No.13 April, 2000

Series


歴史の中のエズラ・パウンド 
第13回
 
第2部 モダンエイジ

第8章 大戦
(3分載の3,Section 5-7)




 T.S.エリオット(トーマス・スターン・エリオット)がロンドンへやってきたのは第一次世界大戦が始まる直前の一九一四年夏である。一九一〇年にフランスへ留学した後、ハーヴァード大学に戻っていたエリオットは、この年の春、オックスフォード大学で哲学を研究することを目的として再びヨーロッパへと向かった。そして、マールブルグで哲学の夏期セミナーに参加するために七月の半ばにドイツへ入った。しかし、戦争が近づいていたため、そこで約二週間を過ごしたあと、急いでロンドンに向けて立った。ロンドンに着いたのは、八月である。(1)

 エリオットは、一八八八年九月二六日にアメリカのミズーリ州セントルイスで生まれた。祖父は、ユニテリアン派の牙城と言われていたハーヴァード神学校を卒業し、一八三四年にボストンから当時フロンティアだったセントルイスへユニテリアン派の布教にやってきた牧師であった。彼は、セントルイスのワシントン大学などの学校設立の時には、募金の獲得などで大きな功績をあげ、同大学の形而上学教授も務めた。宗教人として大きな功績をあげた彼は、アメリカ社会の精神的な指導者の一人であったといえるのだろう。

 しかし、エリオットの父は、宗教人としての道を歩まず、初め画家を志し、やがてビジネスの道を歩んで、れんが製造業者として成功した。ユニテリアン派は産業社会に受け入れ易い合理主義的ともいえる教義を持っていたが、そうした教義でさえも牧師の息子を宗教に引きとどめることができない時代になっていた。

 一九〇六年、ハーバードに入学したエリオットは、文学、哲学、歴史などを学びながら詩を書いていた。一九〇九年六月に学士号を得たあと、大学に残って修士の課程を終えた彼は、一九一〇年の夏にフランスへ行った。はじめソルボンヌでフランス文学の講義を聞いたあと、一九一一年にコレージュ・ド・フランスでベルグソンの講義を聞いて、彼は哲学への関心を深めていった。そして、その年の秋にハーヴァードへ戻ると哲学専攻の学生としてハーバードに再度入学し、サンスクリットやインド哲学、仏教学などの講義を聞き、F・H・ブラドレーらの新しい西洋哲学に関心を向けた。

 一九一四年、イギリスからやってきたラッセルがハーヴァードで講義をしたとき、エリオットは、受講して彼と知り合いになった。一九〇三年に『数学原理』第一巻、一九一〇年にホワイトヘッドとともに『プリンキピア・マテマティカ』の第一巻を出版したラッセルは、数理哲学の研究をしながら政治活動も行っていた。フェビアン協会を脱退したあと、彼は自由主義的立場に立つようになり、一九〇七年には「婦人参政権団体全国連合会」の候補として議会の補欠選挙に立候補したが落選した。

 ロンドンに着いてまもなく、エリオットは、大英博物館近くの路上でラッセルに偶然に再会し、いろいろな面でラッセルの援助を受けるようになった。しかし、エリオットは、哲学と詩のどちらを自分の仕事にすべきか決めかねていた。

 そのような時に、彼が詩人としての道を歩むことを決定づけたのは、パウンドであった。ロンドンには、コンラッド・アイケンというエリオットのハーヴァード時代からの友人がいた。彼の紹介で、エリオットは、一九一四年九月にパウンドに会った。パウンドは、エリオットの「プルーフロックの恋唄」を「アメリカ人からの最も興味深い寄稿」として『ポエトリ』に送り、さらに彼をウインダム・ルイスやヒルダ・ドリットル(H.D.)に紹介した。そうして、エリオットはパウンドを中心とする文学仲間に入っていった。

 一九一五年になると、エリオットは、オックスフォードでヴィヴィアン・ヘイ=ウッドという六カ月年長の活発な女性に出合い、六月にロンドンへ引っ越すと一週間後に結婚した。彼女は幼少時から病気がちで、結婚生活はスムーズにはいかなかった。やがて彼女は、夫妻の友人であったラッセルに宛てて、自殺をほのめかすような絶望的な気持ちを訴えた手紙を書くようになった。

 夫妻の悩みを知り、ラッセルは二人に自分のアパートに住むことを勧め、二人は九月からラッセルと同居を始めた。中学校の教師をしていたが十分な収入を得られていなかったエリオットに、ラッセルは経済的な援助もした。ヴィヴィアンの病状が悪化すると、ラッセルは転地の費用を提供した。

 そうした生活の中で、エリオットは詩を書き、学位論文にも取り組んでいた。『ポエトリ』のモンローはエリオットの詩を理解せず、掲載をなかなか認めなかったが、パウンドの熱心な勧めにより一九一五年六月に「プルーフロックの恋唄」を掲載した。さらに七月には、『ブラスト2』に「プレリューズ」と「風の夜のラプソディー」を掲載した。九月には、やはりパウンドの推薦で『アザーズ』という雑誌に「ある婦人の肖像」が掲載され、一一月にはパウンドが企画した詩集『カソリック・アンソロジー』に五編の詩が入れられた。パウンドは、ロウエルがアメリカで出版したイマジストのアンソロジーに対抗し、同時にエリオットの詩を売り込むために、この詩集を企画したのではないかとみられている。このアンソロジーはマシューズが出版を引き受け、エリオットの詩のほかイェイツ、ウイリアム・カーロス・ウイリアムズ、パウンド自身の詩が収められた。

 エリオットは、ラッセルによってオットリン・モレルに紹介され、一九一五年の終わりには、ガーシントン荘園を訪れるようになり、キャサリン・マンスフィールド、オルダス・ハックスレー、ブルームスベリー・グループのクライヴ・ベルらと知り合いになった。しかし、パウンドやルイス、妻のヴィヴィアンが嫌っていたため、エリオットはブルームズベリー・グループからは距離を保った。

 一九一六年の春にブラッドレーの哲学をテーマにした学位論文がハーバードに受理されると、エリオットは大学生活への関心を失い、ラッセルのアパートも出て詩人としての生活を築いて行く決意を固めようとしていた。

 一九一六年の終わりに、彼は教師をやめ、ロンドン大学などでの講義や書評の仕事で生計を立てようとしたが思うようにいかず、一九一七年の三月にロイド銀行の植民地・海外部に就職した。彼はこの銀行で以後九年間働くことになった。

 銀行へ就職して四カ月後の一九一七年六月に、パウンドの奔走によりエリオットの詩集『プルフロックそのほかの観察』がエゴイストから出版された。出版費用は、パウンドの妻のドロシーが負担した。一九一七年七月には、やはりパウンドの奔走で、彼は『エゴイスト』の編集長補佐の職を得た。彼は銀行での仕事を続けながら、寄稿原稿を編集し、自分でも執筆した。

(写真は、Gordon, Lyndall: Eliot's Early Years, Oxford University Press, 1977.の表紙)



 一九一六年九月、パウンドはマシューズから新しい詩集『大祓』(2)を出版した。大胆な性表現があったため、マシューズは始め出版を躊躇し、やがて私家版としての出版を受け入れた。ローレンスの『虹』が出版差し止めになり、出版社も印刷業者も神経質になっていた。

 『大祓』は、パウンドが、イマジストとしての自分の詩をまとめた詩集である。詩集の書名(原題:ルストラ)のラテン語の意味について、パウンドは「古代ローマの監察官が五年の任期を終えたとき、すべての罪の贖いのために捧げるものである」(3)と注をつけており、「因襲的な英詩に対するパウンドの悪魔払いを暗示している」(4)タイトルであるという。この詩集の詩は、シニシズムに面白さが感じられる。

 ニューヨークのクインは、『大祓』をおもしろいと感じ、彼の援助によって、アメリカでは一九一七年九月に私家版、一〇月に市販用の版がアルフレッド・クノップ社から出版された。

 その年、パウンドは『リトル・レビュー』の海外編集員になった。一九一四年に、シカゴで、二一歳のマーガレット・アンダーソンが創刊した文芸雑誌『リトル・レビュー』は、すぐに主導的な作家や詩人を引きつけた。パウンドも、創刊間もない時期から交流を持ち始めた。一九一七年の初めになって、パウンドはアンダーソンに対して、自分やエリオット、ジョイス、ルイスが自由に寄稿できるページを設けて欲しいと提案し、クインが原稿料などを援助するという条件で受け入れられた。パウンドは、一九一五年頃から、クインにパウンド自身や彼が支持する芸術家たちのパトロンとなるよう積極的に働きかけていた。クインもそれに応えて、いろいろな援助をするようになっていた。

 一九一七年五月号にパウンドの海外編集員としての参加が告げられ、すぐにエリオット、パウンド、ルイスらの作品が掲載された。六月号にはイェイツ、七月号にはエリオット、さらにグレゴリー夫人、アーサー・シモンズ、ウイリアム・カーロス・ウイリアムズらの作品が掲載され、『リトル・レビュー』はパウンドの主要な活動の場になった。

 パウンドは『ポエトリ』とも関係を保っていた。『ポエトリ』の一九一七年六月号には、彼の代表作になる『キャントウズ』の最初の作品が発表された。『キャントウズ』という言葉を、彼は一九一五年一二月に父親へ宛てた手紙の中で使い始め、クインにも、ライフワークとなる終わりのない詩を書き始めたことを伝えた。彼は、ジョイスにも、終わりのない詩に取り組み始めたことを手紙で知らせ、この詩はあらゆることを題材にすると書いた。

 最初の作品は、ロバート・ブラウニングの『ソルデロ』との対比を意識し、劇的告白の手法を使った作品であったが、のちにこの作品は、本にまとめる段階で除外された。彼は『キャントウズ』を発表しながらもその構想については悩んでいた。二作目は一九一七年七月号に掲載され、三作目は八月号に掲載された。のちに、冒頭の詩とされたのは、この三作目の詩である。

 こうした『キャントウズ』の推敲の過程には、ジョイスの『ユリシーズ』との出合いがかかわっていたとされている。一九一七年四月、ジョイスの妻のノラが、ジョイスが『ユリシーズ』を書いていることをパウンドに知らせてくると、パウンドは、『エゴイスト』に連載し、同時に『リトル・レビュー』にも連載すると知らせた。そして『ユリシーズ』の最初の原稿を受け取ると、彼は大きな衝撃を受けた。『キャントウズ』の初期の作品が、どのようにして形成されたのかについては、ブッシュが『エズラ・パウンドのキャントウズの生成』(5)に詳しく書いているが、それによると、パウンドはジョイスの原稿を読むことによって『キャントウズ』を書き進めていくうえでの難問が解決されていくようにも感じたという。『ユリシーズ』には、語り手の強烈な存在感があった。その叙述の方法は、事実を呈示するというフロベールに代表されるリアリズムの小説の伝統の上にあったが、ジョイスの叙述の方法は圧縮し説明を拒んでいた。そして鮮明な対置を使っていた。こうした叙述の方法は『キャントウズ』に大きな影響を与え、さらにのちにエリオットが『荒地』を書くときにも大きな影響を与えた のだという。

 『リトル・レビュー』は、一九一八年三月から『ユリシーズ』を掲載し始め、一九二〇年の九/一二月号まで、ほぼ毎号にわたって連載した。しかし、『エゴイスト』では、わいせつな表現があるとして印刷業者が拒否したため、すぐには掲載できなかった。そして、一九一九年に一部を掲載しただけで終わった。

 こうして『リトル・レビュー』や『ポエトリ』を舞台として文学活動を続けるのと平行して、パウンドは一九一七年一一月から、『ニュー・エイジ』に、ペンネームを使って美術評論と音楽評論を寄稿し始めた。その前月には、イェイツが、パウンドの妻ドロシーの従姉ジョージー・ハイド=リーズと結婚した。式は、ロンドンの戸籍事務所で行われ、パウンドが立ち会い人になった。

 エリオットは、アメリカが一九一七年四月に参戦したのち、一九一八年初めに連合国側が苦境に立ったとき、入隊を決意した。彼は情報部隊に入ろうとしていたが、それが実現しそうになった秋には休戦の時期になった。十一月には、エリオットは、レナード、ヴァージニア・ウルフ夫妻の家を訪れた。ヴァージニア・ウルフは、一九一二年にブルームズベリー・グループのメンバーだったユダヤ人のレナード・ウルフと結婚し、翌年、小説『船出』を書き終えて一九一五年に出版した。その後、夫妻は一九一七年から自宅に手動式の印刷機を据えて出版を始めた。その年にヴァージニアの『壁の上の印』とレナードの『三人のユダヤ人』を出版し、一九一八年にはキャサリン・マンスフィールドの『プレリュード』、そして一九一九年にはエリオットの『詩集』を出版することになる。



 トーマス・マンは、一九一五年春から『魔の山』(一九二四年刊)の執筆にとりかかっていたが中断し、秋から『非政治的人間の考察』(6)の執筆を始めた。それが、出版されたのは敗戦間近の一九一八年一〇月である。「反民主主義の書」といわれるこの著書で、マンは開戦時に兄のハインリッヒ・マンやロマン・ロランと対立してドイツ擁護の立場に立った自分の思想を詳細に述べた。「文化」とは、マンにとって「ドイツ的なもの」「ロマン主義的な精神」「ゴシック的なもの」などを象徴する精神であった。これに対してハインリッヒ・マンやロマン・ロランがとっているのは「文明」の立場であり、それはギリシャ・ローマに始まり、ルネッサンスを経て啓蒙主義、アメリカの独立、フランス革命、産業革命へとつながっていく合理主義の精神であった。マンにとっては「文明」は嫌悪すべきものであった。彼は、文明がドイツにも押し寄せ、やがてはそれに支配される時代が来ることを予感していたが、依然として「文化」の中に美を見いだそうとする立場をとっていた。

 パウンドは、一九一七年七月、『ニュー・エイジ』に「地方主義は敵」(7)という評論を書いた。彼が「地方主義」と言ったのはドイツの立場である。その地方主義は「自分が住む村、教区、国の外に住む人間の風習や習慣、人間性に無知なこと」であり、「他人を画一性に押し込めようとする欲望」である。ツルゲーネフ、フロベール、ヘンリー・ジェイムズらは、これに対抗する立場をとってきた。そして、イギリスとフランスは多人種で構成されているため、理性で問題に対処したり、個性を尊重することができ、これが「文明」であるとの主張を述べた。さらに彼は、どのような国でも一つの「文化」を押しつけることはできなかったとし、彼はアメリカの大学におけるドイツの影響も批判した。

 この戦争が、トーマス・マンの言うように文化と文明の争いであったとすると、勝利したのは文明であった。しかし、文明の勝利は、アレントのいうように「階級の瓦解と大衆化の壮大な序曲」でもあったのである。「一九一五年、旧世界は潰え去った」(8)とローレンスは書いている。「完全無欠のロンドンは崩壊し、俗悪な精神が横行した」。

 経済的な争いとしてみた場合、イギリスとフランスが勝利したのではなかった。この戦争を機に明確になってきたのはアメリカの台頭だった。

 大衆の興隆は、戦争の終結を待たずして顕現化していた。ロシアでは、大戦中の一九一七年二月に、革命が勃発し、帝政が終わりを告げた。亡命していたスイスから帰国したレーニンは、自由主義的な勢力との連立であった新政権を認めず、新たな革命の機会を探り、一〇月にボルシェヴィキ革命を遂行した。

 オーストリア=ハンガリー帝国のハンガリーでは、一九一七年一一月にロシアでの革命に呼応して社会民主党の集会が開かれ、一九一八年一〇月には反乱が起こった。そして大戦終結間もない一一月二四日には、ロシアから帰国した革命家たちがハンガリー共産党を結成し、ジェルジ・ルカーチも共産党員になった。

 ドイツでは一九一八年十一月三日にキール港の水兵が反乱を起こし、それをきっかけに、革命は十一月八日には全土に広がった。九日には、ドイツ皇帝は退位してオランダへ亡命し、ドイツ軍首脳はドイツ共和国の樹立を宣言し、そのあわただしさのなかで共和国政府は、十一月十一日、連合国側が示した降伏に等しい条件で休戦協定に調印した。

引用文献

1) T・S・エリオットの伝記的記述は、主にAckroid, Peter: T. S. Eliot, Sphere Books, 1989. 、アクロイド、ピーター:T・S・エリオット(武谷紀久雄訳)、みすず書房、一九八八年、Gordon, Lindall: Eliot's Early Years, Oxford University Press, 1977.による。
2) 書名の訳は、エズラ・パウンド詩集(新倉俊一訳)、角川書店、一九七六年(小沢書店、一九九三年)による。
3) エズラ・パウンド詩集(新倉俊一訳)、小沢書店、一九九三年。p.9.
4) ibid.
5) Bush, Ronald: The Genesis of Ezra Pound's Cantos, Princeton university Press,1976.
6) マン、トーマス:非政治的人間の考察、(前田敬作、山口知三訳)、筑摩書房、一九六八--七一年。
7) Selected Prose 1909-1965, ed. by William Cookson, Faber and Faber, 1973. p.159-173.
8) ローレンス、D・H:カンガルー(丹羽良治訳)、彩流社、一九九〇年。p.310.

 この章では、パウンドの伝記的記述は、Stock, Noel : The Life of Ezra Pound (An expanded edition), North Point Press, 1982.とCarpenter, Humphrey : A Serious Character, The Life of Ezra Pound, Houghton Mifflin Company, 1988. を基本にした。また、バートランド・ラッセルの伝記的記述は、ウッド、アラン:バートランド・ラッセル―情熱の懐疑家―、碧海純一訳、木鐸社、一九七八年、によった。


エズラ・パウンド関連サイト
http://www.lit.kobe-u.ac.jp/~hishika/pound.htm: Ezra Pound (神戸大学文学部・菱川英一氏による英文サイト。パウンドの晩年の肖像写真、主要文献リスト、年譜、関連サイトへのリンクなどが掲載されています。主要英米詩人についての情報を得るための同氏作成サイトにリンクしています。)


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