No.14 May, 2000
歴史の中のエズラ・パウンド 第14回
第2部 モダンエイジ
第9章 社会信用論
(前半、Section 1-2)
1
第一次世界大戦の戦後処理は、パリの講和会議によって始まった。連合国の代表が集まり、一九一九年一月に第一回の会議が開かれた。イギリス、アメリカ、フランス、日本、イタリアが五大国とされ、重要問題はイギリスのロイド=ジョージ首相、フランスのクレマンソー首相、アメリカのウィルソン大統領の三巨頭の会談によって決定された。
ウィルソン大統領は理想主義的な「一四カ条」の原則を掲げて会談に臨んだが、イギリスとフランスにとって、重要問題は、他国への債務と戦争債の償還だった。フランスはイギリスとアメリカに、イギリスはアメリカに莫大な債務を負い、またそれぞれの国が巨額の戦争債を発行していた。講和の条件はそれらの償還が保証されるものでなければならなかった。現実的な要請を前にして、ウィルソンの掲げる理想主義は骨抜きにされ、六月二八日にヴェルサイユ宮殿でドイツに莫大な賠償を課した講和条約が調印された。しかし、条約の調印は、新たな困難の始まりでしかなかった。
イギリス経済は、戦後一年半ほどは好景気を迎えることができたが、すぐに不景気に陥った。ロシア、ドイツの市場が崩壊しただけでなく、アメリカと日本の工業の発展、さらにマルクの著しい下落によって競争力を得たドイツ製品によってもイギリスの輸出市場は狭められていた。産業の不振によって失業者が増加し、戦前は四、五パーセントにすぎなかった失業率は、戦後になると好況の年でも一〇パーセント、不況の年には二〇パーセントを超え、一九二一年には失業者数は一〇〇万ないし一五〇万人に達した。(1)
人々は失望の中に生きていた。敗者だけでなく勝者にも経済的な苦境をもたらした戦争とは一体何だったのだろうか、という思いに多くの人々がとらわれていた。バートランド・ラッセルは、戦争をもたらしたのは資本主義であると考えるようになり、一九一八年一月にはNCFの仲間クリフォード・アレンに宛てた手紙の中で、「世界は呪うべき状態にある。レーニンとトロッキーだけが明るい地点だ」と書いた(2)。しかし、すぐに、彼はその考えを変えなければならなかった。
自由主義者から社会主義者に転じたラッセルは、一九二〇年の五月に、イギリス労働党代表団の非公式メンバーとして約一カ月間、ロシアを訪問した。ロシア革命を「明るい地点」とみなしていた彼にとって、ロシア訪問は新しいユートピアを目にすることができるという期待を抱かせるものであったのかもしれないが、実際に見たロシアは決してユートピアなどではなかった。彼はその国の貧しさや後進的な政治の状態に慄然とした。
ロシア訪問から帰ったあと著した『ボルシェヴィズムの実践と理論』(邦訳書名『ロシア共産主義』(3))の中で、ラッセルはロシアに対する失望をあからさまに述べている。彼は、ボルシェヴィズムは宗教に近いものであるとし、それを認める人々は、「科学的証拠を受けつけなくなり、知的に自殺してしまう」「私のように、自由な知識が人類の進歩の主要な原動力であると信じるものは、ローマ教会と同じくボルシェヴィズムにも根本的に反対せざるをえない」と書いた(4)。
しかし、マルクス主義への傾倒は強い流れになっていた。イギリスでは一九二〇年八月に共産党が結成され、一九二三年末の選挙では労働党が第二党になり、一九二四年には自由党の支持を得て労働党内閣が成立した。
第一次世界大戦後の経済的苦境は、イタリアではファシズムを生んだ。イタリアも、イギリスと同じように勝者の側にいたにもかかわらず、大戦が終結すると深刻な経済危機に直面した。戦争は犠牲に見合うものを何ももたらさなかったという失望が広まる中で、社会主義者は戦争責任者に敵意を表明してストライキと暴力を煽り、一方、ムッソリーニら、かつての参戦論者はヴェルサイユ条約でイタリアが受けた不公平な取扱いに抗議した。
ムッソリーニは、一九一九年三月に、ミラノで「戦闘ファッショ」を組織し、続いて『イル・ポポロ・ディタリア』で「イタリア参戦主義者全国大会」の開催を呼びかけて、復員軍人団体の要求を支持すること、フューメ返還要求などを掲げた宣言を採択した。「戦闘ファッショ」には、過激な攻撃行動をとる突撃隊や未来派のマリネッティが加わっていた。四月、突撃隊はマリネッティの指揮のもとに、社会党の新聞『アヴァンティ』の事務所を焼き討ちした。そして、生活費の高騰によって社会不安が絶頂に達した六月には、ムッソリーニとダンヌンツィオが会談した。彼らは軍人や国家主義者とともに議会制度を転覆し、軍事政権を樹立を図っているという噂がローマ中に広まっていた。(5)
九月になると、ダンヌンツィオは、およそ一〇〇〇人ほどの義勇軍を率いて、アドリア海のフューメに進軍し、最高指揮官として、約一年間この都市を占拠状態に置いた。
ヨーロッパの芸術家や思想家たちは、唯美主義者ダンヌンツィオのこうした過激な行動によって大きな衝撃を受け、その行動の意味について考え続けていたに違いない。一五年ほどのちに、ウォルター・ベンヤミンは、『複製技術の時代における芸術作品』の中で、「現代人のプロレタリア化の進行と、大衆の組織化の進行とは、同一事象の二つの側面である。新しく生まれたこのプロレタリア大衆は、現在の所有関係の廃絶をめざしているが、ファシズムは、所有関係には手を触れずに、大衆を組織化しようとしている」(6)と書いた。彼はファシズムを政治生活の唯美主義化であるとし、「ダンヌンツィオとともにデカダンスが、マリネッティとともに未来主義が、そしてヒトラーとともにシュヴァービング(ミュンヘンの芸術家居住区)の伝統が、政治の中へ入り込んでいった」(7)と述べている。
(写真は、ダンヌンツィオの写真を使っているWoodhouse, John: Gabriele D'Annuzio,
Defiant Archangel, Oxford University Press, 1998. の表紙カバー)
2
第一次世界大戦後の経済的混乱の中で、パウンドは、C・H・ダグラス(クリフォード・ヒュー・ダグラス)の経済理論に強く傾倒し始めていた。
ダグラスは一八七九年に生まれ、グラマースクールを卒業したあと、インドのウェスチングハウス社の技師になり、第一次大戦が始まった一九一四年から終戦の一八年まで、イギリス空軍の少佐として航空機工場で生産管理と原価計算の仕事に就いた。彼は経済に関心を持ち、とりわけ通貨供給のあり方に疑問を抱いていた。好況と不況の波は、通貨供給を巧みに行うことによって調整できるのではないかと彼は考えていた。
こうした彼の考えは、戦時の経済を経験することによって大きく進展した。戦争が始まると、一時的に金本位制が廃止されて通貨の供給が豊かになり、生産活動はフルに稼働し、失業は問題にならなくなった。その経済的な方策は、平和時にも使えるに違いないし、使うべきだというのが、彼の基本的な考えだった。ダグラスは、オレージの協力を得て一九一九年一月から『ニュー・エイジ』に経済理論の論文を掲載し、一九二〇年に、その論文を元にして『経済的民主主義』という本を出版した。
この本で彼が強く訴えたのは、不況を回避するには、国家が国民に対して信用を供与して、国民の購買力を活性化する必要があるという考えだった。国民に「信用を供与する」ということは、国民に「金を貸す」ということであり、彼はその「信用」の根拠を、無数の人々の努力によって築き上げられた文化や文明がもたらしている利益に求めた。その利益の「配当」として「信用」が供与されるべきであると主張し、彼は、のちにその「信用」を「社会信用(ソーシャル・クレジット)」と呼んだ。
ダグラスは、資本主義経済では製品は過剰に生産され、それが輸出によって解決されようとするために国際間の紛争が起こるというイギリスの経済学者J・A・ホブソンの考え方にも共感を表明し、戦争を防止するためにも国内の購買力を高める必要があるとした。続けて出版した『信用の力と民主主義』(一九二一年)、『社会信用論』(一九二四年)では、彼は数式を展開して自説を理論づけていった。
その理論の基本をなしたのは、「A+B定理」と呼ばれるものだった。消費財の価格は、A(賃金、俸給、配当)の部分とB(原材料、利子費用、減価償却費など)の部分から成るが、購買力として労働者に支払われるのはAに過ぎず、AによってBを購入することはできないので消費者は余分の購買力の供与を受けなければならない、と彼は主張した。(8)
ダグラスの考えの根底にあった、購買力を高めるためには信用を拡大する必要があるとする考え方は、現在では、景気刺激策としてごく普通にとられている考え方である。しかし、金本位制度という貨幣制度に強くとらわれていた当時の政治家や経済学者にとって、彼の考えはとうてい受け入れがたいものだった。労働党や共産党も彼の考え方を否定した。労働党は一九二二年に委員会を設置して検討した結果、否定的見解をとり、共産党も「信用を拡大して、価格を下げるという両方のことはできない」としてダグラスの考えを否定した(9)。信用を拡大すればインフレが伴うという共産党の見解は正しかったが、景気を刺激するために信用の拡大が必要であることは見逃された。
ダグラスは、共産主義になれば個人の自由が奪われるという考えに立って資本主義の行方に危機感を持っていた。その点では、ベンヤミンが言う「所有関係には手を触れない」変革を志向したものであった。個人の自由を保障するためには資本主義体制が存続しなければならないが、そのためには貨幣制度の変革が必要であるというのがダグラスの考えだった。
パウンドは、一九一八年に、『ニュー・エイジ』編集長のA・R・オレージを訪ねてきたダグラスに会った。そして、一九一九年の終わり頃から、ダグラスの経済理論に強い関心を持つようになった。『リトル・レビュー』一九二〇年四月号では、彼はダグラスの『経済的民主主義』を批評し、その個人を重視する思想に賛意を表明した。そして、ダグラスの考え方は、「経済的な新しい確かな考え方」であり、「より人間的な生活水準と、無責任な人間の小集団の仕業による経済的な悪事によって勃発する戦争の防止を目指す」考え方であると書いた(10)。
パウンドはダグラスとジョン・メイナード・ケインズを会わせることにも奔走した。パリ講和会議にイギリスの大蔵省正式代表として出席したケインズは、講和条約がドイツに渡されると辞表を提出して大蔵省を去り、一九一九年十二月に『平和の経済的帰結』を出版して人々の注目を集めていた。彼はこの本で、交渉の過程や問題点を詳細に報告し、「ドイツを一世代にわたって奴隷状態におとしいれ、何百万という人間の生活水準を低下させ、一国民全体から幸福を剥奪するような政策は、おぞましく、また憎むべきものである」(12)と書き、ドイツに過大な賠償を課した「カルタゴの平和」(ポエニ戦争で勝者ローマは敗者カルタゴに広大な領土の割譲と巨額な賠償金を課し、カルタゴを滅ぼした)を激しく非難した。
彼が描いていた戦後の経済的処理策は、「戦争目的で負った連合国間の負債を全額棒引きにすること」であり、これは主にアメリカからの借款によってヨーロッパの復興を図ることであった(13)が、そうした処理策をイギリス、アメリカ、フランスの指導者が受け入れなかったことを、彼は非難したのである。しかし、貨幣制度の新しいあり方について、当時の彼は、明確な考えを持っていたわけではなかった。
注目を集めていた経済学者とダグラスとの会見に、パウンドは大きな期待をかけていたに違いない。しかし、彼は失望した。『キャントウズ』二二編に、彼は、ダグラスとケインズを会わせた時のことを書いている。この詩の中のブーコス氏が、ケインズであるとされている。(14)
その詩の中で、ダグラスは名声を博しているブーコス氏に聞く。「高物価の原因は何ですか」。国家の経済政策の顧問をしているブーコス氏は答える。「労働力の不足です」。しかし、二百万人の失業者がいる。そこでダグラス氏は黙ってしまったが、「私」は黙っていなかった。ブーコス氏にうるさく聞くと、ブーコス氏は最後に言った。「私は由緒正しい経済学者です」と。(15)
この詩の中で、ダグラスの考え方に取り合おうとしなかった、とパウンドに非難されているが、ケインズはダグラスの理論に対して思考をめぐらせていた。
R・F・ハロッドは、『ケインズ伝』の中で、彼が一九二二年頃、オックスフォード大学でケインズとしばらく一緒に滞在していたときに、ケインズと同じように確率論を研究していたオックスフォードの哲学者H・W・B・ジョセフとケインズを朝食の席で引き合わせた時のことを書いている。その時に、会話はダグラスの社会信用論に向かい、ジョセフが入念に、それを論駁した。ケインズは黙って聞き、最後に「ダグラス少佐の誤謬を私がこれまで聞いたうちでもっとも明瞭にかつ見事に暴露したもの」(16)であるといった。
しかし、ジョセフが誤謬を正しく論駁できたとは、彼は考えていなかったのだろう。それどころか彼自身も、論駁できないでいたに違いない。彼が、ダグラスの理論を論駁できたのは、その十年以上も後の一九三五年、『雇用・利子および貨幣の一般理論』の出版によってであったといえる。この中でケインズはダグラスについてこう述べている。
「(第一次)大戦後、異端的な過少消費説がいっせいに氾濫をした。そのうちダグラス少佐の理論がもっとも有名である。・・・・ダグラス少佐は、彼の論敵である正統派の人々とは違って、少なくとも現代経済学の主要問題を完全に忘却していないと主張できる権利を持っている。・・・明晰さと整合性を保ち、平易な理論によりながらも、事実に合わない仮説によって得られた誤謬を主張するよりも、この人たちは、自分の直感に従って不明瞭、不完全ながら真理を見いだす方を選んだのであった」(17)
ジョン・ガルブレイスは、一九七五年の著作『マネー、その歴史と展開』の中で「ケインズ自身が述べているように、ダグラスはケインズに先んじていたといえる」(18)と書いている。ダグラスは、経済史の中ではほとんど無視されているが、通貨供給によって資本主義を変えるという考え方で明らかにケインズに先行していたのである。
引用文献
1) 大野真弓編:イギリス史(世界各国史一)、山川出版社、一九九〇年。p.288,
290.
2) ウッド、アラン:バートランド・ラッセル―情熱の懐疑家―、碧海純一訳、木鐸社、一九七八年。p.193.
3) ラッセル、バートランド:ロシア共産主義、河合秀和訳、みすず書房、一九九〇年。
4) ibid., p. 74.
5) フェルミ、ローラ:ムッソリーニ(柴田敏夫訳)、紀伊国屋書店、一九六七年。
p.142-162.
6) ベンヤミン、ヴァルター:ボードレールほか五編(ベンヤミンの仕事2)(野村修編訳)、岩波書店、一九九四年。p.107.
7) ibid..
8) Douglas, C. E.: Credit-Power and Democracy, Cecil Palmer,1921.p.22;
ケインズ、メイナード:雇用・利子および貨幣の一般理論(塩野谷祐一訳)、ケインズ全集第七巻、東洋経済新報社、一九八三年。訳者注57.
9) Redman, Tim: Ezra Pound and Italian Fascism, Cambridge University Press,
1991.p.67.
10) Selected Prose 1909-1965,ed. by William Cookson, Faber and Faber, 1973.p.180-182.
11) ケインズ、メイナード:平和の経済的帰結(早坂忠訳)、ケインズ全集第二巻、東洋経済新報社、昭和五二年。
12) ibid., p.177.
13) 伊東光晴編著:世界の名著「ケインズ、ハロッド」、中央公論社、一九九二年。p.31.
14) Terrell, Carroll F.:A Companion to the Cantos of Ezra Pound, University
of California Press, 1993.p.90.
15) The Cantos, Faber and Faber, 1986.p.101-102.
16) ハロッド、R.F.:ケインズ伝(塩野谷九十九訳)、東洋経済新報社、一九六七年。p.163-164.
17) ケインズ、メイナード:雇用・利子および貨幣の一般理論(塩野谷祐一訳)、ケインズ全集第七巻、東洋経済新報社、一九八三年。p.378-379.
18) ガルブレイス、ジョン・K:マネー、その歴史と展開(都留重人監訳)、TBSブリタニカ、一九七六年。p.322.
この章では、パウンドの伝記的記述は、Stock, Noel : The Life of Ezra Pound
(An expanded edition), North Point Press, 1982.とCarpenter, Humphrey :
A Serious Character, The Life of Ezra Pound, Houghton Mifflin Company,
1988. を基本にした。また、バートランド・ラッセルの伝記的記述は、ウッド、アラン:バートランド・ラッセル―情熱の懐疑家―、碧海純一訳、木鐸社、一九七八年、によった。
<エズラ・パウンド関連サイト>
http://www.lit.kobe-u.ac.jp/~hishika/pound.htm:
Ezra Pound (神戸大学文学部・菱川英一氏による英文サイト。パウンドの晩年の肖像写真、主要文献リスト、年譜、関連サイトへのリンクなどが掲載されています。主要英米詩人についての情報を得るための同氏作成サイトにリンクしています。)
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