると、その月の『リトル・レビュー』に、パウンドはフェノロサの『詩の媒体としての漢字考』(4)の最初の部分を発表した。四回にわたって、一二月号まで連載されたフェノロサのこの論文は、森槐南の講義を元にした言語論、詩論であり、中国詩を考察することによって、言語の起源を推し、詩の普遍的な原理の究明を試みている。パウンドは早い時期からこの論文を読み続け、詩の技法や詩論を形成していくうえで強い影響を受けていた。彼は、この論文を早くから発表しようとしていたが、雑誌への掲載を拒まれて実現しなかったとされているが、この論文を重視するあまり、発表を遅らせたのではないかという見方もされている(5)。
パウンドは、『リトル・レビュー』に寄稿はしていたが、すでに海外編集員ではなく、『ポエトリー』の海外通信員も辞していた。そうした立場の変化は、『プロペルティウス』で批判を浴びたことによってもたらされていた。
その後、彼は、『アウトルック』という雑誌に劇評をペンネームで書く仕事を得たが、短期間で終わり、翌年の春には『アシーニアム』誌にやはりペンネームで劇評を書く仕事を得たが、十分な収入をもたらす仕事ではなかった。また『キア・パウペル・アマヴィ』も、『プロペルティウス』への批判が影響して不評だった。パウンドは、ロンドンで収入を得ることに苦労するようになっていた。
一九二〇年になると、パウンドの将来を心配したエリオットは、パウンドを『ダイアル』のロンドン代表にするようニューヨークのクインに頼んだ。『ダイアル』は、一八八〇年にシカゴで月刊の文芸批評誌として創刊された保守的色合いの雑誌だった。その後、ニューヨークで、エリオットの大学時代の知り合いスコフィールド・セイヤーが編集するようになっていた。クインが発行資金を援助することにより、パウンドは『ダイアル』で、『ポエトリ』や『リトル・レビュー』で担っていたような役割を果たすことになった。
こうした文学界での苦境、それに伴う経済的な困難は、戦後の社会的な混乱の中で感じられた空しさとあいまって、パウンドの政治的、経済的な意識を高めた。彼は次第にイギリスの支配階級に嫌悪感を募らせるようになっていた。この頃、彼が書き始めており、のちに「ヘル・キャントウズ」と呼ばれるようになった第一四篇と第一五篇は、イギリスの支配階級を激しく非難した詩である。第一四篇は、冒頭に「われすべての光の黙せるところに到れり」(6)とダンテの地獄篇の詩句を引用し、イギリスの政治家や資本家たちを激しい言葉で揶揄、攻撃している。
また、『リトル・レビュー』の一九二〇年五・六月号では、『ラ・プラタの博物学者』(7)の著者、W・H・ハドソンについてのエッセイ『ハドソン:科学に迷い込んだ詩人』(8)を書き、その中で自然を破壊する産業主義を激しく非難した。彼はイギリスの文明に対して激しい嫌悪感を抱くようになっていた。
(写真は、Ellmann, Richard: James Joyce, Oxford University Press, 1982.
の表紙カバーに使われているジョイスの肖像写真)
4
一九二〇年四月末になると、パウンドは、妻ドロシーとともにパリを経てヴェニスへ行き、五月の終わりから『ニュー・エイジ』に連載される予定になっていた自伝的作品『無分別(インディスクリーション)』の執筆に取りかかった。
ヴェニスから、ジョイスの住むトリエステへ行く予定にしていたが、ドロシーの体の具合が悪くなり、二人はガルーダ湖畔のシルミオーネへ行った。ガルーダ湖畔のシルミオーネに着いた五月半ば、パウンドは、手紙を交わしながらも、まだ会ったことのなかったジョイスに、滞在費を負担するからここへ来てはどうかと誘った。ジョイスは一九一九年一〇月にチューリッヒからトリエステへ帰っていた。
ジョイスが来ることになっていた夜、パウンドは待っていたが、ジョイスは現れなかった。ジョイスは、手紙で、鉄道のストライキ、事故、接続の不便さなどを挙げ、さらに着て行く物がないなどと書いてきた。パウンドは、それでもねばり強く、ダブリンへ帰る途中に来てはどうか、家族で来てはどうかと勧め、滞在場所の準備にまでとりかかった。ジョイスは、それでも決心がつかず、逆にパウンドにトリエステへ来るように勧めたりしていたが、突然決意して六月八日に息子を連れて来ることになった。パウンドは、デレンツェーノ駅でジョイスと息子を迎えた。『ピザン・キャントウズ』(『キャントウズ』第七六篇)にパウンドは、その時のことを「ジョイスと息子がカトルスの場所にやって来た」(9)と書いている。
ジョイスはシルミオーネに二日間滞在し、パリへ行ってみたいと言った。彼は、『若き芸術家の肖像』のフランス語訳を出したいとも考えていた。そして、パウンドも、パリへ行きたいと考えていた。
六月に、パウンド夫妻はイタリアからパリへ移った。パリに着くと、パウンドは、すぐにジョイスの『若き芸術家の肖像』の翻訳者を探しにかかり、ジョイスの家探しにも奔走した。
パリには、アメリカ人牧師の娘、シルヴィア・ビーチが、前年に、左岸でシェイクスピア書店を開いていた。一四歳の時から三年間、家族と共にパリに住んでヨーロッパが好きになった彼女は、一九一六年に数カ月をスペインで過ごしたあと、一九一七年から再びパリに住むようになり、オデオン通りに書店を開いていたアドリエンヌ・モニエと知り合いになった。(10)
モニエはアメリカの本に関心を持っていたが、フランスでは新しいアメリカ文学は、まだほとんど知られていなかった。モニエの店には、アンドレ・ジイド、ジュール・ロマン、ポール・ヴァレリーらが訪れ、彼らの朗読会も開かれていた。エリック・サティやフランシス・プーランクを招いて音楽の会が開かれることもあった。ビーチは、モニエの書店でフランス文学の世界に触れながら、戦時のボランティアとして農場へ行き、その後、アメリカ赤十字の看護婦としてベオグラードへ行った。パリへ戻ったのは一九一九年七月である。
パリへ戻ると、彼女は書店を開きたいと思うようになり、ニューヨークにモニエの書店の支店としてフランス語書籍の店を開くことも考えたが実現せず、経済的にもっと容易な、パリに英語書籍店を開く計画に変えた。母親の貯金とモニエの援助で、デュピュトラン通りに貸本主体の書店を開くことになり、パリの古書店から本を買い集めただけでなく、アメリカへ帰っていた姉から新しい本を送ってもらい、さらにロンドンへ本を買い集めに行った。ロンドンでは、ハロルド・モンローの詩の専門書店やエルキン・マシューズの書店を訪ね、イェイツ、ジョイス、パウンドらの詩集を主に買い集めた。
一九一九年一一月に開店したシェイクスピア書店の店内の壁にはマシューズから購入したウィリアム・ブレイクが描いた絵、ホイットマン、ポー、ワイルドの写真が飾られた。ワイルドの写真は、自筆の手紙と一緒に額に入れ、叔母から贈られたホイットマンの草稿も額に入れて飾った。その草稿は叔母が学生の頃、のちにバートランド・ラッセルと結婚したアリスと連れだってホイットマンを訪ねた時にもらったものだった。
パウンドは、パリへ来て間もない六月にシェイクスピア書店を訪れた。店には、彼の作品が目立つところに置いてあった。ビロードの上着に開襟シャツという、イギリス流のしゃれた服装をしたパウンドを見て、ビーチは、はじめイギリス人ではないかと思ったが、「ハクルベリー・フィンの話し方」ですぐにアメリカ人とわかったという。
シルミオーネでパウンドと別れたあと、トリエステへ帰ったジョイスは、七月にヴェニス、ミラノ、パリなどを経てロンドンに行く予定でトリエステを去り、パリへ着いた。一週間の滞在と言っていたが、二〇年間住むことになった。ジョイスがパリへ来ると、パウンドはフランス人詩人に頼んでジョイスのためにパーティーを開き、アドリエンヌ・モニエもそのパーティーに招かれ、ビーチを連れていった。ビーチは「ジェイムズ・ジョイス先生でしょうか」と話しかけてジョイスと知り合いになった。その翌日、ジョイスはシェイクスピア書店を訪れた。(11)
ジョイスは『ユリシーズ』を書き続けていた。九月には、海辺で少女ガーティを見ながらレオポルド・ブルームが欲情に駆られる情景を書いた『ユリシーズ』の「ナウシカ」の章が載っている『リトル・レビュー』七・八月号がニューヨークの犯罪防止委員会によって告発された(12)。そうした情勢にかまうことなく、ビーチは、ジョイスに『ユリシーズ』をシェイクスピア書店から出版させて欲しいと頼んだ。『ユリシーズ』がシェイクスピア書店から出版されたのは一九二二年二月である。
シェイクスピア書店には、パウンドとジョイスだけでなく、多くのアメリカ人、そしてフランス人の作家や詩人たちが訪れるようになり、二〇年代のアメリカ文学のヨーロッパにおけるセンターのような場所になった。ビーチは、その書店での思い出を『シェイクスピア書店』(13)に書き、さらにノエル・R・フィッチが彼女を主人公にした文学史『シルヴィア・ビーチと失われた世代』(14)を書いている。
パリに集まりつつあったのは、アメリカの作家や詩人たちだけではなかった。一九一〇年前後にモダニズムの第一の波としてキュービズムと未来主義の芸術運動が興ったあと、大戦でパリは芸術的雰囲気を失っていたが、ヨーロッパの前衛的な芸術家たちが再び集まりつつあった。
大戦中、ヨーロッパの反戦的な芸術家たちは、ニューヨークや中立国スイスへ逃避していた。ニューヨークにはマルセル・デュシャンやフランシス・ピカビアが移住して、アメリカの前衛的な芸術環境に活気を与えた。スイスでは、チューリッヒに芸術家、亡命者、革命家、反戦運動家らが集まった。作家たちの国際的な反戦活動の先頭に立ったフランスのロマン・ロラン、オーストリアのステファン・ツヴァイク、亡命中のレーニン、トリエステから追放されたジェームズ・ジョイス、そしてトリスタン・ツァラらである。
一八九六年生まれのユダヤ系ルーマニア人、ツァラは、第一次世界大戦が勃発すると両親と共にチューリッヒに移住し、ドイツから移住していたフーゴー・バルらと共にダダの芸術運動を起こした。初めは内向的で神秘主義的なバルが主導的に活動していたが、やがて、活発で虚無主義的なツァラが主導的立場に立った。一九一八年の夏には、バルはチューリッヒを去り、ニューヨークから移ってきたピカビアが、ツァラと共にダダ運動の中心的な存在になった。(15)
第一次世界大戦が終わると、チューリッヒのダダイストたちは、自分たちの国へ帰って行き、そこでダダの運動を引き継いだ。ベルリンでは、ダダイストたちはすでにエスタブリシュメントになっていた表現主義者たちに対して挑戦した。ケルンでは、マックス・エルンストらがダダイストとして活動した。(16)
ツァラがパリに移ったのは一九二〇年の一月である。第一次世界大戦を経て、若い芸術家たちは、国家や過去への不信から、個人の完全な自由を追求するようになった。彼らを主役にして、パリではモダニズムの第二の波としてダダイズム、続いてシュールレアリズムの運動が興ろうとしていた。
5
パウンド夫妻は、一九二〇年七月の終わりにロンドンへ帰った。帰るとすぐに、パウンドは『アシーニアム』の劇評欄の仕事を失った。彼の書いた評により謝罪を掲載するはめに陥った編集長のミドルトン・マリーが、パウンドへの依頼を打ち切ったためである。パウンドは収入をほとんどを失うことになった。
それでも彼はジョイスを援助することを考え、ジョイスが靴で困っていたのを思い出し、古靴を手に入れて、フランスへ徒歩旅行に行くエリオットとウィンダム・ルイスに託した。ジョイスは、二人の前でパウンドからの包みをほどき、古靴を見て恥じた。それを打ち消すために、彼はエリオットとルイスを贅沢なレストランへ案内した、というエピソードは多くの本に書かれている。
パウンドは、ロンドンを去ったあと、どうするかについて考えていた。アメリカへ帰ること、ウィリアムズのように医師になることも考えたという。しかし、数年を必要とし、学資も必要な医師への道は現実的ではなかった。九月頃になると、パウンドはウイリアム・カーロス・ウイリアムズに「イギリスには、もう知的な生活はない」(17)と書き、パリに移り住むことを考えていた。『ダイアル』の一〇月号から一二月号まで三号にわたって、彼は『パリという島』と題してパリの文学状況を報告し、パリに対する強い関心を表明した。ヴァレリー、アポリネール、ダダイストらに、彼は引きつけられていた。
九月には、パウンドは『ダイアル』に、六月にロンドンで出版した『ヒュー・セルウィン・モーバリー、生涯の交友』の始めの六編を発表した。『モーバリー』のテーマは、『プロペルティウス』と同じように芸術家と社会との関係である。『プロペルティウス』では国家は背景にあったのに対し、『モーバリー』では前面、すなわち芸術家の成功を妨げるものとしてとらえられた。詩は、新しいパウンドと古いパウンド(純粋な芸術家モーバリー)という二人のペルソナによって構成されており、モーバリーは詩が終わる前に死ぬ。その詩は、パウンドの政治への漂出を暗示していた。(18)
引用文献
1) 中山恒夫編訳:ローマ恋愛詩人集、国文社、一九八五年。p.606.
2) Redman, Tim: Ezra Pound and Italian Fascism, Cambridge University Press,
1991.p.28
3) Carpenter, Humphrey: A Serious Character--The Life of Ezra Pound, Houghton
Mifflin Company, 1988.p.353.
4) Fenollosa, Ernest (ed. by Pound, Ezra): The Chinese Written Character
as a Medium for Poetry, City Lights Books, 1968. 翻訳書:アーネスト・フェノロサ、エズラ・パウンド;詩の媒体としての漢字考(高田美一訳)、東京美術、一九八二年。
5) 高田美一:フェノロサ遺稿とエズラ・パウンド、近代文芸社、一九九五年。p.9-10.
6) エズラ・パウンド詩集(新倉俊一訳)、角川書店、一九七六年。p.125.
7) ハドソン、W・H:ラ・プラタの博物学者(岩田良吉訳)、岩波書店、一九七五年。
8) Pound, Ezra : Selected Prose 1909-1965, ed. by William Cookson, Faber
and Faber, 1973. p.399.
9) エズラ・パウンド詩集、新倉訳。p.271.
10) シェイクスピア書店に関する記述は、Beach, Sylvia: Shakespeare &
Company, University of Nebraska Press, 1991.(First Published 1956) p.3-14,
15-26 による。
11) Beach, Sylvia: op.cit.p.26-27、フィッチ、ノエル・R:シルヴィア・ビーチと失われた世代、上巻、下巻(前野繁ほか訳)、開文社出版、一九八六、一九八七年、上巻、p.124-126.
12) Ellmann, Richard: James Joyce, Oxford University Press, 1982.p.502.
13) Beach, Sylvia: op.cit.
14) フィッチ、ノエル・R:op.cit.
15) Bradbury, Malcom and McFarlane, James (ed): Modernism, A Guide to European
Literature 1890-1930, Penguin Books, 1976. p.292-296.
16) ibid.,p.296-297.
17) Selected Letters of Ezra Pound 1907-1941, Ed. by D. D. Paige, Faber
and Faber, 1950.p.158.
18) Redman, Tim: op.cit.,p.29-30.
この章では、パウンドの伝記的記述は、Stock, Noel : The Life of Ezra Pound
(An expanded edition), North Point Press, 1982.とCarpenter, Humphrey :
A Serious Character, The Life of Ezra Pound, Houghton Mifflin Company,
1988. を基本にした。
<エズラ・パウンド関連サイト>
http://www.lit.kobe-u.ac.jp/~hishika/pound.htm:
Ezra Pound (神戸大学文学部・菱川英一氏による英文サイト。パウンドの晩年の肖像写真、主要文献リスト、年譜、関連サイトへのリンクなどが掲載されています。主要英米詩人についての情報を得るための同氏作成サイトにリンクしています。)
Copyright (C)2000 Hideo Nogami