No.12 March, 2000
歴史の中のエズラ・パウンド 第12回
第2部 モダンエイジ
第8章 大戦
(3分載の2,Section 3-4)
3
フランス人のアンリ・ゴーディエ=ブルゼスカ、イギリス人のフォード・マドックス・フォード、T・E・ヒューム、リチャード・アルディントンら、そしてウィンダム・ルイスは戦場へ行った。
ゴウディエ=ブルゼスカは、戦争が始まった年にフランスへ帰国して入隊した。彼は、戦場からパウンドや友人たちに手紙を書いた。
一九一四年一〇月二四日のパウンド宛の手紙では、彼は、「塹壕でこの手紙を書いている。前線で四時間の夜間歩哨についたが、一人として敵兵を見かける幸運に恵まれない」と伝えてきた。しかし、一一月七日、一週間の塹壕生活のあとの休養の時に書いてきた手紙では、「生き延びている、これからも生き延びる、そう確信している」と悲壮な決意を伝え、塹壕では「雨、泥、日光、弾丸、砲弾、榴散弾、面白さ」を経験したと書いてきた。(1)
パウンドは、彼に物資と共にフェノロサのノートから訳し直した数編の李白の詩を送った。『キャセイ』に入れられる詩だった。それらの詩に対して一二月一八日、彼は「我々の置かれている状況を、素晴らしく描いている」と返事を書いた。彼は、冬期に備えて地面に穴を掘っていた。その穴に藁を敷き、屋根をかけたが、地面からは水が滲みだし、二フィート六インチもの深さになった。その水浸しの穴の中で目を覚ましたまま夜を過ごさなければならなかった。「我々は二本の橋を守らなければならない。当然、そしていつもそうであるように《死ぬまで》」。塹壕を出て、前進すると、そこにはダンテの『神曲』に描かれたような情景が待っていた。一フィートの泥水の中で、彼らは二日二晩立ったまま過ごさなければならなかった。(2)
そして翌年、「もう二カ月も続けて戦っており、いまや生の強烈さを測り知ることができる」という彼の戦場からの手紙(3)が、七月に発行された『ブラスト2』に掲載された時には、彼はすでに戦死していた。
戦争の現実は、彼が想像していた以上に強烈であったに違いない。戦争という巨大な力を、彼はニヒリスティックな目で見ようとしていた。この戦争は、「大きな修復である」と言い、「個人においては、傲慢、自尊、誇りを消し去る。そして、集団からは、とるに足らない《単位》をいくつも取り去っていく。最近の貿易危機が示したように、それらの《単位》の経済的活動は有害となっているのである」と。
しかし、戦争の現実を前にしても「彫刻に関する自分の考えは、いささかも変わらない」と彼は信じていた。敵から奪い取ったモーゼル銃の重い扱いにくい形は、彼に強烈な残酷さのイメージを抱かせた。そしてこの形が、自分に快感を与えるか、あるいは不快感を抱かせるかについて考え込み、最後に、彼はその銃が自分に不快感を抱かせるという結論を出し、銃床を取り外して、それをナイフで自分の好きな形に削っていった。銃の形が象徴するのは、機能的で残酷な近代のエネルギーであると考え、それを否定する形を彼は作ろうとしたのかもしれない。
慶応義塾大学の文科教授であった野口米次郎は、イェイツの書斎を訪れていた時に、そこを訪ねてきたパウンドとゴウディエ=ブルゼスカに会ったことがあった。ゴウディエ=ブルゼスカの戦死を知り、野口は一九一五年一一月三、四、五日の三日間にかけて、読売新聞に、彼の死を偲んで「青年彫刻家の戦死」というエッセイを連載した。(4)
翌年になると、パウンドはゴウディエ=ブルゼスカの回顧を軸にした芸術論『ゴウディエ=ブルゼスカ、回顧』(5)を刊行した。ニューヨークのクインは、ブルゼスカの作品すべてを買い集め、彼とルイスの作品を主体としたヴォーティシスムの展覧会を、ニューヨークで開催するための費用を負担するとパウンドに伝え、展覧会は一九一六年八月に開かれた。
ゴウディエ=ブルゼスカが戦死したすぐあと、ルイスも戦地へ赴いた。戦争が始まった当時、彼は性病で悩んでいたが体調が回復し、一九一六年の三月に入隊した。一九一七年一一月には母親が重態になったため帰国したが、その後一九一八年一月からはカナダ政府の戦争画家として活動した。
フォードは、戦場へ行かなければならないという年齢をすでに過ぎていた。それにもかかわらず、彼は一九一五年七月の終わりに入隊した。名誉を重んじるという古風な考え方によって彼はそうしたのかもしれない。ドイツ系イギリス人だった彼には、イギリスへの忠誠を証さなければならないという心理的負担もあったのかもしれない。戦場へ行くことは、折り合いが悪くなっていたヴァイオレット・ハントからの逃避にもなった。
のちにパウンド、ルイス、T・S・エリオットらと交友するようになった一八九三年生まれのハーバート・リードは、フランスの戦線で戦った。前線でドイツ軍に包囲される中で、彼は毎週送られてくる『ニュー・エイジ』を読み、時に『前線の兵士の日記』を書いて投稿していた。
リードは一八一八年の九月に駐屯地でフォードに会えたときのことを、友人への手紙という形式の著作『戦時の日記』の中に書いている。ヘンリー・ジェイムズら自分が尊敬する作家や詩人たちについてのエピソードを次々と聞き出せることにリードは感激しながらも、彼はなぜフォードが入隊しているのか理解できなかった。フォードについて彼はこう書いている。「魅力的で博識な男だ。それに活動的な男だ。前線にいて負傷したくらいだから。彼はもし望めば簡単に軍隊から出られるのだから、なぜ軍隊にいるのかよくわからない。それは、彼の抱くなにかの理想によるのに違いない」。(6)
T・E・ヒュームは一九一七年九月に戦死した。イギリス社会を強く批判した『キャントウズ』第一六篇で、パウンドは、「そして昔の友達T・E・Hも(戦争に)行った/図書館の本をたくさん借り出して/爆弾で塹壕に埋まってしまったロンドン図書館の本/そして図書館は不快感を表明した」(7)と書いている。
アメリカが一九一七年に参戦すると、アーネスト・ヘミングウエイ、E・E・カミングス、マルコム・カウリー、ジョン・ドス・パソスらが、志願してヨーロッパの戦場にやってきた。彼らは、ヨーロッパへの憧れと冒険心に駆り立てられていた。
(写真は、Lewis, Wyndham(Ed.);Blast 2, Black Sparrow Press, 1993)
4
友人たちやイギリス人詩人たちが戦場の強烈な生の体験の渦の中に投げ込まれ、あるいは飛び込んでいく中で、ロンドンに留まることができたパウンドは、彼らとの大きな対比の中に生きた。
その対比について、スティーヴン・スペンダーは、「一九一四年以降一九三〇年代までの詩には、現実を体験した人たちの態度と現実を知的に理解した人たちの態度の間に暗黙の対立が流れている」(8)と書いている。
ハーバート・リードは、『戦時の日記』の序文の中で、戦争の経験は、優れた芸術作品を生み出すことはなかったとしている。「真の意味での文化的業績は、戦争をよけて通ったのであった。その創始者、ジョイス、パウンド、エリオットは戦闘に直接参加したことのない人たちであった」(9)。
ブルームズベリー・グループの若い作家たちも、反戦の立場をとって戦場へは行かず、国内にとどまった。イギリスでは、戦争が始まるとすぐに反戦運動が組織されたが、その一つは、戦争に反対する国会議員たちの集まりが元となって一九一四年九月に組織された「民主的支配のための同盟(UDC)」であった。中心になったのは自由党議員であり、熱心な平和主義者であったフィリップ・モレルで、彼の妻オットリン・モレル夫人は若い作家たちのパトロンであった。モレル夫妻は、オックスフォードの郊外ガーシントンに荘園を借りて、ブルームズベリー・グループの兵役忌避者たちのために便宜をはかった。彼らはそこで農業に従事することによって兵役を免れた。ブルームズベリー・グループの中で反戦の立場をとらなかったのは、のちに近代経済学の創始者と呼ばれるようになったジョン・メイナード・ケインズだけであり、彼は一九一五年一月から大蔵省に入って戦時の経済政策を立案する仕事についた。
イギリスでは良心的兵役忌避者の団体「徴兵反対同盟(NCF)」も組織された。この組織をまとめたのは、のちにマクドナルド労働党政府の閣僚になったクリフォード・アレンであった(10)。バートランド・ラッセルは、モレル夫妻の荘園ガーシントンに集まった兵役忌避グループの仲間であったが、NCFの委員会のメンバーにもなり、両グループの連絡をはかる役割も果たした。ラッセルは、戦争の責任は連合国側よりもむしろドイツ側にあり、連合国側の勝利を望むが、戦争はあまりにも大きな悪であり、戦いを続けるよりは、たとえ不徹底な形でも平和を望む方がよいと考えていた。またドイツ皇帝に征服される方が、戦争よりはましだとも考えた。反戦活動によって、ラッセルは広く世間に知られる人物になり、政府当局やケンブリッジの同僚からは敵意を抱かれた(11)。
D・H・ローレンスは、一九一五年の始めにモレル夫人と知り合いになった。モレル夫人は、ローレンスの作品を熱烈に誉め讃える手紙を書き、ローレンスをロンドンの家に招いた。その後、ガーシントンの荘園邸宅にも招き、ローレンスは、一九一五年にそこを二度訪れた。モレル夫人を通して、ローレンスはラッセルやハックスリーとも知り合いになり、ラッセルと一緒にケンブリッジを訪れたときにはケインズにも会った。ケインズは、このときの出会いを『若き日の信条』(12)の中で書いている。このときローレンスはケンブリッジの優越的雰囲気や同性愛的雰囲気に激しい反発を感じたとされている。
ローレンスは、三度徴兵検査を受けたが、身体的に不適格とされた。彼は戦争が始まる頃にはすでに結核におかされていた。自伝的な政治小説『カンガルー』(13)の中で、彼は、徴兵検査を受け、さらにスパイの嫌疑を受けた時の恐怖感や屈辱感、国家に対する敵意を表現している。一九一五年には、『虹』が検閲で出版が差し止められ、ローレンスは性的表現をめぐっても国家と対立していた。
一九一六年になると、良心的徴兵拒否者が命令不服従の理由で重労働二年の判決を受けたのに対し、ラッセルらのNCFは抗議パンフレットを作り、それを配布した六人が検挙された。ラッセルは、『タイムズ』に投書して、自分がそのパンフレットの筆者であることを明らかにした。ラッセルは起訴され、裁判罰金刑の判決が言い渡された。これによって彼はケンブリッジの講師の職を失い、ハーヴァードから講師として招かれた時には旅券の発行を拒否された。一九一八年になると、ラッセルは、NCFの週刊誌『ザ・トリビューナル』に、平和がすぐに訪れない限り、ヨーロッパ全土は飢饉に襲われるだろうと警告した巻頭論文を書き、その中で同盟国のアメリカ軍を皮肉ったことによって罪に問われ、六カ月間刑務所に入れられた。(14)
アイルランド人のジョイスは、オーストリア領であったトリエステを去って、中立国スイスのチューリッヒに移った。彼の『若き芸術家の肖像』が、パウンドとジョン・クインの努力によってニューヨークで出版されたのは一九一六年の一二月である。三カ月後には、イギリスのエゴイスト社からも出版された。
ジョイスが住んでいたチューリッヒには、ロシアから亡命していたレーニンやステファン・ツヴァイク、ロマン・ロランらヨーロッパの反戦的な作家たちも住んでいた。ドイツから亡命していたフーゴ・バルとユダヤ系ルーマニア人トリスタン・ツァラはそこで「ダダ」という新しい芸術運動を創始しようとしていた。
引用文献
1) Pound, Ezra : Gaudier-Brzeska, A Memoir, New Directions, 1974. p.56.
2) ibid, p.58-59.
3) Lewis, Wyndham(Ed.);Blast 2, Black Sparrow Press, 1993.p.33.
4) 五十殿利治:イギリスの渦巻派と日本―久米民十郎(1893−1923)を中心に、一九九八年三月、明治美術学会発表資料。
5) Pound, Ezra : op.cit.
6) リード、ハーバート:ハーバート・リード自伝、対蹠的な経験、(北条文緒訳)、法政大学出版局、一九七〇年。p.156-158.
7) Pound, Ezra : The Cantos, Faber and Faber, 1986.p.71.
8) スペンダー、スティーヴン:現代的想像力(岡崎康一、増田秀男訳)、晶文社、一九七〇年。p.207.
9) リード、ハーバート:op.cit., p.60.
10) ウッド、アラン:バートランド・ラッセル―情熱の懐疑家―、碧海純一訳、木鐸社、一九七八年。p.164.
11) ibid., p.145, 149.
12) 伊東光晴編著:世界の名著「ケインズ、ハロッド」、中央公論社、一九九二年。p.109-112.
13) ローレンス、D・H:カンガルー(丹羽良治訳)、彩流社、一九九〇年。
14) ウッド、アラン:op.cit., p.156-163, 167-175.
この章では、パウンドの伝記的記述は、Stock, Noel : The Life of Ezra Pound
(An expanded edition), North Point Press, 1982.とCarpenter, Humphrey :
A Serious Character, The Life of Ezra Pound, Houghton Mifflin Company,
1988. を基本にした。また、伝記的記述は、フォード・マドックス・フォードについてはJudd,
Alan : Ford Madox Ford, Harvard University Press,1990、ウィンダム・ルイスについてはMeyers,
Jeffrey: The Enemy, A Biography of Wyndham Lewis, Routledge & Kegan
Paul, 1980.、D・H・ローレンスについてはMeyers, Jefferey : D.H.Laurence,
A Biography, Vintage Books, 1992.、によった。
<エズラ・パウンド関連サイト>
http://www.lit.kobe-u.ac.jp/~hishika/pound.htm:
Ezra Pound (神戸大学文学部・菱川英一氏による英文サイト。パウンドの晩年の肖像写真、主要文献リスト、年譜、関連サイトへのリンクなどが掲載されています。主要英米詩人についての情報を得るための同氏作成サイトにリンクしています。)
Copyright (C)2000 Hideo Nogami